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海と塔 2025.3

 ぱっと目が開く。

 どうやらもう起きる時間らしい。

 まだ寝ていたい気持ちをぐっと押し殺し、上体を起こすと冷たい床に足を下ろす。サイドテーブルにあるマッチを取って、蝋燭に火をともした。

 くわっとあくびを一つこぼす。長い黒髪が肩から滑り落ちた。

 まだ夜明け前だ。眠い。おまけに寒い。ぬくもりの残る布団に再び潜り込みたい誘惑をぐっと押さえる。

 ――カリンナ、これはお前の命よりも大事な役目だ。

 もういないはずの師匠の声が聞こえた気がして、思わず飛び上がった。寝間着の上に厚手のコートを羽織り、素足のままブーツに突っ込む。青銅の手持ち燭台を持ち上げると、足早に寝室を出た。

 扉を開けた先は階段の踊り場だ。上と下に延びる階段は壁沿いに螺旋を描いている。外は見えない。ここは塔の中心。燭台の小さな明かりが照らすのは、石造りの階段とそびえるような壁だけだ。下をのぞきこめば、暗闇が口を開けて待っている。

 カリンナはさらに身を縮ませた。

 闇にひるんだのではない。寒さに震えたのだ。焼き石を暖にしたいと思ったが、もうそんな時間はない。ぶるぶると震えながら階段を登る。冷や水を浴びせられたように空気は冷たく、冷風が塔の中を駆け抜ける。塔という構造のせいか、わずかな空気の流れでも吹けば鳴る楽器のように音が響く。その音が、巨大な生き物の呼吸音のように感じられた。

 足先に感覚はなく、指を動かすのも一苦労だ。吐息も白い。手を擦りあわせたくても、燭台を持っているからできない。頼りない炎は、顔の前に近づけたらきっと吐息で吹き消してしまうだろう。

 するっと冷たい風が首元をすり抜けた。

 思わず身を縮ませる。かちかちと歯を鳴らしていれば、波音が耳に入った。延々に続いているように見える階段も終わりが近い。

 夜明け前はとても静かだ。何度も打ち寄せては引いていく波音は、秒針のように耳に届く。

 空気が氷のように冷たさを増す。首を縮ませながらさらに登れば、塔の一番上に出た。(やぐら)のような屋根があり、立てば外の景色を一望できる。蝋燭の炎が消えないように燭台を隅に置くと、立ち上がり屋根から延びる細い鎖を引いた。

 風が髪を乱す。立てば胸の高さまである石壁がなくなるため、冷たい風が直に当たるのだ。頬を赤く染め、歯を食いしばりながら鎖を引き続けると、ランタンが降りてきた。それを鎖から外し、しゃがむ。

 ほうっと息を吐く。風が当たらないだけでも温かく感じる。ランタンの蓋を外し、底にある拳ほどの球体を手にする。白くなりつつあるそれを蝋燭に当てた。途端、炎の色を移すように、白い球体は赤へと変化していく。同時に持っている手にも温かみが伝わってきた。

 このくらいでいいだろう。

 均等に赤くなった球体は、焼き石のように温かい。しかし、やけどをすることはない。最後にカリンナは自身の髪を一本抜くと球体に結び付けた。そしてランタンに戻し、再び鎖につけると天井へと上げる。じゃらじゃらと鳴る鎖がぴんっと張ったとき、目映い光が世界を照らした。同時に、地平線から一条の光が昇る。

 今日も間に合ったようだ。

 ほっと息を吐きながら、海の果てを見つめる。カリンナの黒い瞳は、闇を払う光を映していた。


   ◇


 この小島には、天をつくような塔がある。

 いつ、誰が、どんな目的で建てたのか知らない。周囲を海で囲まれた小島に住む人間は、カリンナひとりだけだ。

 今日は月に一度の物資が届く日だ。蝋燭にマッチ、衣類、食料など生活に必要な物が届けられる。浜辺にいくつもの木箱が置かれているのだ。カリンナはこの日が一番楽しみだった。

 ――紙とインク、あと新しい本は入っているかしら。

 前回出した要望の品だ。師匠と暮らしていたときはよく要望が通っていた気がするが、最近は三回に一回通ればいい方である。

 軽く朝食を済ませ、長い髪を一つにまとめたカリンナは、しっかりと防寒した上で浜辺に向かった。

 この季節の海は荒い。穏やかなときを知っているせいか、カリンナにはなんとなく海が怒っているように感じる。

 今回はたくさん入っているといいな。

 期待に胸を膨らませていると、海鳥が騒がしいことに気づいた。見ると浜辺の一部に群がっている。何事かと近づけば、鳥は逃げるように羽ばたいていく。霧が晴れるように現れたのは、人。金の髪の少女だ。慌てて駆け寄るとまずは呼吸を確認した。

 息はしている。ぱっと見たところ外傷はない。

「ねえ、あなた。わたしの声、聞こえる?」

 声をかければ、瞼が震えた。わずかに開かれた瞳の色は、空と同じ色をしている。

 ――きれい。

 魅入っていると、砂がつき色を失った唇がわずかに動いた。「水」と聞こえた気がする。

「ちょっと待ってて!」

 カリンナは塔へと走った。


 少女はアリーと名乗った。

「助けてくれてありがとう」

 ベッドから上体を起こしたアリーは、カリンナに向かって深く頭を下げた。ウェーブのかかった金髪は、弱々しい蝋燭の火でも輝いて見える。カリンナの黒髪とはまったく違う。

 身を清め、濡れていた衣類を換え、水と食料を与え、十分な休息をとれば、彼女はあっという間に回復した。どんなに甲斐甲斐しく世話を焼いても、元気にならなかった師匠とは違う。

「元気になってよかったわ」

 心の底からそう言えば、アリーと目が合う。薄明かりの中でもわかる青い瞳が美しい。

「あんた、ここにひとりで住んでいるの?」

 ぐるりと周囲を見回したアリーが言う。

 窓のない石造りの部屋。ベッドとサイドテーブルの他は、文机と小さな本棚しかない。扉は格子状だったものに木の板を張り付けただけの簡素なものだ。内側から鍵を閉めることはできず、外側にだけ鍵穴がついている。

 囚人房、とアリーが呟いたがカリンナには聞こえなかった。

「そうだよ。前は師匠がいたけど」

 塔の中には無数の部屋がある。ほとんどは放置されているため使い物にはならず、部屋の中になにもないため、物置にしか使えない。

「その人は今どこに?」

 アリーがそう聞くのでカリンナは眉を下げて答えた。

「もういない。死んでしまったわ」

 カリンナは両親を知らない。捨て子であったカリンナを拾い、育てたのが師匠だと聞いている。螺旋階段を上がってすぐの部屋が師匠の部屋だ。たくさんの蔵書があり、カリンナは本から知識を得た。

「あら、あたしと似たような境遇ね」

 アリーは口元に微笑を浮かべる。

「あたしも本当の親を知らない。たぶん、親父――あんたの言うところの師匠が殺したんだと思ってる」

「え――」

 言葉を失っていると「それはいいんだ」とアリーは言った。

「そうだったとしても恨むつもりはない。だって今、あたしは食う物に困らないしぐっすり眠れる場所もある。今回はあたしがヘマしただけ。それに自由。これ以上なにかを望むのは贅沢でしょう?」

 そうはっきりと言い切るアリーは、とてもまぶしい。太陽のまぶしさとは違う。どちらかといえば、美しいものを見て惹かれる感情に近い。

 同い年くらいで同じような境遇なのに、育て親に対する感情は正反対だと思った。

 カリンナは組んでいた両手に力を込める。

 ――わたしは今も、師匠が怖い。

 黒髪だった師匠も晩年は白髪に変わった。高かった背も丸まり、顔も首も手も皺だらけ。でも、両目だけは猛禽類のように爛々と輝きを増していった。

 十歳くらいのときに、師匠から役割を受け継いだ。まだ幼かったこともあり、寒い朝は起きられず布団から出ることができなかった。そんなとき、師匠は細長い枝で何度もカリンナを叩いた。額を切って血が出たこともある。

 ――役目を放棄することは、許さない。

 髪を振り乱し、歯をむき出しにして怒鳴った顔は今も鮮明に思い出す。

 本当は入りたくなかったが、アリーにベッドを貸している今、師匠の使っていた布団を使う他なかった。

 まだアリーが目を覚まさないときに、そっと忍び込み、足が折れ静かに朽ちているベッドから布団を抱え持ち出した。かび臭く、薄っぺらい。それだけじゃなく、師匠の残り香が漂った気がして思わず足が止まった。

 日が沈むまで干した布団にくるまり、カリンナは横になる。もう寝ないと起きれない時間だ。

「海が荒れるからやめろって親父に言われたけど、この時期しか穫れない魚がいたから飛び出したの。結果、小舟は転覆。まだあたしが生きているって信じているなら、潮の流れや波の様子からきっとここに目星をつけてくれるはず」

「――そう」

 カリンナは微睡みながら返す。

 師匠以外に会う初めての人。自分と同じような境遇なのに全く違うことが胸の内をざわつかせる。

 ――早く迎えに来ればいいのに。

 カリンナは頭まで布団をかぶる。冷えた石床や扉の隙間風のせいで、眠気はまったくこなかった。


 ぱっと目を開けたとき、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。自分のものではない寝息に、昨日のことを思い出す。ゆっくり体を起こせば、体の節々が痛んだ。自分の体ではないみたいだ。腰も肩も首も痛い。動かせば呻き声があがる。それでも役目は放置できない。

 眠っているアリーを起こさないようにサイドテーブルから燭台を取ると、そっと部屋を出た。

 昨日と同じように階段を登り、屋上に出る。ほうっと息を吐けば、白い煙のように流れていった。凍てつく風を浴びていたときだ。

「なにをしているの」

 ぎょっと目をむいて声のした方を見れば、アリーの透き通った双眸がまっすぐカリンナを射抜いた。どうしたらいいのかわからず、固まっていると「困らせるつもりはないの」と言って屋上に上がってきた。ウェーブのかかった、豊かな金髪が風に乱される。しかし、彼女は楽しそうに笑った。

「結構見晴らしがいいわね! 遠くの海がよく見える」

 そう言ってアリーは、乱れる髪を押さえながら真剣な眼差しで遠くを見つめる。親父さんの姿を探しているのかもしれない。

 波の音が塔の上まで駆け上る。今からカリンナがすることをアリーに見せていいのか、必死に師匠の言葉を思い出す。だが、そうしている間にも日の出の時間は迫る。

 ああ、もう!

 役目を放棄するな――カリンナの心に刻まれた最優先事項は、部外者の対処ではない。急ぎ鎖を引きランタンを下げると、いつものように火を当てる。アリーが口を挟んでくるかと思ったが、彼女はなにも言わずカリンナのすることを眺めていた。

 ランタンを再び上げ、まばゆい光に世界が覆われたあと、目を覆い隠していた腕をおろしたアリーは少し考え込むように天井を見上げていた。

「……神の光の正体」

 アリーはぽつりとそう言ったが、どういう意味なのかカリンナにはさっぱりわからなかった。

 二人で朝食をとったあと、浜辺で貝を拾って戻り、暖炉のある部屋で暖まる。そのまま料理の準備をしようと立ち上がったカリンナをアリーは引き留めた。掴まれた手をいぶかしげに眺めれば「ごめん」と離された。

「痛かった? よく親父や兄貴たちから『お前は見た目はか弱い娘なのに、握力は強いし考えなしで突っ込むから手に負えない』って言われるの」

 当たっているから反論できないんだけど、としおれた様子で言うものだから、カリンナは笑った。

「全然痛くないわ。それにわたしは師匠がいなくなってから一人だったもの。アリーがそんなお転婆かどうかなんてわからないわ」

 そう返せば、アリーも笑う。そして唐突に笑みを引っ込めると「寂しくない?」と首を傾げた。

「全然」

 その返答が以外だったのか、アリーは目を大きく開いた。青い瞳がカリンナを捉える。

「少しだけ、親父や兄貴の気持ちがわかったかも」

 青い瞳はおもしろい物を見つけた子供のように輝く。カリンナはそんなアリーから目が離せなかった。師匠が一度もしたことがない表情をアリーはする。

「あなた、見た目と違って強いのね」

「強い?」

 揺れるカリンナの言葉に「そう」とアリーは強く返した。

「もしあたしがひとりで生きることになったら、寂しくてとてもできない」

「そう?」

 カリンナにとって一人は当然だ。それ以外を知らないからというのもあるだろうが、海からやってきた太陽のように溌剌とした少女から「強い」と言われて悪い気はしない。

 台所に行くのはやめて、アリーの隣に座る。もっと彼女のことが知りたいと思った。

「カリンナは塔の外に出たことがある? あ、海を渡って別の場所にっていう意味ね」

 カリンナは首を横に振った。

「ないよ。考えたこともない。ここには船はないもの」

 そう返せば、アリーはぎょっと目をむいた。なにかおかしなことでも言っただろうか。小首を傾げれば「あたしわね」とアリーは言う。

「船の上で暮らしているの。いろんな場所を転々と旅して巡るの」

 彼女の口から語られる話は、まるで冒険譚だった。行く先々で会った人々、頭を抱えてしまいたくなるトラブル、建築や調度品の違いなど聞いていてまるで飽きない。

「あたしがカリンナに会う前に行った場所ではね。朝日が昇る直前に神の光が世界を覆うんだって。その光が夜にやってきた悪魔を退け、人々が日中でも安心して出歩けるようにしてくれているんだってさ」

「あくま? かみ?」

 馴染みのない言葉だ。説明を求めるようにアリーを見れば、彼女はどこか悲しげな表情をしていた。

「神は悪いことをした人間には罰を与え、いいことをする人間には救いの手を差し伸べるもの。悪魔は人間に悪いことをさせようとするもの。どっちも目には見えないけどいるって信じている人は多いよ」

「ふーん」

 あまりぴんとこない。

 そろそろ食事の準備をすると言えば、アリーも手伝ってくれた。


 アリーと出会って、一ヶ月近くが経とうとしている。

 彼女と過ごしていると、時間もあっという間にすぎるようだった。しかし、アリーは違う。

 役目のために屋上に行く度、彼女は遠くの海を見つめる。その瞳に浮かぶ感情をカリンナは知らない。

 いつものように食事の準備をしようとして、カリンナは大変なことに気がついた。

「――食料が足りない」

「え! どうして」

 カリンナはアリーの質問には答えなかった。

 届けられる物資は常に一人分。今、この塔にもうひとりいることは誰も知らないし、いつもならやってくる伝書鳥も今回に限ってやってこなかったから、要望を出すことも叶わなかった。

「わたしのせいだ」

 ぽつりとそう言えば、アリーは「この食料はどうしているの」と尋ねる。定期的に物資が届くようになっていることを伝えれば、考えるように片手で顎を支えた。

「数日後には届く予定なのよね?」

「月の満ち欠けに狂いがなければそのはず」

「じゃあ、魚を捕りましょう」

「へ?」

 すっとんきょんな声を上げれば、カリンナは三日月のように口角をあげた。

「あたし、魚を穫るのうまいのよ」

 その言葉に嘘はなかった。太い枝先をナイフで鋭く尖らせると、アリーはズボンを太股まで巻くしあげて海に入る。水鳥のようにじっと動かないでいたかと思いきや、海に手作りの銛を突き刺す。たったそれだけのことだが、アリーは、何匹もの魚を捕まえていた。

 アリーだけにやらせるわけにはいかず、カリンナも見よう見まねでやってみたが、海は冷たく体の芯から冷え込む。かじかんだ手では力はおろか素早く動くこともままならず、結局一匹も穫れなかった。

「へっくしょん!」

「大丈夫? 今日はこっちで寝たら? なんなら一緒に寝てもいいよ」

「さすがにベッドが壊れるよ」

 そう言って二人で笑ったあと、カリンナは首を横に振った。

「大丈夫。寝れば治るよ」

 と強がってみたものの自信はない。悪寒は消えず、頭は芯から痛む。手足の先は冷たくて感覚がないのに、顔は火照っている。頭まで布団をかぶってみたが、寒さは一向に和らがなかった。

 翌朝。いつものように目を覚ましたカリンナは、起き上がろうとして自分の体が言うことを聞かないことに気づいた。それでも、役目は果たさなければならない。

 ふらつく足取りでサイドテーブルに向かえば、途中で力が抜けた。どんっという音は物が落ちた音か、その場に崩れ落ちた自分の音かわからない。

 冷たい石床に手をつき、立ち上がろうと力を込める。しかし、足は言うことを聞かず、目の前もぐるぐると回って見えた。

「カリンナ」

 ぽっと燭台に明かりがつく。肩に触れる温かな手が心地よかった。

「今日は休んだら?」

「そういうわけには、いかない」

 師匠の顔が脳裏に浮かぶ。しかし、立ち上がろうとしてバランスを崩した。咄嗟にアリーが支えてくれる。

「カリンナ、無理だよ。こんな体じゃ。気づいていないかもしれないけど、かなり熱が高い。この状態で階段を登るのは絶対無理」

「無理でもやるの!」

 カリンナは腹の底から叫んだ。

「役目を放棄することは許されないんだから!」

 口にしてはっとする。アリーを見れば、蝋燭の明かりでも驚いていることが手に取るようにわかった。

「――ごめん」

 これはわたしの問題だ。ぐらぐらする視界とだるい体、頭もいつものように動かない。

 師匠のように怒鳴るなんて、どうかしている。

 ぎゅっと唇を引き結んだときだ。

「あたしが行くよ」

 思わず顔を上げる。強い意志の宿った瞳が、カリンナを見つめる。

「それは――」

 いいのだろうか。わからない。だって今まで代わりにやってくれる人なんていなかったから。

「早くしないと夜が明けるよ」

 アリーの一言で思考をやめる。大事なのは役目を果たすこと。カリンナは髪に手を伸ばすと一本抜いた。それをアリーに差し出す。

「お願い」

 力のない声で頼めばアリーは「任せて」と言って寝台から立ち上がると、コートを羽織り、靴を履いて燭台片手に飛び出していった。

 ひとり残されたカリンナは、ベッドにもたれ掛かる。

 よかった――。

 張りつめていた糸が緩み、そのまま意識を手放した。


  ◇


 それから三日後。すっかり元気になったカリンナは、アリーと物資の入った木箱を塔の中に運び入れていた。

 これでまたしばらくは大丈夫。今日はアリーの好きな肉料理でも作ろうか、そう思ったときだった。

「カリンナ!」

 アリーが慌てた様子で駆け込んできた。浜辺にはあと一つ木箱が残っていたはずだが、そう思っているとアリーの背後から屈強な男たちがこちらにまっすぐ向かってくるのが見えた。体を強ばらせるカリンナとは対照的に、アリーは頬を赤くしながら言った。

「迎えが来たの。やっと、やっとよ!」

 飛び跳ねるアリーに、カリンナはかける言葉がでなかった。


「大変、お世話になりました」

 アリーの「親父」は、彼女の口から聞いていたよりもずっと知的な雰囲気をまとう男性だった。カリンナの知る大人は師匠だけ。しかし、アリーの身を案じ、ずっと探し続けた親父は、師匠まったく似ていない。

「兄貴たちも来てくれたんだ!」

 アリーが見上げる三人の男たちは、全員顔が似ていない。ただ、よく日に焼け鍛えられた体は共通している。

「この小島に入るのに手間取ってな」

「そうそうに目星はついていたんだけど、住人が行くなってうるさいのなんの」

 彼らの様子を横目に、アリーの親父から頭を下げられる。

 カリンナの胸には、初めてアリーと出会ったときの感情が思い起こされた。

 元々身一つだった少女だ。まとめる荷物はない。出会ったときと同じように、唐突に去っていくのかと思うと胸にぽっかり穴があいたような気がした。

 アリーがいなくなる。

 船に乗り込もうとする彼女になにを言えばいいのか、カリンナはわからなくて口を固く閉ざした。

「カリンナ」

 うつむいていたカリンナは、ゆっくり顔を上げる。アリーの青い瞳は、別れ際でも美しい。

「ねえ、一緒に来ない?」

 アリーはそう言って手を差し伸べた。親父と兄貴が驚いた様子でこちらを見るが、なにも言わない。

 カリンナは、じっとアリーの手を見る。その手を取ればきっとアリーが語ってくれた楽しい冒険譚にわたしも加わることができる。それはとても心惹かれる提案だ。

 でも――。

「わたしはここに残らなきゃ」

 役目を放棄することは許されない。師匠はそう教えたのだ。その生涯を通して。

 アリーの瞳が揺れる。それを見て、カリンナは一歩下がった。

「さよなら、アリー。あなたと過ごした日々はとても楽しかったわ」

 押さえたつもりだったのに声が震えた。下唇を噛み、口から出ようとする嗚咽を飲み込む。目にたまった滴がこぼれる前にカリンナは走った。アリーに背を向けまっすぐ塔に向かうと、自室に駆け込む。

 そして声を上げて泣いた。

 胸を張り裂けるような感情をどうやってなだめればいいのか。その方法さえカリンナは知らない。


 はっと目を開ける。数日前と違って、部屋はとても静かだ。忍び足になる必要もないのに音を立てないように注意してしまう。ふっと嘲笑がこぼれた。

 アリーから聞いた神と悪魔の話を思い出す。あのときはよくわからなかったが、アリーがいなくなった今、その気持ちがよくわかる気がした。

 ――わたしも、祈りたくなる。

 あのとき、役目を放棄してアリーの手を取れたらどれだけよかっただろう。

「いけない」

 呆けている場合ではない。アリーがいなくなった途端、朝起きるのが辛くなった。日の出前にランタンに明かりをともさないといけないのに、最近はギリギリだ。

 目を覚ました瞬間、役目を果たさないといけない思いと同じくらいに、自分はひとりなんだという現実に打ちのめされる。それが体を重くさせている原因だというのはわかっていた。

 階段を登り、屋上に出る。いつもと同じように鎖を引っ張ったときだ。鎖が鳴らす金属音とは違う音が聞こえた気がした。思わず手を止める。いつもと変わらない波の音。この時間、海鳥はまだ鳴かない。

 気のせいか。

 そう思って再び鎖を掴んだときだ。

 ――カリンナ。

 はっと振り向く。身を乗り出すように塔の下を見れば波に揺れる小さな明かり。吹けば消える蝋燭のようにか弱い光は、おそらく船だ。夜明け前に船を出す愚か者はいない。それにここに近づく船など、アリーを迎えに来た一度しか知らない。

 じゃああれはなんだ。

 わからない。けど、期待してしまう自分がいた。

 もたもたしていると朝日が昇る。しかし、カリンナの漆黒の瞳は必死に小さな光を見つめていた。

「カリンナ!」

 聞き覚えのある声をカリンナの耳はしっかりと捉えた。

「アリー!」

 身を乗り出し応える。明かりが激しく左右に揺れるのが見えた。手を振ってくれているのだ。

 どうしてここに、そう言おうと息を吸い込んだとき地平線から一筋の光が差した。

 朝日が昇る。ランタンはまだついていない。

「カリンナ!」

 空が明るくなる。アリーの金髪が遠くからでもわかった。

「もう一度言わせて!」

 波音さえ沈める声でアリーは言う。

「あたしと一緒に行こう!」

 ああ、とカリンナは頬に伝う涙を拭った。

 見上げた空は、きっと今日も透き通る青色だとカリンナは思った。




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