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龍神様のお導き 2024.6

「――なんてこった」

 かろうじて絞り出した声は誰の耳にも届かない。

 大地が割れるのではないかと思うほどの轟音と地響きが起きてから早三日。出歩くことができないほどの豪雨が弱まり、ようやく様子を見に来た村人たちは絶句した。

「誰か! 誰かいねえのか!」

 張り上げた声はむなしく響くだけだった。膝まで泥につかりながらやってきた男たちは、顔についた泥を手ぬぐいで拭うこともせず、ただ呆然と眼前を見つめる。

 (りゅう)門山(もんざん)と呼ばれる山には、四つの集落がある。そのうちのひとつ、南側にあった村が土石流に飲み込まれていた。木々の根が空を向き、見たこともない大岩が、切らずに鍋に放り込まれた野菜のように転がる。湿った土の匂いしかしなかった。川の水のように流れ、止まった土砂しか目に入らない。人の気配はおろか、そこに人が住んでいた形跡など一切なかった。

 様子を見に来た西野村(にしのむら)のひとりが、静かに泣き出した。その声は次第に大きくなり、そばにいた者が慰めるように肩を抱く。この村に妹夫婦が住んでいた男だ。

「龍神様は、なぜ、このような!」

 男の慟哭が、静かに降る雨の中響いた。龍門山に住む人間は皆、この山に住むといわれる龍神を厚く信仰している。山の中腹には、神の社――高宮(たかみや)と呼ばれる場所がある。高宮をまとめ上げるのは神師(じんし)と呼ばれる神職者で、龍門山にある四つの集落の村長と同等、またはそれ以上の発言力を持っている。

「神師様にお伺いしてみよう」

 誰も口にはしないが、心の中で思っていることは一緒だ。龍神様は雨を司る大神だ。日照りのとき、村人は水を求め、大量の野菜や米、山菜や果物、神酒を供える。水は生きるのに必要不可欠なものだ。

 しかし、今回は違う。これでもかと雨は降り、木々をなぎ倒し土砂をひっくり返した。

 これは龍神様のお怒りだ、と村人たちは皆思っている。

 そのときだ。

「おい、あれを見ろ」

 はっと顔を上げた男たちは、声を上げた者が指さす先を見る。今にも止みそうな雨の中、薄い雲の切れ間から差し込む光が、場違いな青紫の群生を照らしていた。

「草藤か」

 ぬかるむ足下に気をつけながら近づく。土砂が何もかも飲み込んだすぐそばに咲く青紫の花は、村人たちをほんの一時現実からそらす。雨に濡れた葉は瑞々しく、光を浴び輝いているようだ。藤のような花を咲かせる草藤の青が美しい。

 なにもかもが土石流に飲まれたわけではない、そう感じ取ったときだ。

「おい! 赤子がいるぞ」

 群生に近づいた男が叫ぶ。

 葉についた滴が光を帯びる中、その赤子は裸体のまま眠っていた。草藤の柔らかな葉と花が赤子を守っているようにさえ見える。

 体に怪我ひとつなかった赤子は、南下(なんか)(むら)の生き残りとして西野村に引き取られた。(ふじ)(つゆ)と名付けられた女児は、子供のいない夫婦が我が子のように愛情をそそぎ育てた。


   ◇


「今日は風が強いわね」

 巫女装束を身にまとった若い女が、片手で箒を持ちながら空いている手で髪を押さえる。空を見上げれば一雨来そうな、鼠色の雲が迫っていた。

 高宮に仕える巫女は、周囲の木々から雨のごとく舞い踊る葉を見てため息をつく。

 巫女頭から境内の掃き掃除を命じられたが、この様子では掃除をしたところで意味がない。

「うう、寒い」

 巫女はぶるりと身を震わせる。夏の暑さはとうに過ぎ、社を囲む木々の葉は色鮮やかに染まっている。ここより下にある村々は、ちょうど秋の収穫をしている真っ最中のはずだ。しかし、ここは山の中腹。冬はどこよりも早くやってくる。

 巫女は再び空を仰いだ。

 降り出した雨が雪になるのはそう遠い日ではない。

「今年はただでさえ蓄えが少ないのに」

 今春、南下村が壊滅したのは記憶に新しい。高宮は、村人の信仰心があって成り立っている。村がなくなることは、高宮の存続にも関わる。

 ――ただでさえ、ここは人が増えているのに。

 巫女は吐き出したい言葉を胸の中でつぶやく。

 高宮をとりまとめる神師を始め、その妻と生まれたばかりの赤子、そして彼らに仕える巫女十三人。

 神師とその子を除き、女性しかいない高宮は常に男手が足りない。そのくせ、〈龍神様のお導き〉で毎年巫女が増えるのだからたまったものではない。

 ――神師様が女の子を連れてくる度、巫女頭が頭を抱えるのよね。

 今年の冬はお腹いっぱいになる日はないかも、と思いながら視線をあげたときだ。

 門扉がわずかに開いていることに気づいた。

 高宮は傾斜面にある神域だ。周囲は深い森に囲まれ、ところによっては岩肌がむき出しになっている。高宮に入るには、転げ落ちそうなほど急な長い階段を登り切らなければならない。正面門は、階段を登りきった者が最初に足を踏み入れる場所だ。上り龍と下り龍の彫刻がある木造の門には、男が五人いてようやく開けられそうな大門が構えているが、それは神のみが通る門であり人が開け通ることはない。

 人が通る門は、その脇にある。人ひとりが通れる程度の小さな門だ。その門扉は普段閉じられている。門扉が開いていることは、参拝客がいるということだ。だが、そんな話は聞いていない。

 夜明けと共に内鍵を外し、日暮れと同時に鍵を閉める門だ。今は鍵が開いている時間だから、誰か来ていてもおかしくはないのだが。

 巫女は生唾を飲み込んだ。

「か、風のいたずらよ」

 箒の柄を強く握り、茶化すように声を張る。恐る恐る足を運べば、開いた扉のそばに何かあるのが目に付く。腕で抱えられる程度のそれは布に包まれているせいか、巨大な繭のように見えた。

 巫女が眉をしかめた瞬間、「あ、あ」という声が耳元で聞こえ、思わず悲鳴を上げた。腰を抜かした巫女は頭を抱えながら叫んでいたが、すぐに重なる声に気づいた。口を閉ざした巫女は、耳を押さえたままくいっと顔を上げる。ゆっくり立ち上がると、恐る恐るその繭の元まで近づいた。

「……どうしてこんなところに」

 顔色を変えた巫女は、繭をしっかり抱き抱えると布を少しだけはがす。すると、真っ赤な顔をした赤子が現れた。

 よしよし、とあやしながら巫女は冷たい風から守るように強く抱き抱え、捨て子を社まで連れて行った。


   ◇


()(すけ)、森の木の枝が境内まで延びてきたから切ってくれる?」

 喜助と呼ばれた十歳くらいの少年は、無言のままうなずいた。木登りは、落ち葉を掃くより好きな勤めだ。育ての親である巫女たちの中には、「まだ危ないんじゃないの?」と口にする者もいる。だが、どうして危ないのか理解できない。

 視線が高くなり、頬や髪をなでる風はここでは味わえない。

「神師様が、将来の男手用として育てることを許可してくださった子よ? こういうときに使わないでどうするの?」

 薄情な巫女がそう言うのは正直気にくわないが、木登りは嫌なことではない。さっさと巫女たちのいる一室から離れ、納屋で必要なものを準備し、喜助は木に登る。

 高宮の周囲にある木は、大人が三人手を繋いでも囲えないほど太い。ましてや急斜面のため足場は悪く、一歩間違えれば命の危険もある。だが、喜助は幹に足をかけ、一気に枝まで登ると、太い枝に跨がった。

 さらっと後ろで一つに束ねる髪が流れる。

 村では桜が咲くようになったという話を聞いたばかりだが、高宮の桜はまだ蕾もつけていない。巫女たちは寒い、寒いと火鉢に寄っては動かないでいる。だが、喜助にはこの頬に当たる風が、火照った体を冷やす川水のように心地よかった。

 喜助は太い枝に跨がったまま、先端の方へ移動する。手を伸ばすように延びる枝に鉈を振り上げた。子供の力ではすぐに切ることはできず、喜助は時間をかけて枝を切っていく。新芽が生えてきたら、枝を切るのも容易ではない。だが、日射しが強くなる夏、巫女たちの目を盗み昼寝をするにはもってこいの場所だ。

 遊び相手のいない喜助にとって、森は絶好の遊び場であり、唯一自由になれる場所だった。

 もう少し暖かくなったら、筍を取りに行こうかと考えていたそのとき。体重をかけていた片腕がするりと滑った。あ、と思ったときには手は空を切り、体がゆっくり傾げる。まずいと頭でわかっていても体がそれに反応できず、天と地がひっくり返るのを見ているしかなかった。

 喜助が一番好きな巫女の言葉が耳元でよみがえる。

「いいですか、喜助。貴方はなんでも器用にこなしてしまうからこそ、警戒心が足りません。ちょっとした油断が命取りになるのですよ」

 そのときは、わかったつもりでいたが今になって全くわかっていなかったのだと知る。

 姉と呼べと言ったその巫女の顔が、喜助の脳裏に浮かぶ。

 ――ごめん、姉さん。

 ぎゅっと目を閉じ、想像絶する痛みに備えた喜助は、天に向かって引っ張られた腕に思わず目を開けた。

「なんとか間にあった!」

 見知らぬ少女が、喜助の腕を掴んでいた。均衡を取り戻した体は、すぐに支えを求め少女の手から近場の枝に掴まる。心臓が早鳴り耳元で鼓動する。真っ青で動けなくなった喜助の前に、少女は身軽な動きで移動する。

「大丈夫?」

 ぷらぷらと枝から投げ出した足を揺らしながら、少女は顔をのぞき込んできた。

 大丈夫だと言いたかったが、喜助の口から言葉は出なかった。ぎゅっと唇を堅く結んだが、目からは涙がこぼれる。見知らぬ子に情けない姿を見せたくなくて、とっさに顔を背ける。が、堅く引き結んだはずの唇から嗚咽がこぼれた。

 必死に耐える喜助に、少女は母親の真似をしているのか「よしよし」と頭をなでてきた。

 しばらくして二人は地面に降り立った。

 赤く腫れた目が映すのは、喜助と同い年くらいの大きな目を持つ少女だ。木登りだけではなく、野山を駆け回っているのか、着ているものも履いているものも汚れやほつれだらけだ。

 ――村の子だろうか?

 喜助は不思議に思いながら、手の甲で両目をこすり、深く頭を下げた。

「助けてくれてありがとうございます」

 喜助はこの高宮から離れることはできない。生涯をかけ龍神様に仕える身だ。巫女たちの躾の賜物か、喜助はその歳の子にしては丁寧な所作と言葉使いを身につけている。

 少女はきょとんとした顔で喜助を見ると、口の端をにいっとあげた。

「当然のことをしただけよ」

 少女は胸を張ってそういうと、喜助の背中を何度も叩いた。

「まあ元気だして。猿も木から落ちると言うし、多少痛い目にあった方が、そう簡単には死なずに済むとばあさまも言ってたから」

 喜助は少女の手が届かない場所まで離れる。叩かれた背中が痛い。地面に落ちた鉈を拾い、喜助は不思議に思ったことを口にする。

「どうして貴方はこんな場所にいるですか?」

 ここは村人も立ち入らない森だ。それなのに、喜助と同い年くらいの少女がひとりでいるのはおかしい。遊び場にするには何もない場所だ。それに喜助は助けられるまで少女の存在に気がつかなかった。

 ――村の子供はみんなこうなんだろうか?

 喜助よりも木登りが上手で、俊敏に動き、足場が不安定な枝の上でも人を助けるくらいの余裕を持つ。

 参拝に来た村人を遠巻きに見ることしかできない喜助は、同い年くらいの子供との交流が今までない。

 好奇心からの質問だったが、少女は「なにか変?」と逆に問い返してきた。言葉に詰まる喜助に少女は「藤露」と言う。それが何を指すのかわからないでいると「あたしの名前」と少女は笑った。

「あなたの名前は?」

 答えるのが常識だぞ、と言われた気がして、喜助も応じる。

「わたしは、喜助と申します」

「喜助、か。いい名前ね」

 そう言って藤露は再び喜助の背中を叩く。加減を知らないのか、肺にまで届く衝撃はなかなか辛い。

「ここで出会ったのも何かの縁。――ねえ、あたしと友達になろう」

「――とも、だち?」

 聞き慣れない響きの言葉だが、意味は知っている。ただ、自分には無縁のものだと思っていたせいか、いざそう言われると嬉しさとこそばゆさで頬が蒸気するのを感じた。

「ただし、あたしたちが知り合いだということは、まわりの人間には秘密」

「なぜ?」

「その方がおもしろいじゃない?」

 藤露はそう言って楽しそうに笑うが、喜助は眉をしかめるだけだった。それを見かねた藤露が念押しする。

「絶対に言わないでよ」

 こくりとうなずいた喜助だが、どうやらまだ藤露の信頼を得ていないらしい。藤露はしばらく試すような視線で喜助を凝視していたが、ふいに目を落とした。ほっと安堵の息をつく暇もなく、藤露は喜助の顔の前で小指を立てた。

「指切りをしましょ」

 何を言っても聞く耳を持たないだろう少女の強い瞳を前に、喜助は心の内で息を吐くと指を絡ませた。

「これも龍神様のお導きね」

 それから七年。藤露と喜助は秘密の友達を続けていた。


   ◇


 薪割りをし、境内を清め、床の修繕と食料庫の整理整頓を終えた喜助は、厨房で夕食の準備をしていた巫女に呼び止められた。喜助を一番可愛がってくれている巫女、姉さんだ。

「ちょうどいいところに来たわね、喜助」

 そう言ってちょっとだけ漬け物を分け与えてくれる。「おいしい」と声を潜めて伝えれば、巫女はにこりと笑った。

「こんなに小さかった喜助が、今じゃ私の背を抜くほど大きくなって――月日が経つのは早いわね」

 巫女が感傷にふけていると「口じゃなく手を動かしなさい」と年配巫女が注意した。慌てて従順な返事をした巫女だが、すぐに小さく舌を出して反抗的な態度を見せる。巫女と喜助は、互いに顔を見合わせ静かに笑う。

「喜助」

 突然現れた巫女頭に、二人は慌てて表情を引き締めた。刺さるようないぶかしげな視線を流していれば「神師様がお呼びだ」と言う。

「神師様が?」

 巫女たちを呼ぶことはあっても、喜助に声がかかったことは一度もない。目を丸くする喜助とは対照的に、巫女頭の顔には何の感情も浮かんでいなかった。

「準備を終えたら奥の間へ」

 それだけ言って巫女頭は去っていく。呆然と立ち尽くす喜助より早く巫女が言う。

「大変! 喜助、早く準備をして行きなさい。神師様を待たせてはいけないわ」

「そう、ですね」

 喜色の声をあげる姉巫女に生返事をしながら、喜助は胸の内に沸く不穏さをぬぐい去ることができないでいた。

 神師には息子が一人いる。本当は、神師の血を引く子は五人いるらしいが、女児は生まれ手間もなく巫女として扱われるため、実子として数えられないらしい。

 そんな話を巫女たちが声を潜めてしていた記憶がよみがえる。そのときは噂話程度に聞き流していたが、おそらく本当のことだと神師と直接話をして思う。

 生まれたときから高宮の下男のような立場である喜助は、神師の言葉に逆らうことはできない。ここでは、龍神様ではなく、神師様の言葉がすべてだ。

 ――あまり、気乗りしないな。

 自室に戻った喜助は、短く息を吐く。巫女たちが何も聞いてこないのも気落ちしている原因だ。

 夜中に厠へ向かったとき、白い狐が庭を通り過ぎたとか、前髪を切りすぎて参拝者に笑われたとか、台所で鼠が出て大騒ぎになったとか、日常の些細な話を好む巫女たちだ。喜助が神師様になぜ呼ばれたのか、気にならないはずがない。

 だが、ここは高宮だ。

 巫女たちは村に住む女とは違う。神師様の命には絶対に従う。強いてはそれが龍神様に仕えるということだからだ。

 ――でも、聞いてほしかったな。

 神師様に何を言われたの、と。

 神師は喜助に次の新月の晩、西野村に行くよう命じた。そこで柿木に囲まれた家の庭に獣の血をまけというのだ。それが一体何を指すのかわからない。けれど、一人息子のためだと神師は言った。

 喜助より二歳年上の次期神師は、和宮(かずのみや)と言う。村の人間なら嫁を得る年頃だろう。喜助が嫁や子供を得られる可能性は無に等しいが、和宮は違う。次期神師として高宮を背負わなければならない。

「浮かない顔ね、喜助」

 木に登り、風に当たりながら無心になっていれば、聞き覚えのある声が沸いてきた。視線を落とせば、何かが飛んでくる。咄嗟に掴んだそれは、甘い香りが漂う枇杷(びわ)だ。口に入れれば、香りに負けない甘い果汁が口いっぱいに広がった。

 年頃の娘だというのに、藤露は男物の着物を身にまとい、出会ったとき同様慣れた動きで木に登る。藤露が近くの枝に腰掛けたところで喜助は口を開いた。

「藤露、お主も一応年頃の女子だろう? 縁談話はないのか?」

 秘密の友人を続けているうちに、喜助の藤露に対する態度は巫女たちとは違うものへ変化したのだが、本人は気づいていない。

「なに? 気になるの?」

 藤露は枇杷を口に入れながらくすりと笑う。

「きっと、龍神様が導いてくれるわ」


   ◇


 新月の夜、喜助はひとり村まで降りた。星明かりのみを頼りに階段を下り、神師様の言っていた家を見つけるのは苦労したが、言われたことを完遂することはできそうだ。

 喜助は、鶏の血を家の周りにまく。ただの嫌がらせにしか思えないが、神師様の命じたことだ。疑問を持つだけ無駄だと思い、考えることを放棄した。

 夜が明ける前に高宮に戻った喜助は、静かに床についた。うつらうつらしている喜助の瞼に映ったのは、大きな口で笑う藤露の姿だった。

 それから間もなく、西野村の村人たちが五人、高宮の門をくぐりやってきた。境内で薪を運んでいた喜助は、ただの参拝者ではないと悟る。五人は皆男で、顔立ちも年齢も異なっていたからだ。

 彼らは巫女に神師様へお目通りを願い出ていた。聞き耳を立てていれば「龍神様の血が降った」と言う。

 ――龍神様の血?

 喜助の脳裏に昨夜のことがよみがえる。ただ、あれは龍の血ではなく鶏の血だ。喜助が妙な不安にかられていると、神師が村人たちの前にやってきた。

「では、その家の娘を高宮に迎え入れましょう」

 神師がそう言えば、村人たちは堅い表情のまま言う。

「しかし、あの家の娘は血のつながった親子ではありません。それでも龍神様はよいのでしょうか?」

「すべては龍神様がお決めになること。娘の出自など些細なことに過ぎません」

 神師は「準備して参ります」と言って、彼らに背を向ける。神師様が社に入ったあと、喜助を呼ぶ巫女の声で我に返った。早足で向かえば「神師様がお前をお供に連れて行くとおっしゃっていましたよ」と伝えられ、喜助は慌てて自室に戻り着替える。訳が分からないまま、喜助は先導を行く村人と神師様の後を追うように、朝方登った長い階段を再び降り始めた。

「こちらでございます」

 先導を歩いていた村人のひとりが、とある民家の前でそう言った。龍神様の血が降った家の娘は、神師様の元へ参る――つまり、嫁入りするのが決まりだと喜助は初めて知った。

 龍神様に仕える神師の嫁は、龍神様がお決めになる――そういうしきたりらしい。

 喜助は顔を真っ青にしながら、呼び出された女子が現れるのを遠くから見つめていた。この龍門山に暮らす人間にとって龍神様は生活の一部。しきたりがあれば、それに背くことなど考えられない。

 だが、喜助は知っている。これは龍の血ではないし、龍神様が決めたことでもない。すべて、神師様が己の息子の望む女子をあてがうために行われたことだ。

 ――拒むこともできぬではないか。

 見初められてしまった女子に申し訳が立たず、喜助は顔を伏せる。そのときだ。

「行かない」

 聞き覚えのある声に、喜助ははっと顔を上げた。

「これが龍神様の血だと、本気で言っているの?」

 藤露は、家の周りにある黒く乾いた血を指さす。神師様の前だというのに臆することなく怒りを露わにする彼女を、育ての親である老女がすがりつくようになだめている。

 しかし、彼女の怒りは収まらない。声を荒げ、鋭い目つきで周囲を睨むのを見て、喜助はますます身を小さくした。

「あなたたちは、あたしが南下村の生き残りと知っているのよね? なら、どうしてあたしが龍神様を知らないと言い切るの?」

 その言葉にはっとしたのは、神師ではなく村の男たちだった。

 藤露は刃のように鋭い言葉を続ける。

「龍神様は、身を挺してあたしを守ってくださった。幼子だったあたしにもその姿ははっきりと記憶にある。その玉体から流れる血の色も」

 藤露は神師を睨んだ。そしてとどめを刺すように言う。

「龍神様の血は藤草のような青色よ!」

 その一言は、神師が嘘をついていることを指摘するものだった。神師は、顔を真っ赤にして「いい加減なことを言うのではない」と低い声で言うが、藤露は聞く耳を持たない。

「その言葉、そっくりそのまま貴方に返すわ」

 そのとき、喜助は藤露と目があった。藤露は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに目が据わる。いたたまれなくなって、顔を伏せたときだ。

「――こんな屈辱を受けたのは、生まれて初めてだ」

 底冷えするような、深く冷たい声を出したのは神師だ。周囲の視線が、一斉に彼に集まる。神師はくいっと顔をあげると、藤露を睨んだ。

「高宮を守る神師は、先祖代々村人たちの願いを届けるために厳しい修行を積み、龍神様をお奉りしてきた。それを今、侮辱したのだ。私だけでない。私の先祖も、神師を敬い信じる村人もだ」

 そこで一度、神師は言葉を切る。

「私の言葉と小娘の言葉。その重みはまったく違うのだよ」

 神師は笑みを浮かべると「準備が終わり次第、高宮に向かう。――あなた方は、龍神様の導きに逆らうおつもりですか?」と藤露ではなく彼女の両親に向かって言う。父母というより、祖父母に見える男女は両手を合わせ、腰を低くしたまま何度も首を振る。

「あたしは絶対に行かないわ!」

 負けじと藤露は叫んだ。そして、すがるように掴んでいた母親を振り切り、藤露は飛び出す。

 途端、ぽつりと頬に何かが当たった。

「雨だ」

 誰かがそう言った瞬間、一斉に空から無数の水滴が強く降ってきた。村人や神師は、一斉に屋根のある場所に向かう一方、喜助は藤露のあとを追いかけた。

 ――謝らなくては。

 謝って済む問題ではないことは、喜助がよくわかっていた。ただ、藤露と目があったとき、逃げてしまった自分が許せなかった。

 自分勝手な行動だとわかっている。だけど、彼女に謝らなければならない。

 しかし、足の速い藤露を追いかけるのは至難の業だ。責めるように顔を打ち付ける雨の中、喜助は薄目で藤露を探した。村から離れ、森に入れば湿った土の匂いが沸き立つ。

 彼女の名を呼ぼうと息を吸い込んだそのとき。足を滑らせた喜助は、切り立った斜面から体が傾くのをゆっくりと感じた。

 ――この感覚は、二度目だ。

 即死する高さではない。だが、大きな岩が転がる斜面だ。無傷ではいられないだろう。ぎゅっと目を閉じたとき。喜助は誰かに引っ張られた。目を開けるとびしょぬれの藤露がいる。

「あたしが助けなかったら、喜助は二度死んでいたわね」

「――そう、だな」

 喜助はその場にひざまずき、頭を下げた。

「本当に申し訳なかった」

「喜助?」

 藤露はいぶかしげな視線を投げる。

「感謝されるならまだしも、なぜ謝るの? まあ、なんとなく理由はわかるけど」

 ひざまずいたままの喜助は、さらに身を縮ませた。そんな彼に、藤露は言う。

「それより喜助。どうしてあたしが二度も運良くあなたを助けられたか、わかる?」

 わずかに顔をあげた喜助が首を振ると、藤露は「見て」と言って指を指した。その方向には、藤草が一本の線のように続いている。道のようなそれを見て目を丸くしていると、「ねえ」と藤露が手を差し出してきた。

「一緒に行かない?」

 目を合わせると藤露は、雨を滴らせながら笑う。

「すべて龍神様のお導きよ」

 きっと龍神様は、神師が龍神を私物化していたことを明らかにさせたかったのだろう。だから、自分も藤露も生かされた――そんな気がした。

 喜助は口角をあげると、彼女の手をとり立ち上がる。


 その後、二人の行方を知る者は誰もいなかった。







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