回れ、かざぐるま 2023.4
軽はずみで来るものじゃなかった。
額から流れる汗をぬぐいながら、目の前にのびる山道を睨む。夏の貫くような熱線からバリアのように深緑が遮るため、麓よりは涼しい。だが、舗装されていない道は予想以上に足に負担をかけた。
肩を上下に揺らしながら、前に落ちてきた髪を払う。
――やめときなよ。女がひとりで行く場所じゃないって。
眉を下げながら言った、友の声が聞こえた気がした。
目的の地はまだこの先。立ちはだかる壁のように、眼前に木々が並ぶ。ふうっと細く長い息を吐くと気合いを入れる。その眼に再び灯がともったときだ。
太い幹に隠れるように、石が立っていた。細長い石は子供くらいの高さがあり、同じような石が三本、近くに折り重なるようにして倒れている。内一本は折れていた。木の葉や蔦、あまたの雑草が覆い尽くそうと生えている。
明らかに人工物だ。だが、これがなにを示しているのかはわからない。
なんとなく手を合わせる。
「よし」
気合いの入った声をあげると、まだ見ぬ地へと視線を向けた。
◇
「こら、カザミ! おまんまた里へ行ったな!」
ぶんっと風を切る音が頭上から聞こえた。間一髪で堅い拳骨を避けた少年は、馬鹿にしたような顔で言う。
「北のばっさんには関係ねえことだろ」
ひょろりとした手足の少年は、先ほどまで外に出ていたせいか鼻の頭が赤い。頭の上にうっすら積もった雪を、犬のように身震いして落とせば艶やかな黒髪が現れた。ひとつに結んだ少年の髪は絹糸のようにまっすぐで、柳のようにしなやかに動く。日が射すことがほとんどない地域のせいか、少年の雪のように白く透明感のある肌が、黒髪と大きな黒目をより一層際だたせていた。
「関係あるわ。この雪の中を子供ひとりで――」
「ばっさん、とうとうボケたか? おれはもう十六だ。おれ以外の子供のいない村じゃ嫁は探せねえだろうが」
食ってかかるように言えば、脳天から雷が落ちたような衝撃が走った。思わずうずくまる。涙目で振り返れば、目をつり上げた白髭の老人と目があった。
「なにするんだ、長老!」
「それはこっちの言葉じゃ。許可なく村から出ることは禁止されている」
少年はむすっとした顔で長老を睨んだ。
「バカ正直に言ったって、外に出してくれたことなんか一度もないだろうが」
「これからあるかもしれないだろう」
顎髭をなでながら、老人は言う。その態度がしゃくに障ったのだろう。若い獣のような少年は、吠えるように言った。
「ふざけるなよ、くそジジイ!」
途端、顔色を変えたのは長老ではなく北のばっさんだった。
「こら、カザミ! 長老になんて口のきき方を。おまんの育ての親じゃろうが!」
目をつり上げたカザミは、長老からばっさんを見る。
「おれだけじゃねえ、風太もだ」
風太はカザミの弟だ。二年前、村を襲った流行病で死んだ。
人里離れた村だ。山の奥、そのまた奥にある辺境の地にあるこの村は、近くの人里まで行くのに歩いて六時間かかる。距離だけじゃない。晩秋から初夏までは雪に閉じこめられる場所でもあった。
二年前の流行病は、吹雪く雪の時期に広がった。医者などいない小さな村は、山の麓にある里から医者を連れてくるまでに、半年近くかかった。その間に失われた命は十人。三十人ほどしかいない村からすれば、けっして少なくない人数だ。
カザミと風太の両親は、彼らが幼いときに雪崩に巻き込まれたまま、今も行方がわからない。
カザミをのぞいた村の人間は五十代以上。その半数近くは七十代だ。八十まで生きれば大往生と言われる世の中、この地はゆっくりとしかし確かに死に向かっていた。
北のばっさんも顔をしかめた。
流行病でひとり息子を亡くした記憶が、よみがえったのかもしれない。
その隙を見逃さず、カザミは逃げるように走った。木でできた扉を力一杯開け、しんしんと雪の降る村の中、行く宛などなく走った。
背後からカザミを呼ぶばっさんの声が聞こえたが、すぐに耳元を走る風で聞こえなくなった。村から少し下った先にある木蓮が咲き始め、雪の時期は終わりかに思えた矢先に降った雪。この村を凍りづけにしようとしているようで、カザミは目尻にたまった涙を走って飛ばした。
村から里まで歩いて六時間。しかし、カザミは近道を知っていた。それに体力もある。まだ雪は残っているが行く手を阻むほどではない。
藁で編んだすねまである靴に、竹の板をくくりつける。そして雪を滑るようにして下れば、さらに時間は短縮される。
村から里に行くまでなら、片道四時間。帰りは登りのためそこまでの短縮はできない。だが、カザミの丈夫な足腰では六時間もかからず村まで戻ることができる。問題は、日没だった。日が落ちれば視界が悪くなることはもちろん、熊や狼が出る場所だ。襲われる可能性が高くなる。だから、日没までに村に帰る必要があった。長老の許可があれば、宿泊し長期間滞在することも可能だろう。だが、カザミにはできないことだ。
「ねえ君、おれの嫁にならないか?」
村に同世代の異性がいないため、接し方がわからない。時間もないため、片っ端から声をかけていたらいつの間にか嫌悪感を丸出しにした視線を向けられるようになった。
「ねえ、わたしでもお嫁さんにしてくれる?」
たまに物好きな女子が声をかけてくるが、カザミの出身地を知ると瞬く間に離れていった。
「雪の民なら一緒になりたくない」
去り際の置き言葉は、いつも同じだった。
雪の民――里の人間は山奥にある小さな村の人間をそう呼ぶ。雪深い場所に住んでいるから当然の呼び名だと思うが、カザミはいつも心の中でそれは違うと否定していた。
雪の民の暮らす場所は辺鄙すぎて行きたくない。街道からそれ、商人も訪れない村じゃあ牢獄と変わらない――そう好き勝手言う声を里に下りれば嫌と言うほど耳にする。露店もない、商人も来ない、娯楽もない、医者もいない。
二年前の流行病のことは、里の人間も知っている。医者を呼びに行ったのはカザミだ。その悲惨な光景を里の医者は、周囲に話していてもおかしくない。
だが、流行病はカザミが生まれる前から度々起きていた。人里から離れた村で他者との交流も滅多にない村だが、風に乗ってくるのか里や町、都の方で起きた流行病だとしても、村で流行る。それは、神の采配のような厄災だった。
いつからか、雪の民とは関わるなと人の口を伝い広がった。そのせいでカザミの嫁探しは難航している。
「おまんは、一体なんかい言えば理解するんじゃ!」
北のばっさんが怒鳴った。今回は拳骨を避けることはできなかった。
「いってぇー! なにするんだ、くそ婆」
にらみ返すが、北のばっさんも鬼が裸足で逃げ出すようなにらみを向けてきた。思わずひるむ。
「おまんもこの村の人間ならわかっているだろ! 降り積もった厚い雪が緩んで雪崩が起きやすいこの時期ほど気をつけろと、何度言えばおまんは――」
ばっさんの声は途中で嗚咽に変わった。肩を震わせ身を丸めるとその場にうずくまった。
「――ごめん、ばっさん」
その小さな肩に手を乗せる。長老だけでなく、息子と二人、仲睦まじく暮らしていた北のばっさんも、カザミと風太の親代わりみたいなものだった。ほんの少し前まで大きな存在だったばっさんが、とても小さく見える。
「謝って済むもんか。我が子のように面倒を見てきたというのに、おまんときたらいつも危険に足を突っ込む――。いいか、おまんが死んだらわしも死ぬからな」
「ちょ、いきなりなに言い出すんだよ。おれ、そう簡単には死なないって」
ばっさんは首を左右に振った。
「命がいつ尽きるのかなんて、風流神さまにしかわからん」
カザミは口をつぐんだ。風流神はこの村が奉る神だ。万能を司る村の守り神である。何世代も昔から風流神だけを信仰してきた。だから、村の人間は自分たちのことを「風の民」と自称する。
「我らの先祖は、遙かなる地より風に乗ってやってきたと言われる」
秋の収穫祭のとき、長老が村の伝承を語る。
風流神は村の奥、山頂に近い場所に祠を持ち、そこに住まうと言われている。
「風は形を持たない。故にわれらも文字を持たない。我らの口が音が風に乗り、つなぐ。それが我らの使命だ」
風太と並び、長老の話を聞いていた頃はその使命感に燃えていた。命をつなぎ、居場所を残すことが自分に課せられた使命なのだと信じて疑わなかった。
でも、今は違う。
「……風太が生きていれば、すぐに婚姻を結んでいただろうな」
見目がよく、気立てがよかった弟。嫁に来てくれる者もすぐに見つかっただろう。
だが、もう風太はいない。今のカザミには、その荷は重く感じる。
そのとき、家の戸が強く叩かれた。扉を開けると不安そうな顔をした村の人間が集まっていた。
「どうしたんだ、みんな」
そう声をかければ、白髪だらけの人々は、深い眼の周りの皺をさらに深く刻みながら答えた。
「なに、大きな音が聞こえたからな。心配になって見に来ただけだ」
代表してカザミに一番近いところにいた老爺が答える。
「今は神事の支度で長老がいないからな。なにかあったら一大事だ」
もう少し日が長くなり、日差しが強くなれば、山頂にある祠で神事が行われる。険しい道を行き、山頂の祠の前に紙と竹で作った風車を供えるのだ。
そこで短い祝詞をあげ終わったとき、風車が回れば吉事、回っていなかったら凶事が村に起きると言われていた。
カザミはため息混じりに言う。
「今年もやるのか。簡略化できないのか?」
神事を行う祠に行けるのは、もはやカザミだけ。他の者も行こうと思えば行けるだろうが、一度出発すれば引き返すことは禁忌とされ、足腰が弱っている老体では無理があった。
「なにを言う、カザミ」
老人のひとりが声をあげる。
「神聖な行事だ。それを簡略化なんかしたら、先祖に顔向けできん」
カザミは一瞬表情を曇らせたが、気取られることはなかった。
「そうだな」
静かな声でそういうと、なんでもないからと皆を帰した。
その日もカザミは、村人の目を盗んで里へ下りていた。
里は村とは全然違う。老人だけでなく、赤子や子供、同年代だろう人間が多く行き交う。露店があり、焼き餅やせんべいの匂いが食欲を刺激する。中でも着飾った女が多いことが、村との一番の違いだった。今日はどの子に声をかけようかと視線をさまよわせながら歩いていると、背中になにかが当たった。
振り返ると、目をつり上げた三十代くらいの女がいた。
「出て行け。貴様のような悪鬼の使いに差し出す女はいない」
どこかで会ったことがあったか、記憶を掘り起こすものの見たことのない女だった。ひどい言いように、怒りよりも恐怖が募る。
「出て行け!」
女は石を拾うとカザミに向かって投げる。石は頬をかすめた。驚きのあまり、慌てて逃げた。気分は最悪だった。
せっかく里まで下りてきたというのに、なにもしないで戻るつもりにもなれず、肩を落とし行く宛もなく歩く。
はあ、と体がしぼみそうなくらい深いため息を吐いたときだった。視線をあげた先に見覚えのある看板が立っていた。
こんな離れまで来てしまったかと足早に去る。結局、今日も嫁に来てくれる女性と巡り会うことはできなかった。
ふうっと息を吹きかければ回る風車。村にとっては、昔から子供のおもちゃとして使われてきた。昔は里まで行かなくても、あちこちに小さな集落があったという。中でも村の風車は人気があり、よく回ると小さな子供がいる家庭からねだられたと、長老は遠くを見つめながら語った。
――おれの方が、にいちゃんより回る。
まだ父も母も存命だった頃、風太が舌足らずな声でそう言ったことを今でも思い出す。その言葉にむっとし、どちらがよく回るか勝負だと二人で風車に息を吹きかけた結果、酸欠を起こし具合が悪くなったことまで覚えている。
茜色に染まる空をカラスが飛ぶ。黒い点の群は、カザミを嘲るように鳴きながら、彼方へと消えていった。
昔、カザミが住んでいた家は、廃屋となっている。無人になってまだ十年も経っていないのに、食らい尽さないとばかりに草が這う。雨や風、雪にさらされ、屋根が崩落している箇所もある。人手の足りない今、家の修復は不可能だった。
村の入り口付近にあるそれを、立ち止まって眺めていたカザミは思い出したかのように再び歩き出す。その視線には、もう廃屋は入っていなかった。
「カザミ、気をつけてな」
「ごちそうを作って待ってるからな」
長老を始め、村の人々に見送られながら山頂へ続く山道を行く。
山道まで続く道の途中には、村の墓地がある。細長い石が四つ、四角を描く点描のように立つ。文字はない。風の民の口伝だけが頼りだ。
ちらりと横目でそれを見て、山頂へ向かう。
村の人間がいなくなったら、一体誰が墓参りに来るのか。父や母、風太を参りに来る者は、必然的にいなくなるだろう。
それはダメだ。
そのとき、風が頭上を力強く渡る。大木の枝先まで生える木の葉が囁きあうように音を奏でた。
今は他のことに気を散らしている場合ではない。
夏。年に一度の吉兆を占う重要な神事の日だ。腰に下げた袋には、供える風車が大切に布に包まれ収まっている。
一度登り始めたら戻ってはいけない。それはまるで、後戻りすることがない風に似ていた。
村から山頂の祠までは片道一時間半。急斜面を這いながら進む場所もある。どうにか祠までたどり着くと、袋から風車を取り出し、祠の前に立てた。そして二回柏手を打ったあと、短い祝詞をあげる。
祝詞をあげる間、カザミは目を閉じていた。視覚から得られる情報は多い。しかし、それを遮断してしまえば、自然と聴覚が鋭くなる。五感の中で一番情報を得るのは視覚。次に聴覚だからだろう。
感覚が研ぎ澄まされた耳の横で風が吹くのを感じる。
――今年こそ回っているはず。
ゆっくりと目を開けたカザミは、祠の前に立てた風車を見て叫びたい気持ちをぐっと飲み込んだ。
風車は回っていなかった。風が吹いているのに、だ。
今年も凶か。
カザミはもう一度手を合わせ、深く頭を下げると苔が覆う石の祠に背を向けた。
占うまでもない。村が滅びに向かっているのは嫌でもわかる。
里に行けばその現実を見せつけられるのだ。嫁に来る来ない以前に、移住しようと思えるほどの魅力も受け入れもない。
長老は語り継いでいこうというが、このままではカザミひとりだけが、村に住み続けるだろう。命は永遠ではない。カザミのあとは、誰もいなくなる。墓参りに来る者も風流神さまを敬う者もいなくなる。
カザミもこの村の人間だ。仕方がないと割り切ることはできなかった。
村が見えてくる。同時に、出発時と同じように村の皆が出迎えてくれた。
「よく戻ってきた」
長老が眉尻を下げながらカザミを出迎える。皮と骨ばかりの手でねぎらうように背中を叩く。
「して、風流神さまのお言葉は?」
「風は吹いた。前と同じ。吉事だ」
そう答えれば、長老は深く頷いた。
「よし、今夜は宴じゃな。ばっさんも腕によりをかけて作っておったぞ」
「毎回、そこまでしなくてもいいのに」
口角をあげながら、長老に導かれ家に入る。飲み食いが始まれば、大騒ぎだった。老人たちは若さを取り戻したかのように酒を飲み、つまみを食う。この楽しい時間もすぐに終わりが来るそう思ったら、カザミの胸にぽっかり穴が開いたような気がした。
また来年、みんなを騙さなければならないという罪悪感がそうさせているのかもしれない。
そのとき、長老が手をたたいた。途端、あたりが静まりかえる。
「みな、宴は楽しんでおるかの?」
長老の言葉に顔を赤くした老人が「当たり前だ」と大声で答える。それを頷きながら受け取った長老は「これが最後の宴だからな」と言ったのをカザミは聞き逃さなかった。
「どういうことだ?」
睨むカザミに向かって長老は微笑んで見せた。
「言葉の通りじゃ。――この村はもう終わりにする」
突然の宣言に、カザミは感情のまま立ち上がった。
「盲目したか、ジジイ! そんなの他の奴が黙って――」
「みなと相談した結果じゃ」
怒りが燃えるカザミの声を打ち消すような静かな声だった。怯んだその一瞬を長老は見逃さない。
「知らないのはカザミ、お前だけじゃ」
「はあ?」
そんなはずない。村を出ることは故郷を亡くすこと。皆大事な人との思い出がこの地に染み着いている。離れることは、過去と決別することでもある。
突然、大きな笑い声が響いた。カザミだ。
「なんだ、皆そろっておれを騙そうってか。もう十分驚いた。つまらない冗談はここまでだ。飯がまずくなる」
ほら、宴を再開させよう――カザミは隣に座る老人のお猪口に酒をそそぐ。しかし、老人は哀れむような視線をカザミに向けたまま、口を付けようとはしなかった。
「冗談じゃねえぞ、カザミ」
振り向けば、北のばっさんがいた。その顔は今にも泣き出しそうだった。
「わしらはもう決めた。このまま村で暮らし続けてもいいことはない」
「――それはおれのためか?」
沈黙がそれを肯定と語っていた。カザミの瞳に再び怒りの炎が宿る。
「ふざけるな! 勝手に決めやがって。おれはここに残る! おまえらが出て行っても、ひとりになってもここにいる!」
故郷はこの場所だ。代わりはない。それにここを出て行けば、風太はひとりになる。そんなことできなかった。
「いいか、おれがひとりになっても村はつぶれねえ。嫁を連れてきてまた一から作り直して――」
「カザミ、風はひとつの場所に留まらないんじゃよ。風の民は流浪の民。だが、わしらはその教えを無視した。だから風流神は風車を回さず、病を持ち込む。今年も回らなかったんだろう?」
カザミは大きく目を見開いた。それを見て、長老は愉快そうに笑った。
「なにを驚くことがある? 赤ん坊のころからおぬしのことは、よく知っている。嘘くらい簡単にわかるわい」
カザミは手足から感覚が消えるのを感じる。ようやく、長老たちは本気でこの村を出て行こうとしているのが伝わってきた。
「おぬしのため――たしかにそれもある。だが、風の民として正しいあり方に戻るだけじゃ」
「でも――!」
カザミは噛みつくように言う。
「年寄りに長旅は無理だ。それに新たな村を作るにしても、家を造るにも畑を耕すにも体力がいる。おれひとりじゃまかないきれない」
カザミの言葉を、長老は首を左右に振ってから答える。
「カザミ、我らは新しい村を作るつもりはない。――強いてはひとつ、頼みごとをしてくれんか? おぬし、文字が書けるじゃろう?」
それはカザミが誰にも話していない、もうひとつの秘密だった。百歩譲って神事の結果について悟られることはあっても、このことだけは誰にも知られていない自信があった。
「二年前、医者を呼びにおぬしをむかわせたとき、本当に早く医者を連れてきた。それこそ里の滞在などごくわずかな時間じゃないとおかしいくらいに。わしも里に下りたことはある。――家屋の前に立てかけられた文字を読まねば、そこがなんの商いをしているのかわからないことも知っている」
心臓を掴まれた気分だ。ぱくぱくと口を動かすが、言葉は出ない。
「おぬしをのぞいて、我らは年をとりすぎた。もう風の民として流浪の旅には出られないほどに。かといって、このままおぬしをひとり、村に残すことは棺桶に押し込めることと同意になる。――だから決めたのじゃ。我らは里に下りる。風の民はわしらで終わりだ。だからな、カザミ。おぬしに里の長にあてた陳情書を書いてほしい」
「嫌だ!」
カザミは腹の底から叫んだ。
「おれはそんなことのために文字を覚えたんじゃない! 里の奴らと対等に話をするためだ! 嫁だってすぐにつれてくる! だから!」
「カザミ」
咆哮に似た叫びは、ばっさんの一言で止まった。
「おまんのほそっこい肩に、重荷を乗せたわしらを許してくれ」
そう言ってばっさんはひざを曲げ、額をこすりつけた。小さな石のように丸まったばっさんにカザミが駆け寄る。
「やめろ、やめろよ」
その声に先ほどまでのむき出した感情はなく、雨のような湿り気が含まれていた。
「風が一カ所に留まらないように、時間も止まることはない。わしらは風の民。風は時を越え吹き続ける。この村を愛しているのなら遺せ。風を遙か先の世へ送れ。おぬしならできる。――文字を操ることができる、唯一の風の民よ」
◇
「ようやく、ついた」
背中を丸め、ぜいぜいと息を吐く。
文献によれば、四つん這いにならなければ登れないほどの急斜面があるとあったが、近年麓の町が多少整備をしたらしく、そこまで急勾配な道はなかった。
風が髪をさらう。夏だというのに少しだけ薄ら寒い。
「これが例の祠か」
石が積み重なっているだけにしか見えない。昔はきちんとした祠の形をしていたのだろうか。
大学の長い夏休みがなければ、こんな場所まで行こうとは思わなかっただろう。民族学の講義で興味を持って今、彼女はここにいる。
景色を眺めたあと、彼女は鞄に手を突っ込み棒を掴んで取り出した。
それを苔だらけで積み木のように重なる石の前に立てる。二回柏手を打ったあと、小さく言葉を紡ぐ。
「風よ、風よ。万物を育み生かす風よ。永久に続き、彼方へ届く刹那を導きたまえ。回れ、回れ。風見車」
この地では、風車を風見車というらしい。文献には風車と記載されていたが、どうして風見車と呼ぶようになったのか、記録は残っていない。
さっきまで強く吹いていた風がぴたりと止んだ。
だが、風見車は静かに、力強く回っていた。
了




