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ヨーキ様は食べない 2022.10

 ――ヨーキ様に食べられるよ。

 山々に囲まれた人口一万人ほどの小さな町の人々は、子供が悪さをすると口をそろえてこう言う。

 よくある常套句だ。

 でも、ヨーキ様というのは、この地でしか聞かない。

 神様なのか妖怪なのか、それともその両方なのか。きっと誰も知らない。聞いても答えられないだろう。見たことなんて、ないのだから。

 コンビニは一軒、聞いたこともないスーパー、古びたガソリンスタンド、新発売のシャンプーが置いていない埃っぽい薬局、やっているのかわからない個人病院。あとは、田圃と畑と森。本屋はない。

 何もかもに取り残されたこの町が、私は嫌いだ。

 午後六時を告げる「遠き山に日は落ちて」が、町のあちこちに建てられた防災行政無線からがなり立てるように響きわたる。

 まるで山から鬼が出るから家に帰れと言わんばかりだ。音と音がぶつかり耳障りである。

 うるさい。

 両耳を押さえながら、私はひとり山の中を歩く。コンクリートで整備されていない道は、落ち葉や枝で歩きづらく、ぬかるんだ土はローファーを滑らせ、私の進入を拒む。足首まで泥が跳ね、制服のスカートには蜘蛛の巣がべったりとついていた。

 それでも私は山の奥へと進む。

 落日は砂時計のように、静かに、しかし確かに沈んでいく。

 手元に明かりなどない。きっと母さんは心配するだろう。

 まだ、この町に越してきて三ヶ月しか経っていないのだ。道に迷ったのではないかと気が気でなくなって警察に連絡するかもしれない。だけどそれはないだろう。だって、今日は遅番のシフトだ。車で片道一時間かけて仕事に行く母さんは、隣の市で看護師をしている。残念ながら、私の帰りがどんなに遅くなろうともそれを知るすべがない。

 父さんと離婚した母さんは、どういうわけかこの町に引っ越してきた。実家があるわけでも頼りになる親戚や友人がいるわけでもない。きっとそれなりの理由があるのだろうが、深夜だれもいないリビングでひとり泣く姿を見てしまっては、その理由を尋ねることもできない。

 私はこの町が嫌いだ。

 公衆電話は少なく、家の電話じゃしにくい話を、残してきた友達とすることもままならない。

「あなた、私たちのこと見下しているんでしょう?」

 人見知りである私が、この町になじむことは一生できないと、その冷ややかで悪意の塊のような声を聞いた瞬間、悟った。

 この町にある唯一の高校は、隣町からやってくる生徒もいるが、その大多数はこの町で生まれ育った人間だった。じゃがいも畑にほぼ水分のトマトが投げ込まれたようなものだ。土壌が違えば、トマトは枯れるしかない。

 町外からやってきた人間――私の存在なんて、その程度のものだ。それなのに、隣町ではなく都会と呼ばれるところから来たことが、片田舎に住む彼らの自尊心をくすぐるらしい。憧れではなく、軽蔑されたと認識する彼らの器の小ささを私は心の中で笑う。

「見下してなんかいない」

 読みかけの大切な小説から目を離し、手下を連れた女学生を睨む。

 私が一体なにをしたというのか。非難される理由などひとつもない。だが、その態度が彼らの逆鱗に触れた。

 ここにいるのは猿ばかり。

 水浸しになった上履き、隠された体育着、ズタズタになった進路希望のプリント。

 先生にはもちろん、母さんにも言い出せないまま時は過ぎる。

 学校へ向かう足取りは重い。私は悪くないのに、なぜこんな仕打ちを受けるのか。初めのうちは怒りの感情の方が強かったが、次第になにもかもが嫌になってきた。

 そして今日。

 あの小説がなくなっていた。

「どこにやったの!」

 怒りに任せ、吠えるように言葉を吐く。しかし彼らは、下品な笑みを浮かべ見下すだけだった。

「答えなさい!」

 あの本は、引っ越す前に友達がくれたものだ。本好きの彼女が遠くへ行ってしまう私に、と選び贈ってくれた本。もう何度読んだかわからない。声を聞きたくても、時間が合わなければ話すことも会うこともできない不便な世の中で、薄れ行く思い出をつなぎ止める唯一の物が、あの本だった。

 私が感情を露わにするのが愉快だったのだろう。主犯格の女学生を中心に彼らは下卑た笑いを浮かべる。

 ぷちんと胸の奥底でなにかが切れた。

 筆箱からカッターを取り出す。私は真剣だった。ヒト以下のこいつらの命なんかよりあの本は重いのだ。

 カッターの刃を見た途端、彼らの顔色が変わった。ただ、主犯格の女学生だけは変わらずに私を見下す。脅しだと思われているのだ。それがさらに癪に障った。

 息を詰め、かっと目を見開いた私は一呼吸置いたのち、その手を女の腹にねじ込んでやろうと思った。その瞬間、男子生徒が言う。

「祠に置いた」

 その祠は、町から車で一時間近くかかる山の頂上付近にあるという。徒歩で行けば五時間はゆうにかかるだろう。私は鞄をひったくるように掴むと教室を飛び出した。背後から「祠ってヨーキ様のか」「お前も悪趣味だな」という声が聞こえたが、すぐにどうでもよくなった。

 ヨーキ様に食べられるよ。

 そんな言葉を聞いたのは、母さんにお使いを頼まれて行った、町のスーパーでだった。お菓子売場でだだをこねる少年に、母親らしき女性がそう言ったのだ。大人の都合のいいように支配され、少年はお菓子を買うのを諦めた。

 バカバカしい。

 私は腹の底からどす黒い感情を吐くように、鋭く息をつく。

 ヨーキ様。

 そんなものは存在しない。

 車の走る道路ではなく、山道を行けばもっと早く着く――そう思って登ったものの、日はすっかり暮れ、夜の森は日が出ているときとはまったく違う顔を見せる。足下は暗く、前方も見通せない。自分が今どこにいるのかわからなくなる。暗闇からぬっとなにかが出てきそうで、ほんの小さな音にも飛び上がる。

 怖い。

 燃えたぎるような怒りは消え、恐怖がじわりじわりと侵蝕する。だが、明かりも交通手段もない私に逃げ場はない。この先にあの本があるのだという蛍の光より淡い希望を支えにひたすら登っていれば、階段が現れた。道路沿いにある人ひとり通れる程度の階段を登れば、少しだけ開けた場所に出た。その先に木々を背後に従えた小さな石の祠があった。街灯はない。だが、満月だったことが幸をなした。開き戸は木製だ。その中にある。そう信じ暗闇に慣れた目は、祠へと手を伸ばす。

 そのときだ。

「おい、わっぱ。誰の許可得て我の社に手を伸ばす」

 突然降ってきた声に、思わず手を引っ込め上を見上げる。

「誰!」

 木々が巨人の影のようにぬっと見下ろす。その中から人影を見つけることは不可能だ。指先が震える。震えは伝染し、足まで行く。

「ほうほう、怯えておるな。子鹿のようだ」

 幻聴だと思いこもうとした矢先、声は再び降ってきた。せせら笑う声は黒い森の中を木霊する。

 人間じゃない。

 根拠はないが、確信があった。

「久々の来客だ。食うのは少し待ってやろう」

 どきりと心臓が飛び跳ねた。聞き間違えでなければ食うと言った。

 私、死ぬの?

 嫌だと思う一方、ならばと覚悟を決める。祠に手を伸ばし小さな開き戸を開ける。「おい!」と呼びかける正体不明な声を無視し、私はその中に手を突っ込んだ。脳裏に浮かぶ別れ際の友の顔。泣いた姿など見たこともなかった彼女の泣き顔。泣かせているのは自分だと思い至った瞬間のうれしさや空しさ、悲しさのない交ぜになった感情。すべてが風のように通り抜けていく。

 あの本さえあれば、私はまた戻れる。

 根拠のないまじないを知らず知らずのうちにかけていた。

 だが、指先に触れたのは、冷たい石の感覚。じゃりじゃりとした小石が、痛覚を刺激する。本はない。

 私は糸の切れた人形のようにその場にへたり込んだ。

 よくよく考えればわかったことだ。車の免許もなく、バイクも持っていない子供が、本を盗んでここに置き学校に戻ることなど不可能だ。

 もう戻らない。あの日々は、もう二度と。

 自覚した途端、ぶわっと涙が流れた。

 戻りたい、いや帰りたい。

 小さな子供のように嗚咽をもらし、涙を流す。

 ああ、そういえば食べられちゃうんだっけ。

 置かれた状況を思いだし、さらに涙があふれる。

 母さん、ごめん。ごめんなさい。

 心の中で叫んでいたときだ。

「おい、こわっぱ。これはなんだ?」

 氷の棒のようなものが、涙をすくうように頬をなでた。その冷たさにたじろげば、「案ずるな、まだ食わん」と目の前から声がした。にじむ視界の手の甲でふき取れば、目の前に同い年くらいの少年がいた。真っ白な肌、細長い手足、大きな瞳。触れれば切れそうなくらい美しい少年だ。

 少年は月光の下、光り輝いてみえるほど白い着物を身にまとう。

「――誰」

 驚きのあまり涙が引っ込んだ。口から飴玉がこぼれ落ちるようにぽろりと言葉が出る。

「ふむ。わっぱは我のことを知らんのか。まあ、人の形で現れたのは久々だしな」

 さっきから耳にする声がその唇から流れた。ひゅっとのどが鳴る。

 私を食いに現れたのか。

 硬直する私を見下ろしながら、少年はすくった涙をぺろりとなめた。途端、大きな目がさらに開かれる。

「こわっぱ、これはなんだ!」

 そう言って少年は私の頬に流れる涙を再びすくうと口にする。

「水ではないな。どうして眼球からそんなものが出る?」

 突然のことに答えられず呆然としていると、「はよ言え」と睨まれた。

「な、涙」

「涙?」

 聞き返してきたので、私はうなずいた。

「ほう、涙というのか。どうしてこれが出たのだ? ヒトは昔から見てきた。だが、これを見るのは初めてだ。わっぱが特殊なのか?」

 私は首を横に振った。

「涙は、みんな流します。痛いときとかつらいとき、悲しいときなんかに――」

「では、我を見て悲しいと思ったのか?」

 私は再び首を横に振った。

「私、もう友達に会えないんだって思ったから。だから――」

「ほう。ヒトは己のことばかり考えているわけではないのだな」

 少年は熟考するように片手で顎を支えると、目を閉じる。沈黙が降り注いだ。この静寂を破れば食われる気がして、私は無意識に息を止める。

「よし、決めた」

 少年は言う。

「我は久々に里に降りるぞ」

 そう言って楽しげに笑う少年の正体に私は思い至る。教室を飛び出したときに背後で聞いた会話。

 彼はヨーキ様だ。


   ◇


 この町に来てからずっとモノクロで退屈で代わり映えのしない毎日。それが、ヒトではない者と関わってしまった今、ぐるんと昼夜がひっくり返るように変わった。

「おいわっぱ、遅いぞ」

 ヨーキ様は私に絡む。学校でも家でも、通学中も。人目のない瞬間に。

「これから移動教室なんで相手してられないんです」

 次の授業は、三階の一番奥にある理科室で行われる。チャイムが鳴るまであと三分。二階にある教室からはまだ間に合う距離だが、そろそろ出ないと遅刻する。

 教室に誰もいなくなった瞬間を見計らい、ヨーキ様はひょっこり顔をのぞかせる。

「ほう、そうか。ならばなぜわっぱはまだここにいる?」

 教室にずかずかと入り込んできたヨーキ様は、まっすぐ私の机の前まで来ると椅子ではなく、机に腰掛けた。教科書を探しているのだと説明したところでどうにかなるわけではない。私は手を止めることなく、「捜し物です」とだけ答えた。

 相手はヒトの形をしているが、ヒトではない。ぞんざいな扱いをすれば何をされるかわからない。

 けれど、四六時中隙あらば現れるヨーキ様に、私は徐々に張った気を緩めつつあった。この町に来てから、私にきちんと声をかけてくれるのは、母さんだけだったから。

 ああ、もう。仕方がない。

 黒板の上に設置されたアナログ時計の秒針を確認した私は、筆箱とノートを抱え走った。チャイムが鳴る前に理科室に入ることが出来たが、教室に入った瞬間、焦げ臭さが鼻をつく。

 前の授業で実験でもやっていたのか。

 あまり気にとめず、自分が座る場所まで行く。

 ふと臭いの正体がわかった。途端、くすくすと品のない笑いが周囲から聞こえる。

 理科室には、耐熱版でできたテーブルが六つあり、その周りを一テーブル六人が見合うように座る。私は隣や真正面の人間には目もくれず、ただ机の上を睨んだ。

 中途半端に燃えた教科書。端が黒ずみ、丸くなっている。まだ線香のように小さな赤い火が残っている。

 黒く燃えた部分から、かろうじて私の名前が読みとれる。

 ぐっと拳を握りしめた。あいつらはどんどん私から奪い取る。あのとき、あの小さな刃を突き立ててやればよかったと思ったときだ。

「おい、捜し物はこいつか」

 びくりと肩を揺らし、視線を落とす。テーブルの下にヨーキ様がいた。周りの生徒は座っているためか、その存在に誰も気づいていない。

 私は視線だけでうなずいた。

「使い物にならなくなっているではないか」

 ふんっと鼻を鳴らすと、「あまり旨くないのだがな」と不満そうに言ってその薄い唇をわずかに開く。

 すっと息を吸い込む音が聞こえた。途端、どこから出てきたのか、無惨な姿の教科書からぶわりと出てきた煙が、まっすぐ少年の口へ入っていく。

「うえ、まず」

 ヨーキ様が軽くえずく。同時に周囲のどよめきが、水面に投げ込まれた一石のようにだんだんと大きくなった。

「え?」

 どよめきの原因は、私の目の前にあった。

 半分燃えていた教科書が、何事もなかったかのように目の前に置かれている。驚く私にヨーキ様は言った。

「我に感謝しろ、わっぱ」

「――なにをしたの?」

 誰の耳にも聞こえない吐息のような声。しかし、ヨーキ様には届いた。

「時間を食ったのだ。我にかかれば造作もない」

 ――ヨーキ様に食べられる。

 スーパーで見かけたあの親子の姿が脳裏によぎった。


「ふざけるなよ」

 どんっと突き飛ばされ、私は転んだ。

 主犯格の女学生の機嫌は悪い。それもそうだろう。目の前で燃えて使い物にならなくなった教科書が、元通りになったのだ。私をいじめるととんでもないことが起きる――そんな噂が流れ始めた。

 彼女に荷担していた少年少女らが、次々と身を引く。私にとって好都合だが、目の前の女学生にとっては気にくわないことこの上ないのだろう。

 放課後、帰ろうとした私の下駄箱に靴がなかった。仕方なく、よく捨てられている体育館横の焼却炉の中を確かめに来たのだが、どうやらそれが今回の目的だったらしい。

 すっかり数を減らした彼らは、私がのこのこやってきたのを確認すると、髪を掴み、体育館裏へと引きずり込んだ。

 殴る、蹴る。

 無抵抗な人間に暴力をかざす。今まで直接的な暴力を受けたことはなかった。

 痛い。殴られた腕が、足が、わき腹がじんじんと熱を持つ。

 とうとう猿以下の下等生物になりさがったか、と笑ってやりたかったが、怒り狂った闘牛を前に挑発は無意味で、ただ身を守ることだけを脳は優先させる。

 このまま殴られて殺されるのか。

 それもいいと思った。こいつらの罪が露わになって裁かれれば。でも、そうはならないだろう。彼女らは狡猾な生き物だ。真実を嘘で塗り固め、自分たちの無実潔白を声高々に主張するだろう。教師もそれを嘘とわかった上で鵜呑みにする。争いごと――いや面倒事は避けたいという思いが、今もありありと伝わってくるのだから。私がいじめられていることだって、見て見ぬ振りをしている、多くのヒト。死人にくちなしという言葉が脳裏をよぎる。

 それだけは、絶対に嫌だ。

 しかし、この状況を打開するだけの策も知恵もない。腹を殴られ、うっと息を吐いた。じわりと目尻に涙がにじむ。

 そのときだ。

「おいわっぱ、泣いているのか」

 目の前にヨーキ様がいた。膝を折り曲げ、私と同じ目線のヨーキ様は、すっと手を伸ばす。ひやりとした指が涙を拭った。

「――ん、違うな」

 涙を舐めながら、ヨーキ様は料理の味見でもするかのような声音で短く言い放つ。

 私を痛めつけていた女学生の手下たちは、どういうわけか呆けた顔で、空を仰いでいた。心、ここにあらずといった様子だ。

 また、食ったのか。

 ヨーキ様は私の視線に気づくと、口角をあげた。

「我はなんどもまずいものを口にする趣味はない。だが、うまいものを食うためと思えば、辛酸も喜んで受けよう」

「なにを、食ったの?」

 おずおずと訊ねれば、ヨーキ様は「わっぱに向けられた悪意を少々」と言った。

 ヨーキ様は、時間だけでなく感情も思い出も食う。

 突然現れた少年に、遠巻きに高みの見物をしていた女学生は、悲鳴を上げながら校舎へ走って逃げたが、ヨーキ様からは逃げられない。頭のてっぺんから白い煙が立ち上がると、一本の紐のようにうねりながら少年の口へ入っていく。ちゅるり、と素麺を食べるように紐のような煙は消えていく。

「うえ、まずい」

 短く言い放つヨーキ様の背後で、ばたりと女学生が倒れた。

「我はうまいものが食いたい」

 そう言って、細く白い指が私の目尻をなでる。凍てつくような美しいほほえみを、不思議と怖いとは思わなかった。


   ◇


「ねえ、この本は読んだことある?」

 図書室で声をかけてくるのは、隣のクラスの女学生だ。高めのポニーテールは、はつらつとした彼女によく似合う。

「あるけど」

 端から聞けばぶっきらぼうに聞こえる声音。しかし、彼女が気にする様子はなく、「どんな話?」と好奇心に目を輝かせながら話をどんどん進める。

 ヨーキ様がクラスメイトの悪意を食らって以来、私をいじめてくる人間はいなくなった。だからといって、生活が変わったわけじゃない。元の静かで退屈な生活に戻っただけ。

 ここに来る前、友と過ごした色鮮やかな日常が恋しくてたまらない。

 けれど、時の流れは石をも砕く。蒔いた種が芽を出すように、わずかではあるが、私の周りも少しずつ変わっていく。

 それが顕著に現れたのは、図書委員としての活動が活発に動き始めた頃だった。

 隣のクラスの彼女とは、図書委員の集まりで隣の席だった。「めんどくさいよね」と話しかけられたことがきっかけだったと思う。

 彼女は、本をあまり読まない。けれど興味はある。そのくせ「つまらない本は読みたくない」と言う。私がそれなりに本を読んでいることを知ると「この本はどんな話?」と事前に確認しに来る。

 私は本を中心に縁を結ぶ運命を持っているようだ。

 いつの間にか、彼女とは休みの日に遊ぶ間柄になっていた。前の町にいる友へ手紙を書く――その便せんを選んでもらうこともあった。

 近頃、ヨーキ様は姿を現さない。今思えば、涙の気配を察知して現れていたように思う。

 今の私は、泣くより笑う方が圧倒的に増えたから。

 中間テストが終わり、いつもより早く帰宅する昼下がり。

 私は教室のにぎやかさを遠くに聞きながら、空を眺めていた。青い空に浮かぶ白い月。その白さを見て、ヨーキ様に会いに行こうと思った。

 ヨーキ様は私が会いたいときには姿を現してくれない。

 祠までの最短の道のりを彼女から聞いていた私は、数ヶ月前よりも早くたどり着くことができた。

「こんにちは」

 思えば、私からヨーキ様を訪ねるのは初めてだ。ここに初めて来たときはヨーキ様の存在なんて信じていなかったし、あのときは本を取り戻すことで必死だったから。

 さわさわと来客を告げるように木々がざわめく。冬に向かいつつある今、赤く染まった葉は音を奏でながらひらひらと舞い落ちる。

 あのときと同じように上の方にいるかもしれないと首をもたげていたときだ。

「何用だ」

 気だるげな声はすぐ後ろから聞こえた。振り返れば、不機嫌さを露わにしたヨーキ様が立っている。

 真っ白な着物は、赤い落ち葉によく映える。風で舞い上がった葉が模様のように見えた。

「特別用があったわけではないんです。ただ最近姿を見ないから――」

 途端、地面からわき上がるように風が吹き荒れた。自然の風ではない。とっさに閉じた目を腕で風除けをつくりながら開ける。

「我は、わっぱの所有物ではないわ!」

 怒号が雷のように耳元へ落ちた。

「もうよい。これ以上待っても無意味だろうからな!」

 食ってやる、とヨーキ様は吠えた。

 その声は、私の心臓を締め上げるには十分だった。

 そうだ。ヨーキ様は元々私を食べるつもりだった。だが、不思議と恐怖心はあまり沸かない。それどころか、恐れよりも怒りの方が勝った。

「ヨーキ様のバカ!」

 風に舞う落ち葉が、わさわさと音を立てる。私はかき消されないよう、腹の底から叫んだ。

「所有物なんて思ってない! 友人を訪ねに来て何が悪い!」

 吹き荒れる風のせいで私は目を開けていられなかった。だから、気づかなかった。少年の顔に驚きの表情が浮かんでいることを。

 しばらく耳元で風が唸る声が続いたあと、「そうか」と言うヨーキ様の声を聞いた。

「ならばここで食う」

 ああ、やっぱり食べられてしまうのか。

 でも、後悔はない。この町に来てこの祠で出会わなければ、私は今もモノクロの世界で息を殺し生きながら死んでいた。

 何を食われるのかわからない。存在ごと食らってしまうことができる者だ。

「ありがとう」

 吹き荒れる風の中、無理に目を開けば、美しい少年と目が合う。見間違いだろうか、その両目は濡れているように見えた。

「さよならだ、わっぱ」

 それが最後に聞いたヨーキ様の声だった。


   ◇


 長く厳しい冬が過ぎ、春の陽気が降り注ぐ頃。

 私は友人と一緒に山に入っていた。娯楽が少ないこの場所で、春先の山に入り山菜を取ることが、彼女の一年で一番の楽しみだという。

 正直、変わっている。

「この先にヨーキ様の祠があるの」

 そう言うなり、彼女は野兎のように駆け出す。

 日陰にはまだ雪が残るが、日当たりのいい場所では新芽が生え、着実に春の足音を感じさせる。

「ねえ、ちょっと待って。早いって」

「早くないから。ほら、急げ急げ」

 彼女を追いかけるように階段を登る。麓の町よりも標高が高いせいか、吹く風は冷たい。まだ木々に葉はなく、丸裸であった。

 まるで骨のような木々に囲まれた祠は、静かにたたずむ。

「知ってる? 悪さをするとね、『ヨーキ様に食べられるぞ』って言うの。私、子供の頃よく親に言われた」

 彼女は祠の前で手を合わせたあと、私にそう言った。

 私は笑いながら、彼女に教えてあげる。

「ヨーキ様はね、食べないこともあるんだよ」と。







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