ヒーロー 2018.8
目覚ましの音に起こされ、重い瞼をこすりながらテレビをつけた。
いつもと変わらない朝。ぼうっと寝起きの余韻に浸っていたときだ。
『本日、会社員の鈴木正義さんが世界初のヒーローとして認定されました』
思わず画面に食いついた。
美人アナウンサーが読み上げたのは、紛れもなく俺の名前だ。しかし、鈴木正義なんてよくある名前、そのまま俺につながるとは限らない。鈴木なんてありふれた苗字だし、正義だってそれなりにある名前だ。そもそもヒーローって何だよと思った次の瞬間、映し出された顔写真を見て頭の中が真っ白になった。
「……俺じゃん」
ヒーローって何だ?
どこのテレビ局も「ヒーロー誕生」で持ちきり。どこかに隠しカメラがついていて、「ドッキリ大成功」なんて看板を持ってくるんじゃないかと、焦りながらも決め顔をしていた俺がだんだん馬鹿らしくなる。
そもそも犯罪者ならまだしも、ヒーローって何だよ。ヒーローって実名とか顔写真とかさらされないはずだろ? 少なくとも俺がガキの頃見ていた戦隊ものはそうだった。今考えるとそれもおかしな話だ。あれだけ大規模に一般人を攻撃してくる組織に対抗するヒーローをメディアが取り上げないはずがない。
全国放送の朝の番組は、おなじみのアナウンサーが楽しそうにしゃべっている。ドッキリにしても少しやりすぎなくらいだ。一応スマホからも調べてみる。なんとネットのトップニュースになっていた。
「まじかよ」
頭を抱え、そのままソファーに倒れ込んだ。
夢でも見てるんじゃねと時計を見た瞬間、飛び起きた。
「やべえ!」
報道にもあるように、鈴木正義は会社員。時計は朝の八時を指そうとしている。このままだと遅刻確定だ。
「ヒーローが遅刻とか――あり得ないだろ!」
魔法少女の変身スピードにも負けない早さで着替えると、アパートの鍵を閉め、駅まで走った。
一見、どこにでもいるサラリーマン。それが今では、誰かのピンチを救うヒーローだ。もしかして、俺が知らないだけで実は超人的な能力が授けられていたり――?
って、そんなことを考えている場合じゃねえ。
「俺が大ピンチだよ!」
「鈴木、お前また遅刻か」
上司の竹山が、でっかい腹で威圧してきた。
「いえ、遅刻はしてません」
そもそも「また」って何だよ。「また」って。俺はここに入社してから一回も遅刻なんてしてねえ。……いつもギリギリセーフだ。
「ちやほやされて羽目外して、会社勝手に休むんじゃないぞ」
「――努力します」
「そこは『はい』だろ。まったく。なんでお前みたいな奴がヒーローなのか、理解できないね」
俺もどうやったら人間がそんな牛みたいな腹になるのか理解できないです。
「なあ、鈴木。お前どうやってヒーローになったんだ?」
「俺が聞きたい」
ボタンを押せば、ガコンっと大きな音が鳴り響く。同期の今村とは、入社時からそこそこ仲がいい。たまに一緒に昼飯を食うくらい。
今日はヒーロー誕生祝いに、と社内にある自動販売機に連れてこられた。
「どうせ奢ってくれるんなら、昼飯奢れよ」
「それは無理。だって俺、結婚するから」
「はああ?」
なんだそれ。
「初耳だぞ!」
「そりゃあ今言ったからな」
中腰になった腰が、再び伸びる。目線を合わせると今村は気まずそうに視線を逸らした。
「だから、金がいるし仕事も辞める」
「おい、矛盾してないか」
金がいるのはわかる。けど、金を稼ぐために働くもんだろう、普通。
「彼女のお義父さんが、卸会社の社長でさ。そこに就職する」
「逆玉かよ」
「まあ、結果的にそうなるな」
「俺よりめでたいじゃん」
再び中腰になって自販機からジュースを取り出す。取り出した缶を見て、思わず眉間に皺を寄せた。
「お前も早く彼女作れ。支えてくれる存在は大事だって」
あまり大きな声で言えないが、俺は苦いものが苦手だ。だから、自販機だとだいたい炭酸飲料を選ぶ。今もそのつもりだったのだが――。
「……何でコーヒーなんだよ」
俺の勤めている会社には、一ヶ月に一度全体朝礼というものが存在する。その日はいつもより出社時間が三十分早く、中身のないことをつらつらしゃべるのが社長だから遅刻するわけにもいかない。
朝の三十分はでかい。俺だったら二度寝する。そして恐れていた通り、二度寝した。
「何故っ、目覚ましを止めたんだ、俺っ!」
最寄り駅から会社までスーツ姿のまま全力疾走だ。そもそもスーツはスポーツするための服装じゃない。動きづらいし何より暑い。体に密着する布が気持ち悪くて仕方がない。しかし、それより今は時間だ。
ウシ竹の奴に、また嫌み言われるな。
上司の竹山に勝手につけたあだ名。ふと蔑んだ目を向けてくる竹山の顔が浮かんで眉間に皺が寄る。だが今はあんな奴、どうでもいい。
俺はヒーローだ。
テレビのニュースで知ったとはいえ、ヒーローなのだ。不本意ではあるが、顔もさらされた影響で外を歩けば見知らぬ人に声をかけられるようになった。
それこそ老若男女に、だ。
――頑張れヒーロー。応援しているぞヒーロー。
悪い気はしない。むしろ嬉しい。
でも、腑に落ちないもの事実だ。
俺は、一体いつヒーローになったんだ?
別にヒーローになったのが嫌だってわけじゃない。ただ、俺の中のヒーロー像は、昔テレビで見ていた特撮のヒーローなのだ。派手に怪人と戦い、傷つきながらも成長しそして最後は必ず勝つ。正義は必ず勝つ――その台詞が、血がたぎるくらい好きだった。俺の名前が正義だからってのも大きい。ただ、それ以外は親にグッズをねだったり、変身パジャマを着て、成りきったりと普通の子供だった。
怪人から町を守るヒーローは、今でも俺の中でヒーローだ。
だから、わからない。
俺はヒーローになった。怪人が出るわけでも特殊能力がついたわけでもない。人を守れる力があれば、と思ったことはきっと誰もがあるはずだ。水や火などを操ったり、瞬間移動できたり、何千キロ先のものが見えたりする能力。ヒーローになったと言われたとき、一般人からヒーローに格上げされたのだから、何かしらの能力が与えられたのだと思って、いろいろ試した。
――それこそ、いろいろだ。
でも、何もなかった。俺は、俺のままだ。
何で俺がヒーローなんだろうな。
竹山の言葉じゃないが、そこは俺も一番知りたい。
「お、おはようさん。頼りにしてるぞ、ヒーロー」
声をかけてくれたおじさんに片手を上げ答えながら、俺はひとまず走ることに集中しなおした。
会社員ヒーローなんて、ちょっとダサいなと思いながら。
朝の朝礼にはギリギリ間に合った。しかし、どうして今月に限って全体朝礼が二回あるのか。迷惑な話だ。
額の汗を拭いながら、整列に加わる。女性社員が、息の荒い俺を怪訝そうな顔で一瞥してくるが無視だ。俺は何も悪くない。
まもなくして壇上に社長が現れた。今年卒寿を迎える社長だが、噂だとまだ引退する気はないらしい。上役の話だと昔はまあまあ腕の立つ経営者だったらしい。でも、年を重ねるに連れ、考え方は凝り固まり、「最近の若者は貧弱だ」と朝礼の場で何度も言い始めたから、そろそろ世代交代も視野に入れてほしいところではある。
組織なんて、トップの判断一つで生死が決まる脆い生き物だ。横暴なリーダーが立てば、あっという間に組織は崩壊する。振り回される下っ端の身にもなってほしい。
今月二回目の朝礼も社長の一声で決まったんだろうなと思いながら、ありがたいお言葉をぼうっと聞き流していたときだ。
「――ということで我が社からヒーローが出た。これは、会社としても絶好のチャンスである」
ん? ……何か嫌な予感がする。
「我が社はヒーローを生んだ会社、またヒーローの在籍する会社だ。それに誇りを持ち、自信を持つことで既存の取引先との契約はもちろん、新規顧客の開拓にもつながる。これはまたとないチャンスだ」
ちょっと待て。一体何を考えている?
これじゃあまるで、ヒーローというブランドを大いに活用し、営業利益の上昇につなげろって言っているもんじゃないか。
冗談じゃない。
「今回はそれを伝えたくて、急遽二度目の全体朝礼を行った。皆の活躍を期待する」
なんてこった。
俺は頭を抱えた。
ヒーローという肩書きがついてきただけで俺は前と同じ、至って普通のサラリーマンだ。しかし、それを使って金儲けをしようなんて考えはさらさらなかった。ヒーローは見返りを求めない。そういうものじゃないのか。
――あの社長、実は悪の親玉とかじゃないよな。
オフィスに戻り、椅子をのけぞらせて天井を見上げる。蛍光灯が思いの外たくさんついていた。はあ、と口からため息が飛び出る。
俺はヒーロー。でも、だからといって大金がもらえたわけでも、生活ががらりと変わる力が与えられたわけでもない。肩書きだけじゃあ俺も生活できない。
「……格好悪」
両腕で目を覆ったときだ。
「結局、今日の朝礼って『自分の会社にヒーローがいるからうまく使え』ってことを言いたかっただけでしょ? いい迷惑じゃね?」
ぴくりっと体が跳ねた。
「鈴木がヒーローなんかにならなければ、こんな迷惑にも巻き込まれなかったのにな」
バカ騒ぎする一団の声は、胸の奥をえぐる刃物のようだった。
なりたくてなったわけじゃねえ。
――俺が一番迷惑してるっての。
その日はとてもいい朝だった。
目覚ましより早く起き、久々に朝食を食べ、駅までゆっくり歩ける時間に家を出た。外に出てぐっと伸びをする。冷たくも爽やかな空気が肺を満たす。
ヒーローになって一週間がすぎた。世間はまだヒーローブームだが、不思議とマスコミは押し掛けてこないし、住民も野次馬のごとくじろじろ見てこない。何より女子高生から黄色い声が上がったこともない。
至って平凡な日常。もしかしてヒーローって悪事を起こさないようにするための精神的な抑制存在なんじゃないか、と寝る間を惜しんで導き出した答えだ。
別に、それならそれでいい。
何の取り柄もない冴えない人間が、悪と戦うヒーローなんて変な話だったんだ。
電車に乗り込み、運良く席に座ることができた。やっぱり今日はついている。このままいい一日になればいい。そのとき、近くに腰を曲げたおばあさんが立った。亀の甲羅のようなリュックサックの他に紙袋を二つ持っている。電車が大きく揺れる度におばあさんもよろけた。
周囲は皆、手元の画面ばかりを見ている。誰も気にする様子がない。
仕方がない。
「よかったら、ここに座ってください」
席を譲れば「ありがとう」と感謝された。すっと胸の奥が満たされる。
やっぱり今日はいい一日だ。
電車を降り、会社までの道のりを歩いているときだった。
「強盗だ!」
びくりと体が強ばった。
「あ! ヒーロー、ちょうどいいところに!」
こっちだ、と見知らぬ人に強引に手を引かれ連れて行かれた先は、銀行だった。
人の少ない出勤時間を狙い犯行に及んだらしく、利用客はいないと言う。
「警察は呼んだ。でもあんたならこの状況、どうにかできるだろう?」
期待のこもった瞳。見つめ返すことができなくて、顔を逸らした。徐々に人だかりができてきた。「ヒーローだ」「鈴木正義がいるんだから大丈夫だろ」「犯人も運がないね」といった野次馬の口から飛び出る言葉が、四方八方から飛んでくる矢のように俺に刺さる。
足が震えてきた。汗が背中を流れる。寒くもないのに手先が冷えてきた。
俺はヒーローじゃない。どこにでもいるしがない会社員だ。
「頼んだぞ、ヒーロー」
ぽんっと肩に手を置かれた瞬間、俺の中で何かが壊れた。
気づけば、その場から全力で逃げ出していた。
ふっと目が覚めて時計を確認すれば、夜中の三時だった。
ふうっと体が沈むくらい息を吐く。
眠りたい。ずっと、それこそ永遠に。
ヒーローとしてあるまじき行為をした俺は、当然のことながら非難中傷の雨嵐を受けることになった。ニュースで報道され新聞の一面に載り、ネットニュースだけでなく、掲示板でも俺の話で持ちきりだ。
――鈴木正義はヒーロー失格。
どこを見てもそんな言葉ばかり。そんなもん、俺が一番わかってるよ。
締め切ったカーテンは、最後にいつ開けたのか覚えていない。会社にも責められどこにも居場所がなくなった俺は、身を守るため一つの選択をした。
世界とのつながりを絶つ。
そう、今の俺はいわゆる引きこもりだ。
しかし、世の中と完全に縁を切るなんてできない。生きているだけで腹は減るし眠くなる。山奥に閉じこもり自給自足の生活をするほど、俺には知識もなければ体力も度胸もない。
だから俺はインターネットを駆使した。見たくないものは見ないで必要なものだけを見る。
便利な世の中だ。この六畳二間の部屋から出なくても必要なものはそろう。ただし、金がある限り。……考えるのはやめよう。もう疲れた。
起き上がることさえ億劫で、そのまま瞼を閉じた。
ある朝、あまりの腐臭で思わず目が覚めた。金はどんどん減る。代わりにゴミはどんどん増えた。
鼻をつまんで起きあがった俺は、改めて自分の部屋の惨状を目の当たりにし決意した。
「――掃除しよう」
窓を開け、ゴミ袋に放り込み掃除機をかけた。するとどうだろう。それだけのことなのに、少しだけ息がしやすくなった気がする。
ちょうど明日は燃えるゴミの日だ。朝早く出せば、誰にも会わないで済むだろう。
しかし、そううまく事は運ばなかった。
「鈴木正義だ」
バタバタっと駆けてくる足音は聞こえていたが、まさか俺に声をかけてくるとは思わなかった。今は夏休み。毎日のようにラジオ体操の音が聞こえてくる。それぞれの地区で決められた場所に行き、体操をしてカードに判子をもらう――そんな夏の行事は、今でも変わっていないようだ。
しかし、目の前に立つ少年は、どことなく変わっていた。まず、服装がパジャマだ。靴もサンダルで髪もぼさぼさ。明らかに寝起きだ。それに大事なラジオ体操カードを首から下げていない。
全力で走ってきたのだろう。肩を大きく上下させながらじっとこちらを見つめていた。
「鈴木正義だろ? ヒーローの」
「……人違いじゃないか」
俺はヒーローなんかじゃない。――ただの臆病者だ。
逃げるように立ち去ろうとしたときだ。
「ヒーローだから!」
あまりにも大きな声に思わず振り返った。
「鈴木正義は誰が何を言ってもヒーローだから!」
「ちょっ、落ち着け、な?」
目に涙を浮かべ叫ぶ少年を宥める。肩を大きく上下させ全力疾走したあとのように息切れをしているのに、少年の目はこちらが怯んでしまうほど、ギラギラしていた。
「君が思うほど、俺はかっこいいもんじゃない」
ヒーローらしいことなんてしたことがない。
それなのに何故だろう。
彼に「ヒーロー」と呼ばれた瞬間、胸が高鳴った。どんな言葉で表せばいいのかわからないし、下手に露わそうとすれば陳腐なものに変わってしまう。ただ、とにかくその言葉は、全身を力強く駆け抜けたのだ。
それだけで十分だと思った。
見知らぬ少年にヒーローとはかけ離れた俺を「ヒーロー」と呼んでくれた。それがただただ、嬉しかった。
「本物のヒーローに会ったら言ってやれよ」
ずっと固まっていた表情筋を動かし、作り笑顔を少年に送る。
少年は、何か言いたげに口を開くものの、うまく言葉が出てこないらしい。
感謝を込め、くしゃくしゃっと頭をなでて俺は再び世界から逃げ出した。アパートの扉が、音を立てて閉まる。自ら檻の中に入った気分だ。
「変な奴だったな」
そう言ってふっと息を吐いたら体から力が抜けた。
「次、ゴミ出しするときは、気をつけないとな」
どこで誰が見ているのかわからない。俺の顔は世界中に知れ渡っている。はあっと息を再び吐いて、玄関先で座り込んだ。
とうとう本格的にイかれてきたらしい。両目から大量に水がわき出して止まらない。俺は、声を殺しながら袖をぬらした。
それからというもの、ゴミ出しに行く度にあの少年が姿を表すようになった。時間帯をずらしたり、毎週ではなく隔週にまとめて出したりした。それでも、必ず少年は駆けてきた。ゴミ捨て場が見える位置に住んでいるのかもしれない。
もう、誰もがヒーローがいたことさえどうでもよくなってきた頃なのに、少年だけはしつこく俺に絡む。
今のところ直接的な被害を受けてはいないし、今後もおそらくないだろう。だって少年は俺に向かって「ヒーローだ」と言うだけなのだから。
正直なところ、ちょっとだけ歯がゆい気持ちになる。俺はヒーローじゃないと何度も言っているのに聞く耳持たない。何よりも彼が俺をみる眼差しは、明らかに「憧れ」の眼差しだ。子供の頃、憧れたヒーローを前にしたときと同じ目が俺を見る。
やめてくれ、と喉まで出掛かった言葉を飲み込む。
今じゃ俺を嫌みなくヒーローと呼ぶのは、この少年だけだ。
彼が「ヒーロー」と呼ぶ度に俺は彼に言う。
――違うよ。ヒーローはもっとかっこいい奴のことを言うんだ。俺は全然かっこよくない。
彼が俺のことを「ヒーロー」と呼び続ける限り、俺も少年に何度も同じ言葉を言うのだろう。変な子供だ。
見た目からたぶん小学生だ。
小学生なら朝八時くらいには家を出るはず。それなのに夏休みが終わった今でも、彼は俺がごみを持って外に出ると必ず現れる。ごみ収集車がお昼頃来るのをいいことに、十時頃外に出たときもだ。
あの少年は一体いつ学校に行っているんだろうか。
ふとそんなことを思っては、頭を振った。
俺には関係ないことだ。そもそも他人の事情に頭をつっこめるほどの立場ではない。
それから特に大きな事件もなく、平和な日々が続いた。平和と言っても、一時的なものでしかない。俺の貯金はすでに底をつきようとしていた。
一体どうしたものか。
ベッドに寝ころび、天井を見上げる。
無断欠勤を長期間している今、きっと会社はクビになっているだろう。まあ、どうでもいいさ。あのウシ竹の顔を見なくて済むと考えたら、気分がいい。会社の奴らだって「所詮、鈴木がヒーローなんて荷が重すぎたんだ」なんて笑いながら酒の肴にしているだろう。今村の奴は、彼女と幸せな毎日を過ごしているのだろうか。
寝返りを打った先、目の前に飛び込んできたのはカーテンの締め切った薄暗い部屋だ。
俺は、一体何してるんだろうな。
何もしていないのに、ひどく疲れたのは何故だろう。
息を深く吐くとそのまま目を閉じた。
帽子を深く被り、伊達メガネをして外に出た俺は、アパートの扉の鍵を回した。ゴミ袋は持っていない。今日は燃えるごみの日ではないからだ。
ぐっと伸びをしたら、体がバキバキと音を立てた。
「やっぱり鈍ってんな」
天気は快晴。スポーツをするにはいい気候だ。軽く準備運動をしたあと、スマホから伸びるイヤホンを耳に入れ、音楽を再生する。
「行くか」
考えていても仕方がないことが、世の中にはごまんとある。そういうとき、俺は体を動かす。……前までそうやって対処してきたけど、今回ばかりはそういかなかった。しかし、時間が経ち世間の視線が逸れた今、自分なんかというネガティブな思考を振り落とすように俺は走った。以前の自分を、ヒーローじゃない俺を取り戻すために。
近くにある公園まで走る。時々自転車が通りすぎるだけで、町は驚くほど静かだった。
昨日、貯金がつきそうだと親に相談したら、案の定帰ってこいと言われた。親として子供が危険な目にあうのは、耐えられないらしい。たしかに、ヒーローは危険と隣り合わせだ。いつだって命がけで守るのだから。
しかし、この場所を離れても平穏が戻ってくるとは限らない。
軽快な音楽に合わせて、足を早めたそのときだった。
突然、警報音が鳴り響く。もちろん俺のスマホからもだ。鼓膜が破れるんじゃないかと思うくらいでかい音が耳元で叫ぶ。イヤホンを耳から引っ剥がすが、音は止まない。
不吉な不協和音は、町中のいたるところから鳴り響いていた。
何があったんだ。
眉間に皺を寄せた瞬間、爆発音が鳴り響いた。見ると黒い煙が青い空に上っている。しかもアパートのある方角だ。
建物から人という人が出てきた。がやがやと口々に何か言っては、煙の立つ方向を見ている。危険を知らせるアラームはまだ鳴り止まない。
そのときだ。
二度めの爆発が同じ方向から上がった。
叫び声が響きわたる。走り出す者や携帯で何が起きているのか調べる者、「落ち着け」と暴走牛のような民衆をまとめようとする者――ここには様々な人間がいた。そして俺は、アパートの方へ走っていた。
川の流れに逆らって泳いでいるみたいだ。人の流れと逆の方へ駆けるのは随分疲れる。パトカーにも追い越された。
別にアパートに大事なものがあるわけでもない。でも、周囲の携帯から上がるアナウンサーの声が言うのだ。
――未確認生物が子供を人質にとった、と。
未確認生物って何だよ。ヒーローの次は怪人か? 笑わせるなよ。
どうしてそんなものが現れたのか考えている暇はない。この世界は広い。昨日の常識が、今日の非常識になることだってあり得るだろう。
だが、これだけは言える。
今のこの世界に怪人と同等に戦える存在は、どこにもいない。自衛隊だって警察だって、超人的な力を前にどれだけ対抗できるのかわからない。もしかしたら、失敗する可能性だってある。
でも俺が行って、何ができるんだ――。
足が重くなって、止まった。俺は普通の人間だ。さっさと非難しよう。
それが正しいと思ったときだった。
体の芯まで振動が響いた。意志を持った生き物のように、煙が襲いかかってくる。その煙が晴れたとき、俺は思わず目をむいた。
例えるならそれは、虫、だった。
叫び声がより一層強くなった。それもそうだろう。見たこともない怪物が凹んだ道路の真ん中に立っているのだから。そのとき、腕がいきなり重くなった。見ると擦り傷だらけのばあさんが俺の腕にすがりついている。
「鈴木正義さんですよね? どうか、孫を助けてください」
孫というのが誰のことなのか、不思議とすぐにわかった。
「……無理、ですよ」
俺は絞り出すような声で言った。
「銀行強盗のときを知っているでしょう? 俺はヒーロー失格なんです。そもそもヒーローですらないんです。ただの一般人です」
「そんなことありません」
老婆はきっぱり言う。
「孫はそんな貴方の姿に救われたんです」
俺のことを「ヒーロー」と呼び続ける少年は、不登校なのだと老婆は語った。俺の情けない映像をみて逃げてもいいんだと教えてもらったと――心が救われたのだという。
そんな嘘みたいな話、あるわけない。あるわけない――でも。
彼だけは俺を「ヒーロー」と呼んだ。呼び続けた。信じ続けた。
そんな人間を見捨てて逃げ出すわけには――いかないだろ!
俺の中で何かが吹っ切れた。
相手は見たこともない虫を擬人化したような怪物。大きさは二メートルくらいだろうか。いくつもある腕の一本に、囚われた少年の姿があった。どこからどうみても化物である。
そんな相手に俺が勝てるとは思えない。武器になるようなものもなく、あるのはこの拳だけ。このまま突っ込んでも爪弾きにされるだけだ。
まさに絶体絶命。逃げたいという気持ちが沸いてきては押さえた。
生きていると逃げたくても逃げられない局面が必ずある、と昔読んだ小説に書いてあった。それでも生きている限り立ち向かわなければならない。
そして、俺にとってそれは、今だ。
「今行くからな、勇気!」
呼ぶことはないと思っていた少年の名を叫ぶ。走り出した途端、駆けつけた警官が「やめろ」と叫んだ。
とめられないんだよ、俺は!
怪物は数本の腕を使い、瓦礫を掴んでこちらに投げてきた。避けられるものではない。俺は力一杯、跳んだ。
「絶対、負けられねえんだよ!」
俺はヒーローじゃない。でも、絶対違うなんて決めつけることもできない。
高く高く跳んだ俺は、奴の脳天に狙いを定めると、拳を高くかかげた。
俺らはいつだって、ヒーローの可能性を秘めているんだから。
了