愛おしさは、青い海の底で眠る 2023.8
蝉がうるさく喚き、日差しが燦々(さんさん)と照りつける高校のグラウンド。まるで砂漠を思わせるそこから見える校門は、蜃気楼のように揺らめいて見えた。
額からこぼれた汗が、頬を伝い首もとまで流れる。
昨日から夏期休暇に入ったというのに、高校には閑散とした雰囲気はなく、普段よりも少ないが学生が出入りするせいで、休みという感じはあまりない。受験に向けた夏期講習に参加する三年生は制服姿だが、部活動のために学校へ来た学生はジャージだ。
なら、相手は先輩だろうか。
校門の脇、青い葉をたくさんつけた桜の木の下。陽炎のように揺らめく一組の男女。遠目からでも男の方はわかった。アキラは中学のときからよくモテる。その手の話は、何回か聞いたことがあったけれど、実際に目撃したのは今日が初めてだった。
この距離だ。聞こえるはずはないのに、それでも聞き取ろうと懸命に耳を立てる自分がいる。だが、耳が捉えるのは蝉の声だけ。もう少し近づきたいが、野暮なことはやめた方がいいという理性が働く。
再び汗が流れた。炎天下の中、百メートルを全力で走ったあとの体は、炎を吹き出しているかのように熱く、肺をやけどさせそうな熱い空気のせいで息苦しい。だが、暑さよりも遠くで揺らめく陽炎のような二人の方が気になった。
「加藤、どうした。具合でも悪いのか」
熱いグランドに、さらにうっと惜しさが増すような顧問の声が響きわたる。それを無視して、幻のような彼らを食い入るように見つめた。
彼らの耳にも届きそうな顧問の声だったが、こちらを気にする様子はない。ふと、アキラも白いシャツの制服姿であることを思い出し、文化部の生徒も制服登校かと思い直す。
じゃあ、先輩じゃないかもしれない。
今、アキラに彼女はいない。だから、告白する人がいるのだろうけど。
再び顧問が呼ぶ。渋々その場を離れた。
帰りにマックに行く約束をしていたが、もしかしたらそれもなくなるかもしれない。そう思ったら、体の芯、胸の奥だけすっと冷えた気がした。
◇
「運動部のお前より、合唱部の俺の方が食ってるっておかしくね?」
トレイの上にポテトやハンバーガー、新作のパイにコーラを乗せながら、アキラが笑って言う。アキラの視線の先にあるトレイの上は、ポテトと飲み物だけだ。店内の一番奥、通行人が見えるガラス張りのカウンター席が僕らの定位置である。
「帰ったら夕飯があるだろ」
わざとむすっとした声音で言えば、「それでも消費カロリーが半端ないんだから食えるだろ」とアキラは言う。
部活終わりに立ち寄ったファーストフード店は、休日の夕飯時とあってかそこそこ混んでいる。駅前店なので、テイクアウトの客も多いようだ。
夏の暑さは、収まることを知らず、日が沈みそうなこの時間帯でも蒸し暑い。店内の冷房が心地よかった。
「それでさ――」
ポテトを摘みながら、アキラは部活動でのできごとをおもしろおかしく話す。冷房を禁止している顧問が、汗だくで耐えきれず自ら冷房を入れたと言うのだが、どうしても話が入ってこない。相づちが適当になる。
昼になる少し前、誰かと一緒に校門のところにいなかったか――その問いかけがどうしてもできない。
「大地?」
「え、あ、なに?」
「お前、具合でも悪いの?」
思わず笑ってしまった。アキラは、小馬鹿にされたと感じたかもしれないがむしろ逆だ。彼は、細かいところによく気がつく。いつもならよくできた人間だと思うだけなのに、今はなぜか、心が痛みに堪えるような辛さがあった。
あのとき見た、陽炎のようにゆらめく男女の姿が脳裏をよぎる。
きっと、アキラの彼女になった女は幸せ者だ。
はっきりと輪郭を持たないそれは、まるで近い未来を暗示しているようにも思えて、大地は胸のざわめきを押さえられないでいた。
一人っ子は羨ましい――よくそう言うのはアキラだ。だが、大地からすれば、妹のいるアキラの方が羨ましい。人付き合いが苦手な分、なかなかふざけあえる相手がいない人間にとっては特に。
だが、大地には部活があった。昔から体を動かすのは好きだ。なにも解決しなくても、走っている間だけは絡みつくようにあった悩みから解放される。泳ぐのもいい。水泳部があればそちらに入部していただろう。体から水分を搾り取られる夏は、特に水泳部がないことが悔やまれる。
四百メートルのトラックを周回した大地は、走るペースを下げ、走るから歩くに移行する。大きく呼吸を繰り返しながら校舎側にある水飲み場に向かった。
ここの水飲み場は、グラウンドから距離はあるものの、背の低い木が目隠しになるように生えているため、人目を気にせず使える穴場だ。
蛇口を思いっきりひねり、吹き出した水で顔や頭を濡らす。日に暖められた蛇口の水は温かく、気持ちよさはない。それでも汗のかいた体に砂がつくよりマシだ。
蛇口を止め、置いてあったタオルをとり、顔を拭く。自然と重いため息が出た。体を動かしている間はいいが、立ち止まってしまうと途端に現実に戻る。その感覚が嫌で、特に気がふさぎ込み気味なときは、体を酷使しすぎてしまう。「お前はロボットじゃなくて人間なんだぞ」と顧問に何度か怒られた。
体が壊れたら替えがきかないという意味で、ロボットと顧問は言ったのだろう。でも、大地からすればロボットになれるものならなりたかった。そうすれば、わずらわしい感情に振り回されず、ずっと体を動かしていられる。
人間は窮屈だ。
何もかも、望んだ通りにはならない。
アキラが告白されている場面を見てしまった日から、なにかがおかしい。別に彼女ができようができまいが、友人なのは変わらないのに。それでも、想像するだけで胸にぽっかりと穴が開くような感覚に襲われる。
ぽたり、ぽたりと短い黒髪からこぼれる水滴を見つめる。まるで自分が泣いているみたいだと大地は思い、どこか皮肉気味な笑みを浮かべたときだ。
声が聞こえた。話声ではない。歌声だ。それも男の。
はっと顔をあげた大地は、声のする方を見た。校舎三階、一番右端の部屋は音楽室だ。窓が全開になっており、完備されているクーラーを使用していないことがわかる。
知っている声だった。いつも学園祭など他の部員と一緒に歌っている姿しか見たことがなかったから、歌っているとき、どんな声をしているのかは知らなかった。
でも、間違いはない。
普段と違い、高く延びのある声はアキラのものだ。
きれいだ、と思った。暗い夜空に輝く星の光のように、控えめでありながら救済のある声だと思った。まるでおとぎ話に出てきた、空を飛ぶ力がある妖精の鱗粉のように、優しく儚げでありながら、決して折れない芯を感じる声。
大地は、ここが真夏の、草も生えない灼熱のグランドだということを忘れ、恵みの雨のように降ってくる歌を一心に浴びたくてその場に立ち尽くした。
時間にすればそんなに長くない。その歌声はすぐに止まり、顧問らしき男の声が続く。それでも、大地は射抜かれたように立っていた。
知っている友人のまったく知らない顔を盗み見てしまったような、同時に誰にも知られたくないようなそんな気持ちになって、自分がわからなくなった。
◇
高校二年生は青春のピークにいると言っても過言ではない。思いっきり部活動に専念できるし、その中心人物にもなる。学校行事も二年が一番多い。
その中でも一大イベント、修学旅行は毎年十月に実施される。
修学旅行は、二百人近い生徒が一団となって行く大型旅行だ。生半可な準備では事故やトラブルを起こしかねないからか、準備は長期間にわたって行われた。
その一貫か、修学旅行二日目に予定されている自由行動も、単独行動は許されていない。
大地は心底めんどうくさいと思った。行き先は沖縄。今まで一度も行ったことがない南の島だ。十月でも気温は高く、海も泳げると知り、それだけを楽しみにしていたのだが――。
班決め。一緒に組もうと声をかけるのもだるい。ましてやその自由行動で、海で泳ぎたいと独りよがりな意見を言えるかと問われたら、言えないのは自分が一番よく知っている。
拗ねているのはわかっている。台風でも来て中止になってしまえと心の中で毒づいていたら、誰かが近づいてきた。アキラだ。
「一緒の班になろうぜ」
とっくに夏はすぎたというのに、彼の笑顔は日に日に目映さを増しているようだった。返事をする前に周囲の視線がどうしても気になる。
え、どうして――という視線。
いじめられているわけじゃない。でも、もし大地という人間の印象を聞かれたら、クラスの大半が「ちょっと近寄りがたくて話したこともないからわからない」というだろう。
修学旅行の班くらい、一緒にいて楽しいメンツで回りたい――そう誰もが思っている中、アキラは大地に声をかけた。
大地とは真逆に、アキラは誰もが一緒の班になりたいと思われているだろうに。
他の奴と組めよ――とは言えなかった。言ってしまったら確実に残り者になることは目に見えていたし、そうなったらアキラは自分の班に入れようとするだろうから。
後か、先かの違いだ。けっして、自分がアキラと一緒にいたいからではない。そう言い聞かせながら、大地はアキラと同じ班になった。
校庭にある木々の葉が色づく。この季節は、体を動かすのに一番気持ちがいい。陸上部の大会はとっくに終わってしまい、今は来年に向けて自身の強化メニューに努めている。
だが、文化部は今からが本番だ。吹奏楽部の演奏に混じって、合唱部の声が聞こえる日々が続く。
あれから、アキラの歌声は聞いていない。
合唱部の練習が耳に入る度、思わず注意深く耳を傾けるようになってしまったが、望みは一向に報われない。一緒に帰るときに歌ってと頼めるわけもなく、いつものように彼の話に相づちを打ちながら帰宅していた。
まあ、合唱はソロで歌うことはないだろうしな。
あきらめろ、と自分に言い聞かせるための理由を胸の内でつぶやいたときだ。
「え! 美佳、告るの! アキラに!?」
体を貫かれたような衝撃を覚えたまま、声のした方を見る。校舎の裏、壁に寄りかかる女学生に群がるように立つ二人の女子。
知っている顔だった。全員同じクラスメイトである。角に身を潜め、耳を立てる。
今もアキラに彼女はいない。教室で、他の男子生徒がふざけて聞いたときに言っていたのだ。クラス全体に聞こえるような騒ぎ方だったので、クラスメイトの女子の耳に入っていたとしても不思議はない。
あの夏、おぼろげな姿の女学生の想いは、叶わなかったのか。
ざりざりとした胸の奥が、その事実を知った途端、すとんと胃の中に落ちたようになくなった。
だが、また息を吹き返した。殺しても死なない寄生虫のように。
一体、何をしているんだ僕は。
盗み聞きなんてよくない。わかっているはずなのに、体はその場から動けなかった。
「修学旅行、アキラくんと一緒の班になったじゃん? 二日目の自由行動のときに告白しようと思って」
彼女の照れている顔が目に浮かぶ。黒髪を胸の位置までのばした、清楚な印象の女子生徒だ。言葉使いも丁寧で、分け隔てなく接する人だから、男子生徒からも人気が高い。
「自由行動って、美佳んとこたしか、マリンスポーツだっけ?」
一拍の間があく。おそらくうなずいたのだろう。
他の班は相当もめていたが、この班だけはアキラの一言ですんなり決まった。
アキラは、そこまで体を動かすことが好きじゃない。だが、大地が前に「沖縄に行ったら泳ぎたい」と言った一言を律儀に覚えていたのだろう。そうでなければ、植物園に行くか体験工房で物づくりになったはずだ。
一緒に帰ったとき、お礼を言ったら「なんでお前がお礼を言うんだよ」と笑われた。そういうところがずるいと思う。
「泳ぐのはあんまり好きじゃないけど、シュノーケリングだし。終わったあと自由時間がありそうだから。そこで言おうと思って」
一人になったところを告白するのだと言う。だからアキラがひとりになるよう、同じ班の男子に本当のことは言わず協力してもらえるよう、伝えてほしいのだという。美佳から話を聞いた二人は、男子と仲がよい。美佳とも中学からのつき合いらしいから、約束は守ってくれるだろう。
大地は足音を立てないよう注意しながらその場から離れた。
ある程度距離ができたところで、歩みは早くなり、自然と駆けだしていた。風が耳元でうなり、心臓が力強く脈打つ。澱みのような感情を振り払うように走る。いつもならすぐに無心になれるのに、このときばかりはどんなに走ってもそうなれなかった。
どうして――。
自分の体なのに、他人のような不便さ。体も、心も自分のことなのに理解ができない。
風をまとい走っていた体は、緩やかに失速し、そして人目のつかないところでうずくまった。雲一つない秋晴れの中、乾いた大地に冷たい滴が数滴落ちた。
「来週の今頃は沖縄にいるなんて、想像できないよな」
楽しげなアキラをちらりと盗み見る。
来週の今頃、アキラは告白される。そう思ったらざらりと胸の奥がうずいた。
「先輩が言ってたんだけど、修学旅行で告白する奴、結構いるらしいぜ。なんか、成功した奴は結婚まで行くっていうジンクスがあるらしい。何人つき合い始めるんだろうな」
自分が告白されるなんて、露ほども思っていない脳天気な様子で言うものだから、ほんの少し腹が立った。
「アキラはさ、彼女とかつくらないの?」
言った途端、後悔した。口を開くアキラの横で、耳を押さえたくなる気持ちを必死に押さえる。
「そうだな。どうしてもってお願いされたらつき合っちゃうかも」
にかっと笑うその顔を今だけは直視できなかった。
それじゃ、つまり――。
美佳と仲むつまじく並ぶ姿が脳裏に浮かんで、眉をひそめた。
「でもさ、俺結構嫉妬するタイプだから、それ許容できる女じゃなきゃつき合えない」
彼の口から意外な言葉を聞いた。嫉妬。同時に、すとんと苛立っていた原因を掴んだ気がした。
だが、それを認めることはできない。
反発しあう感情に、のどを締めつけられる。水の中にいるような気分だ。息がうまくできなくて、目頭が熱くなった。
「大地?」
いきなり立ち止まり、うつむいた自分にアキラはいぶかしげに問いかける。
「……何でもない。――ちょっと急用を思い出したから、先に行くわ」
そう言って、彼の視線を振り切るように全速力で走った。背後から声が聞こえた気がしたが、足は止まらなかった。
ロボットになれたらよかったのに。感情のない、ロボットに。
涙を止めるすべも知らず、息があがりきるまで走り続けた。
◇
天気予報では、快晴らしいと出かける前に母が言う。だが、よかったねという言葉に返事はできなかった。
出発の朝。いつもより早い集合時間に眠そうな生徒もいれば、テンションがあがりきっている生徒もいる。
大地は、美佳の動向だけが気になった。いつもと変わらないように見えるが、その心中はきっと穏やかではないはずだ。いや、もしかしたら自信があるのかもしれない。むしろ、事情を知ってしまった大地の方が、気が気じゃなかった。
「なんかお前、様子が変だな」
飛行機で沖縄へ到着し、一日目の行程を終了させ三人部屋で過ごしているとき。ふいにアキラがそう言った。
途端、テレビの音が聞こえなくなる。もうひとりの同室者が風呂に入っているタイミングで言い出すあたり、気を使っての発言だと想像できた。
「そうか?」
とぼけて見せたが、彼には通用しなかった。
「もしかして、お前告るの?」
胸の痛みを無視して、口角をあげる。今だけ一流の役者だなと自分を心の中で皮肉った。
「僕が? 誰に?」
冗談だろという含み笑いを声に乗せながら言う。だが、アキラは笑わなかった。
「ずっと安達のこと見てた」
ああ、お前なんか大嫌いだと指をさしながら叫べたら、どんなによかっただろう。安達とは美佳のことだ。
大地は、笑顔を張り付けたまま「そんなわけない」と断言した。だが、アキラもしつこかった。
「いいや、いつになく真剣な顔して、目で追ってた。今回、一緒の班だろ? ――明日の自由時間で告るつもりなら、俺協力するぜ?」
限界だった。張り付けた笑顔ははがれ、能面のように表情がそげ落ちる。
「本当、そういうのじゃないから」
自分でも冷たい声だと思った。アキラがわずかに身じろぐのがわかる。背を向け拒絶を態度で示すと、さっさとベッドに潜り込んだ。下唇を噛み、痛みで気を紛らわせながら強く目を閉じた。
カーテンを開け、空を見上げる。天気予報通り、雲一つない快晴だ。雨よ降れと強く念じたところで、思い通りにはならない。
朝からアキラとは口をきかず、ホテルのビュッフェを食べ、集合時間になったら班ごとそれぞれの目的地へ向かった。
海は泣きたいほどきれいだった。空の青と海の青は違う。けれど、今まで見たふたつの青の中で一番コントラストが美しく、巨匠が広げた絵の具のパレットのようだと思った。
美しい海は、その内側も美しい。数多あるマリンスポーツの中でシュノーケリングを選択したアキラの慧眼は正しい。火照った体に海水は心地よく、口々に楽しげな声が上がる。
大地自身、海に入るだけでも本来は大満足なのだが、昨日のこともあって気分は憂鬱だ。朝から誰とも一口もきかず、このあとも誰とも口をきかないんじゃないかと考える度に、ため息を吐きそうになった。
でも、こちらから謝るつもりはない。
「それじゃ、わたしのガイドはここまで」
シュノーケリングを指導してくれたのは、地元に住む三十代くらいの男性だった。仕事柄か細身のわりに筋肉があり、これが俗に言う細マッチョかとぼんやり思った。
「君たち、このあとは海で泳ぐんだろう? せっかくだからあそこから飛び込んでごらんよ。この周辺に住む子供たちの遊び場でもあるんだ」
比較的安全だからとその人は言ったが、夏休みでもなければ海水浴に行くことなんてない大地たちにとっては、反り立つ崖でしかなかった。
迎えのタクシーが来る時間まで、海辺で過ごすことになっている。
大地以外の班員は、地元の海とは全然違う、絵に描いたような美しい青に身を浸す。
一方、大地は白い砂浜の上で一本の木のように立ち尽くしていた。打ち寄せては引く波の音に混じって、楽しげな声が聞こえる。
もう、どうにでもなればいい。
この感情が満たされることはない。ならばいっそうのこと、このまま仲違いしてしまえば楽になれるだろうか。
だが、想像しただけだというのに、胸にぽっかりと穴があいたような空しさが襲ってきた。
最悪な修学旅行だ。降り注ぐ日差しが、責めるように痛い。
同じ班の男子と海辺で遊んでいたアキラが、ふいにひとり、砂浜へ戻る。何か言われたのが、遠目からでもわかった。
同時に、女子グループからもひとり、アキラのあとを追いかけるように砂浜へ向かう人影があった。
美佳だ。
緊張しているのか、彼女は両手を祈るように組んだまま一歩一歩、踏みしめるように行く。その姿からは、覚悟があふれ出ていた。
ああ、となにかがまた一つ、腹に落ちた。
動かすつもりのなかった足が、一歩、また一歩と前へ行く。それは次第に駆け足に変わった。
何もせず、諦めてふて腐ることは簡単だ。でも、叶うことのない望みでも、少しだけ満足させてやることができるなら――。
裸足で蹴り上げる砂は熱い。南の島の日差しはきついが、耐えられないほどではない。
こちらに向かってくることに気づいたのだろう。アキラの驚いた顔が迫ってくる。それが楽しくて口角があがった。
彼の手首をひったくるように握り、彼女に盗られまいと走る。アキラの後ろ、目を大きく見開く美佳と視線があった気がしたが、無視した。
「どうしたんだよ、いきなり」
戸惑う声が聞こえたが「少しつき合え」とだけ応えた。
全力で走る。早く走るのに邪魔なものはわずらわしいだけだと思っていたが、掴んだ腕の重さは胸を高鳴らせた。
蹴り上げた砂は、太陽の光を浴び、星のようにわずかにきらめく。そんな砂場も終わり、岩場に変わったとき、「おい、まさかお前」とアキラが強ばった声をあげた。本当に嫌だったら、この手を振り払えばいい。でも、彼はそうしなかった。
そのまま、ジェットコースターのように急上昇し、急降下した。岩場を蹴り上げる寸前で彼の手首を離す。
瞬く間のわずかな浮遊。完璧な青を汚す、ひとつの不純な点となる。何もかも脱ぎ捨てたかのような開放感が全身を包み込んだ。
口角が自然とあがる。しかし、すぐに大きな水柱をあげ現実に戻された。飛び込んだ衝撃で体にまとわりつくような泡が生まれ、目の前が青から白に塗りつぶされる。だが、すぐにうねるような海水が大地の泡を吹き飛ばした。
アキラが飛び込んできたのだ。
煙のように上る泡に包まれたアキラは、両腕をあげたまま、強く目を閉じていた。
大地は泡のベールが薄くなった瞬間を見計らって、彼の腕を引く。光輝く海面に出て、現実に戻るその直前、大地は目を閉じたままのアキラに唇を落とした。
まだ、水の中だ。きっと気づかない。涙だって誰にも知られることはない。
今までの人生でこんな大胆なことはしたことがない。でも、そうしないと地中に深く張った根っこのようなこの気持ちは、永遠に続くだろう。
自分のことだからよくわかる。だから、ここで切り捨てるのだ。
さよなら。俺の――。
遠く離れた、美しい海の中で安らかに――眠れ。
了




