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宇宙人の君へ 2022.12★

 どうやら、俺は普通の人間じゃないらしい。

 目は二つ、鼻と口は一つ、腕と足は二本ずつ――と見た目は人間と同じ。だが、俺と関わる人間は、最初こそ距離を縮めようと話しかけたり、飯に誘ったりしてくるが、だんだんとそれもしなくなる。

 なぜなのか。理由は簡単。

「あいつはなんか変わっている」――とのことだ。

 幼稚園児だった頃の記憶はもうおぼろげだが、それでも「きもちわるい」と女児に言われたことははっきりと覚えている。なにが相手をそこまで不快にさせたのか、今でもわからない。

 小学生の頃は先生が「グループを作ってください」と言うたびに憂鬱な気分になった。最後まで残るし、どのグループも率先して入れたがらない。先生の困った顔や俺とグループになった奴の迷惑そうな顔が、今もたまに夢に出る。

 だったら俺は誰ともかかわらないでいようと決め、とにかく空気になることに徹した。

 教室にいても、楽しげな会話に加わることもなく、にぎやかな教室の雰囲気をテレビの画面越しに眺めているように過ごした日々。

 自分で決めたことに後悔はない。ただ、学園もののドラマやマンガは嫌いだった。まったく共感できないし、つまらない。なにより胸が詰まったような、または空けられたような感覚が襲ってくる。

 幸い、いじめのような悪意を受けることはなかったが、腫れ物を扱うようにみんな俺を避けていた。

 大学へ進学するのを機に上京した。

 誰も俺のことを知らない場所へ行ってみたかったのだ。きっと、そこなら人間として扱ってもらえる――と心のどこかで期待していたのだろう。

 しかし、朝顔の種からひまわりが咲かないように、ずっと人の輪に入らず過ごしてきた俺が、上京したからといって周囲の人間と打ち解けることなどできるはずもなく、今までと同じように時間が過ぎ、季節が巡った。

 親の反対を押し切って上京する条件が、学費や生活費の大部分は自分で出すことだったため、大学生活は学業とバイトで占め尽くされた。

 思い描いていた未来と違う現実に、親父のせいだと怒りだけでなく、未だに友人と呼べる人間ひとり作れない原因をなすりつけた。

 バイトは、両手両足の指の数じゃ足りないくらいいろいろやった。

 いろんな仕事をしてみたかったから、なんて崇高な理由じゃない。単に人間関係がめんどくさくなった結果だ。

 仕事であれば、たとえアルバイトであっても他の従業員とコミュニケーションをとらなければならない。大学で一から人間関係を築くよりよっぽど簡単だと思ったのだ。

 しかし、現実はそう甘くはなかった。

「工藤はさ、真面目なんだけど正直なに考えているのかわからないんだよな」

「わかる。なんかちょっと気味が悪いよな。おどおどしているし。そのうち人刺しそうじゃね?」

 そう言ってバイト先の社員がケラケラ笑うのを、休憩室の外でたまたま聞いてしまった。

 別に、これが初めてではない。

 今まで、「無表情で怖い」「気味が悪い」「なにを言っているのかわからない」「要領が悪い」――とあげだしたらきりがないほどいろいろ言われた。

 結局、俺は職場という人間関係構築初心者向けの場でも失敗したのだ。

 彼らにとって、俺は同じ人間じゃなかったのだろう。

 容姿なのか、仕草なのか、言動なのか。その原因は三十を目前にした今でもわからない。

 気心を知れた赤の他人――というのは、どういう存在なのだろう。

 星の見えない空を見上げる。

 地元の空の方がまだマシだと思いながら、どかっと座りこんだ。冷たい鉄の感覚が伝わってきてぶるりと体を震わせる。鉄道を発明した人はすごい。こんな便利で楽な移動手段、そうなかなかない。

 しかし、欠点もある。悪天候や落とし物、救護者の発生、そして事故。止まる要因が多い。そして、一度止まってしまうと、安全点検のためなかなか動かない。線路に人が入り込んだときも例外ではない。

 誰もいない特等席で、三日分の食費をつぎ込んで買った数本の缶ビール。プルタブをあければ、炭酸の抜ける音と共にアルコール臭の液体があふれ出る。慌ててじゅっと音を立て吸い込んだ途端、のどではなく、目頭がかっと熱くなった。

 誰にも認められない、居場所もない。ずっと孤独な人生など――もう耐えきれない。

 ここまでだ、と思った。このまま苦痛に耐えながら生きる意味なんてあるものか。勢いに任せ、あおるように安酒を飲み干す。

 買い込んだ缶がほぼすべて空になった頃、くわっと大きなあくびが出た。

 酒は好きだが、飲むとどうしても眠くなる。睡魔にだけはどうしても逆らえない。枕木を文字通り枕にして、寝ころぶ。地元ならカシオペヤやアンドロメダ、ペガススが見えただろうに。いい思い出なんかない故郷だが、星だけは美しかった。

 遠くで踏切の警報音が聞こえた気がした。途端、体が硬直する。

 怖い。

 覚悟をきめたはずなのに、いざその瞬間を実感した途端、決意が揺らいだ。上体をあげ立ち上がろうとした瞬間、ぐらりと視界が揺れる。それでも足に力を込めた。

 なんとか立ちあがれた。だが、平衡感覚がない。足に何か当たって倒れたのがわかった。鼻に届くアルコールの匂いで半分残っていたビール缶だと気づく。

 右に左にと振り子時計のように体を揺らしたあと、すとんと座り込む。 途端、水をかぶったかのように涙が流れてきた。

 俺は人に迷惑をかけたいわけじゃない。楽に終わらせるのなら、別に練炭でも睡眠薬でもいくらでも方法はあったじゃないか。

「――本当、要領わる」

 せめてアルコールの力が見せた幻の幸福感に包まれ、すべてを終わりにしたかったのに。神という存在がいるなら、俺は完全に嫌われている。

 まあ、普通の人間になれない俺なんか、神は最初から見放しているだろうけど。

 空を仰ぎ、目を閉じる。早く睡魔に襲われてしまいたいとこれほど強く望んだことはない。

 しかし、睡魔どころか思考は冴え、コーヒーを飲んだ後のように意識がすっと覚醒する。限界だ。ミミズのように這ってでも線路脇に逃げようとした矢先だった。

 ぐいっと腕を引っ張られた。

「へ?」

 思わず、すっとんきょんな声を出しながら、されるがまま立ち上がる。驚きのあまり涙が止まった。

 誰もいないはずの線路の中に見知らぬ男がいる。ぐしょぐしょに濡れた顔を見られたくなくて、ごしごしと腕で顔を拭った。

「星眺めながら一杯やっていたのか? たしかにこの場所は最高だぞ? それはわかる。オレも時々やるし。でも、そんなにベロンベロンに酔っぱらったら――死ぬぞ?」

 踏切の音が聞こえないのかと言われたが、俺は黙った。突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に頭は完全に覚めたが、体は言うことを聞かない。金欠でアルコール絶ちをしていたこともあってか、昔より弱くなっているらしい。けれど、相手はそこまでわからないだろう。死ぬつもりだったと悟られないように、楽しげな酔っぱらいのフリをする。

 だが、男は「家はどこだ?」「警察に連れて行くぞ」などの酔っぱらいへかける言葉はひとつもなく、ただ鼻歌を歌いながら肩に俺の腕をかけ歩く。その歩みに迷いはない。ところどころ調子の外れたきらきら星を耳にしながら、さっと血の気が引いた。

 もしかして、反社会的組織に連れて行かれて、ばらされるんじゃないか――そんな考えが沸いてしまったらそうとしか考えられない。

「も、もう、大丈夫です」

 どうにかして逃げようとしたが、「全然大丈夫じゃないじゃん。まだフラフラだよ、あんた」と男は俺を離そうとはしなかった。

「もう少しでオレんちだからさ、少し休んで行けよ」

 そう言って男が顎で指した先には、二階建てのボロアパートがあった。一階に三部屋、二階に三部屋あるが、どこも部屋に明かりはついていない。そもそも人の住んでいる気配がない。トタン屋根のついた外階段は錆だらけで、雨風が強ければ濡れてしまうだろう玄関扉は、元の色がわからない。明らかに年代物だとわかる洗濯機が、心ばかりのカバーをかけられ、階段下に置かれていた。

 白熱灯がひとつだけ灯る階段をあがる。その明かり導かれた大きな蛾が影をつくる。男二人で登れば、突き抜けてしまうんじゃないかと思ったが、大きな音を響かせながらもなんとか耐えた。しかし登り切った先、二階の廊下は突き当たりが暗い。電球が完全に切れている。

 なにか出てきそうな雰囲気があって、思わず固唾を飲み込む。

 しかし、男は階段をあがってすぐの扉の前で足を止めた。尻のポケットからなにもついていない鍵を取り出すと、出っ張っているドアノブに突っ込む。男二人並んではいるのは狭すぎる玄関だ。男は横歩きで中に入ると、器用に靴を脱ぐ。そして、俺の片腕を担いだまましゃがんで靴を脱がせようとしたため、慌てて「自分で脱げます」と主張した。

 俺の腕をしっかり掴んだまま、男は電気もつけずに奥へと進む。なにも見えず、二の足を踏んだが、男に引っ張られるような形で行くはめになった。

「痛!」

 案の定、堅いなにかがすねに思いっきり当たった。ごろんと倒れる音が響く。一瞬、人が転んだかと思ったが、堅さと角張った形、そして重さですぐに椅子だと気づいた。

「すまん、すまん。今片づけるから」

 さっきまでガンとして離さなかった手が、するりと抜けて俺はその場に座らされた。暗闇でも手触りでわかる。床は畳だ。

 男は電気をつけずに物を移動させた始めた。ざくりと何かを切り落とした音がして、びくっと飛び上がる。

 なんなんだ、一体。

 正直、怖い。寒さではない震えが襲ってくる。逃げるなら、今しかないじゃないか?

 暗闇に目が慣れ、なんとなく部屋の輪郭をぼんやりつかみ始める。これなら、玄関までこっそり行けるだろうと思った矢先、ぱっと電気がついた。顔をしかめる。目を細めながら見上げれば、明かりをつける紐が左右に揺れていた。

「はい、水」

 ラーメン屋で出されるような気軽さで、水滴のついたコップが、畳の上に置かれる。早く体を巡るアルコールを沈めたくて口をつける。火照った体に水の冷たさが染み渡った。

 明かりに目が慣れ、そっと辺りを見回す。本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほどなにもない。六畳間の部屋には、曇りガラスの窓があり、ベランダなどはない。タンスもなければ机もない。おそらく、机代わりにしているのか、みかんが入っていただろう端がへこんだ段ボールだけ置かれている。

「あんた、名前は?」

 正面に男がどかっと座る。まるで背後にある黄ばんだ襖の門番のようだ。明るいところで見ると、男はCMで見る宅配業者のように爽やかな顔立ちをしている。歳は俺とそんなに変わらないだろう。

「――工藤です」

 脳が線路から離れ安心したのか、それともようやくアルコールが利いてきたのか。つい、ぽろりと本名を口にしてしまった。慌てて問い返す。

「あ、あなたの名前は?」

「んー、そうだな。じゃあ佐々木ってことで」

 俺は片手でこめかみを押さえた。明らかに偽名だ。しかも、それを隠そうとしない。

 体内で渦巻くアルコールの暴れぶりがもう少し収まったら、さっさと退出しようと心に決めていると「工藤はさ」といきなり呼び捨てで声をかけられた。

「なんで酒弱いのに、あんなところで飲んでたわけ?」

「ま、前は、こんなに弱くなかったんですよ」

 言葉尻が小さくなりながら言う。そう、前は弱くなかったのだ。眠くはなるが、立てなくなるほどではなかった。

 しかし、質問の意図が違っていたらしい。佐々木は、酒を飲んだことを責めているのではなく、場所について問いていた。

 思わず俺は、言葉を詰まらせた。死ぬつもりだったとは言えない。心臓がドクドクと強く脈打つ。他人と話をするのも久々な俺に、うまく嘘をつける自信はないが、絶対に話すつもりもない。

 そういえば、こいつはさっき俺にこう言わなかったか?

「えっと、その――星を見てたんです」

 そう。さっき、佐々木は「オレもたまにする」と言っていた。星を眺めに線路の中へ入る、と。

 でも変だ。星ならこの二階のアパートの窓から見る方がよく見えるのではないか。線路の真横に建つのだから、空を遮るものは少ないはずだ。

 ひっかかりを覚えるものの、深く考える余裕はなかった。

「嘘だな」

「へ?」

 佐々木の自信を持った言葉に、俺は目をむく。

「本当は死ぬつもりだったんだろう?」

「な、なにを言っているんですか」

 初対面の人間にいきなりなんて失礼なことを言うんだ、この男は。しかし、本音は胸にしまい、目をそらしながら愛想笑いを浮かべる。そんなはずないと言おうと目をあげれば、佐々木の視線が刺さった。

 口元には意地悪げな微笑を浮かべているが、目は笑っていない。真実を見透かそうと草影から眈々と獲物を狙う獣の目に似ていた。

 ぞっと背筋に寒気が走り、がばっと立ち上がった。その拍子に半分ほど残っていたコップが倒れる。畳の上にこぼれた水はじわりじわりとしみこむ。

「す、すみません!」

 慌てて服の袖でふき取ろうとすれば、「いいって。別に」と佐々木は微動だにしないまま言う。

 いきなり立ったり座ったりをしたせいか、脳がくらりとする感覚があった。俺は再び座ることを選択する。本当は、一刻も早くこの場から立ち去りたかったが、しっかり自分の足でアパートに戻れるようになるまで、休まなければこの男からは逃げられない――そんな予感があった。

「どうして死にたかったの?」

 あぐらをかいて座る佐々木は、片膝を立てるとその上に肘をのせ、頬杖をついた。まるで幼子に「どうして喧嘩しちゃったの」と問いかけるような優しい声音だが、内容はそんなに穏やかなものじゃない。

 この男は、完全に俺をなめている。

「いい加減に、してください」

 絞り出すような声で俺は怒りを伝えた。体調が万全ならさっさと出て行ったのにと己の失態を後悔しながら、仕方なく目の前の男にたどたどしく自分の気持ちを言葉にする。

「勝手に決めつけないでください。お、俺は本当に――」

「違うの?」

 思わず口を閉ざした。

 嘘は悪いこと、と教える教育をこれほど恨んだことはない。

 なんなんだ、この男は。

 佐々木は、俺の本心などとっくに見抜いているとでも言いたげな風格をまとい、見つめてくる。こんな自信満々な人間に俺の気持ちなんかわかりっこない。

 なにを言っても無駄な気がして、俺は貝のように口を堅く閉ざした。そうだ。最初からこうしていればよかったのだ。わざわざ介抱してくれたからといって、恩を感じる必要はない。こいつは赤の他人。俺をなにかに利用しようとしているに違いない。

 警戒心を強めると、佐々木はそれすらわかったかのように苦笑した。

「ま、そっちがその気ならオレにも考えがある」

 びくりと肩を揺らす。なんなんだ、その台詞。まるで脅しじゃないか。

 どうせ死ぬのだと家にスマホを置いてきたのが悔やまれる。でも、まさか死のうとしたらわけのわからない人間に連れて行かれるなんて、普通思わないだろう。

 ふと、電車が通る音が耳に入る。これは、俺の人生にピリオドをつけるはずの電車だったかもしれない。線路沿いということもあり、かなり音がうるさい。都心から外れているとはいえ、交通手段として大半の人間が電車を選ぶ場所だ。朝早くから夜遅くまで、こんな騒音にさらされていたら、たまったもんじゃない。

 しかし、目の前の佐々木は特に気にする様子もなく、「よっと」というかけ声とともに寝ころぶようにして腕を背後にある襖へ延ばす。指先が縁にかかったのか、何度か滑りながらも年期の入った襖を開けた。

 暗い部屋。しかし、電気の明かりが、わずかに中のものの輪郭を浮かび上がらす。俺は思わず息を飲んだ。

 部屋の中央。天井から伸びる太いロープ。そのそばに転がる、背もたれのない木の椅子と、蛇のように畳の上に放置されたロープ。

 さっと血の気が落ちた。天井から下がるロープの先は、頭が入るくらいの輪になっている。

「ま、こういうわけ」

 俺は理解できなかった。どうしてそんな軽い調子なのか。毛の先ほどわからない。

 だってそうだろう。

 佐々木と名乗る男は、俺と違って見るからに順風満帆な人生を送ってますって顔をして、笑って、生きている。

 なのに――

「どうして」

 心の声がこぼれ落ちた。それを聞いた佐々木は、困ったように眉尻をさげる。

「宇宙人なんだってさ」

 どっと心臓が強く打った。そのあとは、なにも言わなくてもわかる。

 悔しいことにわかってしまうのだ。

「だったら、宇宙に帰ってやろうって思ってさ。学もねえのに宇宙飛行士なんかになれるわけもねえし、宇宙旅行が実現できるかもなんて言われているけど、金がねえ。まあ、そういう話じゃないんだろうけど」

 佐々木は、窓へ視線を向けた。曇りガラスでは、窓の向こうは見えない。ただ黒一色である。星は見えない。

「窓があるのはこの部屋だけだから、開けて死ねば宇宙に戻れるかなって思ってさ。スタンバイオッケーってところで窓開けたら、線路で酒飲んでるバカがいるじゃん? 一瞬、もう死んだのかなって思ったわ」

 今、吊されているロープは、予行練習として試しに設置したものだと言う。だから、この部屋に来てそうそう、佐々木は電気をつけずにごそごそとなにやら片づけていたのかと納得がいった。

「どうせ死ぬんなら、最期に人助けくらいしてもいいかなって。まあ、本当に星見て酒飲んで楽しんでたならお節介だけど」

 俺は、こいつがいなかったら死んでいたのだろう。死のうとしていたくせに、死にたくないと矛盾した言葉をこぼして。

「だからさ、オレは聞きたいわけ。どうして工藤はあそこにたんだ?」

 俺は肺一杯息を吸い込むと、口から吐いた。腹と背がくっつきそうになるくらい、長く深く。

 沈黙。

 再び踏切の警告音が、かすかに耳に届く。

「……人助けでしたよ。間違いなく」

 そう言えば、彼の顔はぱっと明るくなる。先ほどまであった、獣のような瞳が嘘のようになりを潜める。

「よし」

 そう言って佐々木は立ち上がると、心の闇が具現化したような隣の部屋に行き、ロープと椅子を持ってくる。心の残りはなくなったと言わんばかりにすっきりした表情で、嬉嬉として人生の幕引きの準備を始める。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 慌てて声をかけると、きょとんとした顔で佐々木はこちらを見下ろした。その顔には「あれ、まだいたの?」と語っている気がしてならない。

 しかし、ここでなにも言わずに帰れるほど無関心を貫き通すほど非情にはなれなかった。

「なにしてるんですか」

 口にした途端、愚問だったと思う。そんなの、見ればわかる。

 俺は口を開きかけた佐々木を片手で制する。

 この男には恐怖や後悔はないのか。

「もう立てるようなら帰れ。くれぐれも階段を降りるときは音に気をつけろよ。下の階の端部屋だけ人が住んでいるから」

 今頃は寝ているだろうがな、と佐々木は言う。

 そのとき、俺は気づいてしまった。目の前の男が偽名を名乗った理由。きっと、俺を連れ込むのを目撃されたとき、他殺に思われないよう配慮したんじゃないか? 万が一目撃されており、顔見知りとなればいろいろと面倒なことになる。

 だったら、外で話をすればよかったんじゃと思わなくもないが、俺の様子を見てわざわざ部屋まで連れてきた――なんて考えすぎか。

 動こうとしない俺にとうとうしびれを切らしたのか、佐々木は俺の腕を掴んで無理矢理にでも立たせようとした。ここまで連れてきておいて、用が済んだらさっさと追い出すなんて人としては最悪だ。

 静かに抵抗しながら、俺は佐々木に尋ねる。

「後悔はないんですか」

「ない」

 即答だった。彼にとって、居場所のないこの世の中は苦痛に違いない。

「なら! なら、ひとつお願いを聞いてもらえませんか? ――人間じゃないって言われる、俺の」

 佐々木が引っ張る力が止まった。俺は畳みかけるように言う。

 ずっと誰かにいいたかった、だけどこの歳だと恥ずかしくてもう誰にも言えなくなった台詞を。

「お、お友達になってくれませんか」

 かっと顔が赤くなるのを感じる。もし、酒が余っていたら勢いに任せて飲み干していただろう。

 いたたまれない気持ちになって、うつむいていれば「ぷっ」と吹き出し笑いが耳に刺さった。腕を掴んでいた手が離れる。さっと血の気が落ちた。きっと鏡を見たら、赤くなっていた顔が一瞬にして青ざめているに違いない。

 浅く呼吸を繰り返す。肺一杯に吸い込めば、バラバラに砕け散りそうだった。

 そうだよな。おっさんが言う台詞じゃないもんな。さっさとアパートに戻って布団に潜って寝てしまおう。すべて悪い夢だったんだ。

 今すぐに消えてしまいたい衝動に襲われていれば、落ちた手を誰かが拾う。自分の体温より低く堅い手の感覚に思わず顔を上げると、片膝立ちで俺と握手しながら、こちらをじっと見つめる佐々木がいた。

「宇宙人同士なら――まあなれるかもな」

 その目は子供のようにきらめいている。

「もう、これはいらないな」

 と、佐々木は紐や椅子を再び奥の部屋に投げ入れた。

 つんっと鼻が痛む。しかし、これは苦痛ではなく喜びから生まれた痛みだ。

 俺は握手した手に力を込め、再度尋ねる。

「俺は工藤。あなたは?」

 目の前の男はにっと少年のような笑みをこぼし、佐々木ではない名を名乗った。







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