『月が綺麗』と言わないで 2021.10
花巻一生の第一印象は、絶対に関わったらダメな奴――であった。
何せ、女の子と見間違えるくらい顔が整っている。それも、野に咲く小さな花のような可愛らしさではなく、薔薇のように人目を惹き傷つけることを厭わない苛烈な美の顔だ。
男子校でそんな奴がいたら絶対に放って置かれない。
名のある政治家や実業家の子息も入学する中高一貫私立校、北園学園は一般家庭の子供でも入学可能だ。関東圏内にありながら広大な敷地を持ち、馬や牛などが放牧されているかと思えば森林に入れば滝があったり野生動物と遭遇したりと、勉学だけではなく自然からも多くを学べることをコンセプトにしている。最新の設備だけでなく世界で活躍する芸術家やスポーツ選手、俳優などを招き講義や講演を行うこともあり、多様性に触れる機会も多い。それだけではなく、授業も単位形式で基本的に自分の好きなように時間割をつくることができ、メンタルヘルスケア専門の医療者やカウンセラーを常駐させているため、親元から離れた寮生活を安心して過ごすことができる。
大人からみれば、まさに理想の学習環境だろう。そこに学費も一般家庭の年収でも頑張れば何とかなるとくれば、人が集まらないわけがない。当然のことながら倍率は高く、自然と優等生が集まる。
コンサートでも始まりそうなホールでふかふかの椅子に座りながら入学式を終え、指示された部屋に入ったとき。それが花巻一生との初対面だった。印象は先の通り。平穏な学生生活を送りたいのなら、その他大勢の石ころになっていた方がいい。
見渡せば、不安そうな顔をした男子中学生が十数人。円を書くように置かれた椅子に座っている。どうやら、これがこの学園のクラスらしい。担任だという中年の男は柔和な笑顔で接してきた。
「では、まず最初に自己紹介から」
そう言って、右隣の生徒を促す。戸惑いつつも名前と出身、そして聞きたくもないのにさらりと親の紹介を入れる。次の生徒も同じような自己紹介をし、もはやそれがテンプレートのように流れ始めた。吐きそうになるため息をそっと飲み込む。もんもんとした気持ちのまま自分の番になったとき、迷わず名前と出身地だけ言って強制的に終わらせた。周囲の続きを促す視線を無視して隣の生徒に「どうぞ」と言ってやる。
親が誰とか何をしているとか、そんなのどうでもいいのがこの学園の魅力だと思っていたのに。張っていた肩がすとんと落ちてしまった。
隣にいた生徒は、今まで通り親の紹介を入れてくる。それが当然だという空気が気にくわない。これから長いつき合いになるだろう同級生たちの名前を覚える気にもならず、適当に聞き流していたときだ。
「名前は花巻一生。最初に言っておきますが、男に興味はありません。なので、告白とか気持ち悪いことをしてこないでください」
それだけ言って次の生徒にバトンを渡した。呆気にとられた面々の視線をものともせず、彼は背もたれに寄りかかる。
正直なところ、自己紹介などなくても彼のことは大半の人間が知っている。この国屈指の実業家を父に持ち、美貌もさることながら実力派として名を馳せていた女優を母に持つ。
そんな彼とお近づきになりたいのか、それともその美貌を拝みに来たのか、彼の周りには常に人の垣根ができている。
台風の目のようだと思った。彼の姿など見えなくても人が集まっていれば「花巻一生がいるのだろう」と察しがついたし、それは間違いでもなかった。
同じクラスメイトであっても、自分には関係はない人間であったし、仲良くなりたいとは思わない。ただ、あの自己紹介は割と気に入っていた。
しかし、花巻自身がきちんと「男に興味ない」と公言しているにもかかわらず、彼に熱を上げる生徒は一定数いた。そのたびに彼は、虫を払うかのように邪険に扱うらしい。中にはラブレターなど、携帯電話が普及した世の中ではちょっと珍しい手法で想いを伝える者もいて、とうとう花巻は自分の下駄箱に鍵を取り付けることまでしてしまった。
それを人伝えに聞きながら、優れた容姿を持つと大変だなと他人事のように思っていた。自分には関係のない世界だと。
でも、そうも言っていられなかった。次第に面と向かって告白する勇気もない奴らが、ラブレターをクラスメイトや花巻の友人らを通して渡そうとしてきたのだ。
さすがにこれには困り果てた。
「話したことないから」ときっぱり断り続けてきたのだが、そんな事情など知らぬ存ぜぬと一人の横暴な高等学部の先輩にしつこくつきまとわれるはめになった。
花巻に対する印象は間違いじゃなかった。関わればろくな目に遭わない。しかし計算外だったのは、こちらがいくら遠ざけようとも、同じクラスである以上、虫を魅了する花の香りからは逃げられないということだ。花巻のクラスメイトは他にもいる。余所をあたってほしいと心底思うのだが、どうもこうも先輩はそうしない。
遅かれ早かれ生活に支障が出てしまう。先生に相談しようかと思っていた矢先だった。運悪く例の先輩に捕まると、何度もみた封筒を差し出してきた。それに対する答えも決まりきっている。迷惑しているのだと顔に出しながら定型文を口にすれば、なにか切り札でもあるのか、にたりと口角をあげた。
そして――。
「お前、両親いなくて金に困っているんだろう? 渡してくれれば小遣いやるよ」
途端、キーンと耳鳴りがひどくなった。にやにやしている目の前の男は、地雷を踏み抜いたことに気づいていない。当然のように食いついてくると思っている。
金、かね、カネ、金。そう言えば尻尾を振って従うと信じている。
まったく、反吐が出る。
先輩の手から手紙を奪えば、彼は満足気に笑う。その顔の前で気色悪い手紙をびりびりに破いてやった。したり顔から表情がすとんと落ちる。ここまで表情が変わるものなのかと興味深く眺めていれば、頬に衝撃が走った。痛みと熱が遅れてやってくる。赤い顔で歯をむき出しにし、鋭い眼光を向けられたが、謝るつもりはなかった。そもそも悪いのはどちらだ。言葉でわからないのなら、態度で示すしかない。
だから戦争はなくならないんだな、と目の前の状況を無視し傍観者のように大きな視点で世界に思いを馳せていれば「ふざけるな!」と怒鳴られた。
相手は高等学部の男子生徒。どうしても体格や身長に差がある。だが、怯む心はなかった。不思議と冷静な頭で相手を見上げる。それがなおさら気にくわなかったらしい。
「金のない貧乏人のくせに、楯突くとは何事か」と時代遅れな台詞をはち切れんばかりの大声で怒鳴る。どんなに丹誠込めて作った野菜でも腐るものは腐る。それは人間も同じだなと手を出しそうになる自分を必死に押さえていたときだ。
「何をしているお前たち!」
騒ぎを聞きつけたのか、男性教員が二人駆け寄ってくる。その後ろにいたのは、花巻だった。
「先輩が彼を殴ったんです」
狼狽え逃げ出そうとする先輩をもう一人の教員が捕まえると、終始様子を見ていたかのように花巻が説明する。その滞りなく端的に述べる言葉に教員たちも納得したようだ。
「彼は僕が保健室に連れて行きます」
そう言って花巻が腕を掴んできたものだから、思わず振り払ってしまった。
「行く必要はない」
殴られはしたが、怪我はしていないので不要だ。そう思っての言葉だった。だが――。
「そんなに鼻血が出てるのに?」
言われて鼻下を拭えば、べっとりと鮮やかな赤色が手の甲につく。その量と色に驚いていれば再び腕を掴まれた。今度は振りほどかず受け入れると、早く行きたいと言わんばかりの強い足取りで進む。怪我人をいたわる気持ちのない歩みに、一度転びかけたが何とか踏みとどまった。階段を降り、教員たちからある程度距離をとったところで腕を放された。まだ、保健室にはついていない。いぶかしげな視線を向ければ、ぱっと振り向いた彼は天使のごとく微笑をたたえていた。
そして――。
「お前、最高だな!」
そう言うなり、くつくつと笑い出した。その笑いは天使というより悪魔だ。まだ、止まることのない鼻血が唇の隙間に流れ込んでくる。どろりとした感触と鉄臭さに再び手の甲で拭った。
こいつとは関わりたくない。
一人で保健室まで行こうとすれば、「待てよ」と笑いを含んだ声をかけられる。無視してやろうかとも思ったが、思うところがあったので足を止めた。振り返れば、妖艶に微笑む悪魔がいた。
「あいつには迷惑してたんだ。それをお前、目の前でラブレターを破くなんて――傑作だったな、あいつの顔」
くつくつと笑う花巻を冷めた目で見据える。疑念は確信に変わった。
「――お前、最初から見ていたな」
そう言えば、悪びれる様子もなく「まあね」と答えた。
「助けてほしかった? そこは謝るよ。でも教師たちを呼んでやっただろう。それとも他に礼がほしいわけ?」
にこにこと言う花巻を睨みつける。
「いいよ、いいよ。特別に僕ができることなら何でもしてあげる」
反吐が出る。どうしてみんな、こんな悪魔みたいな奴に群がるのか。理解できない。慈母のように「何でも言って」と柔和な雰囲気を纏っているが、花巻一生は猛毒を持つ大輪の薔薇である。その本質を見間違えてはいけない。しかし、こうなってしまった以上、仕方がないだろう。そっと息を吐くと鼻血を拭い、まっすぐ向き合った。
そして――。
「さっきあいつから聞いた話を忘れろ」
屈辱に顔を歪ませないよう耐えながら、本心から望む願いを言えば「それだけ?」と不思議そうな声が返ってきた。他に何を望むというのか。目をすがめれば、花巻は花がほころぶように笑った。
「わかった」
上機嫌な花巻は、鼻歌でも歌いそうな雰囲気で保健室まで同行した。一刻でも早くそばから離れたくて、一人で行けると言えば「先生たちの前でああ言った手前、そうもいかないだろう」と言う。とんだ猫かぶりな男だと思った。
◇
それ以降、花巻一生が声をかけてくることが増えた。こちらは学園の注目を浴びる猛毒隠しの可憐な華には興味ない。しっかり態度で拒絶するものの、花巻は嫌がらせのようにやってくる。こんなことなら、あのとき金輪際かかわるなって言っておけばよかったと先立たない後悔をしている。
いつも人を伴った状態で話しかけてくる花巻を、無下に扱えない。さすがに、学園中の生徒を敵に回すつもりはない。皆が大事に育てている花を手折ろうものなら、どんなひどい扱いを受けるか――想像するだけで恐ろしい。
花巻もそれがわかっているのだろう。だからこそたちが悪い。
強く否定されないことをいいことに、彼は教室だけではなくとうとう寮にある部屋にまで入りびたるようになった。
「いい加減にしろよ」
教科書から目を放し、何食わぬ顔でベッドに座る花巻を睨みつける。
しかし、当の本人はどこ吹く風と知らん顔だ。いつの間にかマイマグカップが置かれていたことには驚いたし、捨ててやろうかと本気で迷った。花巻の持つカップからは、人の部屋で勝手に入れたコーヒーの匂いが立ちのぼる。
寮には共通のキッチンスペースや大浴場があるものの、個室である部屋にもシャワールームや電気ケトルが設置されている。小さいが冷蔵庫もあるので、食堂を利用したくないときや夜食が食べたくなったときに便利だ。また、学園外でのバイトは禁止されている。そもそも外出時以外、現金の持ち込みは禁止されており、学園内のものを購入するには、この学園独自の貨幣を利用しなければならない。生徒たちには学業の成績や周囲からの評価、部活動などで好成績を納めれば貨幣をさらに多く受け取ることができる。それでも足りない場合は、学年ごとに制限はあるが構内のアルバイトから得ることができた。
だからこの学園にいる限り、金銭における不平等は起こらない。
だが、花巻がここまでしつこく絡んでくるのは、あの話を聞いてしまったからじゃないかと睨んでいる。
北園学園の入学枠の中にある特待生枠には、一枠だけ授業料だけではなく在学中に必要となる諸費すら免除かつ返済なしというものがある。動機と家庭環境、加えて学力が求められ学園長自らが許可した者でなければ与えられない特別枠だ。
花巻ほどの家庭なら、人物の素性を調べ上げることなど造作もないだろう。
「哀れみなら不要だ。さっさと自分の部屋に帰れ」
そう言えば「どうして僕がお前を哀れむんだ?」と心底気味が悪いと言いたげな声で返す。シャーペンを手放し、花巻に向き合った。
「つきまとわれて迷惑してんだよ、こっちは」
その鬱陶しさを知らない花巻ではないだろう。だが、彼は意地悪気な笑みを口元に浮かべると、おもちゃを見つけた獰猛な猫のようにこちらを見た。
「なんだよ――」
「いや、そこまで俺の気持ちがわかっていながら、どうして察せれないのかなと思って」
「馬鹿だっていいたいんだろ」
悔しいが、花巻は常に成績学年首位を守り続けている。勉強をしているそぶりなど微塵もみせないのに。
「いやいや、これは頭のいい悪いの話じゃないだろう。どちらかといえば、察しのいい悪いの話だな」
この本性、どうにかして人前で暴けないだろうか。
むっとあからさまにへそを曲げてみせれば、「つきまとわれて迷惑しているのはこっちも同じ」と花巻は言う。一瞬、何を言っているんだと思ったが、すぐに自分のことではなく彼をとりまく環境のことを言っているのだとわかった。
「だからってここを隠れ家に利用するな。こっちに飛び火したらどうしてくれるんだよ」
シャーペンを投げつけたい衝動に駆られたが、花巻は「大丈夫、大丈夫」と言うだけで考え直してくれる気はなさそうだ。カップのコーヒーに口を付けた花巻は「ここも俺の部屋みたいなもんだから」とさらりと言う。今度は芯を出したシャーペンをダーツのように投げつけてやった。
そんなこんなで、二年、三年と進級しあっという間に高等学部生になった。身長もいっきに延びたのに、花巻を越せないことが気に入らない。幼さの残る顔はなりをひそめ、よりいっそう艶やかな美しさを兼ね備えた花巻は、相変わらず学園の中心にいた。それでも花巻はこちらに絡んでくる。クラスが変わって離れても、授業が全然かぶらなくても、週に三回くらいは話しかけてくる。
男は恋愛対象にならないと公言していても、男子校というむさ苦しい檻の中に咲いた艶やかな花に魅了される生徒は一定数いる。学年が上がるに連れ、花巻に熱を上げた生徒がどうなったのか知る者も増えた結果、告白される数は減ったらしい。だが、今度はファンクラブなるものが結成しており、気の抜けない日々は変わらないという。
「気持ち悪いんだよなー」
「人のベッドで大の字になるな」
参考書から目を離し、振り向きながら睨みつける。
「いいじゃん、ケチ」
そう言いつつも、花巻はゆっくり上体を起こしてベッドから降りた。もう十二月。来年は高等部の三年。この学園で過ごす最後の一年になる。その前に受験が待ちかまえているため、今のうちから準備を始めているのだが、相変わらず花巻が勉強をする様子はない。参考書に再び目を落とすと背後から「どこに進学する?」と聞かれた。
振り向かずに「条件のいい特待枠があるところ」と答えれば、「どこ、そこ」と返ってくる。「さあ?」と言えば「意味分からん」と切り捨てられた。
でも、仕方がないだろう。
「将来安泰した生活を送るためには、それなりの大学に入らないと。今度は生活費を自分で稼がないといけないし」
「生活費?」
「一人暮らしをするんだから当然だろう」
進学と同時にアルバイト先も見つけなければならない。
「――保護者に頼めばいいじゃん」
親と言わないあたり、彼なりに気を使っているのが伺えた。
「頼らないって決めているから」
そう返せば、沈黙が続いた。珍しいと思いつつ、参考書に目を通していれば「俺が出す」という言葉が聞こえた。意味が分からず、渋い顔のまま振り返ればすぐにその意図をくんだ。
「やめろ」
「やめない」
「やめろ!」
立ち上がり叫べば、目を丸くした花巻がこちらを見つめていた。
「同情とか慰めとかもううんざりなんだよ!」
吐き捨てるように言うと扉を指さした。
「出て行け」
じっとこちらを見つめるだけで動こうとしない花巻に再び鋭い声をあげた。
「出て行け!」
ようやく立ち上がった花巻は、険しい表情を浮かべたまま何も言わずに部屋から出ていった。バタンと扉が閉まる音が聞こえ、力が抜けたように椅子に座る。詰めていた空気を吐き出せば、両手で顔を覆った。なんだかんだ言って、花巻がこの学園で一番気心のわかる友人であることに変わりはない。だからこそ、彼にだけはそんな気遣いはしてほしくなかった。
ずっと鬱陶しいと思っていた。けれどいざこの関係が崩れてしまうと思うと、寂しさを感じている自分がいて少しだけ驚いた。
◇
それから二週間が経ち、冬期休暇に入った。長期休暇は実家に帰る生徒が多い。それでも強制ではないため学園に残る者も若干ではあるがいた。
今年も一人で年を越す。そこに空しさも寂しさもなかった。ただ時が過ぎるだけ。何も特別なことはない。
学園内の厩の掃除をするために早く起きれば、冷たい空気に身を縮ませる。ほうっと出る息は白い。人のいない学園内は、時が止まったかのように静かだ。耳に届くのは鳥のさえずりと風の音だけ。自分以外、地球上に人間がいなくなったような感覚に陥る。
だが、そんなことはないと珍しく携帯が鳴った。冷たい指でポケットから取り出すと、花巻からのメッセージが入っていた。
今夜八時に談話室に来い――ただそれだけ。帰ってなかったのかと驚いたのは一瞬。一体、何をたくらんでいるつもりだろうか。しかし、ほっとする気持ちの方が強い。
あの一件以来、花巻とは口を利いていなかった。当然だとわかっていたつもりだったのに、いざそれがなくなると物事が散漫になってしまい、周囲に心配されることもあった。この程度のことで動揺するなんてと己に嫌気がさしていたが、それもたった一言のメッセージで簡単に解決されてしまう。
嫌だ嫌だと思っていたはずなのに、いつの間にか絆されていた。恐ろしい花である。だが、嫌な気はしなかった。
寮内の空調は一年を通し快適な温度に保たれているため、冬でも薄手の格好で十分足りる。スウェット姿で談話室のソファーに座っていれば、こつんと頭を小突かれた。振り向けばしたり顔の花巻が立っている。
「帰らなかったのか」
と問えば、
「まあね」
と返ってきた。一体何の呼び出しだろうか。立ち上がれば、ついてこいと花巻は言う。そうして人気のない寮内でたどり着いた先は花巻の部屋だった。
「今日は大晦日だろう? 一人で年越しはあり得ないと思って」
だから誘ったのだと彼は言う。それなら帰ればよかったじゃんかと思ったが、面倒になって口を閉ざした。
「お前はいつも誰と年越しそば食うんだ?」
さりげない会話のつもりだろう。互いに前回のことを引きずっているのか、ぎくしゃくした雰囲気が漂っている。それをどうにか元の空気に戻そうとしているのが伝わってくるが、あのときのことを許すつもりはない。少しだけ意地悪したい気持ちが首をもたげる。
「別に、いつも一人で食ってるけど」
わざと事実を淡々と口にすれば、驚いたことに花巻が「ごめん」と謝ってきた。その言葉に驚きはしたが、謝らせたくてやったことではない。また馬鹿にされた気がして腹の底がカッと熱くなる。
「てっきり残っている奴と一緒に過ごしているもんだと思ってた」
「いっておくけど、誰も彼もが常に誰かと一緒にいたいわけじゃないから」
一人になりたいときもある。だが、花巻という人間にはそんな時間はあまりないのかもしれない。再び花巻は「ごめん」と繰り返した。らしくないと思いつつ、初めて訪れた花巻の部屋は、私物であふれかえっていた。いくら学園独自の貨幣通貨システムがあるといっても、持ち込まれた私物までは制限できない。学生が簡単に手を出せない高級ブランドものの靴や鞄、アクセサリーや洋服が綺麗に整理整頓されている。どれも学園の外に出たとき身につけるものだろう。それなりに一緒にいる時間は長いが、花巻が高級品に身を包んだ姿は見たことがない。
そんな調和のとれた部屋に違和感のあるものが一つ――。
「なんでコタツなんかあるんだ?」
思わず口にすれば、得意気な顔の花巻が目に入った。
「一回やってみたかったんだよ!」
空調の整っている寮ではただのかさばる布団でしかない。だが、花巻に誘われるようにコタツ布団の中へ足を突っ込めば、空調の温かさとは違う、じんわりとした温もりが足を包み込む。
「コタツとか懐かしい」
これでみかんがあれば完璧だなと思ったとき、コタツの中で何かが当たった。反射的に避ける。二人しか入っていないコタツで当たる相手など一人しかいない。ただ、足がぶつかっただけなのにどうして気まずい雰囲気になるのか。花巻も同じことを思ったらしい。「まだ何も食ってないだろう?」と言って奥からカップ麺を取り出してきた。まだ食堂も開いている時間だが、不思議と行きたい気分ではない。男二人、麺をすする音を響かせる。いつもならあっという間に食べきってしまうのに、今日に限って進みが遅い。気まずいなと再び思ったときだ。
「なあ、除夜の鐘って知ってる?」
真顔でそう言うものだから、少しだけ腹が立った。
「馬鹿にしてるのか? 当たり前だろう、阿呆」
「じゃあ、やったことは?」
少しだけ間を置いて「ないけど」と答えれば、花巻の口角が半月のように上がる。そして「いいものを用意した」と言って機嫌がよさそうな様子で席を立つ。
いいもの――?
考えを巡らせるが想像つかない。彼は金持ちのお坊ちゃんだ。もしかして、学園内に除夜の鐘を作らせたとか?
下駄箱を勝手に改良した彼ならあり得る――そんなことを思っていれば、この季節には少し寒々しい音が耳に届く。
チリーン、リーンと高く涼やかに響く音は風鈴の音だ。どこから聞こえるのかと思えば、寺にあるような鐘の形をした風鈴を花巻が持って現れた。すべてに察しがついて吹き出し、笑う。
「まさか、いいものってそれかよ」
そう言えば、花巻はしたり顔で言った。
「鐘だろ、これ」
たしかに風鈴の外見は見事な鐘だ。でも、テレビで見たことのある除夜の鐘とはずいぶん音程が違う。それが妙におかしくて腹を抱えて笑えば、花巻も笑った。それだけで、不思議とわだかまっていた空気がすっと溶けていくのを感じた。
夜も更けてきた頃、突然「星を見よう」と花巻がベランダに誘ってきた。あまり乗り気でなかったものの、夜空を見上げた瞬間、そんな気持ちはどこかに吹き飛んだ。
「今日は満月だったのか」
黒いが用紙に穴が開いたような月が、淡く優しい光を放つ。ほうっと吐く息も輝いて見える。
「なんでそんな薄着で来たわけ?」
花巻は笑いを含んだ声でそう言うと、使っていたブランケットを肩にかけてきた。途端、体ではなく顔が熱くなる。夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した話が突然頭をよぎる。何を考えているんだと思ったときだ。
「今夜は月が綺麗だな」
隣で空を見上げる花巻が何ともないように言うものだから――。
その姿が綺麗だなんて知りたくもなかった。
了




