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愛しい金魚 2023.6★

 部屋の隅に光がたまる。

 庭にある大きな池。その反射だろう。

 (たちばな)(かなめ)は正座した膝の上の拳を強く握りながら、視線をさまよわせ気を紛らわせる。

 今時、武家屋敷かと思えるくらい広大な土地と平屋の大きな一軒家は珍しい。大戦以前は、それなりにあったかもしれないが、今は戦後。それも西洋の文化を飲み込む勢いで取り入れたあとの時代だ。たまに和装の女性の姿を見かけることはあっても、ほとんどは洋装へと変わり、女も働く時代だと、仕事のない田舎から都心へ移り住む女性が増加傾向にありつつあるこの時代。まさか、田舎というには少し栄え、大学もあるこの土地では聞かないことはない、山村(やまむら)寛司(かんじ)の邸宅に招かれるとは、思ってもいなかった。

 昔、このあたりの地主とし、民衆をまとめ栄えさせてきたという山村家は、開けた土地の中央に小山のようにしてある、丘の上に邸宅がある。

 見晴らしがよく、周囲の視線を気にすることなく過ごせるその場所は、まるで城主の住まう豪邸だという印象を要は持った。

 決して新しい家ではない。ただ、玄関まで延びる石畳で受けた重圧は、歴史ある偉人を前にしたような威厳を感じた。

 中に入ってもその印象は変わらない。使用人らしい女に案内されている最中も、鏡のように反射する木床や何枚も続く襖、その襖に描かれた絵に目を奪われた。

 外に面する戸はガラス戸を使っており、夜になると障子を締めるらしい。壁ではなくなぜガラス戸なのか、視線を外に向けて納得する。

 青々しい松や手入れの行き届いた紫陽花、立派な梅や桜の木、生命力にあふれた紅葉。季節によって色彩を変える庭の中央に大きな池があった。

 美しく配列された木々は、すべてその水面に顔をのぞかせるように枝を伸ばす。一目でこの庭の主役はこの大池だとわかった。池の周囲は石が囲っているだけのようだが、水深は深いのか底は見えない。ただ、木々に負けないくらい色鮮やかな鯉が、優雅にのびのびと泳ぐ姿があった。池の中央にある小島には、小さな社が建っている。まるで絵の中に飛び込んだようだと要は思う。

 案内された部屋は座敷であり、座布団ではなく畳の上で屋敷の主を待つ。客間らしいその部屋には床の間があり、滝を登る鯉の掛け軸が飾られていた。

 要は現在大学二年生。この国を牽引すべく、卒業後を見据え教授とも人間関係を築いた結果、山村寛司と古くからつき合いがあるという一人の教授から、家庭教師の話を持ちかけられたのだ。

 山村寛司には、今年十六になる一人娘がいる。二人妻を娶っている寛司は、一人目の妻との間に男の子を授かったが、妻はその十五年後に病死。現在息子は、著名な政治家の元で働いているという。二人目の妻とは、寛司が五十歳のときに再婚し、翌年女の子を授かった。

 晩年の子である娘をかなり溺愛しているというのは有名な話で、学校には通わせず、家庭教師を雇って勉強させるほどの箱入り娘だ。

「なぜ、僕に?」

 思わず問う。あの山村寛司とお近づきになれるまたとない好機だ。断る理由はない。しかし、一介の学生でしかない自分に回ってくるのは、おかしな話だと思った。

「そう、深く考えなさるな」

 教授はそう言って目尻の皺を深くする。

 当初は、教授に家庭教師の依頼が来たらしいが、片手間に家庭教師をするほど時間はないと断ったらしい。すると、優秀でかつ信頼の置ける学生でもいいという話になり、要に白羽の矢が立った、というわけだ。

 心が踊ったのはいうまでもない。

 この日のために、少し奮発してスーツを購入し、いつも寝癖があっても気にしない髪をこれでもかと整え、丁寧に磨いた革靴を履いて山村家に赴いた。

 握った両手が汗ばむ。普段ハンカチを持ち歩かない己を責める。新調したばかりのスーツで拭おうか迷っていたときだ。襖が開く。同時に着物を着た四十代ほどの女性が現れた。黒髪を頭の上で団子状に束ね、白いうなじを惜しげもなくさらしたその姿は艶っぽい。長い睫毛に細長い面立ち、筋の通った鼻梁とほのかに朱色を差した、唇。

 山村寛司の二人目の妻だと要は瞬時に察した。凛とした佇まいと百合の花を思わせる色香を持った女性だ。触れたくても触れてはいけない気高さを感じる。高嶺の花とは、こういう女性を指すのだろうと心の中で思う。

 そのあとに続いて入ってきた少女がいた。

 赤い着物に薄い桃色の羽織を着た少女は、まだあどけなさを残しているものの、もう二、三年経てば他を圧倒させる大輪の花になる要素を兼ね備えていた。

「お初にお目にかかります。山村(やまむら)(あや)と申します。これからよろしくお願いいたします」

 意志の強そうな黒い瞳が、要を捉える。だが、要はその幼さの残る不完全な美貌に心を奪われていた。


   ◇


 彩の家庭教師は、週三日。すでに彩は高等教育の家庭教師を週六日で雇っている。その傍らでの、大学受験の勉強を教えるのが要の仕事だ。高等教育を教える家庭教師と連携をとったほうがいいかと使用人を通し、確認をとったが「不要」とのことだった。

 女性が大学受験をするのはまだ珍しい。裕福な家庭でも「女はどうせ嫁ぐのだから」と短期大学に入れる家が多いからだ。しかし、山村寛司は「これからの時代、女も男も関係ない。高度な教育を受けた者がこの国を先導する」と宣言しており、子供の教育に抜かりはないようだ。

 だったら、学校へ通わせた方がいいのに、と要は思う。いくら知識が蓄えられ、頭脳明晰、天才と言われても、人間関係の構築は机上で得られない。

 週三日も山村家を出入りしているというのに、山村寛司の姿はもちろん、挨拶以来、彩の母親の姿も見ることはなかった。広い屋敷の中、いつも見かけるのは、数人の使用人だけだった。

 彩には専属の使用人がつけられている。高杉と名乗った背の高い女性だ。細目で感情が乏しく、夜の柳の下に立っていそうなどことなく冷たい雰囲気を持つ。この日も高杉に案内され、彩のいる学習部屋に入る。

 座敷の中央に大きな木目の机が置かれており、その前に着物を着た彩が座って待つ。その机の端には、お盆に乗った湯飲みと急須が置かれていた。

「こんにちは、彩さん」

 にこりと笑って部屋に入る。襖は開かれたまま、ガラス戸からそそぐ陽光を部屋の中へ招き入れる。彩の正面に置かれた座布団の上に座ると、高杉はなにも言わず去っていった。終わりの時間になれば、また高杉は姿を見せる。それまでは二人っきりの時間だ。勉学に集中させるため、使用人もこの時間は部屋の近くを通らない。おかげで、要も彩とゆっくり向き合うことができた。

 彩は賢い。教えたことはすぐに吸収し、応用もできる。ただ、やはり国語のような心情を読み解くことを要求する問題は苦手だった。

 休憩は彩が決める。休憩しようと彩が言い出さない限り授業は続いた。

「本当、どうしてそれが正解なのかしら」

 湯飲みに茶を注ぎながら、彩は整った眉を寄せる。

「彩さんは、家族以外で交流を持っている人はいないのですか?」

 返答はわかりきっていたが、あえて聞く。

「いないわ。父はわたくしを家から出したがらないので」

 ゆるりと首を左右に振って答えた。想像通りの返答だ。要は心臓が大きく鳴るのを感じながら、唇をなめると口を開いた。

「許嫁、とかはいないんですか?」

 すると、彩はくすりと笑った。その笑みは、美しいものではなく可愛らしいものだった。

「橘先生、いつの時代のお話をされているの?」

 確かに自由恋愛が主流になりつつある昨今だが、彩のような親が権力を持つ家は、自由恋愛よりも見合いを通した結婚の方が多い。見合いをしているぶん、自由さは残っているものの、真に自由とはいえない。親の選んだ相手の中から選ばされる。偽りの自由だ。

 彩は無垢だ。山村氏が大事に育てている美しい花。まだ、この世の中の闇を知らないのだと思うと、要はほの暗い歓喜が血に乗って全身を駆けめぐるのを感じた。

 彩は小馬鹿にしたような愛らしい笑みを浮かべているが、なにも知らない彼女の脆さと隣り合わせの笑みに背筋が粟立った。邪な感情に自我を食われる予感がして、要は机の下にある己の太股に爪を立ててねじった。


 ゆっくりと季節は巡る。

 それに併せて、山村家の庭も彩りを変えた。紫陽花が花をつけ、蒸し暑くなる頃、部屋の片隅にたらいが置かれることが多くなった。初めは、片づけ忘れかと思ったが、中を覗いてすぐに違うと思いいたる。

 水が入ったたらいの中には、数匹の金魚が泳いでいた。要の知っている屋台でよく見る赤い小さな金魚ではない。豆のようにずんぐりとした体、三枚の花弁のような尾鰭。背鰭はなく目を引く朱色の体は、光の加減で輝いて見えた。

 丸い形は可愛らしく、それでいて同じ色彩の個体はなく、泳ぐ姿は美しい。

 思わず見とれていたときだ。

「金魚の王様をお気に召したのですか、先生」

 顔を上げれば、緑色の着物を着た彩がいた。

「それ、らんちゅうという金魚です。父の趣味でたくさんいるので、数匹くらいならわけられると思いますけど」

「いや、飼うつもりはありませんよ。ただ、初めてみた金魚だったのでつい見とれてました」

 彩もたらいをのぞくが、すぐに視線をそらした。その瞳はどこか冷たい。

「らんちゅうは、上から見て楽しむ観賞魚です。背鰭がないぶん、尾鰭で泳がなければならないため、優雅な泳ぎをするのだそうですよ」

 寛司から何度も聞かされたのだろうか、淡々と説明する。

「なるほど。たしかに彩さんの言うとおりですね」

 視線をたらいから外さずに答えたときだ。

「これは、欲望の塊です」

 吐き捨てるような声に思わず顔を上げた。途端、彩と目が合う。彩は、己の口を両手で隠すと頭を下げた。

「申し訳ございません。先生の前で不快になるような言葉を言いました。どうかお忘れください」

 彩は知らない。このとき、要は無意識のうちに笑みを浮かべていた。

「彩さん、とりあえずこの前の続きから始めようか」

 暗い顔の彩を座らせると、その向かいに移動する。教科書を開こうとしない彩にそっと耳打ちをした。

「言いたいことがあるなら言いなさい。君からは先生と呼ばれるけど、歳は近い。どうせ誰もこない。今だけ僕らは先生と生徒じゃなくてお友達だ。感情をため込むと心を病むこともある。どうかな。ここで聞いたことは誰にも言わない。約束する。だから、発散させてもいいんじゃないかい?」

 まくし立てるように言えば、少しの沈黙のあと彩は口を開いた。

「父はあの金魚を愛していると言います。わたくしの名も金魚からとったのだと教えてくれました。本当に好きだということは嫌ほどわかります。しかし、これは愛情ではありません。一方的な欲望です」

 彼女は凛とした声で断言した。

「庭の隅には、金魚のための水槽があります。そこに数千匹のらんちゅうが飼われているんです」

「数千――」

 思わず声を出す。彼女は憂いを秘めた瞳で要を写した。

「わたくしは、あの魚たちが哀れでなりません。己の意思で好きなように生きられず、狭い水槽の中で飼われ、美しさを愛でられる魚が。――わたくしが同じ立場なら耐えられない」

 絞り出すような声に要は胸を締め付けられた。そこには同情も共感もない。不完全な美を持つ彼女の悲痛な訴えが、甘い蜜のように要を満たす。甘く手放しがたい蜜の味は、毒だとわかっていても手放せそうにない。


   ◇


「まだ続けてるんだろ、家庭教師。山村寛司には会ったのか?」

 最近、近所にできたうまいと評判のラーメン屋に行った帰り道だった。

 同じ大学に通う友人、芳郎(よしろう)は顔がいい。女からの人気も高く、彼女がいない期間はなかった。

 車が走る大通りを男二人で歩く。まだ午後二時すぎ。これからパチンコでも行こうという流れになっていた。

「会ってない。そもそもあれは会えないだろうな」

「なんじゃそりゃ。寛司に顔を売るのが目的だったんだろう? なのになんで続けてるんだ?」

 イタいところを突く。要はぎごちない笑みを浮かべて話題を変える。自分でも無意味だとわかっている。時間の無駄だ。ただ、辞めようとは思わなかった。

 その次の日。いつものように山村家に行った要は、部屋から高杉がいなくなったあと、ぐいっと顔を近づけてきた彩に度肝を抜かれた。頬を朱色に染め、爛々と輝く瞳はいつもの彩とは違う。「ねえ」と放つ声も弾んでいた。ぷっくらとした蕾のような唇からこぼれた吐息が、要の頬をなでる。思わず息を止めた。

「昨日、先生と一緒にいた方は誰?」

 彩が飼われている金魚に対する想いを吐露したあのときから、ときどき先生と生徒ではなく、少し歳の離れた友人同士へと立場を変える。だが、彩の変化は唐突で、要はたまに夢か現かわからなくなった。

 一呼吸、遅れて要は答える。

「――芳郎のことかな?」

 そう答えれば、彩の表情がぱっと華やいだ。

「あの方は芳郎さん、というのね!」

 途端、要は理解する。芳郎の隣にいれば何度でもみる瞬間だった。

 彩は恋に落ちた。彼女にとって初恋だろう。

 素敵な方だったわ、もう一度会いたいけど無理ねと独り言をこぼしながら、彩は表情をころころ変える。そんな彼女を前に、要はその口をふさいでしまいたい衝動を必死に押さえた。「こっちだけみていろ」と怒鳴り散らしたい気持ちをなだめる方法を考えていたとき、妙案が浮かんだ。

「彩さん」

 要の呼びかけに、彩は真剣な眼差しを向ける。その瞳には、期待と不安が入り交じっているのが見て取れた。

「芳郎を連れてきてもいいですよ」

「本当!」

 彩は花火が咲いたように、ぱっと顔を輝かせる。同時に、要の胸の奥には、黒く粘っこい感情がたまった。

「ただし、条件があります」

「なにかしら」

 気丈に振るまっているが、声には不安がにじんでいた。要は心の内でほくそ笑む。

「簡単なことですよ」

 そう言って、彩の胸まで流した黒い髪をすくう。

「この髪をほんの少し、僕にわけてください」

 要の胸の奥に住む獣が、歓喜の声を上げる。それを遠くに聞きながら、要は人の良さそうな笑みを張り付けていた。


 彩との約束は、要と芳郎が入れ替わることで簡単に実現できた。数ヶ月、山村家を出入りしているというのに、要の顔を覚えているのは高杉だけだろう。常に部屋まで案内する高杉に代わって、彩が出迎えれば成り代わりは成立する。芳郎には、部屋に行くまで口元をハンカチで隠してもらい、うつむき加減で移動するよう指示をした。「大学で風邪が流行っているから、彩に移さないため」という言い訳も用意したが、不要だった。

 彩の協力がなければ成立しない。バレたらただでは済まないのはわかっている。ただ、形に残る「甘い蜜」をどうしても手に入れたかった。

 彩から受け取った、一房の髪。誰も彼女の髪がほんの少し短くなったことに気づいていない。

 要は、白い和紙に包まれた黒曜石にも劣らない黒髪に顔を寄せると肺いっぱい吸い込んだ。あの家の匂いに混じり、かすかに甘い香りが要の鼻を刺激する。

 芳郎は分をわきまえた性格をしている。さすがに山村家の令嬢に手を出すことはしないだろう。そう断言できるからこそ、要は彩と芳郎を会わせる提案をした。

 芳郎のことだ。彩にも興味があっただろうが最終的な決め手は金だろう。ギャンブルに彼女とのデートにと芳郎は常に金欠状態だ。

 坦々と授業をする芳郎にやきもきする彩の姿を想像して、要は恍惚とした表情を浮かべた。


   ◇


 その後、山村家を訪れたとき、彩は芳郎と会ったときのことは何も話さなかった。すべては夢のできごとだったかのように、互いに口にすることなく、先生と生徒として時を重ねる。

 だが、それを破ったのは要の方だった。

「もう一度、芳郎に会いたいと思わないかい?」

 我慢の限界だった。髪だけでは、要の中に住み着いた獣をなだめられない。彩は一度瞬きをしたあと、その黒い瞳に要を写した。

「いいの?」

 要は頷く。

「その代わり、今度は切った爪をくれないか」

 彼女はなんの疑問も持たず、快く承諾した。

 季節が夏から秋に変わる。その間に何度も要と芳郎は入れ替わり、そして誰にも気づかれなかった。

「ねえ、先生」

 ある日、彩は声を潜めて訊ねた。

「芳郎さんって彼女がいるのかしら」

 思わず笑ってしまいそうになるのを、必死で堪える。もう何度も会っているだろうに、そんなこともまだ知らない彩が愛おしい。

「いないよ」

 思わず嘘をついた。もし、本当のことを言ってしまえば、純粋な彩のことだ。もう芳郎には会わないだろう。そうなると困るのは要の方だ。

「条件」は、彼女の手を握るところまでいった。しばらくおとなしいだろう獣だが、いつ暴れるかわからない。

 この嘘は、君のためでもあるのだと言い聞かせ、再び授業に戻る。

 だが、甘い蜜の在処を知ってしまった獣は、どんどん短い周期で皮を破ろうと暴れてきた。

 彩の学習にも影響はない。以前なら、要の代わりになる芳郎の存在は排除したいほど嫌だったが、今はそんな感情もわかない。

 いつの間にか、週三日の家庭教師のうち、一日は要ではなく芳郎が山村家を訪れるようになっていた。

「ねえ、先生」

 彩が甘えるような上目遣いでみる。隣に座り寄り添った二人は、傍目から見れば恋人に見える。しかし、そうではない。これも「条件」だった。

 要の左腕に寄りかかる彩。素肌が触れ合っているわけではないのに、不思議と温かみを感じた。

「芳郎さんって彼女はいるの?」

 二度目の質問。しかし、一度目の質問からそれなりに時間が経っている。忘れていても仕方がない。

「いないよ」

 要は正面を見据えたまま答える。

「じゃあ、先生は?」

 思わず、彩をみた。じっと見つめてくる彼女の唇は、開きそうにない。

 そこにどんな意図があるのか、見定めようと要も見つめる。見つめ合う二人を裂いたのは、要の内側に住む獣だった。理性が効かなくなる一歩前で、顔を背け早口で言う。

「君は大事な生徒だよ」

 しばらくの沈黙が重くのしかかる。心臓の音が秒針のように響いている気がしたときだ。

「うそつき」

 ささやくようなその一言は、蜂の持つ鋭い針のごとく要の胸を突いた。

「わたくし、知っているのよ。芳郎さんに彼女がいること。街で見かけたのだもの、間違いないわ」

 要は、すっと体の芯が冷えるのを感じた。なにか言わなければと思うのに、口が思うように動かない。

「それにね、先生」

 彩の舌足らずな声に思考が止まる。闇をたたえた瞳は、ひたりと要を捉えている。

「わたくし、先生に『彼女がいるか』を聞いたのです。なのにどうしてわたくしの話になるのです?」

 明らかに侮蔑している彼女の瞳に、要の背筋は震えた。

「先生のこと、信じていたのに」

 そう言って彩は、ぱっと立ち上がると庭に出た。途端、秋のひんやりとした風が部屋の中へなだれ込む。追いかけようとすると、彼女は赤い着物の袖を翻して振り返った。その小さな口が要に訴える。そして、庭に出た彼女は池へと身を投げた。

 とぽん、と鯉が跳ねたような大きくもない音を立て、彼女は沈む。

 助けを呼ばなければと頭でわかっていても、要はその場から動けなかった。

 彩が要に言った「わたくしは金魚ではない」という言葉。趣味として大量に飼われる金魚を生まれたときから見ていた彼女にとって、耐え難い屈辱だったのだと、要は今になって理解する。

 声を上げれば、高杉あたりがすぐに来るだろう。だが、要はそうしなかった。

 わずかな抵抗を見せている彩。その命がゆっくりと力尽きるその瞬間を見逃すまいと、目を見開く。

 着物が水を吸い、彼女を捉えて離さない。本当に死ぬつもりだったのかどうかわからないが、秋の冷たい風と水はわずかに抵抗をみせる彼女を確実に死においやった。水の中で動いていた腕は、やがて力が抜けるように止まる。赤い着物が水面付近でたゆたっていた。まるで巨大な金魚がそこに現れたようだ。

 落ち行く夕日は、そんな池を赤く染めあげた。

 要は、恍惚とした表情を浮かべ、ほっと息を吐いた。

 愛しい金魚。

 お前は僕だけの美しい金魚だ。




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