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籠の中の鳥 2022.2★

 赤く染まった両手を見て、もう後戻りできないことを深く自覚する。心臓はうるさいくらいに鳴り、手先は氷のように冷たい。だが、思考停止する脳に対し、感情は腹の底からわき上がる。その中には、寒空の下、缶コーヒーで温まるような安堵感があった。

 ――人間と同じなのね。

 血濡れた手を見て思う。

 カーテンを閉め切った部屋は暗く、ベッド脇にある照明のみがその様子を浮かび上がらせる。ごうごうと鳴る換気扇がうるさい。住み慣れたアパートが知らない場所のようだ。

 物言わぬテレビ、温もりのないベッド、同じような服ばかりのタンス――それらすべてが、じっと私を見ている。逃れられない。私の一部のはずなのに、見知らぬ他人のように見張っている。もちろん、思いこみだということはわかっている。だが、そう感じずにはいられない。

 世の中のすべてが私を非難している。

 ふとカーテン近くにある鳥かごが目に入った。引っ越してきたばかりの頃に飼い始めた文鳥のものだ。黒い円柱型の鳥かごは、自立したポールに引っかけられ、おしゃれな照明具の置物のようになっている。

 もちろん、からっぽの鳥かごが光ることはない。

 それに飛び立ってしまう鳥もいない。

 息を吐く。どうやら無意識のうちに止めていたようだ。緊張をほぐすように大きく息を吸えば、血の濃い匂いが鼻を刺激した。賽は投げられた。もう見て見ぬ振りはできない。

 再び血に染まった手を眺めたあと、床に転がるそれを見た。

 猿轡(さるぐつわ)をされ、気を失っている少年。

 彼を中心に広がる赤。絨毯に染み込んだそれは、赤というより黒に変わりつつある。まるで大きな穴が口を開けて待っているかのようだ。

 その気持ちもわからなくない。

 陶器のようになめらかで美しい肌に、長いまつげが影を落とす。絡まることを知らない絹糸のような黒く柔らかい髪が、頬にかかり可愛らしい唇を少しだけ隠していた。

 横たわった四肢はぴくりとも動かない。だが、時期に目を覚ますだろう。

 少年は死んではいない。

 ひざを折ってかがむと、顔にかかった髪を(のぞ)いてやった。

 罪悪感と共に愛おしさが胸を突く。血の匂いは罪の匂い。だが、甘美な香りであった。

 これで少年はもう逃げられない。

 赤黒く染まった絨毯には、手のひらほどある羽根が至る所に散らばっている。まるで猫が鳥を襲ったような有様だ。

 事実、その通りである。

 少年の背中には肩胛骨あたりから、眩いほど白い翼が生えている。だが、今は片翼しかない。

 もう片方は、私が切り落とした。

 翼をなくした彼は、もう二度と飛ぶことはできない。それは、彼が本来戻るべき場所に戻れないということ。帰る場所を私が奪ったのだ。

 片翼の天使。それが今の彼。翼を切り落とした私は、彼を守らなければならない。矛盾していると自分でも思う。だが、仕方がないのだ。こうでもしなければ、彼は私の元から消えてしまう。それこそ、自由気ままに吹く風のように。

「……みずぐち、さん」

 影を落とすまつげを持ち上げ、焦げ茶色の瞳が私を映す。かすれた声は、煙のように儚げに消えた。額にかかったままの髪は、汗で張り付いている。翼は彼にとって体の一部だ。それを切り落とすのは、相当な苦痛を伴うに違いない。

「ごめんね」

 横たわったままの少年の頬を指でなでる。額に張り付く髪もすいてやった。冷たい私の指先とは対照的に、彼の体は燃えるように熱い。体の内側から身を焼かれているのではないかと心配になるくらいに。

 温度差が気持ちよいのだろう。

 私の指が触れる度に彼は、顎をあげる。もっとなでて欲しいとアピールする猫のようだ。それがとても可愛い。

「一緒に奈落の底まで落ちようね」

 ぽろりとこぼれた心からの言葉。

 天使である少年は二度と帰れず、人の手を借りなければ生きていけない生き物に成り下がった。天使の翼を切り落とすことは、どう考えても大罪。私の死後は、安らかとは無縁のものになった。

 それでもいい。

 死後がどうあれ、私は今幸福である。なら、それでいいではないか。

 哀れな天使だ。私なんかに近づいたせいで天使でいられなくなったのだから。

「ごめんね、トバリ君」

 おかしいな、と私は思う。言葉は謝罪を口にしているのに、口角は自然とあがる。

 そこにいたのは、人の皮をかぶったちぐはぐな化け物だった。


 私の中にいる化け物の存在に気付いたのは、約一年前。私が祖父の見舞いに母親を連れて病院に行ったときだ。

 祖父は入院する前から認知症を患っており、私の顔を見ても孫だと気づかない。だからといってまったく知らない人間でもないらしく、若かりし頃の知人の一人だと思っているようだ。

 そんな祖父に顔を見せ、よくわからないことを言い出す祖父に笑顔で何度も自分の名前を伝える。祖父は私の名前を繰り返す度に「知らない」という表情を浮かべ、そしてまた「誰ですか」と尋ねてくる。もう何十回と繰り返せばうんざりする。入院している祖父の世話は母に任せ、私は病院の中庭に出た。

 白い病棟と病棟の隙間にできた小さな中庭だ。背の高い木はなく、ツツジが囲うように植えられ、合間の花壇に色とりどりのパンジーが咲いている。ボランティアで整備されているのか、「花の会」と書かれたプレートが傾きながら花壇に刺さっていた。

 誰もいない中庭のベンチに座って時間をつぶす。見上げれば、病棟に切り取られた狭い空があった。

 何をするわけでもなく、ぼんやりしていれば鳥のさえずりが耳に届く。ゆっくりと時間の流れに身を任せていると、救急車のサイレン音が近づいてきた。誰か運ばれてきたようだ。人ひとりの命の炎が、大きく揺らめく瞬間である。医者は、その消えそうな灯火を消さないために手を尽くす。病院とはそういう場所だ。ここには今にも消えそうな灯火が集まる。死に神がくしゃみをしただけで消えそうな命がたくさんある。

 私は医者ではないので何もすることができない。血のつながった祖父にすら忘れられてしまったのだ。彼のためにできることは、もう何もないのと同然だった。

 ――暇だなあ。

 近くのコンビニにでも行こうかと立ち上がったときだ。ドンっと何かがぶつかる音が耳に届く。はっと音のした方をみれば、頭を抱えた少年が建物の影でうずくまっていた。

「大丈夫?」

 駆け寄りながら声をかける。面倒な場面にはち合わせてしまったと苦々しく思いながら、誰か呼べばいいのかと考えを巡らせたときだ。

 頭を抱えたままの少年と目があった。その瞬間、とん、と得体の知れない感情が胸を貫いていった。思わず足が止まる。きっと、大多数の人間が目を奪われる――そんな絵に描いたような美少年が目の前にいた。

「だいじょうぶです、気にしないで」

 壁を支えに立ち上がった少年は、そう言うなり足を一歩一歩引きずるように動かす。まるでその場からすぐに離れようとしているみたいだった。脳裏に野良猫とはち合わせてしまった小鳥の姿が浮かぶ。

 私に背中を向けよたよたと歩く姿に、守らなければという母性本能と美しい顔を歪ませたいという欲望が入り交じる。それを、唾を飲み干すように押さえ込むと、少年にベンチで休むよう促した。

「ちょうど暇を持て余していたの」

 自販機で飲み物を二つ購入し、少年へ一つを手渡す。笑顔を張り付けたまま接すれば、少年も少しだけ警戒心を解く。

 少年はトバリと名乗った。どういう漢字を書くのかわからないが、不思議な名だ。この病院に入院しているのと問えば、トバリ君は曖昧に笑った。

 真っ白い開襟の服を着ているのだ。おそらく患者だろう。ならば、デリケートな話題でもある。触れられたくないと思い、それ以上質問するのはやめた。

 私はちらりと彼を盗み見る。

 トバリ君はやはりとても美しい少年だ。

 髪、肌、顔の造形はもちろん、爪の形や指の長さ、浮き立つ鎖骨の艶めかしさまで、名匠によって作られた美術品のような美と気高さと妖艶さを併せ持つ。こんな子が存在していいのだろうか。

 年下の少年、おそらく十五歳くらいの子供とたわいのない話で時間をつぶすはずが、気がつくと花のつぼみのような唇やおろしたての石鹸のように無垢な首筋に目がいく。そぞろな思考。どろどろとわき出す欲望。そんな自分に目を背ける。

「そろそろ行かないと」

 そう言ってトバリ君はベンチから立ち上がると、くるんと振り向き「これ、ごちそうさま」と私が買ってあげた缶を持ち上げ微笑んだ。

 今度はドンっと私の胸が高鳴った。

 呆然とする私を置いて、彼は病棟へと駆けていく。

 彼の姿が見えなくなったあとも、私は少年が消えた先を眺め続けた。そっと手を胸にやる。大きな風穴が空いている気がしたが、そんなはずはない。ただ、頭の中は彼の微笑で埋め尽くされていた。一体、彼はどこの誰なのか。知りたいことは山ほどある。

 遠くから名前を呼ぶ声で我に返った。顔を上げると母がこちらに寄って来るのが見えた。ようやく長い時間つぶしは終わったはずなのに、その声は煩わしく聞こえた。

 もう会うことはないだろう。

 そう思っただけで胸が引き裂かれる気がした。帰りの車の中で、母にそれとなく聞いてみたがそんな子は知らないという。

 少年は、一度出会ってしまったら最後、そう簡単に忘れることができない。それほど強烈な印象を与える存在だ。院内で話題にならない方がおかしい。

 白昼夢だったのだと割り切ることもできず、空っぽの鳥かごを眺めては、飼っていた文鳥を逃がしてしまったあの日を思い出していた。


 私が再び彼に会ったのは、祖父が亡くなる三ヶ月前のことだった。

 祖父にとっては他人である私の顔など、もうどうでもいいはずだ。この日も適当な時間になったら、中庭に向かい、少年の訪れを待つつもりで母に付き添う。どこにいるのかもわからない人を健気に待ち続ける。まるでお伽噺に登場するお姫様のようだ。

 だが、諦められない。トバリ君は実在する――そう信じないと気が狂ってしまいそうになる。綺麗な思い出にするには、あまりにも彼の存在は私に爪痕を残しすぎた。太陽の温もりを知ってしまえば、小さな蝋燭で暖をとろうとは思わないだろう。

 母のあとに続いて病室に入る。個室には、小さな冷蔵庫に荷物入れ、見舞い客用の椅子があるだけで、大それた医療器具の類は見当たらない。たまに点滴をしている姿をみるものの、やせ細った肉体と会話が通じないことを除けば、至って健康そうに見える。

「お父さん、着替えを持ってきましたよ」

 耳が遠い祖父にも聞こえるよう、母は普段より大きな声で話しかける。

 この日は珍しく、上体をあげた姿勢で窓辺をじっと見ていた。何が見えるのだろうと、つられて視線の先を見るが目ぼしいものは何もない。強いて言えば、窓越しにもやでもかかったような曇り空が広がるくらいだ。その中を黒い点が横切る。鳥だ。この距離からだとカラスなのかスズメなのかハトなのか、そこまではわからない。

 外に出たいのだろうか。ふと、かごの中にいた文鳥が脳裏をよぎる。あの子は自由を得られたかもしれないが、同時に安心を手放した。もはや生きてはいないだろう。

 感傷に浸っていたときだ。視線を感じ見れば、祖父と目があう。

 途端、閉じていた貝殻が口を開くように目をかっと開く。びくりと体を震わせたときだ。

「来るな!」

 大きな声が病室中に響いた。

「来るな来るな来るな来るな来るな! 目の前から消えろ悪魔め! 死に神め!」

 その豹変ぶりにただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 母が必死になだめていたが、暴走する雄牛のような祖父を止めることは難しい。

 逃げるように病室を出た私は、その足で中庭を目指す。

 母はあまり気にするなというが、無理な話だ。別に傷ついているわけではない。祖父の言葉は的を射ている。だが、今更な話だ。

 呆けた老人の妄言か、それとも心の底で封じていた本心か、そのどちらなのかはわからないが。

 ベンチに腰掛けふっと息を吐く。煙のようにたゆたうと、白い空に吸い込まれるように消える。

 季節は移ろい、時間は積み重なる。緑の少なくなった中庭に来る物好きはそうそういない。

 自動販売機で買った缶コーヒーで暖をとりながら、少年が現れるのを待った。

 端切れのように切り取られた白い空に、翼を広げた鳥が横切る。方角的に病院の裏手にある山の方へ向かっているようだ。餌があるのか、それとも巣があるのか。決して手の届かない場所を悠々と横切っていく。

 あの少年も逃げたのだろうか。

 子供は動物のように敏いと聞いたことがある。もしかしたら、私が必死に隠した邪な感情も彼には筒抜けだったのかもしれない。

 動物の世界は、常に生死が表裏一体だ。ほんの少しの油断が命を落とす。だから、過剰すぎるほど臆病で勘が鋭い。だが、人間は違う。平和な国ならなおさらだ。常日頃から自分の命の終わりを肌で感じる人間は、滅多にいないだろう。

 だから悪意に囚われる。警戒などなく飛び込んでしまう。蜘蛛の巣に絡まった蝶のように。蜘蛛だって、飛んでいる蝶には手を出さない。しかし、糸に絡まれば話は別だ。

 私は、平凡な人間だ。今までそう思っていた。だけど、そうではないと気づいてしまった。糸に獲物がかかった瞬間、自分の中に眠っていた本性がそっと瞼をあける。

 また会いたいという願望と、このまま姿を現さないでと願う気持ちがぐるぐると私という器の中を駆けめぐる。だが、私の欲望はきっと前者にあるのだろう。彼のためを思うのなら、私は中庭に来なければいい。私という怪物の目を覚まさせたくないのなら、そうすべきなのだ。

 だが、私は寒空の下、ベンチで何時間も彼を待っている。もう止まれないのだ。自制心ではどうにもできない。理性など怪物にはないのだ。

 この寒さだけが、今の私を押さえ込んでいる。そう思えば、少しだけ救われる気がした。

 このまま、目覚めかけた狂気が凍り付いてしまえばいいのに――そう願ったときだ。

「あの、寒くないんですか?」

 その瞬間、かっと腹の底の怪物が吠えたように感じた。夢に見るほど待ちこがれた声だ。聞き間違えるはずもない。

 少年の気遣うような視線とは裏腹に、目覚めた化け物は静かに獲物を捉える。

「うん――大丈夫」

 何が大丈夫なのか。全然大丈夫なんかではない。

 寒さのせいだろう。頬を赤く染めた少年がベンチの前に立っている。人の気配にも気づかないほど己の世界に没頭していた自分が恥ずかしい。だが、今はそんな恥ずかしさよりも再び少年が現れたことへの歓喜の方が勝っている。

「トバリ君は――寒くないの?」

「僕?」

 あざとらしく、こてんと小首を傾げる。白い患者服しか着ていない彼の方がどう見ても寒いはずだ。薄着のせいか、袖から延びる手首や足首の細さがどうしても目に留まる。

「僕は寒くないよ」

 手先は冷たいけどね、と言って川の水をすくうように私の手を握る。缶コーヒーで暖めていた指先は、あっという間に熱を失う。しかし、私の体の奥深くは湯水があふれ出したかのように熱い。

「ほらね」

 無邪気な笑みに私の中の化け物が爪を立てる。早くここから出せと暴れ回るそれを必死に押し込める。最後の砦は、世間体。お前を解き放てば、犯罪者になるぞという脅しだけが化け物をつなぎ止めた。

「……ほんとうだね」

 氷のように冷たく、白魚のように透き通った手を温めるように包み込む。このまま、私の手と彼の手がくっついてしまえばいい――そんなことを思いながら、精一杯の笑みを浮かべる。

「こうすれば、温かいでしょう?」

 張り巡らせた糸に飛び込んできた蝶にも非はある。そう思わずにはいられなかった。


 私の中の化け物が暴走したのは、祖父の遺体を運んだ火葬場でのことだ。

 普段顔を合わせない親戚が集まり、気を使いながら着慣れない礼服に腕を通す。それだけでも疲労はたまるのに、意味不明な経をずっと聞いていなければならない。退屈だ、と顔に出さないよう気を張る。

 祖父の晩年は認知症を患っていたとはいえ、死は生との離別だ。それは死者だけの話ではない。残された生者にもいえる。深く縁を結んだ者ならば、何も思わず送り出すことはできないのだろう。洟をすする音を聞きながら、人の形をした祖父に別れを告げる。待ち時間は、控え室にいた方がいいのだろうが、息苦しくなってそっと飛び出した。

 ぼんやりと空を見上げる。火葬場の空は、病院の中庭とは違い、両手を広げてもその大きさを表現できない。黙々と上る煙は、祖父の体を焼いているのだろうか。「悪魔」と罵られた声が耳元でよみがえる。その悪魔は、私の中で着実に大きく育っている。だが、これ以上大きくなることはないだろう。もうあの病院に行くきっかけを失ったのだ。

 ほっと息を吐く。

 人間のままでいられたことに対する安堵か、それとも獲物を取り逃がしてしまった落胆か。もしくはその両方か。今になってはどうでもいいことだ。

 そろそろ戻ろう。そう思ったときだった。

「え?」

 目を疑った。こすってみてもそれは消えない。

 どういうこと――。

 とうとう幻覚まで見てしまったのか。空に上る一本の線のような煙。その中心を旋回する一羽の鳥。――そう、鳥だと思ったあれは鳥ではない。

 天使だ。少なくとも私はそう思った。場所が場所だからかもしれない。だが、驚いたのはそこだけじゃない。

「――トバリ君」

 患者服だと思っていた白い服は、真っ白な翼によく似合う。黒髪に焦げ茶色の瞳は、西洋画に描かれている天使とは異なるが、新雪のように一切の汚れがない翼は、天使の翼そのものである。

 この距離だ。私のつぶやきなど聞こえないはずなのに、空を飛ぶ少年と目があった。少年は羽ばたくのを止め、その場にとどまった。一瞬の沈黙。心臓がうるさい。

 空を自由に飛ぶ彼を捕らえるすべは、私にはない。このまま、飛び去ってしまうのかと思ったときだ。彼は、こちらに向かって羽ばたいてきた。

「まさかここにいるとは思っていなかったよ」

 少年は美しい翼を折り畳み、私の前に舞い降りる。顔に受ける風が夢ではないことを物語っていた。

「僕の姿が見えていたから、見える人なんだろうなってことはわかっていたけど――完全に僕のミスだなあ」

 てへへと笑う少年からは、あまり罪の重さを感じない。人に見られていいのかと尋ねれば、少年は困ったように笑う。それだけで、よくないことはわかった。

「残念だけど、僕と出会ったことは忘れちゃうだろうね」

 あまりにも朗らかな口調で話すものだから、理解するまでに時間がかかった。

「僕らの存在は知られてはならないものだから。遠目からなんだあれ? 程度なら大丈夫だけど、今回はさすがにね。――僕にも罰が下るだろうな」

 最後の言葉は、誰にも聞かせるつもりはなかったのだろう。ぽろりと実が落ちるような声だった。少年が言うには、ここに仲間が来るのだと言う。彼らが私からトバリ君の記憶を奪うのだ。

 ――そんなことさせるものか。

 私はありったけの人の良さそうな笑みを顔に張り付けると、彼の手を取った。壊れ物を扱うようにそっと握る。彼の手は、私の手より温かい。

「――それなら最後にお話しない?」

 そう言えば、彼はほんの少しだけ考え込むような様子を見せると、小さく頷いた。

「じゃあ、ちょっとこっちに来て」

 彼の片手を握ると、引っ張るように前へ行く。

 化け物の檻はもうない。つながれた手を離す理由はどこにもなかった。ここにいる必要だってない。死んだ祖父より、大切なものがある。もうこればかりは、誰にも譲れない。

 私は彼を車に乗せるとアパートに向かった。

 そして――。

「一生、面倒を見てあげるからね」

 片翼をもぎ取られた天使の頬を冷たい手でなでる。もう二度と籠から逃げないように。私の中の化け物が、満足げに微笑んだ。


  ◆◆◆


 言葉と表情が一致しない女を薄めで眺めつつ、少年は心の中でほくそ笑む。寸分も狂わぬ予想通りの展開に、笑いを堪えていれば片腹が痛い。

 狂うほど欲しかったものが手には入ったのだ。大いに油断しきっている女は、毛の先ほども思わないだろう。

 すべて、こちらの思惑通りだということを。

 そもそも女は、この人間ではない生物を一体何と勘違いしたのだろう。もちろん、容易に想像はつく。その勘違いを利用させてもらったのだから当然だ。だが、それをさす言葉を口にすることはもちろん、心の中で思うだけでも反吐が出そうだった。

 この翼だけで「あれ」だと思い込む。これだから人間は利用しやすい。餌を与えられた野良猫でももう少し警戒心を抱くというのに。愚かな生物だ。だが、それを利用しているのだから賢くなられても困る。

 彼女の中に狂気的な欲望が渦巻いているのは、何年も前からわかっていた。でなければ、可愛がるあまり翼を折ろうとして文鳥を逃がすはずない。

 女の愛は歪んでいる。手元になければ安心できないほどに。

 むしろそれは、こちらにとっては都合がよかった。

 そろそろ人に寄生しようと思っていた矢先だったこともある。

 尽くしてくれる人間であればそれだけでいい。そこに性別や年齢、地位や権力などは関係ない。光など届かない奈落の底に落ちるほど、僕の虜になればそれでいい。

 当然だが、女に語った仲間などいないし、記憶を消す方法など知らない。ただ、そのちょっとした嘘や行動が女の中の化け物を刺激した自覚はある。

 僕はただ、その欲望という名の化け物を狭い檻から解き放っただけ。

 誰も損などしていない。むしろ僕も彼女も良いこと尽くしだ。

 片翼をなくし、籠の中の鳥になった?

 いいや、違う。囚われたのはこの女の方だ。

 その命終わるまで、得体の知れない生き物――言うなれば悪魔に尽くすのだから。

 欲望に狩られたせいで。

 あーあ。哀れな人間。

 翼などトカゲの尻尾のように自然に生えてくるのに。もちろん、気づかれないように隠す。

 僕はまた飛べるのさ。でもそれは、君が僕に尽くす間は秘密にしてあげる。



 だから、ずうっと

 ――仲良くしてね。








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