狂い桜 2024.3
真夜中の満月は、帷に空いた穴かもしれない。
草木も寝静まるといわれる夜遅く、誰にも気づかれず屋敷を抜け出せたのは幸運だった。気配に敏い父だ。もし、見つかったときの言い訳をいくつも考えていたが、なんとか使わずに済みそうである。
しかし、満月はそんな罪さえ見逃さないと言わんばかりに僕を照らす。その心の内側まで透かしているようで、今も心臓はうるさい。
物音を立てないよう裸足で出たせいもあり、石や枝が刺さる。が、そこまで痛さを感じないのは、きっと望んでいたものが目の前まで近づいているからだという自覚があった。
◇
屋敷の裏手にある丘は、この家の当主または次期当主しか足を踏み入れてはいけない聖域だ。夏には青々とした草が広がり、秋にはすすきが手を振るように揺れる。そんな見晴らしのいい丘の上には、ぽつんと一本の巨大な桜の木が立つ。
春。寒さが和らぎ、命が一斉に芽吹く季節に桜は美しく咲き誇る。丘の上の一本桜だけではない。この辺りは先祖代々国を背負ってきた豪族の血筋の者が多い。立派な屋敷を構え広大な土地を持つせいか、庭に桜の木がある家も多い。もちろん、町中にも細くはあるが桜の木はある。だが、まだ十四という年月しか生きていなくても、あの丘の桜が一番綺麗だと胸を張って言うことができた。
「あの桜の下でお花見をしたら、さぞ美しいのでしょうね」
あれは今から一年前の春。満開の桜を屋敷から見ていたときに母が僕に言った何気ない言葉だ。僕は同意の意味を込め、深くうなずいた。ごく普通の親子の会話。別段、不快にさせる要素などひとつもない。なのに父は、烈火のごとく怒り狂った。
「あの場所は聖域だ。三神家の当主である私か直人しか足を踏み入れてはいけない聖域を、花見などという俗世の貧民と同じ思考で見るな。言葉にするだけで恥と知れ!」
母は額をこすりながら、体を縮ませ何度も謝った。僕も強制的に頭を下げさせられた。ただ、双子の兄直人だけは父の隣でそんな僕らを呆然と眺めていた。父を止めることも一緒になって罵ることもしなかった。
同じ日に生まれた兄直人と弟の僕。母の股から先に取り出されたのが直人だった――たったそれだけで、血のつながった息子に対する父の態度はこんなにも違う。
それがたまらなく不快だった。
それから数日後。僕は庭先に追い出された。
「一晩、自分の立場を考えろ!」
剣術の稽古中、直人に怪我をさせたからというくだらない理由からだ。
弱い方が悪い。
世の中を見渡せばわかる、当然のことだ。僕の考えは、間違っていない。
「あなた、どうか話を聞いてください」
母は父をどうにかしてなだめようとするが、ああなった父はもう手の施しようがない。
春。
暖かくなってきたとはいえ、一晩外で過ごすには寒い季節だ。ぶるりと肩が震える。
父の怒りが収まるまで、僕は庭先で正座をしたまま、一心に閉ざされたふすまを見つめた。再び開くまでそうするつもりだった。
しかし、無情にも明かりは消え、人の気配はなくなる。母が様子を見に来てくれるかもしれないと思ったが、その様子もない。
どっと体が重くなった気がした。足から体の熱が奪われ、もはや芯まで冷え切っている。冷え冷えとした月光が刺すように僕を照らす。
はっ、と乾いた笑みがこぼれた。
――なんなんだろうな、僕は。
ふと首筋に吹きかけるような細い風が吹いた。途端、目の前を舞う白い雪――否、花びらが手元へ落ちる。
桜――。
脳裏をよぎる桜はひとつだけ。ゆっくりと立ち上がり、冷たくなった足に血の巡りを感じながらその場をあとにする。向かう先は屋敷の裏。そう遠い距離ではない。
父が聖域というように、丘の周りには等間隔に打たれた短い柱を支えに、注連縄が張り巡らされている。が、逆をいえばそれだけだ。膝下よりも低い縄など軽々とまたぐことができる。だが、足を踏み入れた瞬間ぞっと底冷えするような悪寒を覚えた。
だが、引っ込めたい衝動が襲ってきたのはたった一瞬。目の前を一枚の花弁が舞い落ちてきたとき、もう片方の足も踏み越えていた。
月光に照らされた桜。闇夜の中、月光を浴びて光るそれは、花弁というより雪だ。冷たくなく、溶けることもない永久の雪。
一歩一歩、踏み出すたびに心臓が強く打つ。広々と枝を伸ばす桜を目指したのは自分の意思だ。が、心のどこかでは行ってはいけないと警鐘を鳴らす自分がいる。
つくづく嫌になる。このまま、犬のように言いなりになるのか、と胸の内であがる不安を嘲笑し進む。
丘の上まで上ったとき、枝いっぱいに花をつけた桜は月をも覆い隠すほどだった。感嘆の声を上げようとした瞬間、言葉を飲み込む。
誰かいる。
太い幹に寄りかかるように立ち、空を仰いでいる。
足音が止まったことに気付いたのか、その人は腰まで伸びた髪を絹布のように柔らかく揺らし、振り向いた。
小さな顔に大きな瞳。遠目からみても美しい人だということは嫌でもわかった。
呆然と立ち尽くしていると、その人は着物の袖からのぞかせた白い指を口元にあて小さく笑う。そして、手首を露わにしながら、たぐり寄せるようにしなやかな手つきで手招いた。
ごくり、と唾がのどを通る。
見知らぬ女が、こんな時間に敷地内??それも聖域に入っている。言いたいことは山のように沸いてくるのに、女を見ているとどうでもよくなった。
足音が耳に飛び込む度、夢かうつつか自分に問いかける。目の前の女はそれほどまでに美しく、そしておぼろげだった。
手を伸ばせば女の肩に触れられるほどの距離で、足を止める。
風が吹いた。
警鐘のごとく強く、入り乱れるように右に、左に。
思わず目を細める。が、閉じることはしなかった。否、したくなかった。目を開けた瞬間、女が消えているのではないかという予感があったからだ。
しかし、女は立っていた。風の中桜をまとい、髪をなびかせ、ほほえみを浮かべながらじっとこちらを見つめていた。
漆黒の瞳の中に、自分の姿を見た気がした。
その瞬間、胸をざわつかせていた感情が、とん、と腹に落ちた。同時に先ほどまでうるさく高鳴っていた心臓が、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。
「こんな時間にどうしたの?」
女は、何者なのか問わなかった。それを聞き、自分も女の素性を探るようなことはしないでおこうと心に決める。
今宵、一夜限りの縁だ。桜が舞い、地に落ちるまでの短い幻。
「桜を、みたくて」
そういって天を仰ぐ。青白い月が浮かぶ夜空に、花弁が舞う。枝の先まで花で着飾った桜は、今までみたどんな桜より美しい。なのに、視線はゆらゆら舞う花弁より隣に向いてしまう。
「おかしな子」
女はくすくすと袖で口元を隠し笑う。細くなった目に睫毛の陰が落ちる。シミやしわのない白桃のような頬は、かぶりついたら甘いだろうか。思わずのどを鳴らしたときだ。
「いつでも見られるじゃない」
延びてきた冷たい指先が頬をなでた。肉感を堪能しながら、曲線をゆっくりなぞるように。――するりと舐めとるように。
かっと顔が赤くなる。その様子を見てか、女はほほえみを深めた。
「い、いつでも見られません」
一歩下がりながら言う。ここは聖域。自暴自棄の末、足を踏み入れたが二度めはないと自覚している。たった一夜の縁。ならば、その白桃のような頬に、今にも花開きそうな蕾のような唇に、かぶりついてもいいのでは――そんな気持ちが黒い煙のようにわき上がったときだ。
「見られるわ。花は咲いてなくても、私はここにいつでもいるのだから」
「それは、どういう――」
意味ですかと言い掛けて口をつぐむ。延びてきた女の指先に期待してしまったのだ。
――火照った体に気持ちよい、ひんやりした指で後頭部を掴まれ、食われるように唇を寄せられる――そんな期待を。
だが、実際には女の手は後頭部に触れなかった。女は髪についた桜の花びらを摘むと、ふっと息を吹きかけた。
雪のような花弁は、月光を浴びながら闇夜の中を瞬く。
「この桜はわたし」
何枚もの花びらが星のごとく闇夜を舞う中、女は言葉を落とした。言葉の意味が理解できないでいると、女は再び口角をあげた。
「桜の精と言った方がわかりやすい?」
「桜の、精」
女はわずかにうなずく。
「神と名乗るのもおこがましい存在だけど、一応あなたの家の守り神よ」
「守り、神」
つまり――人間ではない?
さっと血の気が引いた。女が、得体の知れない存在だと知ったからではない。人ではない――その事実が重くのしかかる。ほんのひとときの間に夢想した、数々の事柄が朝露のように儚く消える。現実になる可能性は、ない。
ゆっくりと視線をさげていると、ついっと冷たい指に支えられ、顔をあげられた。女と目が合う。
「恐ろしい?」
首を左右に強く振る。その風で桜が避けるほどに。
「あなたは――美しいです」
女を両目に縫いつけるように強く見つめながら、今まで吐いたこともない言葉が口を出た。そのままかぶりついてしまおうかと思ったが、女が唇をあげ「そう」と少女のように笑うものだから、思わず毒気を抜かれる。
「いつでも会えるわ」
女は一歩、二歩と距離をあけながら言う。
「あなたがここに来てくれさえすれば。夏でも、冬でも。わたしはここにいる」
途端、桜が吹雪いた。風もないのに花びらが視界いっぱいに舞う。次の瞬間にはもう女の姿はなく、屋敷の庭に明かりを持った人影が見えて慌てて丘をくだった。
◇
あれから一年。何度も桜の木の元へ向かおうとしたが、父や母、直人や使用人――そのだれにも気づかれずに家を出て聖域に入ることは、容易なことではない。
少しでも疑われれば、二度と会うことは叶わない。ましてや聖域だ。事を知られれば、父は迷わず家族の縁を切るだろう。
自身を守り神だと言った女の言葉を疑うつもりは最初からない。だからこそ、家の縁を絶たれれば、姿を見ることさえ叶わないことは容易に想像できた。
「智也はよくあの桜を見ていますね」
障子戸を開け、壁に寄りかかりながらぼうっとしていれば、母がそう言った。
「――そう、でしょうか」
放たれた声は思いのほか冷たかった。
一年。たった一年と鼻で笑われそうだが、いったい何度、発作のように駆け出したくなる衝動を押し殺したことか。
会いたい――その一心が、季節がゆっくり移ろう間、強く大きく育つ。何度夢の中であの女の面影をみたことか。何度町中で見知らぬ女の後ろ姿に姿を重ねたことか。気が狂いそうになるのを押さえ込むことができたのは、ひとえに会える機会があるという、女の言葉だけだった。
「また美しい季節がやってきますね」
母の言葉にうなずいて答える。もう、あの日から一年が経ってしまった。丘の上の桜を熱い視線で見つめる。
目を凝らせば、女の姿が見えないだろうかと思いながら。
十五になった途端、見合い話があがるようになった。三神家に生まれた以上、当然の定めなのだろう。
だが、どんなに母や使用人たちが「いい相手だ」と勧めてきても乗り気になれなかった。どうしても桜の木の下で会った女の姿が頭から離れず、比べてしまう。
「直人はもう相手が決まったというのに」
恨みがましく母が言うが、聞く耳はない。偶然、聞いてしまった使用人たちの話によれば美しい令嬢だと言う。
僕はそれを心の中で毒ついた。美しいという言葉は、あの女にこそふさわしいものだ、と。あの女以上に美しい女はいない。どうせ、そこらに根を張る、蒲公英ごときの女だろう。
それなのに、皆うれしそうにはしゃぐ。勉学も剣術の腕も背丈や体格だって、兄よりも上なのに、だれも僕をみようとしない。
ほんの少し早くこの世に落ちた、ただそれだけが天を遮るほどに厚い壁となって僕に覆い被さる。密閉された瓶の中に閉じこめられた、そんな人生だ。
のどまでせり上がってきた熱くどろりとした塊を必死に飲み込む。
その日は直人の婚約を祝う、身内だけの宴だった。
珍しく上機嫌な父を中心に、上等な酒を飲み、旬な食材を使った豪華な食事を楽しむ。使用人たちにも酒が振る舞われ、廊下に出れば遠くから楽しげな声が聞こえた。
誰もが長兄である直人へ祝いの言葉を贈り、上機嫌で楽しんでいる。だが、僕だけは違う。表面上は取り繕っているものの、内心はどうでもよかった。いや、正確には違う。
じとっと周囲を見回す。酒の入った者たちは、すでに眠そうな目をしている。普段飲み慣れていない良い酒だ。今夜はぐっすり眠れるだろう。多少の物音では目覚めないほどに。
ついっと桜の木のある方を見つめる。期待に胸が躍った。
◇
息をあげながら、桜の元へ駆ける。
裸足で一気に丘を駆け上がり、木の幹に寄りかかるように立つ女の姿を思い描く。
ようやく、ようやくだ。
一年ぶりの再会をあの女はどんな顔で迎えるのだろう。高鳴る胸を押さえられないまま、桜へと視線を向ける。
しかし、そこに女の姿はなかった。
木の幹を一周、根を踏まぬよう避けながらくまなく探す。ざらりと乾いた幹に手を当て、上に下にと視線を巡らせるが女の陰どころか髪の毛一本落ちていない。人ではないのだから当然かもしれないが、それでも跡がないか目がさまよう。
ようやく、来れたのだ。
無意識に噛んでいたらしい下唇から、鉄の味が広がった。
「――嘘、だったのか」
胸を穿つような喪失と絶望が襲う。
「あのときの言葉は、嘘だったのか」
応える者はいない。花びらがゆらゆらと舞いながら落ちる。幹に触れている手に力を込めた。そのとき――。
みしり、と指が幹に食い込んだ。驚き手を離せば、太い桜の幹に穴が五つ開いている。自分の指が開けた穴だ。
ありえない。
剣術や柔道を習っている手前、常人より体力には自信がある。が、両腕を回しても手をつなぐことができないほど立派な桜の幹に、穴をあけられるほどの自信家でもなければ力もないはずだ。
しかし、穴は確かに開いている。
陥没した五つをまじまじと見つめる。夜空と違い、月も星もない真っ黒の穴から女が現れないかと期待したが、そんな予兆はいっさいなかった。
数日後、直人の婚約者が三神家にやってくるという。両家の顔合わせもせず、その場で親近者のみの祝宴をあげるのだと父が宣言した。
「わたくしはまだ、相手方のお名前も存じ上げないのですよ!?」
母が珍しく憤りを使用人にぶつけているのをふすま越しに聞きながら、まっすぐ自分の部屋に向かう。
どうでもいい。もう、なにもかもがどうでもいい。
気を紛らわせるために筆をとったが、気分が乗らず机に置かれたままになる。どうでもいい――そう思っているのに、視線は丘の方へ向く。障子で閉ざされているため、目に映ることはない。だが花はとうに散り、今は青青とした葉をつけていることを知っている。
「まだ食材の準備が――」
「あと食器の数も数えて――」
本来なら、使用人はここには来ない。しかし、状況が状況だけに父が特別に許可をしていた。
「相手方の人数は?」
「それが――」
うるさい。
眉根を寄せ、耳をふさぐ。途端、女「どうしたの」という幻聴が聞こえて頭を左右に振った。
もう、あの女はいないのだ。
ぐうっとのどから絞り出すような声が出た。それは、人間というよりは獣のうなり声に近い。
もう、一目見ることも、冷たい指で触れられることも、あの白い頬にかぶりつき、蕾のような唇をついばむことも――できない。
うなり声を漏らさぬよう、背中を丸め、身を縮ませる。しかし、畳についた深く抉られたような爪痕は消せず、母が悲鳴をあげた。
「智也、これは――」
「捨て犬を一時保護したのです。そのときのものでしょう」
すらり、と流れるように嘘が口を出る。女に会うため、何度も自然に嘘をつく自分を想像した。その成果だろう。
祝宴当日。使用人たちの手を借り、正装を身にまとうと広間で自分の席に座る。ざっと見回す限り数は二十に満たない。ほぼ、三神家の親族ではないかと思っていると、ぞくぞくと人が入ってきた。
「智也は相手を知っているのかい?」
そう問われても首を横に振ることしかできない。
全員が出そろってまもなく、直人が入ってきた。相手の手を片手に乗せ、ゆっくり足並みをそろえて座敷に入る。相手の女に目を向けた瞬間、僕は眼球が飛び出るほど大きく目を見開いた。
あの女だ。
新雪を思わせる白い着物を身にまとい、豊かな黒髪を珊瑚や翡翠の髪飾りでまとめ上げているが、間違いない。あの桜の木の下で会った女である。骨の芯まで食らいつく勢いで見つめていると、女と目があった。目元に朱色を指した女は、桜の下にいたときとはまた違う色香を放つ。
どんっと胸が鳴った。今すぐ直人の手を払いのけ、女を連れて行きたい衝動にかられる。が、かろうじて理性が勝った。奥歯を噛み、両膝に深く爪を立て耐える。
それから先の記憶はない。
お開きになった途端、僕は女の部屋に向かった。内なる獣が涎をまき散らしながら暴れ回るが、それでも周囲の目を気にするだけの理性は残っていた。
女は突然飛び込んできた十五の少年に、驚きの表情ひとつ見せず静かに迎える。その様子から、女は智也がやってくることをわかっていたのだと思う。
「――どういうことか、説明してもらえますか」
女は細く笑みを浮かべ言う。
「わたし、このままだと死ぬの」
意味がわからない。
眉をひそめると、女は悲しげな顔で見上げる。
「あなたは知っているはずよ。――今のわたしはとても脆い、と」
その言葉で、穴をあけてしまった幹が脳裏に浮かぶ。あれは、木が弱っているからだと思えば、女の言葉にも納得がいく。同時に、焦りがわいた。
「どうすればいい!」
掴みかかる勢いで迫れば、女は一歩退く。
「それが、わたしがここにいる理由よ。生きるために、守り神として機能するために。――わたしはこの家の男と交わる」
その相手が直人だという事実に、嫉妬より先に強烈な怒りがわく。
感情のまま口を開き、息を吸った瞬間、女は先を読んだように「無理よ」と言った。
「あなたは、この家の次期当主ではないもの」
反論しようと、どうにかして直人から自分にしてくれないかと、必死に頭を巡らす。しかし、何も言葉が出てこない。女の言うことは正しい、と頭は理解してしまった。
「ならば、なぜ――あの夜姿を見せたのですか?」
なんとも情けない声だと思った。おそらく、もう答えを自覚しているからだろう。
「……直人と僕を見間違えたのですね?」
女は紅をつけたままの唇を持ち上げる。
「察しのいい子」
毒のような声だと思った。艶やかな花が持つ、甘くとろけそうな心地のよい、毒。
しかし、もう遅い。あの夜、青白い月が花弁を雪のように輝かせる日に出会ってしまったのだ。
あの場所に、当主以外が足を踏み入れると想像しなかった女の過ちだ。
白く冷たい指が頬をなでる。
「お願い。あの夜のことは――忘れて」
思わず笑ってしまった。
この女は、なんて残酷なことを言うのだろう。
「あなたが記憶を消してください」
女は困ったように眉をさげた。
「わたしにそんな力はないわ」
「ならば――忘れません」
幼子をあやすように触れていた女の手を強く握った。びくりと肩を揺らす様子を瞳の奥に残しつつ、その指先に唇を落とす。
「ダメよ」
「僕はダメじゃありません」
そう言った次の瞬間、女は目尻をつり上げた。
「貴方ではダメなの」
大きな声を出されれば、こちらも身の置き場がなくなる。今の声に父や母、直人がやってきたらどんな言い訳も通じないだろう。
「また来ます」
去り際に女の頬に指を滑らせる。
今度はその唇に触れたいと思いながら、自分の部屋に戻った。
◇
それから一ヶ月も経たないうちに、直人が死んだ。
「どうして!」
真っ白な顔で横たわる、自分と瓜二つな顔。もう二度と動くことのない長兄に覆い被さるように、母が叫び泣き崩れる。
直人は、聖域である丘の上で死んでいた。
胸をひとつき。苦しまなかっただけが救いだと周囲は言う。強盗のしわざと処理され、犯人を探している最中だ。
「この子の人生は、これからだったのに」
婚姻を結び、嫁をもらったばかりでの突然死。
本来なら、妻は実家に帰ってもらうところだが、直人の妻は人ではない。
「今日からお前が三神家の跡継ぎだ」
そう言う父の体は、一回り小さくなった気がする。だが、そんなことはどうでもいい。父から守り神の話をそしらぬ顔で聞き、「受け入れろ」という言葉に神妙な顔つきで無理矢理納得しようとする演技は、なかなかに骨が折れた。だが、不信に思われることはなかっただろう。
口元に力を入れていないと、口角があがってしょうがなかった。
これで本当の夫婦になれる。
夢想した数々のことが実現する。
これを喜ばないものはいるだろうか。
父が女に会わせるという。女の部屋へ向かう最中、足音だけでは隠せないほど鼻息が荒くなる。
荒くなる鼻息を隠すため、わずかに唇をあけ空気を取り込んだ。
絹のように滑らかな黒髪も、傷シミひとつない新雪のような肌も、黒真珠のように美しい瞳も、柔らかな蕾のような唇も――これで全部、僕のものだ。
歓喜に震える手をぐっと握りしめる。
父がふすまを開ける。その後に続いて部屋に入る。
しかし、そこに女の姿はなかった。
高揚していた気持ちが、一気に冷める。
「父上、どこにいるのですか?」
途端、父が眉をしかめこちらを見た。
「なにを言っている。そこにいるではないか?」
そう言って指さした方向を見てもあるのは壁と畳だけ。陰も形もない。すっと目に険しさを宿す。
「――からかっているのですか?」
父のことだ。女の美貌に自分が夫婦になろうと考えていてもおかしくはない。侮蔑と軽蔑を込めた目で父を見る。
「隠したのですか。もともと、当主になるはずのない子に与えるくらいなら、自分のものにしようと――そう考えたのですか?」
「なにを言っている?」
訳が分からないと言いたげな顔を見ていると、怒りがふつふつと沸いてきた。
「貴方の、そういうところが気にくわない!」
胸ぐらを掴み怒鳴る。
「女を出せ!」
そう叫び続けた。
それから間もなく、長い歴史を誇るひとつの家が消えた。
丘にあった桜の木は、いつの間にかなくなったという。
了




