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ヒーロー 2019.2

 最後の一音が、余韻となって夜の街に溶けていった。

 追いかけるように伏せていた視線をあげる。夜空より明るい地上は、うるさいくらいの雑音であふれかえり、多くの人々で賑わっている。仕事終わりのサラリーマン、客引き、車のエンジン音、友人との談笑、電光板から流れるコマーシャル、携帯の着信音――挙げだしたらきりがない。その中に僕の歌も入っている。ギター片手に僕は僕の世界を歌う。選びたい放題の音の海の中、僕の歌で足を止めた人はいなかった。上げたばかりの視線は、抱えたギターへ落とされた。僕の歌は雑音以外の何者でもなかった。


 ミュージシャンになりたいと思ったのは、中学二年生の頃だったと思う。好きなアーティストに影響されてとか、まわりがバンドを始めてそのノリでとか、そういうものじゃなかった。他人から褒められたのが歌だった――ただ、それだけ。僕も歌うことが苦じゃなかった。

 高校を卒業し都内の大学に進学したあと、バンドサークルに所属しながら楽しく四年間を過ごした。バンド仲間はちゃっかり就職したのに対し、僕は未練がましくギターを手放せないでいる。

「鈴木、そっち頼むわ」

「はい!」

 派遣社員として収入を得ながら、へばりついたガムのように路上で歌い続けている僕は、最近思うことがある。

 届いた荷物をほどき、分類するという至って単純な作業は、もう何度も行った業務だ。今更わからないことなんて何もない。けれど僕の手は止まった。

 本来あるべき場所にきちんと置かれた品は、それを求める人の手に渡る。でも、もし一つだけ違うものが混ざっていれば? 優しい人なら元の位置に戻してくれるかもしれない。でも、戻さずに捨てられることもある。大量にある消耗品のうちの一つなのだ。

 ――僕もそうなのかもしれない。そんな思いがぬっと首を伸ばしてきた。それは、僕がずっと心の隅っこに押し込んで見て見ぬフリをしてきた感情だった。

 人を物に例えるなんて、と笑う人もいるだろう。でも僕は思うのだ。僕の目指す道は、才能のある人だけが生き残れる世界。そこに「ただ歌を褒められたから」という曖昧なきっかけで飛び込んだ僕が、居座るのはおかしい話だったのだ、と。今ならまだ、若気の至りでギリギリ通せるだろう。

 やめてしまおうか――。

 僕の住む六畳一間の部屋に、葬式のような重い空気が漂う。帰宅後、テレビもパソコンもネット環境もない部屋でギター片手に時間をつぶす。考えても答えが出ないことはわかっている。痛みを感じるまでピックを強く握りしめた僕は、どうやらそのまま寝てしまったらしい。朝、つけっぱなしだったラジオから今日の天気予報が流れてきた。

「……何やってんだか」

 自分自身に呆れながらも、大切に抱え込んでいたギターを丁重に立てかける。白み始めた空に視線を向け、目を細めたときだ。

『続きまして次のニュースです。東京都に在住の鈴木(すずき)正義(せいぎ)さんが昨日、ヒーローとして認められました』

「はあ?」

 思わず間抜けな声が出た。鈴木正義――それは僕の名前だ。それよりもヒーローって何だ? そんな認められるようなものだっけ? しかし、よく考えてみれば「鈴木正義」なんて名前、よくありそうな名前じゃないか。

 今日は休みの日だ。すり減った魂を取り戻すために、一日中寝ていようかと思った矢先に飛び込んできたニュース。――きっとさっきのは、別人だろう。再び瞼を閉じた。そのときだ。

『なお、鈴木さんは現在派遣社員として働きながら路上ライブを行うといった二重生活を送っており、その点が共感、評価されたようです』

 ――空いた口がふさがらない。

 絶対に僕のことだ。いや、もしかしたら鈴木正義という名前で僕と似た生活をしている別人もいるかもしれない。そもそも「ヒーロー」って何だ? 認められたって誰に? 国に? 政府に?

「意味が分からない」

 眠気はとっくに吹っ飛んでいた。二度寝する気にもなれない。頭をくしゃくしゃに乱すと一度両頬を思いっきり叩いた。僕の気合いの入れ方だ。

 両頬ににじむ痛みと熱。ここが現実だと自分自身に活を入れる。

 現代日本において「ヒーロー」なんて存在はない。「ヒーロー」がいるのなら民衆を脅かす「怪人」がいないとおかしい。でも平和な国日本にそんな危険な連中はいない。

 それにしても――。

「変な夢だ」

 寝ぼけて聞き間違えただけだとしても、僕にとっては録画してブルーレイディスクにダビングしておきたい夢だった。

 そっと視線を部屋の隅へ移す。僕は音楽以外にもう一つ今も続けていることがあるのだが――まあ、いい。久々に行ってみよう。

 僕は着替えると電車で二駅先にあるショッピングモールへ向かった。


   ◇


『ぐははは! こんなにたくさん人間がいるぞ! これならサターナ様もお喜びになる。みんなまとめて地底国に連れて行ってしまえ!』

 土偶のような姿の怪人が大声で命じれば、その周囲にいた手下たちがこちらにやってきた。途端、会場から小さな子供たちの悲鳴がわっとあがっる。泣き叫ぶ子供もいれば、近くにやってきた手下から逃げるように走り回る子もいて、ちょっとした地獄絵図になっていた。

『そこまでだ!』

 絶望を裂くような凜とした声。すると子供たちの中から「スカイレンジャーだ!」と希望の声が沸いた。

 子供たちの期待に応えるように舞台袖から真っ白な戦士が現れた。途端、「ホワイトだ!」と会場から嬉しそうな声が響いた。しかし、リーダー格であるレッドの姿はもちろん、ブルーやイエローの姿は見えない。手下たちはまだ客席で暴れ回っている。そのときだ。

『お前たちの好きにはさせないぞ! 武士(ぶし)土偶(どぐう)!』

 背後から声が聞こえると、子供たちは野生動物みたいに一斉に振り返った。そして目に映った光景にわっとわき上がった。

「レッドだ!」

「ブルーもいる!」

「イエロー!」

 目の前で怪人の手下たちを倒すヒーローの勇姿に、震えが止まらない。子供と一緒に「頑張れ! スカイレンジャー」と叫びたいのをぐっと我慢する。

 子供の頃から戦隊ヒーローが大好きだった。二十歳をとっくに越えた今でも、日曜の朝は毎週見逃せない。僕の部屋の一角には、そんな戦隊ヒーローグッズが広げられていた。ここだけは、何人たりとも邪魔させない。両親からは「いい加減にやめろ」と音楽も戦隊ヒーロー好きも否定されるが、僕からそれらを取り上げれば一体何が残るというのか。

 しかし、親の言うこともわからないわけじゃない。

 いつの間にか、ヒーローショーに子供の親としてやってくるのは、僕と同世代の人間になった。大の大人、それも男の僕が一人でヒーローショーを見ていると、変なものを見るような視線をぶつけられることも少なくない。

 でも、それが何だというのだ。

 僕は僕の好きなものを大切にしているだけだ。それを否定される理由もなければ、道理もない。

 周囲を見渡せば、怪人と戦うヒーローの姿を焼き付けるかのように一心で舞台を見つめる子供たちの姿があった。

 ヒーローを通してその目には一体何を映しているんだろう。夢、希望、羨望――言葉で簡単に片づけられるものじゃない。まだ幼い子供の大きな瞳は宇宙のようで、その可能性も無限大に広がっている。

 そんな彼らの姿があるから、僕は初心を忘れずにいられる。ヒーローじゃないけれど、とても強いパワーをもらって、それをエネルギーに変換しながらギター片手に夜の街へ出かけられる。

 でも、今日は少しだけ違う。

 ヒーローショーはとてもすばらしかった。音響、証明、殺陣などエンターテイメントとしても文句ない。僕だけじゃなく子供たちも楽しんでいて、いつものように目を輝かせていた。

 ――それなのに、だ。

 僕は今すぐギター片手に街に出たいと思わなかったのだ。

 それでも僕は歌で食べて生きていきたい。乗らない気持ちを無視して、いつも通り昼間とは違う、戦場のようなギラギラするネオンの世界へ赴けば、こんな日に限って警察から指導されてしまった。

 ここは路上ライブ禁止だ、と言われれば一体僕はどこで歌えばいい? 金のない僕がライブハウスで歌うことなんて許されるはずもない。居場所を奪われる、密林に住む絶滅危惧種に指定された動物の気持ちが今ならわかる気がした。

 今日はついていない。

 静かに消沈する僕は、二人組の警察官の言うことに逆らうことなく従った。坦々とギターをしまっていたときだ。

 ――どうせ売れないのだから、とっとと諦めればいいのに。

 ひゅっとビルの合間を縫って北風が吹いたような音が聞こえた。風ではない。僕の呼吸音だった。

 今のは「僕」に投げかけられた言葉じゃない。僕の「歌」に向けられた言葉だ――そうでも思わないと、僕は指の先すら動かすこともできなくなっていただろう。

 警官と別れ、帰路についてしばらくすると雨が降ってきた。いつもならギターケースにビニール袋をかけ抱き抱えながら走るのだが、そうしなかった。ギターも僕も雨に打たれた。粉々に砕かれた僕の夢。直すこともできただろう欠片たちは、この雨に流されてしまった。足が重い。鉛を引きずっている気分だ。

 夢を見る――そのことにいつの間にか年齢制限がかけられていたらしい。住宅街の路上から星も見えない真っ暗な空を見上げ、僕は目尻から雨粒を流した。


   ◇


「鈴木君、最近元気がないわね。彼女にでも振られた? って彼女いないんだっけ? ごめん、ごめん!」

 店中に聞こえるんじゃないかってくらいのでかい声で笑いながら、パートのおばさんは力強く背中を叩いてきた。一瞬よろめいたが、僕も男だ。ひきつりそうな苦笑いを浮かべつつ、その太鼓を叩くような衝撃に耐える。

「生きていればいいことあるから! 人生の先輩からアドバイス」

 そう言って僕を飲み込んでしまうんじゃないかと思うくらいの大きな口で笑ったあと、店長に呼ばれて休憩室から出て行ってしまった。

 いきなり静かになった休憩室で僕は崩れ落ちるようにイスに座った。よやく息をつける気がした。ああいう人は苦手だ。他人の領域を削り取るようにずかずかと入ってきては、去っていく。お節介を焼いてくれるのはありがたいけど、人には放っておいて欲しい時もあるのだと理解して欲しい。

 風船がしぼむように息を吐いた僕は、そのまま机へ突っ伏した。

「生きていればいいことある、か」

 生きていてもいいことがないから死んでしまいたいのだと言えるはずもなく、再び鉛のような重い息を吐いた。誰かに相談すれば解決できるような簡単な話じゃない。そもそもこれは僕の問題でもある。

 僕の問題――親の言葉を借りるのなら「いつまでも夢ばかりみてないで、現実を考えろ」ってところか。言いたいことはわかる。僕だって家庭を持つことに憧れがないわけじゃない。安定しない暮らしに眠れないことだってある。でも、他人から見ればちっぽけかもしれないけど、僕にとっては手放したくない夢だったのだ。僕は歌っていたい、ただそれだけだった。

 がむしゃらに走り続けていたら、こんな場所まで来ていた、今はそんな気持ちだ。アパートに帰宅した僕は部屋の電気をつける。――ギターは埃をかぶっていた。


 がむしゃらに走り続けた結果、望んでいた世界に足を踏み入れた――なんて話はよく聴くけどそれは成功者にしか話を聴いていないからだ。敗者――つまり僕の場合、現実を突きつけられたというのが正しいだろう。

 音楽に時間を費やせないからと避けていた正社員になるべく、着慣れないスーツを身にまとい面接へ向かう。どの会社の面接官も決まって同じことを聞いてきた。

 ――どうして今になって就職しようと思ったのか。

 本当のことを言おうと思った。歌を歌って生計を建てたかったのだと。しかし、口を開いた途端脳裏をよぎったのは、あの言葉。

 ――どうせ売れないのだから、とっとと諦めればいいのに。

 だから僕は当たり障りのない答えを用意し、その通りにしゃべった。手応えのある面接もあったのにどの会社も僕を雇おうとはしなかった。

 自分でも魅力のある人間だとは思わない。しかし、派遣社員としての社会人経験もあるのにどうして起用しないのか。そこまで無能だと思われている理由がわからない。

 何度目かもわからないため息をつく。ふと人目のつかない場所に行きたくなって、裏路地へと目を向ける。太陽の光が降り注ぐ大通りとは逆に裏路地は、薄暗くむっと油っこい臭いが立ちこめる。人気はなく、飲食店員がゴミ袋を片手に出てくる姿が目に入った。

「僕の歩く道はこっちだな」

 一寸先は闇という言葉がふと脳裏をよぎったが、関係ない。すでに僕は闇の中だ。それならば、どこへ続くのかわからない道を歩いても同じことだろう。僕は賑わう大通りを背後に路地裏へ足を向けた。

 少し通りを外れただけで、こんなにも雰囲気が変わるのだなと僕は妙な感動を覚えた。本当に同じ日本なのかと疑ってしまいたくなる。なかなかうまくいかない就職活動は、僕の精神を食い荒らしていたこともあり、足を踏み入れた裏路地は非日常を味あわせてくれた。

 しかし、だからといって何かが解決した訳じゃない。

 気がつけば足下を睨んでいた僕は、自分自身に活を入れた。ばちんと軽快な音が響く。

 そのときだ。日も射さない路地裏に妙なのれんが目に入った。「英雄」と達筆な字で書かれたのれんは、居酒屋のものらしい。こんなところで営業していて人が来るのだろうか。疑問は尽きない。なんとなく世間に背を向けているような態度が気になって、僕はのれんをくぐっていた。

「いらっしゃい!」

 手を叩いたように弾けた声がかかる。カウンター席とテーブル席があり、僕はカウンター席に座った。不思議な店だなと思う。まだ、日も高いのに、店にはどこから集まったと言いたくなるほどそれなりに賑わっていた。男女比も同じくらいで年齢層も広い。もしかしたら、知る人ぞ知る穴場なのかもしれないと思ったときだ。

 僕は気づいてしまった。

 カウンターに立つ割烹着姿の中年男性以外、全員顔の前に真っ白な布を下げている。――まるで死人のように。

 怖くなって出て行こうとすれば、「はい、お通しね」と大根の煮付けが出てきた。

「どうしたんだい? 顔色変えて」

 そう言ってこの店の店主らしい男は、「特別サービス」と言ってお猪口と熱燗を置いた。出て行こうにも出ていけなくなった僕は、渋々席に座る。生きた心地はしない。でも、布を顔の前に下げているだけで他は至って普通だ。会話の内容を盗み聞きしても特別変な話をしている者はいない。

 疲れて幻覚でも見ているのか?

 もうこの際どうでもよくなって、お猪口にそそいだ酒を一気にあおった。かっと体が熱くなる。でもイヤな気はしない。節約と称して禁酒をしていた影響もあるかもしれない。久々に飲む酒は、体の芯まで染み入る。日本酒のふわっとしたアルコールの匂いがさらに気分をよくした。お通しもおいしい。気が緩んだ僕は、普段なら口を閉ざしていたであろうことを次々と口走っていた。愚痴を吐く相手もいない僕の鬱憤は、テレビ裏の埃のようにたまりにたまっていたようだ。酒の力も相まって、何もかもぶちまかすように吐き出す。そんな僕のおもしろくもない話を、店主は茶化したり説教したりすることなく、料理を作りながらも耳を傾けてくれた。店主は聞き上手だった。だからつい、僕は夢の話までしてしまった。寝て見る夢の話だ。その中でヒーローに認定されたのだと自慢した。きっと鼻で笑われるのだろうなと思いながら、キンキンに冷えた冷酒をあおる。吐いた息は酒臭かった。

「今の話は忘れてください。さすがに恥ずかしくなってきました。きっと寝ぼけてたんです」

 笑われる前にこちらから笑い飛ばしてしまえ。しかし、店主の反応は僕の想像を裏切った。

「本当にそうですかね?」

 思わず、僕よりずっと年を重ねた店主の顔を見る。店主は心の底からそう思っているようだった。

「ラジオ、聴いてたんですか――?」

「いいえ」

 肩を落とした僕は落とした視線の先に自分の顔を見た。お猪口に注がれた透明な日本酒。そこに歪みながらも映る僕の顔は酷く疲れていた。僕は誰にも必要とされていないんだなと思ったその瞬間だった。

 店主が僕の心の内を読みとったように「それならヒーロー辞めますか?」と聞いてきた。心臓が飛び跳ねたのは言うまでもない。

 どういう意味なのか――僕が口を開くより先に店主は真剣な面持ちではっきりと言い放った。

「あなたは、あなたが気づいていないだけで、ずっと前からヒーローだったんですよ」

 かっと目頭に熱いものがたまる。酒を飲んだ直後の胃のようだと思ったら、少しだけ収まった。

「ヒーローが死ぬことはあってはならないこと。でも、ヒーローも人間だ。悩み苦しみ疲れることもある――表には出ないけどね」

 染み入るような優しい声音は、雨音にも似ていた。鼻に走るつんとした痛みを紛らわせようと僕は最後の一杯を勢いよく飲み干した。いい店を見つけた幸運に感謝し席を立つ。また来ようと思いながら、店主に会計を頼んだ。

 店主はにこやかに「ありがとうございます」と対応してくれる。さっきまで僕が吐いたくだらない話なんて、なかったことになっているんじゃないか――そう思ったときだ。釣り銭と一緒に一枚の布を渡された。

 はて、これは一体何だろうか。

 ポイントカードや応募券の類にしては、何も書いていない。本当にただの真っ白な布だ。首を傾げていると店主が言った。

「ヒーローが死ぬことは、あってはならないことですから」

 思わず大きく頷いた。ヒーロー好きな人間としてその点だけは譲れない。もちろん、人間である限り、ヒーローだっていつかは死ぬだろう。でも、そういった生物学的なことを言っているんじゃない。

 ヒーローがヒーローたる所以――それは人に感動を与え、自身の足で立ち上がることを教えてくれることだ。少なくとも僕はそう思う。決して自己犠牲からなる平和ではない。

「けじめをつけるのであれば、ご自身の手で」

 手にした白い布を一瞥したあと、周囲を見渡してある可能性に気づいた。

「――ここにいる人たちは、その……ヒーローだったんですか?」

 口にしてから後悔がわき上がってきた。一体僕は何を口走っているのだ――何でもないですと口を開こうとしたときだ。店主へと視線を向けた僕は、小さく飛び上がった。店主の顔にも白い布がかけられていた。それはまるで、死者の顔にかける顔かけ――打ち覆い(うちおおい)のようだった。

「心ない他者の一言に傷つけられた者もいれば、大切な者を守るため辞めた者など、皆それぞれの理由があります」

 何のことか、言わなくてもわかった。

 この布をつければ楽になれるのだろうか。手元の布を見つめる。何の変哲もない布にとてつもない力が秘められているわけではない。でも、この布を自分の手でつけてしまえば、あきらめがつくように思えた。

 僕は怪人を倒すヒーローにはなれない。でも、歌で誰の身にも潜む「怪人」から救うことはできる。僕はそれになりたかった。でも、それは僕じゃなくてもいいことだった。誰にも求められていない。だったら周囲の人間が口をそろえていう「当たり前の人生」を送ろう――そう思って手始めに就職活動を始めた。

 ――けど。

「これはお返しします」

「いいのかい?」

 白い布を受け取った店主が問う。いつの間にか店主の顔に白い布はなく、ただ不思議そうな顔でこちらを見返していた。僕は大きく頷く。

「気づいたんです。僕はヒーローなんて大それて立派な存在じゃないですけど、でもやっぱり歌が好きなんです。――危うく自分自身に住み着く怪人にやられそうになりましたけど、店主にお会いして決心しました。今なら奴らにはっきり言ってやれますよ。僕はまだ『お前たちの好きにはさせないぞ!』ってね」

 自然と口角が上がる。恥ずかしいとは微塵も思わなかった。店主も穏やかな表情で口元を半円に描く。

「期待しておりますよ。ヒーローさん」

 瞬きをした次の瞬間、僕は路地裏で一人立ち尽くしていた。そこにあったはずの居酒屋は、跡形もなく消えている。昼間から狐に化かされたのか?

 しかし、手元を見ればさっき店主から受け取った釣り銭が握られている。僕はおかしくなって小さく笑った。それは次第に大きくなってとうとう腹を抱えて笑い込んでしまった。煙草を手にビルから出てきた男性が、大口で笑う僕の姿を見てぎょっとした顔を浮かべると再び扉の向こうへ戻っていく。それでも僕の笑いは止まらなかった。

 見上げた空は、間にそびえ立つビルに切り取られ、青い絵の具で一塗りされたように見える。狭そうな空と比べ、僕の気持ちは驚くほど清々しかった。油臭い空気が漂う中、胸の中に満ちるのは草原の上で大の字になって寝そべっているような開放感である。

 僕はようやく僕の本音を聞けた気がした。

 歌が好きだ。誰が何を言おうと好きなものは好きなのだ。夢を諦めるのはいつでもできる。でも、そのきっかけが僕のことを何も知らない他人の一言だなんて――ダサすぎるだろ。

 望む結果は得られないかもしれない。覚悟はしている。でも、夢をあきらめたくないと叫んでいるのだ。あの日粉々に砕けたはずの小さな一欠片が。――これが消えない限り、僕は歌をやめられそうにない。

 ぐっと両腕の拳を天高く突き上げたあと、軽い足取りでアパートへ戻った。


   ◇


 それからまたしばらくして、僕は路上ライブを再開した。今思えば、面接官たちは僕が無理していることを見抜いて不採用にしていたのかもしれない。まあ、今となってはどうでもいい話だ。

 場所を変え、前よりも頻繁に歌を歌うように心がけた。その結果、「戻ってきてくれて嬉しい」と声をかけてくれた人がいて、僕は思わず笑みをこぼした。店主の言っていたことは嘘ではなかったと同時に思う。


 僕にとってのヒーローは、もしかしたら貴方かもしれない。















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