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酸素の見つけ方 2024.9

 昼休憩に入った女子更衣室は、幅広い年齢層の女性であふれている。いつものように誰に話しかけることも、話しかけられることもなく自分のロッカーにたどり着き、お弁当を取り出そうとしたときだ。隣のロッカーを開いていた同期が、私の方を見て言う。

「あのね、私仕事辞めるの」

 驚く私の顔を満足げに眺めながら「妊娠したから」と続ける。にっこり微笑む顔を見つめながら、それでも私は何も言えなかった。

 五十人にも満たない不動産兼ビルメンテナンス会社に、新入社員として入社してから十五年。十人いた同期も今では私と彼女だけで、二人ともいい年齢だと周囲に言われていたが、彼女は一昨年結婚し、妊娠し、そして辞めていく。

 少子化が叫ばれる昨今、大手だけではなく我が社も例に漏れず人手不足である。彼女が抜けた穴は、間違いなく私に振られるだろう。当然、給料は上がらない。馬車馬のように働く未来を告げられ、呆然としている私の背後から「え、そうなんですか! おめでとうございます」と割って入ってきた後輩の言葉で我に返る。慌てて「おめでとう」と口を動かすものの、なにがめでたいのか、さっぱり理解できない。

 後輩が「もう性別はわかっているんですか」などとたわいもない話で彼女を気持ちよくさせている。彼女が辞めれば、この後輩は一緒にランチを過ごす相手がいなくなる。だけど、そこに一抹の不満も見せない。「さすがだな」と思った。同時に私にはできない、とも。

 盛り上がる彼女らを置いて、私はさっさと更衣室を出る。

 入社したての頃、いろんな人から「同期は特別な存在だよ」「一生物の間柄だ」と言っていたが、実際そんなに大して特別なものでもなかった。辞めていった同期たちの連絡先はもちろん、来月辞める彼女のも知らない。今、どこで何をしているのか、興味もない。同じ職場という縁が切れれば、道行く人と同じ程度の存在になる。

 喉まででかかったため息を飲み込んだ。

 私も辞めちゃおうかな。

 何回目になるのかわからない感情が胸の奥から湧いてくる。けれども今までと同じように、家に帰ればスマホで転職サイトを開く気力すら湧かなかった。


 数週間後、新しい社員の子が入ってきた。私より十歳年下の彼女は、ハムスターみたいに小柄でリスのように目が大きい。

 ただでさえ忙しいのに、教育係に任命された私は、あまりの時間のなさに苛立っていた。もちろん、それを新人の子にぶつけるわけにはいかない。さすがにそのくらいのことは弁えている。だから彼女が「わからない」といいに来る度、ひきつった笑みで丁寧に教える。その傍らで私の業務量が増えていることを彼女は知らない。

 なのに――。

「私、風間さん苦手です」

 ロッカーに忘れた箸を取りに来たとき、新人の子の声が聞こえて、思わず身を隠した。

 同期が辞めてから、私はまともに昼休憩がとれた試しがない。デスクで昼食をとらなければ、ノー残業を謳って人を増やしたい会社の方針に添えないからだ。

「え、そうなの。仲良くやっているように見えるけど?」

 後輩は、元同期が辞めた後彼女とよくランチに行く。彼女の切り替えの早さに私は目を疑ったものだ。

「だって、全然話合わないんですもん」

 彼女が子供っぽく唇をとがらせている様子が目に浮かぶ。いい歳なんだから辞めた方がいいと思うものの、指摘したことはない。

「あの歳で彼氏なし、実家暮らし、お弁当つくってもらってるってやばくないですか? リアル子供部屋おばさんですよ? 私、初めて見ました」

 小動物のような人間から、動物園の珍獣のように語られる私。腹は立ったが言い返す言葉はない。事実だからだ。

 私はぎゅっと唇を引き結んだままデスクに戻った。

 思い出したくもないのに、彼女の言葉が何度も頭の中に響く。その度に体が強ばった。呪いをかけられたようだと思った。

 でも、私は知っている。ああいう輩は、地位と名誉を得た人間に媚びへつらう。

 そして私は、その一発逆転の可能性を持っている。だから今、馬鹿にしたければすればいい。

 将来、猫なで声で近づいてきても無視してやる。

 そうやって、私はまだ実現しない未来を思い描く。


 小学生の頃からマンガが好きで、月一回与えられる小遣いのすべてをマンガに費やしていた。「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるように、自然とマンガを描き始め、中学生の頃地元主催のマンガコンクールに入賞したこともあった。

 将来は有名な漫画家になって、アニメ化や実写化なんかしてお金持ちになるんだ。そう漠然と描いていた未来は――。

「いつまで寝ているの! 早く起きなさい」

 ぱちりと両目が開く。見慣れた天井。カーテンから差し込む明るい陽光。もう昼近くだろうか。あくび一つしながらぐっと背中を伸ばす。

 義務教育を受けていた頃とあまり変わらない日常。寝ぼけ眼のままベッドから降り、怪獣のような足音をあげながら階段を下る。居間に入った途端、大音量のテレビ音と納豆の匂いに顔をしかめた。

「朝、納豆嫌なんだけど」

「じゃあ自分で用意しな」

 母は洗濯かごを持って去っていく。冷蔵庫を開けたが、作る気力も湧かず、私は用意された食事を口にする。ふと、「やばいですよね」と言う新人の声が脳裏をよぎった。箸が止まる。

 と、居間から父の破裂したような笑い声が響く。

「うるさい!」

 怒鳴れば、しらけたような目を向けられる。それが余計に腹立たしかった。

 ――いい歳して家にばかりいて。早く結婚して出て行け。それが酔ったとき私に向けられる父の台詞だ。その度に金輪際、顔も合わせたくないと思うのだが同じ家の屋根の下に住んでいる以上、部屋から一歩も出ない限りそれはできない。であれば、一人暮らしをするしかないとまで考えがいくのだが、今の給料で一人暮らしをする際の食費、光熱費、家賃などの出費と物件探し、引っ越し作業、隣人とのコミュニケーションなどの手間を考えるとそこで思考が止まる。

 今の状態が一番いい、と私の脳はいつものように結論を下す。


   ◇


 待ちに待った夏期休業。学生のように長期の休みはないが、それなりにまとまった休みを得られる貴重な季節だ。

 二年前から足腰に痛みが走る父母の分も兼ね、墓参りは私一人が行く。学生の時と違い、皆老いた。平等に積み重なる時間を嫌でも感じる。

 墓地までの急な階段を上り、一息つく。辺りを見回せば、同世代くらいの夫婦や三世代で来ているところもある。

 いつもより騒がしいだろう墓地の中、さっさと墓周りの落ち葉や雑草を片づけ、花を飾り線香を添える。手を合わせ墓石を見つめれば、先祖代々の戒名と享年が目に入った。

 途端、申し訳なさが胸を突く。連綿と続いているこの血筋も私の代で途絶える。今更、結婚して子供を産むことは不可能だろう。

 ――強制的に結婚させられる時代だったら、私だって孫の顔を見せられたかもしれない。

 でも今はそういう時代じゃない。

 胸の奥が鉛玉を押し込まれたように重くなる。

 親孝行なんか、何一つできないばかりか血を絶やそうとしているのだ。

 精霊馬で帰ってくるご先祖様たちは、きっと私のことを憎んでいるんだろうな。

 私は逃げるようにその場を後にした。ここに来る度、墓終いの方法を調べないと、と思うものの結局まだ手元のスマートフォンで調べたこともなかった。


 テレビをつけると、毎年の恒例行事のように高速道路の渋滞映像が流れていた。混むとわかっているのに、どうしてバカの一つ覚えのように同じことを繰り返しているのか。理解できないと思いながら、DVDプレーヤーの電源を入れる。撮り溜めていたドラマとアニメを一気見するのが、長期休みの私の過ごし方だ。

 エアコンの効いた部屋はどこよりも快適で、歩いて十分ほどのところにあるコンビニで買ったお菓子や酒を片手に娯楽にふけるのだ。こんなに手軽に楽しめる物はない。

 冷蔵庫を開け、缶チューハイを探す。けれど見あたらない。

 飲み終わったんだっけ?

 記憶をさかのぼっていたときだ。

「あんた、たまには自分の部屋の掃除くらいやったら?」

 丸まった背中越しに睨まれる。ずいぶん老けたなと思いながら、掃除機を片手に立つ母のつむじを見下ろした。

「いい加減、少しは自分のことは自分で――」

 子供部屋おばさん、と新人の子の声が頭の奥から警鐘のように響く。

「うるさい、わかってるよ!」

 母の背中が一瞬だけ伸び、そして目つきがさらに鋭くなった。

「わかっているんなら――」

 それ以上、声を聞くのも嫌になって部屋から財布をひったくると、わざと大きな足音を立てて階段を降り、サンダルをつっかけ飛び出た。

 まるで反抗期の子供だと思って、また気持ちが沈む。

 夏の日差しは、刺すように鋭い。じわりと額から汗がにじむ。失敗したと思ったが、戻る気にもなれずゼンマイ式の歩行ロボットのように足は前へ進む。

 そのとき、みやおう、と甘えるような声が耳をついた。見れば塀の上に茶白の猫がいる。右耳から額にかけて茶色だが、顔や首は白い。琥珀のような瞳と目があった瞬間、猫はもう一度鳴いた。甘えるように、媚びるように、期待するように。

 ちっ、と舌打ちをして私は猫から離れた。

 愛嬌を振りまくだけで楽できるあんたたちとは違うんだよ。

 コンビニにたどり着いた途端、火照った体を冷やすように心地よい空気が私を包み込んだ。ほっと息をつきながら、缶チューハイを手に取る。昼もまだなのでお腹も空いた。何か食べようかなと壁際に並ぶ弁当を眺めていたときだ。

 どん、と何かがぶつかってきた。振り向けば、二、三歳くらいの子供が尻餅をつきこちらを見上げている。まるで私が悪いみたいな顔だ。親は一体何をしているんだ、そう思ったとき。

「すみません」

 慌てて駆け寄ってきた女が、転んだままの子供を立ち上がらせる。どうやら一部始終を見ていたらしい。

「いえ、大丈夫です」

 そう言って離れようとしたときだ。女がばっと顔を上げた。私と目が合った瞬間、かっと大きく開く。

「え、あ、めっちゃ久しぶり!」

 人違いです、という言葉が喉まで出掛かったところで思い出す。小中学のときの同級生だ。あの頃の記憶が濁流のように脳内を駆けめぐる。同じ班になったこともあったし、部活も一緒でそれなりに言葉を交わした。でも、高校は別々だったし、家も遠かったのでそれっきり疎遠になっていた。

 今どこでなにをしているか――互いの空白の期間を埋めようと、昔の顔なじみに会えば必ず交わされる情報交換だ。

 私はそれが唾を吐き出したくなるほど嫌だった。

「お盆だから、旦那と一緒に実家に帰ってきたの」

 そう言いながら、子供を抱き上げる。親指をしゃぶったまんまる顔の子供は、大きな瞳で私を見た後、すぐに女の首にしがみついた。

 たったそれだけ。

 たったそれだけで、卒業してからの空白期間、目の前の同級生は今の自分の立場を示す。

 私は無理矢理笑った。「そうなんだ」とひきつった笑いを浮かべてどこかに逃げたかった。

 この国は、ただ生きているだけを「善し」としない。学生だった頃はみな同じに見えたのに、卒業し、社会に出たあと何かを得ることを求めてくる。目の前の女も同じように。

「今、何しているの?」

 私は今、うまく笑えているだろうか。筋肉がこわばり、頬が痙攣し始めた。彼女の余裕綽々とした態度が腹立たしい。私には「何もしていないじゃない」と嘲笑っているようにしか見えなかった。

 仕事をしているのは当たり前、ある程度年齢を重ねれば、結婚していることが当たり前、結婚すれば子供がいることが当たり前。――その当たり前から私は外れて生きている。真綿を喉に詰め込まれた気分になった。

 さっさとこの場から離れたくて仕方がない。目の前の女を見ていると、どんどん首を絞められる気分になる。

「ねえ、まだマンガ描いているの?」

 唐突に彼女は言う。私がマンガのコンクールで賞をとったとき、「すごいね」と瞳を輝かせ誉めてくれた姿が脳裏をよぎる。

「――そうだね」

 何者でもない、子供部屋おばさんとなっている私に残された、唯一の希望の欠片。あの頃思い描いていた未来に期限はない。今からでも有名な漫画家になって、彼女らから羨望の眼差しを向けられるのも夢ではない。

 でも――。

「そっか。楽しそうでいいね」

 彼女はそう言って唇の端を上げた。あの頃のように瞳に輝きはない。子供の戯れ言を聞く大人のような余裕に、私は胸を抉られた気分だった。

 楽しそう?

 絵を描くことは楽しいだけじゃない。それを楽しそう?

 心が静かに凪いでいく。彼女と私の間には、決定的な溝ができていた。私は今更それに気づく。もう互いに理解し合えないと察する。

 ――馬鹿にしやがって。

 最悪の気分で家に帰れば、居間の襖がぴたりと閉め切られている。母はかなりの貧乏性で「エアコンは室内が三十五度を越えない限りつけない」と体調よりも微々たる電気代を優先させる。何度「お金より命が大事」と諭しても聞く耳を持たなかった。この家では、母の言うことが絶対だ。父は文句を垂れながらも暑い部屋で扇風機にあたりながら過ごしている。

 私は思わず首を傾げた。確かに外は暑かった。でも、朝見た天気予報通りならば、室内が三十五度を越えることはないはずだ。

 とうとう熱中症にでもかかったのかと思って、襖をあければ、にやおうと甘えた声が刺さった。

「ああ、帰ってきたの」

 母の態度はそっけない。だが、それよりも――。

「なに、この猫」

 いや、私は知っている。茶白の猫はさっき塀の上で目があったものと同じ猫だ。

「のんちゃん」

「いや、名前なんかどうでもいいんだけど」

 冷え切った私の声に母は仕方なさそうに答えた。

「この辺に住んでいる猫。去勢されている猫で近所の人たちで可愛がっている猫なんだけど、こういうの地域猫って言うんだってね」

 心底どうでもよかった。私は猫を睨みながら問う。

「どうしてエアコンついてるの? 三十五度超えてないでしょ」

 すると母は、驚いたような顔で私を見た。

「だって暑い中、可哀想でしょう?」

 何が、とは聞かなくてもわかった。

 どこをほっつき歩いているのかも知らない汚い猫を家の中に招き入れ、人が暑い暑いと騒いでもつけないエアコンをつけもてなしている。

 なんとまあ、図々しい。

 何となく新人を彷彿させ、私は蹴り飛ばしたくなった。ぐっとその気持ちを飲み込み、階段をあがる。冷蔵庫に入れ忘れた缶チューハイが、ビニール袋の中で私の顔そっくりにびっしりと水滴をつけていた。

 私はベッドに倒れ込むと、枕に顔を押しつけた。

 猫もうまく媚びて楽して生きているのに、どうして人間である私はこんなに生きるのが下手なんだろう。

 もちろん、世の中には私と似た気持ちの人なんて、腐るほどいるのだろう。でも、私は私のことしか知らない。自分のことだけで手一杯だ。

 コンビニで会った同級生の作り笑顔が瞼に浮かぶ。

 ――このまま馬鹿にされたままでいられるか。

 私は飛び起きると、ベッドの下にしまい込んでいた埃だらけのスケッチブックを取り出した。さらに奥まで手を突っ込み、マンガの描き方、人物の描き方という本を掘り出す。

 懐かしいな、とパラパラと頁をめくり閉じてスマホを開く。少し休憩してから描こうと思っていれば、いつの間にか日は暮れていた。

 私は、自分に絶望した。

 あの頃のように、夢中で絵を描く自分はもうどこにもいなかった。


   ◇


 連休明けほど、億劫な朝はない。

 どうして仕事をしなければならないのだろう、とアラームを憎々しげに止めながら思う。時間と自分の気持ちと折り合いをつけながら支度を始める前に、いつものようにスマホに手を伸ばした。ネットニュースを眺めていた私は母の「早くしなさい」という声で渋々起きあがる。

 行きたくない。

 でも、行かなければ文字通り本物の「子供部屋おばさん」になってしまう。それだけは避けなければならない。

 新人の意地悪な声が、同級生の冷たい笑みが、野良猫の見下す瞳が、さらに濃くなることだけは避けなければならない。

 やっぱり、仕事は毒だ。

 会社帰り、私は吐き出しそうになるため息を飲み込んだ。久々の業務だからかミスをして上司に怒られたのだ。向いてないのかな、と何度めかわからない問いを自分にかける。家に帰ったら転職サイトでも調べてみようと、いつもと同じ流れに至ったときだ。

「お待たせ、猫ちゃん」

 家の方からそんな声が聞こえた。目をやると、窓を開き小さな子供と一緒に母親らしき人が皿を片手に出てきた。

「猫ちゃん、ご飯だよぉ」

 舌っ足らずな声が続く。薄暗いがわかる。あれは先日居間で涼を得ていた野良猫だ。丸まった背中が、わずかに上下に動く。食いっぷりがいいのだろう。親子の楽しげな声が響く。

 途端、私は無性に死にたくなった。

 人間として生まれたくせに、何もしていない、できていない自分が無性に恥ずかしくなった。逃げるようにその場から去る。けれど、にやおうという甘えた声が耳の奥から聞こえ、愛嬌を振りまく強かさが目を閉じる度によぎった。

 自然と涙がこぼれる。空しさで押しつぶされそうだった。


 翌日もいつも通り出勤する。家と会社の往復。変わらない人間関係。変わらない生活。

 きっと、天変地異でも起きない限り、この生活が幸福だと思うことはない。テレビ越しに紛争地域の映像や、過去の戦争の記録を見れば、そのときだけは「私は幸せな生活を送っているのだ」と今の生活にありがたみを感じるが、テレビを消せば忘れる。結局その程度の物だ。失わないと気づかないとよく言うが、失う前から本当に大切にし続けることができる人はどのくらいいるのだろう。目には見えないから、計ることはできないけれどきっとそんなに多くはないだろう。

 変えたい、と思う。けれど変え方がわからない。

 少しずつ仕事を覚え、戦力になりつつある新人とはあまり言葉を交わさなくなった。その代わり、後輩とよく一緒にいるのを見る。事務所に二人の笑い声が響く度に、私は身を縮ませた。

「そう言えばこの前潰れた喫茶店、なんか個人書店になっていたんですよ。部長行きました?」

 帰宅途中、通りすがりのサラリーマンらしき二人組の会話が耳に入る。もしかしたら、これが人生を変えるきっかけになるかもしれない。

 久々に本屋にでも行ってみるか。

 気になる本でもあれば買おうかと思っていたが、個人書店は大型書店より小さな敷地内で営業されている。品揃えはお世辞にもいいとは言えなかった。

 ただ、入っておいて何も買わないというのも申し訳ない気がして、マンガに手を伸ばす。だが、触れる前に手を引っ込めた。

「ありがとうございました」

 店員の声を背中で受けながら、私は書店を出る。結局買ったのは「人生の変え方」という自己啓発本だった。

 脳裏に新人と子供を抱えた同級生が浮かぶ。

 ――今に見てろよ。

 私は現状から抜け出し、あいつらが羨む人生を送ってやるんだ。

 むくむくとわき上がる気持ちを押さえつけながら家を目指していれば、前方からやってきた車が不自然な動きをした。ライトが私を照らす。その眩しさに思わず足を止めた。

 風のように過ぎていく車を睨む。お前も私を馬鹿にするのか。だけど、その後に続いてやってきた車も何かを避けるように動いた。もう夏の盛りは過ぎたとはいえ、日はそこそこ長い。熾火のように空に残る赤色が、わずかに世界を照らす。

 私がそれを確認するには、十分すぎる明かりだった。

 死体だった。猫の死体。まだ牽かれたばかりなのか、道路上に延ばされた血がテカテカと光っている。

 なんだ、猫か。

 別に珍しくもない。

 ただ、じっと見ていたいものでもないので、早々に目を反らそうとしたとき、私は猫の顔を見てしまった。

 のんちゃん、と言う母の声が蘇る。

 あれは、近所で可愛がられていた野良猫だ。

 私は思わず足を止めた。

「お前、死んだのか?」

 当然、返事はない。もちろん、似たような猫だってたくさんいる。のんちゃんと母に呼ばれていた猫という確証はない。

 でも、ひゅっと木枯らしのような寂しい風が胸を突き抜けていった。私よりも愛想がよく、それを武器に楽をして生きていたたくましい野良猫のあっけない最期かもしれない。そう思ったら、生きることの楽しさが益々わからなくなった。

 呆然と立ち尽くしていると、「ママ、なにかあるよ?」と舌足らずな言葉が聞こえた。

「見ちゃダメ! ほら、あっち見てごらん。お月様だよ」

 私は彼女らに見覚えがあった。

 先日、庭先で餌をやっていた親子だ。

 あそこで死んでいるのは、あんたたちがこの前餌を上げた猫じゃないのか!

 そう言ってやりたかったが、そんな度胸は私にない。

 母親は、明らかに猫の死体を嫌悪している。汚いものとしか見ていない。餌をがつがつ食べる猫をなでる子供。その子供に向かって「かわいいね」と言ったあの時間は、一体なんだったのか。

 ふっ――。

 私は笑った。コンビニで会った同級生と同じように、唇の端を上げて笑った。

「結局、みんな同じだ」

 自分が、自分の大事なものが、何よりも一番なのだ。だから自分より劣っている存在を見ると安心するし、同情する。情けをかければ、慈悲深い自分に酔いしれる。周囲が誉める。また、自分の評価があがる。人間の人生としての評価が。

「馬鹿馬鹿しい」

 肩で空気を切るように歩く。目に入る人間、すべてが自己評価を上げるため他者を利用する非道な人間に見えた。道路で横たわる、無惨な猫の死体が脳裏をよぎる。

「死んだらそんな優越感、全部消えるっていうのに」

 玄関を開け、靴を脱ぐとまっすぐ自分の部屋に向かった。鞄から買ったばかりの本を取り出すと、ゴミ箱に放り投げた。

 私の暮らしは、猫から見れば最高のものだろう。衣食住が確保されている暮らし。たったそれだけで、幸福な人生のはずなのに。

「どうして正しい人生を歩まなきゃって思うんだろう」

 そもそも正しい人生とはなにか。人に誇れる人生が、正しい人生なのか。

 この世の中に漂う「常識」が、私には重すぎる。

 私は深く息を吐いた。

「窒息しそうだ」

 そして、スマホを取り出すと検索画面を開き、入力する。

 けれど、私の欲しい答えは最先端の万能機でも見つけることができなかった。







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