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大きな神社の末社の神様 2018.12


 見上げるほど大きな朱色。立ちふさがる巨人のようなそれは、巨大な門そのものだ。

 初めてこの大鳥居を見たときの感想だ。そしてそれは、今でも変わらない。

 大鳥居をくぐった後、緩やかな傾斜の階段を登った先には、目をこすってしまうほどの鳥居、鳥居、鳥居。入り口のところでみた鳥居よりはずいぶん小さいが、その数に圧倒され思わず溜息がこぼれる。目に飛び込む朱色は、年季の入ったものから新しいものまで様々だ。綿々と連なるその光景は、さらに異界の空気を醸し出している。

 まあ、ここは世俗とは違うのだから当然と言われればその通りなのだが。

「今日は、一段と賑やかだなあ」

 ふわっとあくびをこぼしながら、再び歩み始めた。

 鳥居をくぐっているだけなのに、トンネルの中を歩いている気分だ。

 ここは、このあたりで最も名のある神社。山一つまるまる神社だというのだから、どれだけ歴史と権力の持つ神社なのか想像できるだろう。

 入り口の大鳥居をくぐり、階段を抜け、鳥居の群をさらに進めばようやく視界が開ける。風がよく吹くこの場所では、木の葉のこすれる音が玉砂利を踏む音とほどよく混ざり合い、心地い音色を響かせる。

 しかし、今日は少しだけ様子が違う。灯籠に明かりが灯り、神楽殿には巫女が鈴を鳴らしながら舞う。囃子林の音色とともに宮司の読み上げる祝詞が、この場を覆っていた。

 今日は年に一度のお祭りだ。

 御輿が町中を駆けめぐり、朱色の提灯が周囲を照らす。

 人の世のようで神の世のような雰囲気だと思ったが、そもそも祭りとはそういうものだったと思い直す。

 しかしまあ、こうも腹を空かせる匂いが四方八方からするとーーいても立ってもいられない。口からあふれ出る涎を飲み込む。今すぐにでもかぶりつきたいのだが、そうさせない己がいるのも事実だ。

 自重せねば・・・・・・。

 しかし、匂いだけでなく実際に目にしてしまった以上、腹の虫はうるさく騒ぎ始めた気がした。一歩、また一歩と見えない糸でたぐり寄せられるように近づく。

 ああ、この香ばしい香り。口に入れた途端、じゅわっと味が口いっぱいに広がる甘しょっぱい味ーー。ごくりと生唾を飲み込む。匂いだけでご飯三杯いけるというが、まさしくその通りだと思う。

 しかし、実際には腹が減り物を食べるという行為を体は必要としていない。それでも、「腹が鳴った」「涎がでる」というのは、ずっと昔はそれが当たり前だったからなのだろう。

「・・・・・・興が冷めたなあ」

 そういう呟きも誰の耳にも届かない。ふっと息をつくと、ゆっくりとした足取りでその場を後にした。



 神に捧げられた御神酒を始め、米や果物、野菜や魚を遠目からじっと見つめる。もう、腹の虫は鳴かない。

 はあっと大きな溜息を吐きながら肩を落とした。

 久々に楽しい気分だったのに、ふとした拍子で現実に戻されてしまっては祭りを楽しむことなどできない。

 生暖かな風が髭を揺らす。

 大きな神社。主神を奉る社は一番立派な社だ。広い境内は、鎮守の杜の他にいくつかの末社があり、末社には、主神とは異なる神がこっそり奉られている。

 人の目に末社はなかなか映らないらしく、拝みにくる人間はあまりいない。

「今日もお供えはなし、か」

 社から離れたところにある末社。小さな祠の前には、きちんと鳥居もある。ーー人がくぐるのは無理な大きさだが。

 祭りなのだ。末社にもお供えをくれる人間がいると思ったのだが、どうやら期待外れだったようだ。

「つまらん」

 もうこのまま寝てしまおうかーーそう思ったときだった。

「なにしてるの?」

 呂律の回りきらない声が下から聞こえてきた。

「そんなところにいたら、おっこちるよ?」

 閉じていた両目のうち片方をわずかに開く。見ればまだ年端のいかない子供がこちらを見上げていた。ふんっと鼻を鳴らすと再び目を閉じた。子供は好かない。

「ねえ、きいてるの? ねえってば!」

 ほら、騒ぎ始めた。大したことではないのに大きな声をいきなり出すから嫌なのだ。ピーピーと甲高い声が頭に響いて仕方がない。

 地団駄を踏み、徐々に張る声に居ても立ってもいられなくなった。

「ああ、わかった! わかったから」

 末社のそばにたたずむ大きな桜の木から飛び降りる。

 すると子供は先ほどまで騒いでいたのが嘘のように、ぴたっと静かになった。石にされたかのように、ぱっと手を上げたまま、まん丸の目が一心にこちらを映す。

「なんだ?」

「・・・・・・しゃべった」

 ふんっと鼻を鳴らす。これだから人間は鈍いのだ。やれやれっと頭を振ったときだ。

「わんわんが、しゃべった!」

「犬ではないわ!」

 間髪入れず否定すれば、子供ーーおそらく女の子は片手で唇を触りながら小首を傾げた。

「わんわん?」

「違う!」

 何故、この私が犬などと呼ばれねばならんのだ。ーー腑に落ちん。収穫前の稲畑のような美しい尾をゆっくり振って答えた。

「見ての通りだ、小童。私は犬ではない。狐だ」

「わんわん?」

 思わず、大きな溜息を吐いた。犬ではないと言ったところで所詮子供。理解できないだろう。まあ、狐はイヌ化ではあるから間違いではないのだが。

 まあいい。

「小童、私は忙しいのだ。さっさと行け」

 そう言って、再び木の枝に登ろうとした瞬間だった。

「行っちゃだめ!」

 身を屈め飛び上がろうとした瞬間に抱きつかれたものだから、たまったもんじゃない。思わず体勢を崩し転んだ。少女が腹に乗ってきて「ぐえ」と変な声が出た。

「何を、する」

 早くどけ、と前足を振るが少女は何が気に入ったのか、腹をなで回してきた。くすぐったくて大きな声で笑えば少女もつられて笑った。

 ふとここで私は気づく。

 ここは、人の世であって人の世ではない場所ーーそんなところに何故人間の子がいる?

「小童、どうやってここに来た?」

 そう聞いたのが間違いだった。

「どうやって?」

 小首を傾げた少女は、周囲を見回しようやくその異変に気がついたようだ。

「ここ、どこ?」

 はあ、と溜息を吐き少女と視線を合わせたときだ。目一杯にたまった涙を見た瞬間、本能が危険だと訴える。

 だが、もう遅い。

 うわっと溜池から水が流れ出たように、涙がこぼれ、それに伴うかのように声も大きくなる。とっさに耳を押さえたが、頭がキンキン痛む。まったくもって、うるさくて適わない。

「おい! 頼むから静かにーー」

 聞こえるように大声を出したのだが、それが逆効果になってしまった。さらにギャンギャン騒ぐ。小さな体のどこからそんな爆音が出るのか不思議で仕方がない。

 だが、今は感心している場合ではない。

 頭に杭でも刺されたんじゃないかって思うほどの痛みが襲う。頭を石に何度も打ち付けられている気分だ。

 もう我慢できない。

「わかった! わかったから!」

 尻尾を大きくくねらせ、注意をひかせる。何が「わかった」のか気になるのだろう。少女は、騒ぐことを止めた。しかし嗚咽はこぼれる。

 伏せていた耳を立て、ひとつ咳払いをしてからはっきりとした声音で言い切った。

「元の場所まで案内してやろう」


   ◇


 それにしても少女はどうやって「こちら側」に来たのだ?

 頭を悩ませていれば、「ちょうちん、ないね」と空を仰ぎながらつぶやいた。その一言で気づく。ーー今日は祭りだ、と。

 それなら納得もいく。

 神を奉り祝う祭りは、境界が曖昧になりやすい。神隠しもそうだ。たまたま境界が曖昧なときに「こちら側」へ迷い込んでしまった結果だ。

 まったく、我ながら厄介なことになった。

 少女の前を歩きながら、何度目かもわからない溜息を吐く。

 境界が歪むのは、かなり不規則なのだ。いつも同じ場所が歪むとも限らず、また歪んだとしてもほんの一瞬だったり、数年だったりする。「こちら側」の住人なら行き来は自由だが、向こう側では認識されない存在になる。たまに、加護を受けた人間が我々の姿を捉えることができるが、そう多くない。また、加護を受けた人間は「こちら側」の住人に命を狙われやすいため、短命な傾向がある。

「小童、このあたりは覚えがあるかーー」

 背後を振り向いたとき、そこにいるはずの子供の姿がなかった。

 ちっと舌打ちがこぼれる。

「・・・・・・あのうつけ者」

 ここは人の住まう場所とはまったく異なる世界。もちろん、人の肉が大好物なものもいる。幸い、匂いはそう遠く離れていない。ふんっと鼻で息を吐いてから、少女の匂いのする方へ駈けだした。

 少女に迫る、他の匂いーー。思わず鼻に皺が寄る。嫌な予感がした。

「間に合えばいいがーー」


 本殿の前で立っている少女の姿を捉え、すぐさま駆け寄る。

「小童、死にたくなければ離れるな」

 しかし、少女の耳には届いていないようだった。

「おい、聞いているのか」

「おやおや、どこかで聞き覚えのある声がすると思ったら、お前さんか」

 ケラケラケラと小馬鹿にするような笑い声が耳に突き刺さる。ああ、間に合わなかったか、と小さく肩を落とした。面倒な奴に捕まってしまった。

「今宵は主様が人の世に赴くめでたい日。それなのに、こんなところで死霊に会うとは、一度身を清めねばならなくなったではないか」

 それは、結構なことだ。ふんっと鼻で笑ってやれば朱色の隈取りをした真っ白な狐がキツく睨む。

「ーーさっさと失せろと言っておるのだがな」

 途端、頭を押さえつけられるような力がかかった。舌打ちしそうになる己を必死でなだめる。こんなところで神通力を使うとは、よっぽど鬱憤がたまっているとみえる。

 押さえつけられる力に抗っていると、少女の不安げな瞳が飛び込んできた。大きな目には、己の必死な様子が映し出されている。ああ、なんて情けない姿だろう。四肢に力を入れるものの、岩を背負わされているような重さに耐えられるはずもなく、小刻みに震える姿は、生まれたての子鹿のようだった。

 情け無いーー。

 うなだれた途端目に映り込んだのは、茶色の足先。尺に障るが、こいつの言うとおり、死霊である私は神に仕える神使の狐とは天と地ほどの差がある。

 そもそも本来行くべきところへ向かわず、人の世と「こちら側」を行き来する死霊は、神からすれば迷惑な存在なのだ。ましてや神の降りる神社に居座っているのだから、この神使のような態度をとられるのは当たり前。嫌がらせも、もはや日常茶飯事だ。

 腹は空かぬし、眠くもならない。しかし、常に虚しさだけが私を蝕む。

 それでもこの世の理から外れ、独りさまようことを私は選ぶ。

「わんわんになにしたの!」

 少女の甲高い声が耳に響いた。

「弱いものイジメはダメなんだぞ!」

 頬を膨らませ、白狐を睨む少女に「やめろ」といいたいが、生憎声を出そうにもうめき声しか出せない状況だ。

 こちらを向け、うつけ者!

 種族の違う者同士、視線で意志疎通ができるとは思えないが、そう言っている場合でもない。

「ほほうーーもしやこの童、死者ではないな? 匂いが違う。まだ「あちら側」の人間だろう?」

 ちっ、と思わず舌打ちを叩く。おもしろいものを見つけた、と言わんばかりに白狐の口があがった。

「なるほど。お前さん、生贄をつれてきたのかーーそこまでして神使になりたいのか」

「・・・・・・うる、さい」

 そんなわけないだろうと声を大にして叫んでやりたいが、これが精一杯の抵抗だ。ぎりっと奥歯を噛みしめながら霞む目で睨む。

 そもそも私のように志高き者が、こんな小童を神に捧げる生贄として献上するはずないだろう。

 だが、そんなことを知る由もなく白狐はくくくっと笑った。

「お前さん、本当に己が主様のお目通りがかなうと思っているのか?」

 ああ、もう。腸が煮えくり返ってきた。その小童は生贄でも何でもないと耳元で叫んでやりたい。第一、口封じのようなことをしているのはお前の方だろう。

 だが、そろそろ限界だ。

 もう、立っているのさえやっとだ。意識を手放すのも時間の問題である。

 これじゃあ、外まで案内するのは無理そうだな。

「仕方がない。せっかくお前さんが用意した生贄、無駄にするわけにもいかない。主様のためだ。某が献上しておこう」

 何が献上しておこう、だ。あくどい魂胆が見え見えだ。始めからそのつもりで神通力も使ったのだろう。ーー私が抵抗する隙さえ与えないために。

「無言は肯定を受け取るが、よいな」

 もう、言葉を放つ気力さえわかない。このまま押しつぶされてたまるかーー。

 そのとき、ようやく少女がこちらをみた。

 遅い、と薄れる意識の中で思う。「わんわん」と呼ぶ声が聞こえるが、何度も言う。私は犬ではない。

 ああ、そんなことは今はいい。

 ただーー。

 約束、守れそうもない。すまんなーーそう伝えられないのが、何より悔しかった。

「さあ、童。某と主様のところへ参りましょう」

 そう言って白狐が、少女に近づいたときだ。

「いや!」

 少女は白狐を両手で突き返した。白狐は、「怖がることなどありません」と裏のありそうな顔で微笑む。

 そのときだった。

 いきなり白狐がその場にうずくまったのだ。かくん、と力がいきなり抜けたみたいに。その直後、今度はうなり声を上げ始めたではないか。

 一体、何が起きているんだ?

 頭が着いていかず、呆然としていれば、ふっと体が軽くなるのを感じた。かけられた神通力から解放されたようだ。

「わんわん!」

 少女が駆け寄ってきたと思った次の瞬間、首根っこを思いっきり引っ張られた。「ぐえっ」と狐にあるまじき声が飛び出る。

「おい、放せ小童。放せ!」

 少女が走る。ーー私の首根っこをつかんだまま。

「私はぬいぐるみではない!」

 背の低い童が、私を抱え込むことなどできるはずもなく、私は問答無用で背中を引きずられるはめになった。放せと叫んでも、少女は一向に言うことを聞かない。本物の狐とは違い、死霊の私には重さというものはほとんどないのが幸いした。

 だからといって、こんな子供におもちゃのごとく扱われるのは尺に障る。しかし、力付くでふりほどくつもりもない。

 もうどうにでもしてくれ。

 ふんっと息を吐いたときだ。

 かすかにだが、匂いがした。

「小童、そのまままっすぐ走れ」

 間違いない。これは。この涎の出る匂いは、たこ焼きの匂いだ。近くに人間界につながっている歪みがある。くんっと鼻を鳴らせば、匂いがさらに強まった。

「右に曲がれ」

「どっち?」

「こっちだ、急げ!」

 尻尾で指し示した後、捕まれていた手を振りほどき、今度は逆に襟をつかんでやった。しかし、これだと前が見づらい。

 仕方がない。

 後ろに放り投げ、背中に乗せる。

「しっかりしがみつけ! 振り落とされても知らぬからな!」

 まったく。人の子、しかもまだ鼻水が垂れている小童をこの背に乗せる日が来るとは。馬の真似事などしたくはないが、わがままも言ってられない。

 私は神使ではないただの死霊。しかし、ひょろひょろの小童一人運ぶことくらい、どうってことない。

 鼻を頼りに走る。先ほどの影響のせいか、それほど早く駆けられない。だが、草が遅れて揺れているのを見ると、今、風になっているのだと思う。

 祭りには独特の匂いがある。

 甘いようなしょっぱいような、酸っぱいようなーーつんっと鼻の奥に残る冷たく目が覚めるような匂い。

 その匂いが肺いっぱいに満たされたとき、ようやく人の世に出たのだと理解できた。

「もう降りていいぞ」

 背中にしがみついていた少女は、顔を上げおそるおそる地面に降りた。途端、背中が薄ら寒い。子供の体温は高いと聞く。ただ、この温度差は気にくわないと思った。

「小童、二度目はないからな」

 迷い込んでしまうのは、子供のうちだけ。ある程度年を重ねれば、第六感という奴が働いて、気づいたら「あちら側」でした、なんてことはなくなる。

 せいぜい、迷子にならないよう気をつけることだな。ふんっと鼻を鳴らして私はその場を去った。

「わんわん?」と何度も呼ぶ声が聞こえるが、私は「わんわん」ではない。あの場で泣きわめいてさえいれば、人間が見つけてくれるだろう。

 ああ、それにしてもーー。

「あの小童、私の背に鼻水をつけおって!」

 しかし、まあ久々におもしろかったので許してやろう。

 尻尾を揺らしながら寝床である「こちら側」の末社へと戻る。

 人の世と「こちら側」の世界はよく似ている。写し鏡のようだ。しかし、住まう者は全く違う。

 私は大きな神社の末社に住まう死霊。「こちら側」だけでなく、人の世にもよく向かう。

 会いたければ来るがよい。ーーただし、お主が見えればの話だが。


   ◇


 春が来た。

 木々や野原が色づき、虫や動物がうごめき始めるこの季節が何よりも心を躍らせる。「こちら側」で昼寝をするのもいいのだが、うるさい奴の相手も面倒なので基本的に、この季節は人の世にいることが多い。

 春風が髭を揺らす。同時に何かが頭に乗った。ーー桜の花びらだ。

 刹那に咲き散っていく花が今年も満開になった。くわっとあくびをして木から飛び降りる。

「りっぱになったものだなあ」

 末社の上に太い幹を伸ばす大木。よく昼寝をするその木は桜の木だ。

 風が吹き、薄ら桃色の花びらが舞う様子は、人の世にいながら「こちら側」を見ているような気分になる。

 この時間帯、あたりには人気がない。再び大あくびをしてその場にうずくまった。日差しの下が想像以上に暖かだったのだ。

 尻尾を踏まれる心配もない。もう一寝入りするかと瞼を落としたときだった。

「ようやく見つけたぞ」

 何者かに首を掴まれたと思ったときには、すでに宙を浮いていた。

「何奴だ! 私を野ウサギのように扱いおって!」

「相変わらず、うるさい「わんわん」だなあ」

「わんわん」ーー?

 首根っこをつかむ者の正体をその目に映したが、誰だかわからない。人間のようだが、こんな女のような顔の男など知らない。

 いや、女のような男ーー?

「忘れちまったのかよ。記憶力ねえなあ」

 捕まれた手を左右に振るものだからたまったものじゃない。「止めろ」と言えば、「思い出したか」と聞いてくる。思い出したも何も私はお前なんてーー。

 いや、まてよ?

 よくよく見れば、この顔どこかでーー。

「あのときは、ありがとうな、「わんわん」」

 そこでようやく思い出した。

「お前、あのときの小童か!」

「やっと思い出したのかよ」

 はあっと溜息をつく姿は、顔こそ中性的ではあるが、その他はどこからどう見ても男でーー。

「お前、女じゃなかったんだな」

 ぽろっと口から飛び出た言葉に鋭い眼光でギロリと睨まれた。背筋に寒いものが走る。

「何だよ、ずっと女だと思っていたわけ?」

 そうだ、とは言うに言えない空気だ。まあ、このあたりでよく見かけるこうこうせいとやらが着ている制服を身にまとっているのだから、子供に変わりないのだろう。

 こちらをじっと見る少年の姿にふと疑問がわく。

「ーーお前、私の姿がミエるのか」

「はあ? 当たり前だろう。じゃなきゃこんなことしてねえよ」

 ふむ。こいつは神の加護を受けた人間なのか。子供の時だけの一過性のものではなかったらしい。

 不憫なものだ。そっと息を吐いた。

 ーーこいつは厄介な人生を歩むことになるだろう。

 目を細め、先々で待ち受ける困難を思い再び息を吐いた。

 そのときだ。

 髭を揺らしながら流れていった風。その風に嫌な匂いが混ざっていた。

「・・・・・・お前、何でこんなところにいる」

 じっと見つめ返せば「さすがだなあ」とへなりと笑った。

「お前に頼みたいことがあって来たんだ」

 嫌な予感がした。さっさと姿をくらまさなければと思うのだが、強く首根っこを掴まれているせいで逃げようにも逃げられない。

 その間にも匂いはどんどん強くなる。

「あれ、何とかしてくれ」

 そう言って指を指した先には低級の妖怪が数体。

「無理に決まっているだろう」

 私はあくまで死霊。祓う力はおろか、特殊な能力など一つもない。

 強いて言えば、化けられるくらいか。

 掴まれていた手が離された。ようやく自由を手に入れ、さっさと「こちら側」へ行こうとしたときだ。

「頼む。お前なら何とかできるだろう? ーー末社の神様のお前なら」

 頭の先から尻尾の先までぞわっと毛が逆立った。

 末社の神様ーー? ・・・・・・この私がか?

「頼む! あいつらに追いかけられて、転校してからまともに学校に行けないんだ」

 少年の声など、頭に入ってこなかった。

 人間は「こちら側」のことなど知らない。少年は勘違いしている。

 しかし、嫌な気分はしなかった。

 この私が、神使ではなく・・・・・・神様、か。

「ーーわかった。今回だけだぞ」

 このくらいならば罰も当たるまい。

 私は少年を背後に低級妖怪に立ちはだかる。じっとにらみ合いの末、くるんっと宙を回って見せた。

 妖怪たちは呆然としている。この一瞬を逃すわけにはいかない。

「ほら、行くぞ!」

「はあ? まだあいつらいるじゃん!」

 私は神ではなく、ましてや神使でさえない。ーーただの死霊なのだ。祓えるわけがない。

「逃げるが勝ちだ!」

「おい! 約束が違うぞ「わんわん」」

「「わんわん」言うな! 私は犬ではない」

 ーーかといって普通の狐でもないがな。

 ギャンギャン騒ぐ少年を尻目に心は踊る。

 春は出会いの季節。これが私と月見透との出会いだった。

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