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魔法使いが、いる! 2018.10

 やってしまった――。

 逃げ出したくなる気持ちをぐっと押さえ、おそるおそる教室をのぞく。

 校舎の裏に山を従える、のどかな校風のこの公立高校には、約五百人ほどの生徒が在籍している。全校生徒の前でとんでもないヘマをやらかしたわけじゃないけど、でもさすがにまずいレベルだ。

「二年六組」と書かれたプレートのある教室をじっと見つめる。中では、皆それぞれ好きなことをして過ごしていた。朝のホームルーム前である。教室の端っこに取り付けられた時計を見て、一気に気が重くなった。いつも遅刻ギリギリで来るのに、昨日のこともあって、朝二番に教室に来てしまった。

 そう、朝二番。ここ重要。一番じゃなかったのだ。一番だったら、反応を見てどうするか決められたのに。だから、仕方なくみんなが登校するまで隠れて待つことにした。

 そして今。一世一代の大勝負がはじま――。

「何してるの」

 突然、背後からかけられた声に心臓が飛び出そうになった。まだ知っている声だったからよかった。バクバク鳴る心臓を必死でなだめながら振り返ると、眉を寄せた顔のみっちゃんがいた。

「え、っと。いやぁーおはよう」

「また笑って誤魔化そうとする」

 誤魔化してないよと言いかけて口を閉じた。そのとき、ちょうどチャイムが鳴った。今まで好き勝手していた生徒たちが、一斉に機敏に動き出す。

「ほら、葉子も急ぐよ」

 返事をする間もなかった。手首を引っ張られ教室に入る。誰も何も言わなかった。もちろん、予想していた反応もなし。

 え、何で?

 そう思っていると、教室のドアが開いて担任の村上先生が入ってきた。

「どうした、大杉。早く席につかないと遅刻扱いにするぞ」

 その一言ではっと我に返る。早く席につかなきゃと思う反面、化かされているような気もしなくはない。確かに昨日、私はこの場所で大きな失態をやらかした。それこそ取り返しのつかないくらいの大きなものを。

「体調が悪いなら保健室に行くか?」

「い、いえ。大丈夫です」

 ……腑に落ちない。

 教壇から発信される連絡事項を遠くで聞きながら、ふと前にも同じようなことがあったと思い出す。

 夏休みの間、誰も水をあげていないはずなのに教室の隅っこに置かれた観葉植物は枯れなかった。また、前に黒板を消し忘れて慌てて戻れば、綺麗に拭かれていたことや、課題を集めて提出時間までに渡しに行かなければならないのをすっかり忘れていたのに、知らないうちに先生に渡っていたことなど、「誰かがやったんでしょ?」というたった一言で一蹴されそうな些細な出来事がたまに起きていた。

 ……絶対におかしい。

 皆の記憶から、その部分だけすっぽり抜けている。そんなこと、あるわけない。

 ここでひとつの可能性が頭の中をよぎる。口に出せば絶対に笑われるけど、どうしてもそれしか考えられなかった。

 ――この中に魔法使いがいる。


 みっちゃんに言えば「変なもの食べた?」なんて聞いてくるだろうなぁ。

 チョークを黒板に当てる音を聞きながら、ぼんやり思う。

 でも、絶対にそうだ。

 このクラスには魔法使いがいる。なら、その尻尾を掴まないと。今はまだ何もないけど、いつどうなるかわからない。

 それなら、先手を打つべきでしょ。

 絵本とかでよく見るかもしれないけど、私の知る限り魔法使いの使い魔はカラス、魔女は黒猫だ。

 だから、カラスに何かしている人間がかなり怪しい。でも、そんな場面そうそう立ち会うことなんてない。魔法使いだって、自分の正体をバラすような真似はしないだろうし。

 魔法使い、か。

 空高く飛ぶ鳥の影を眺めながらふっと息を吐いた。

「じゃあこの問題を解いて見ろ、大杉」

「ん?」

「大杉? 聞いてたか?」

「あ、はい!」

 ど、どうしよう。全然聞いてなかった。

 思いがけないことが起きると、どうすればいいのかわからなくなりパニックになる癖がある。それがわかっているからこそ、普段気をつけてはいるけど、それでもどうにもできないときだってある。

 昨日の今日だ。いくら皆がいつも通りだからって、私は昨日のことをばっちり覚えている。気にするなと言われる方が難しい。

 でも、だからって立て続けに起きなくてもいいでしょ。

 耳元でどくどくと血の流れる音が聞こえる。「わかりません」って言えばいいだけなのに、のどを鷲掴みされたみたいな圧迫感のせいでうまく声が出ない。早く言わなきゃと思えば思うほど、押しつぶされそうになる。

 ――どうしよう。

 目の前が、霞んできたときだ。

 カァー……。

 はっと窓の外を見る。まるでバカにしたようなカラスの鳴き声が確かに聞こえた。偶然にしては出来過ぎだ。

 ――やっぱり、このクラスに魔法使いがいる。

「大杉? 大丈夫か?」

「はい! わかりません!」

 途端、ぶわっと割れたように笑い声があふれた。その声は両隣の教室まで聞こえたという。

  ◇

 ……穴があったら入りたい。

「そんなに落ち込むことないって」

 ぽんっと肩に置かれた手が温かい。顔を上げることすらできなくて、机に突っ伏していることしかできない。

「まさか、あんなに吹っ切れた返事するなんて誰も思ってみなかったし」

「もー! みっちゃんのバカ!」

 思い出したくないのに。

 ごめん、ごめんと言う声を遠くで聞きながら、一層深く腕の中に頭を埋めた。

「それにしてもあがり症のあんたが、授業中ぼーっとしているのも珍しいね。居眠りもしないのに。何かあった?」

 さすが私の友達。伊達に何年もつるんでいないね。でも、こればかりは、言えない。

「んー、ちょっとね」

「あんまり詰めすぎるなよぉ」

 ごめんよ、みっちゃん。本当は相談したいけど、自分でどうにかしなきゃいけないんだ。

 チャイムが鳴った。次の授業が始まる。

 私はじっとクラスの中を見つめた。独自の情報網と勘から推測した結果、怪しいのは四人。クラスのムードメーカー、太田くん。運動神経抜群、佐々木くん。頭のいい、百瀬くん。クラスのマドンナ、星野さん。

 前々から思っていたけど、このクラス、個性が強い。ものすごく、強い。

 皆、メインディッシュみたいなものだ。これじゃあ、誰が魔法使い(または魔女)でも不思議じゃない。

 でも、私は何となくこのクラスにいるのは、魔女じゃないと思う。だって、さっき鳴いたのはカラスだから。だから、クラス一モテる星野さんはないだろう。黒猫を飼っているとは聞いたことがあるけど。

 残るは三人。でも、証拠はない。こうなったら、一人一人尾行するしかない。

 まず最初は、一番尾行しやすそうな頭のいい百瀬くんに決めた。百瀬くんは、放課後必ず図書館へ行く。部活は卓球部だ。さすがに部活にまではついていなけいから、こっそり見守ることにしよう。うん、完全に私の方が怪しい。

 全国模試で十番以内に入ったこともある百瀬くん。俗に言うがり勉くんという印象はなく、校則をきちんと守るちょっときまじめな普通の男子高校生だ。勉強重視というより、友達とも遊んだりまじめに部活に取り組んだりしながら高校生活を楽しんでいるように見える。

 図書室で本を返すとそのまま体育館へ向かう。特に魔法使いだって証拠、なさそうだなと思ったときだ。百瀬くんがいきなり走り出した。

 ちょ、ちょっと待ってよ!

 急な変化についていくのもやっとだ。それも怪しまれずについて行かなきゃいけない分、余計に疲れる。しかし、魔法使いが誰なのか突き止めるためだ。今は我慢、我慢。

 どうやら百瀬くんは、誰かを見かけたようだった。その先を見て思わず眉をしかめる。

 同じクラスの田中くんだ。個性豊かな面々がそろっている中、田中くんは絵に描いたような何の取り柄も特徴もない、ザ普通の高校生だ。

 あの二人、勉強仲間だと聞いたことはあるけど、そこまで仲がよかったっけ? 一体、何を話しているんだろう。

 耳を立てたそのときだった。

 飛び上がるほどの大きな音が響きわたった。思わず両手が頭にのびた。

「何だ?」

 百瀬くんが窓へ近づき外を確認する。ここからじゃ裏山と校舎の間しかみえない。もしかして、カラスと連絡をとるんじゃ――。

 鍵に手をかけたときだ。

「音はあっちから聞こえなかった?」

 そう言って田中くんが、指さしたのは私のいる方向だった。

 まずい!

 どこかに隠れなきゃと思うものの、階段の踊り場に隠れられる場所なんてない。走って逃げたくなったときだ。外から「何やってんだよ」と呆れた声が聞こえてきた。どうやら、陸上部が何か道具を倒したらしい。

 証拠が掴めるチャンスだと思ったのにな。

「あれ、ももちゃんじゃん。部活行かないの?」

「太田、その呼び方はやめろ」

 廊下から現れたのは、魔法使い疑惑候補者の一人、太田くんだ。

 んー、どんどん人が増えてくる。

「ももちゃん暇ならコンビニ行かね?」

「だから、俺は今から部活だ」

 面倒くさそうに対応しているものの、百瀬くんと太田くんは仲がいい。小学生のときからのつきあいだとみっちゃんが言っていたっけ。

「田中も行く? コンビニ」

 相変わらず、人の話を聞いてないなと思いながら、太田くんは田中くんに尋ねる。でも、田中くんは首を左右に振った。

「このあと行くとこがあるから」

 田中くん、部活は入っていないらしい。そのかわり塾に行っているんだとか。……全部、みっちゃんから教えてもらったことだけど。

「これ、ありがとう」

 そう言って田中くんが掲げたのは、一冊の本だった。タイトルを見て思わずぎょっとする。田中くん、以外とああいうのに興味あるのかな。

 田中くんがいなくなったあと、百瀬くんと太田くんも部活へ行ってしまった。

 今日の尾行はここまで。

 結局、誰が魔法使いなのかわからないまま。というより、わかる気がしない。

 自然とため息がもれた。

  ◇

「今日は機嫌よさそうじゃん」

 一限目が終わったとき、みっちゃんが背後からそう声をかけてきた。

「最近、用事があるからってすぐ帰っちゃうし。元気ないように見えたけど、今日はもう見るからに幸せオーラが出ているぞ?」

「何言ってるんですかー、みっちゃんさん。いつも元気だし、機嫌はいいよ?」

「そんなたるみきった顔で言われても、説得力ないっつーの。ほら、自分の顔、見てみな」

 目の前に鏡を突きつけられ、一瞬どきりとする。しかし、手のひらに収まる小さな鏡には、表情どころか目しか見えない。

「いつもの顔じゃないですかー」

「……なんか酔った父親と話している気分」

 ちょっと気にくわない例えだ。人間は酔うと楽しくなって、いろんなものが見境つかなくなる。ちょっとしたモンスターだ。

「あんたが最高に気分あがっている訳はわかる」

 そう言ってみっちゃんは、裏を指さした。そこには食堂のメニューが張ってある。お弁当を持ってきてもいいんだけど、この学校には低価格で定食を出してくれる食堂もあるのだ。

「今日のメニューは――」

「ああ、それ以上言わないで!」

 とっさに頭を抱えた。言葉だけでも聞いてしまえば、すぐに食堂に行きたくなる。もうあと一時間くらい我慢すればありつけるご褒美なのだ。お腹もいい具合に空いている。

「――毎回毎回すごいね、そのキツネうどんへの愛」

「言わないでって言ったのに!」

 別にどこのキツネうどんでもいいわけじゃないのだ。学食のキツネうどんがいいのだ。

「キツネうどんにお稲荷さんがついてくる定食でしょ? 炭水化物と炭水化物じゃん」

「そこがいいんじゃん!」

 みっちゃんはわかってない。つゆに染み込んだ油揚げとご飯を包む油揚げ。同じようで同じじゃない。

「もう限界」

「ちょっと、葉子。いくら待てないからって涎垂らさないでよね。それに、今食堂に行っても食べられるものじゃないから」

「わかってるぅ」

 だからその言葉を言わないでって言ったのに。

 二時限目は案の定、全然集中できなかった。


「満足しましたか?」

 食堂から教室に戻ると、みっちゃんが私の席に座っていた。

「大満足! おかわりしたかった。何なら毎日キツネうどん定食がいい」

「ちょっとそれは勘弁してほしいかな……」

「えー何で」

「飽きるでしょ、さすがに」

 んーそうかな。私は飽きないと思うけど。

「そうそう聞いてよ、なんかさっきゴミ捨て場にカラスが群がっていたらしくてさ」

「え!」

 別に、ゴミ捨て場にカラスがいることは珍しいことじゃない。でも群がっていたっていうのが気になる。学校のゴミ捨て場は、カラスや野良猫が荒らさないように蓋のある大きな箱のようになっている。

「弁当のゴミ捨てに行こうとしたら、そんなんじゃん? 怖くて捨てられないって――葉子?」

「ちょっとトイレ!」

 とにかく走った。

 ここ数日、魔法使いの証拠どころか、痕跡すら掴めていなかったのだ。

 みっちゃんの言うとおりなら、今ゴミ捨て場にいる人間が魔法使いの可能性が高い。

 ゴミ捨て場は裏山の方にある。ここは三階。ああ、もう。階段を使って降りることすら煩わしい。

 ちらりと窓の外をのぞく。人影が見えた。それも二つ。

「え、何で」

 そのときだった。

「きゃっ!」

「あ、ごめん!」

 人にぶつかってしまった。廊下は走ってはいけませんという張り紙が見えたけど、今は無視。というか見逃してほしい。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 ぶつかったのは、同じクラスの星野さんだった。

「急いでどうしたの?」

 星野さんは大きな黒い瞳でまっすぐこちらを見ながら、ちょこんと首を傾げた。

 トイレに、は使えないか。私のすぐ後ろがトイレだ。

「ちょっと、用事があって」

 星野さんの視線を避けながら窓の外をみる。嘘は言っていないはず。

「どこに?」

 うっと言葉に詰まる。でも、ここで変に嘘をついても仕方がない。

「……ゴミ捨て場、に」

 そう言ってやってしまったと思った。ゴミ捨て場に行くにしても、私はゴミどころか何も持っていない。でも、星野さんはにっこりほほえんで「そうなんだ」と言った。

「じゃあ、私行くね」

 慌ててその場を後にしようとすると、背後から声をかけられた。

「さっき佐々木さんもゴミ捨て場の方に行っていたよ」

「え」

「もしかしたら、佐々木さんがゴミ捨てやってくれたかも」

「あ、ありがとう」

 星野さん、なんか勘違いしている。でも今は都合がいい。

 星野さんの言うとおりなら――。

 自然と肩に力が入る。場合によっては、今まで通りじゃいられなくなるかもしれない。それでも行かなきゃいけない理由がある。

 でも、できることなら――。

「平和に解決できるといいなあ」

   ◇

 前に太田くんが言っていた。妖怪は人間が作り出した創造物だって。精神的な不安や焦りを妖怪として見立てて、少しでも心安らかになるための偶像だって。

 でも、それなら魔法使いってどうなんだろう。

 超人的な力を持つ人間ってことだから、結局は人間の理想像なのかもしれない。

 でもさ、やっぱりちょっと考えてみてほしい。

 火のないところに煙は立たない。いくら人間の想像力が豊かでも、やっぱりきっかけが必要になる――と私は思う。

 佐々木くんは、運動神経が抜群で陸上部のエースだ。短距離走と高飛びが得意らしく今年もインターンに出るのだとか。

 もし仮に佐々木くんが魔法使いなら、魔法を使って運動神経をあげていたとしても不思議はない。

「佐々木くん、か」

 きちんと話を聞いてくれるだろうか。

 ゴミ捨て場までもう少しという距離になったときだ。

「頼むよ、佐々木」

 声が聞こえた。男の人の声だ。

「どうしてもインターンに出たいんだ。リレーの補欠じゃなくて」

「だから辞退しろってことですか?」

 佐々木くんの声だ。機械みたいに感情がないけど間違いない。相手は陸上部の先輩かな。

 音を立てないようにそっと近づくと耳を立てた。

「お前も知ってるだろ? リレーは、陸上競技の中でも数少ないチームワーク競技だ。バトンの受け渡しで大きくタイムが変わる。俺が初めからレギュラーでいた方がチームのためなんだよ」

 ――なんだそれ。

 自分勝手にもほどがある。もし佐々木くんが相手に同情かなんかして、言うとおりにしたって絶対にいいことなんてない。チームワークが必要だからこそ、こんな自分勝手な人をチームになんか入れちゃいけない。絶対だ。

「俺らはさ、この夏が終われば引退なんだよ。高校最後の思い出を作りたいじゃん?」

 佐々木くんは何も言わない。すぐそこまで来ている裏山の木々が、木の葉を揺らす。

「佐々木は、去年も出ただろ? 今年も出るし。でも俺は今年だけ。来年はない。だからさ、いいだろ?」

 ――一つくらい譲ってくれても。

 木々のざわめきが大きくなる。山から吹く風が私に「落ち着け」と言っているのかもしれない。

 でも、もう限界。

「それ、間違ってます!」

 まん丸い目がこちらを見る。まあ当然かな。突然部外者が出てきたんだから。

「チームワークが必要な競技なら、なおさら先輩は出ない方がいいです」

「何、お前。いきなり……」

「仲間を思いやることのできない人が、チームワークを語るべきじゃない」

 途端、先輩の顔が険しくゆがんだ。まっすぐ向けられる視線と殺気。逃げ出したいけど、それより怒りの方がずっと強い。

「周りの人を困らせて何が楽しいんですか。自分がよければ、他はどうでもいいんですか」

 人間は社会の中で生きる生き物だ。普段はあまり感じないかもしれないけど、必ずどこかで誰かの助けを受けている。

「そんなこともわからない自分勝手な人、私、大嫌いです!」

「お前には関係ないだろ!」

「そうです、関係ないです!」

 しまった。正直に答えすぎた。でも、今はそれどころじゃない。

 向こうも拍子抜けしたようだが、一瞬だけだ。

「関係ないんだろ! だったら消え失せろ!」

「イヤです! こんな裏取引みたいなことやめてくれなきゃ消えません!」

「お前、いい加減にしろよ」

 殴られる――目を閉じたときだ。何かが転がる音がした。続いて小さなうめき声。おそるおそる目を開けると、頭をさする先輩が目の前にいた。

「……てめぇ、佐々木」

「先輩、オレは辞退しませんよ?」

 そう言って佐々木くんは、地面に転がっている石を拾った。

「先輩の言うとおり、リレーはチームで勝負です。だからこそ、辞退しません。陸上競技の中でも数少ないチーム戦ですよ? オレだって勝利を共有したいんで」

 なんだ、そうだったんだ。私が出しゃばらなくても、佐々木くんはきちんと断るつもりだったんだ。

 ほっとしたのもつかの間だった。

「そうかよ」

 背筋がざわりと粟立つ声が耳を打つ。先輩はふらりとゴミ捨て場に近づくと、捨ててあった長細い木材を取り出した。

「でもさ、」

 先輩は笑っていた。得体の知れない恐怖が足先から頭まで駆けめぐる。

 何か言わなきゃと思うのに声が思うように出ない。

「怪我しちゃえば、そうも言ってられないよね?」

 本能が訴える。このままじゃ危険だ、と。私じゃない。佐々木くんがだ。

 佐々木くんの立っている場所は、背後が倉庫になっていて逃げ場がない。どうにかして気を引かなきゃ、本当に怪我をさせられてしまう。

 でも――と頭をよぎる。佐々木くんが魔法使いなら、魔法を使ってどうにかできるんじゃないか、と。その目撃者に今、なれるかもしれない。そうなれば、ちょっとだけ私の方が有利になる。

 佐々木くん、魔法を使って――!

 ぎゅっと目を閉じたフリをして、祈る。

 でも、魔法は起きない。

 先輩は、ゆっくり木片を高く掲げる。逃げ場を失った佐々木くんは、じっと相手を睨みつけていた。

「俺がやったって言うなよ。言えば皆インハイに出られねえからな」

 木片が勢いよく振り落とされる。私にはそれがスローモーションのように見えた。

 ――まったく。自分勝手は、どっちなんだよ。さっき大口叩いた自分が恥ずかしい。

 もう覚悟は決めた。

「やめて!」

 力を込めて叫ぶ。木々がざわめき、鳥が一斉に飛んだ。

 両腕で顔を覆っていた佐々木くんが、ゆっくり腕を下ろした。そして――。

「大杉、お前――」

 ……やっぱり隠せられないよね。

 力を使えば、姿は保てない。私はまだまだ未熟者だから。

 石像のように固まってしまった先輩をよそに、佐々木くんの視線は私に向いている。

 とりあえず笑ってみた。笑顔は皆を幸せにするってずっと昔みっちゃんが言っていたから。

 そのときだ。

「笑ってごまかせますかね?」

 突然背後からかけられた声に思わず飛び上がった。叫ばなかった自分を誉めてあげたい。

 反射的に振り返るとそこには無表情でこちらを見つめる田中くんがいた。

 ど、どうしよう。せめて、みっちゃんにさよならの挨拶くらいはしたかったのに。つんっと鼻の奥が痛む。

 そのときだった。

「君は苦労しますね」

 田中くんがパチンと指を鳴らした瞬間、こちらを凝視していた佐々木くんの目がとろんと垂れて、座り込んでしまった。

 状況が掴めず、田中くんと佐々木くんを何度も見比べる。

「え、ちょっと待って。もしかして、魔法使いは佐々木くんじゃなくて――」

 田中くん!?

 予想外の展開に開いた口がふさがらない。するとどこからともなくカラスが一羽飛んできた。そして、自然なそぶりで肩に止まる。

「大丈夫ですよ。今回も少し記憶を書き換えさせていただきましたから」

 害がない程度に、という田中くんから目が離せない。

 というか、今回もってことはやっぱり――。

「この前のことも田中くんがやったの?」

 田中くんはくすりと笑って言った。

「驚かされると耳が出てしまうというのは、大変ですね」

 ――妖狐の葉子さん。

 頭を抱えたくなるのを必死に押さえる。

 今、頭を押さえれば三角の耳が間違いなく手に当たるだろう。

「安心してください。君の正体を言いふらすつもりはないですから。ただその代わり――」

 ごくりを唾を飲み込む。私が魔法使いを探していた理由。それは弱みを握られたままじゃ人として安心して生活できないからだ。

 なんとなく、取引になることはわかっていた。だから、こっちに少しでも有利になれたらと思っていたけど。

 弱音を吐きそうになるのを必死に我慢する。

 田中くんは相変わらずにっこり笑ったまま。祈るように手を組み、ぎゅっと目を閉じたときだ。

「僕のお手伝いをしてくれませんか?」

「へ?」

 魔法使い。それは超人的な力を持った人間の理想。でも、実際は自分と違う者を嫌った末、隠れざる終えなかった人たち。西洋であった魔女狩りなんかそのもっともたる例だ。

 そして、魔法使いたちは人と人ならざる者の仲介者として今もいる。

 その手伝いってことは――。

「使い魔になれってこと!?」

 魔法使いとキツネなんて組み合わせ、聞いたこともない。

 でも、私に拒否権なんてない。

 ただでさえ、人間生活も危ういのになあ。

「役に立たないと思うよ?」

「いいんです」

 田中くんは言う。

「君の言葉、まるで強力な魔法の呪文のようだった。君の言葉なら種族の壁を越えられるかもしれない」

 そう言ってどこからともなく本を取りだした。タイトルは妖怪図鑑。――この前図書室の前で百瀬くんが渡していた本だ。

「悪い話じゃないでしょ?」

 そう言って差し出された手を、はにかみながら掴んだ。

 頬がゆるむ。別に笑って誤魔化そうとしているんじゃない。

 ――強力な魔法の呪文、か。

 本物の魔法使いに言われるとなあ。

 照れない方が難しい。



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