ウサギを殺したのは私 2021.2
「顧客データが流失した」
晴れているのか曇っているのかよくわからない、そんな曖昧な朝のことだ。
朝礼の場だったこともあり、部長の怒りをはらんだ声は一瞬にして場の空気を氷つけた。暖房が効いているはずなのに、薄ら寒さを感じる。
それは、私だけではないのだろう。
そっと周囲を盗み見れば、目をそらす者、疑念の視線を向ける者、無心を決め込む者と各々わずかながら反応を示す。
トップシークレットの情報が簡単に漏洩するとは思えない。案の定、システムのロックが解除されていたことが原因だという。専門外なので詳しくはわからないが、人為的なミス出なければあり得ないと部長は言う。
「園田、昨日お前が使っていただろ」
何となく覚悟はしていたが、いざ指摘されると冷ややかな視線が一斉に向けられたのを感じる。
確かに昨日、来週のプレゼンで使いたい箇所があったので使った。だが、他にも使用者はいる。だが、ここで名前があがるということは、最後に使用していたのが私になっているということだ。
システム上はそうかもしれない。でも、最後に使用したのは私じゃない。
ちらりと淡いピンクのブラウスに深みのあるグリーンのタイトスカートを着た女性社員に目を向ける。一瞬目が合うと、含みのある視線を投げかけられ、そらされた。
言うな、とその顔は雄弁に語っていた。
ばっちりと化粧を決め、長く艶のある髪をハーフアップにした彼女は、男性からの人気はもちろん、上司からの評価も高い。
その反面、気性が荒い一面を持っている。仕事ができない、遅い人間には容赦なく陰口をたたく。自分を非難する人間もその対象だ。中学校や高校でよく見かける、クラスの中心的存在になる子。そういう子が多く集まると、派閥が生まれクラス内の居心地も悪くなる。そういう派手でいつも人をはべらす部類の人間、それが彼女だ。
昨日、ファイルに打ち込みを終えた直後、彼女から少しだけ使わせてほしいと頼まれたのだ。社内規則として、自分に割り当てられたパソコン以外使用禁止にはなっている。だが、もはやそれは名目上になりつつあり、ほんの少し修正したい箇所があれば、他人のパソコンを使用する人間は多々いる。
そのときの私も、軽い気持ちで請け負ってしまった。昨日は予定が入っていたため、パソコンを彼女に貸したまま帰宅したのだ。
予想できなかったことじゃない。無意識のうちに唇を噛む。
「園田、どうなんだ」
部長の声が耳の奥まで響きうるさい。真っ赤になった顔を見ることができないまま、口を閉ざす。
重要なデータが漏れたのだ。部長は責任を問われるだろう。だが、部長の性格上、犯人を見つけ吊し上げなければ気が済まないのは明白だった。
気むずかしく面倒な上司。ドラマでよくみる典型的な嫌われ者だ。
部長に睨まれたら最後、ねちねちとことあるごとにこの件に触れ、この会社にいる限りあたりが強くなるだろう。
それはさすがに避けたい。でも、彼女が最後の使用者だと言おうものなら、彼女はもちろん部長以外の社員を敵に回しかねない。もちろん、今まで通り接してくれる同僚や後輩もいるだろう。でも、彼女のことだ。ありもしない噂をでっち上げ、私を悪く言うのは目に見えている。社内でも冴えない私より、女性として魅力的で仕事もできる彼女の肩を持つ人間の方が多いに決まっている。
どっちに転んでも地獄。
耳元で本当のことを言えともう一人の自分が囁く。
「私じゃありません」
かすれた声だった。蚊の鳴くような声だと思った。それでも部長の耳には届いたらしい。
「じゃあ誰だ?」
途端、鋭い視線を感じた。鬼の形相で睨む彼女が脳裏をよぎる。息を吸ったとき、喉が乾ききっていることに気づいた。一度、咳払いをしてもう一度口を開く。
「わからないです」
「わからないなんてことはないだろ!」
怒りが頂点に達した部長をなだめたのは、他の社員だった。ファイルの最終使用者を犯人として決めつけるのは、安直すぎるのではないか、と。現に振り当てられたパソコンの当事者ではない人間が使用している姿を見たことがあるのは、何人もいる。いつの間にか生まれた、気の緩みからできた風潮のせい――そんな空気が流れ始めた。
私はほっと胸のうちで息を吐く。
冷たくなった手先に、ようやく血が巡り始めた気がする。このまま、うやむやのままになってしまえば、特定の個人が悪者にされることはない。
何もかも円満に終わる。そう思ったときだ。
赤く光る二つの視線とぶつかった。デスクの下、影になっている場所だ。あっと思った瞬間には、消えていた。あの目を私は知っている。部長をなだめる他の社員の声を遠くで聞きながら、そっと眉をしかめる。
あれはウサギの目だ。
封印していたはずの過去が、乾いた大地に水をまいたようにざまざまとよみがえる。
◆
まだ、私が小学六年生のときのことだ。
必ず何かしらの委員会に所属しなければならず、私はなりゆきで飼育委員になった。学校で飼っているウサギと鯉の世話係だ。夏休みや冬休みも世話をしに学校に来なければならず、一番人気のない委員会だった。
しかし、なってしまうと案外楽しいものだった。
当番が回ってくると、放課後、小屋の中の掃除や餌やりをしなければならないのだが、餌に食いつく鯉やウサギの姿はかわいい。友達と遊びたい気持ちはあるのだが、このかわいらしさを独り占めできるのだ。そこまで嫌な気はしない。
ウサギの糞は丸くてコロコロしている。小屋のあちこちに転がっているので、ほうきでまとめて取るのだが、どうも端の方にある糞はかなり古いらしく、ほうきでは取れないほどこびりついている。誰も何もしないので私も見て見ぬフリをした。
みんな取っていないのだ。ウサギとはいえ、糞は糞だ。触りたくないし服に付くのを想像しただけで近づきたくない。何より、みんなが嫌だと放って置いたものを私が片づけるなんておかしい。
どうせ見かねた誰かがやってくれるだろう。そう思っているうちに、ウサギは小屋の隅から動かなくなった。寒いからだろうと思っていたが、どうやら不衛生な環境下にいたため、ストレスがたまり、いつの間にか病気になっていたらしい。
それに気づいたとき、すでに手遅れな状態だった。
そうしてウサギは死んだ。
これは、飼育委員みんなの責任だと先生は言っていた。そんなこと言われても――と戸惑う児童が多い中、私はそれほど責任を感じることはなかった。
だって、私は気づいていたから。
そもそも私はきちんと掃除をしていた。隅にたまっていたのは、誰かが手を抜いた証拠だ。そしてそれは私ではない。
ウサギの死は悲しかったけど、家に帰って晩ご飯を食べているときには、もう思い出すこともなかった。ウサギ小屋の前を通る度に、そのことを思い出すくらいだ。
空っぽのウサギ小屋は、どことなく不気味だった。誰もいない教室に似ている。人がいて当たり前の場所に何もない。それは、いつもと違う光景だからかもしれない。
二羽目のウサギは、その二ヶ月後に来た。
近所に住む人が、子ウサギが生まれたからと譲ってくれたらしい。学校
側も、ウサギ小屋を空にしておくつもりはなかったようだ。
一匹目のウサギより小さく毛もふわふわなそのウサギは、すぐに学校中のアイドルになった。
かわいい、触りたいと口々に言う下級生を横目に私は心の内でそっと息を吐いた。動物を飼ったことがないのだろうか。いや、そもそも自分に置き換えればそれとなく状況を察することができるだろう。
学校に来たウサギは、まだ子供だ。親から離れてもいいくらい育ってはいるものの、環境の変化や周囲の騒音でストレスがたまりやすいときでもある。
かといって、厳しく注意することもできず、私は見てみないフリをした。今日の飼育当番は、五年二組のはず。私がウサギの世話をするのは、まだ先である。
それからしばらくして、当番日誌が回ってきた。
鍵は職員室にある。先生に声をかけ、管理ノートに名前を書く。頭をくぐらせ中に入ると、掃除と水換え、そして餌を与える。小屋の外には数人の児童がじっとウサギを見つめている。新鮮なキャベツや人参が器に入ると、ウサギは少し周囲を様子を確認してから近づいてきた。小さな口を動かしキャベツを食べ始める。すると、小屋の外にいた子が「かわいい!」と大きな声をあげ、はしゃぎだした。
ウサギはその声に反応したのか、顔を少し上げると耳を動かす。そんな様子も彼女たちを興奮させるのに十分だった。
ウサギは、明らかに周囲を警戒していた。
ここは森の中じゃない。野生の動物に襲われる心配はもちろんない。
でも、ウサギはそんなこと知らない。危険がないか常に様子をうかがう。そして今、ウサギの緊張感はかなり高い段階にあるとみた。ピクピク動く白い耳は、たしかにかわいい。でも、それを小屋の前で大声で言う必要はない。私たちは人間だが、目の前の動物はウサギだ。
彼女たちを注意しなければ――そうわかっていてもかける言葉が思いつかない。こんなとき、大人ならとっさに言葉が出てきて、誰も傷つけずにこの場を納められるだろう。
当時の私にとって、大人とはそういう完璧無欠な存在だった。
私にできないことを当然のようにやってのける。でも、ここに大人である先生はいない。言わなくちゃ、言わなくちゃと自分に渇を入れるものの、喉から先を通って言葉を吐くことができない。
もしかしたら、別にそれほどストレスにはなっていないかも――と思ったときだ。
こちらを見据えるウサギの目と視線があった。
その赤い瞳は、見逃さないと言わんばかりの強い意志を感じさせる。当然のことだが、ウサギはしゃべらない。人間じゃないのだ。そんなこと思ってもいないだろう。でも、
私を責めている――そういう直感があった。
ぐっと喉に力が入って、息がしづらくなったときだ。
「大きな声を出すとウサギがびっくりするから、静かにね」
はっと視線を向けた先には、三人の女子児童が立っていた。同じクラスの子だ。
下級生たちは、突然現れた上級生に刃向かうこともなく、すごすごと大人しくどこかへ行ってしまった。小屋の前に静寂が訪れる。ほっと胸をなでおろしたときだ。
「ウサギのこと何も知らないで、騒いでいたなんてありえない」
中央にいた子が言う。その子は、物事をはっきり言う性格で、クラスの中心にいる女の子だった。
「私、本で読んだもん」
まるでそれだけでウサギの何もかもを知り尽くしたと言わんばかりに、彼女は言う。それを金魚の糞のような取り巻きがほめたたえた。
一難去ってまた一難――。最近、国語の授業で習った言葉が脳裏をよぎる。彼女に睨まれれば、クラスの大半の子は敵になる。機嫌を損ねないよう、注意しないとと思ったときだ。
「ねえ、そのちゃん」
私の通っていた小学校では、お互いをあだ名で呼び合うのは禁止されていた。でも、さすがに完全に禁止にはできず、苗字からできたあだ名で呼び合っていた。今になって思えば、いじめ防止のためにとり行っていたことだ。苗字なら珍妙なものでなければ、特に問題もない。そう思われていたのだろう。
網越しにいる彼女は、とても機嫌がよさそうな顔をしていた。一方、私は嫌な予感がして無意識に身構えていた。
残念なことに、その予感は当たった。
「小屋の中に入ってもいい?」
もちろんダメである。ただでさえ狭い小屋の中だ。小学生とはいえ、小屋の中に数人入れば、それだけで足の踏み場もない。ウサギにとってかなりストレスだろう。
断らなきゃ――そう思ったときだ。
「あの子たちを注意してあげたんだからいいじゃない」
何も言えなかった。その通りだったから。
彼女は続けて言う。
「別に三人で一気に入るつもりはないの。狭いし、驚かせちゃうだろうし。ただちょっとだけ順番に触りたいだけ」
「でも――」
このあと用事がある。母が校門まで迎えに来てくれるのだ。待たせるわけにもいかない。そんな事情を察したのか、彼女は「鍵は自分たちで閉めるから大丈夫」と言う。
その言葉を信じて、彼女に鍵を渡し、私はランドセルを取りに教室へ走った。駐車場では母がすでに待っていて、乗り込んだ瞬間「遅い」と怒られた。お前は宿題をすればいいだけかもしれないが、私は家に帰ってから洗濯物を取り込んだり夕飯の支度をしたり、風呂の準備をしなければならないから忙しいのだと隣で話す母の言葉にあいまいな相づちを打ちながら小さくなる学校に視線を送る。
ここからじゃ見えないけど、心の中ではウサギ小屋に思いを馳せていた。
そんな学校も母の運転であっという間に見えなくなった。
事件が起きたのは、その翌日だった。いつも通り登校した私は、人だかりを見て嫌な予感がした。ウサギ小屋の付近だ。ゆっくりと人垣に近づくと、興奮した様子の見知らぬ下級生がウサギが野良犬か何かに喰殺されたことを教えてくれた。
さっと血の気が落ちたのは、ウサギを哀れに思ったからじゃない。周囲から聞こえてきた「どうやら鍵が開いていたらしい」という一言のせいだ。
閉めておくって言っていたのに――。その日の昼休み、飼育委員は呼び出された。案の定、先生は昨日の飼育当番だった私を疑った。でも、私は悪くない。
きちんと施錠したと言った。
嘘ではない。彼女たちが来なかったら、私は絶対に鍵を閉めていた。
ウサギ小屋の鍵は職員室で管理されている。先生に一声かければ、飼育委員でなくても持ち出すことは可能だ。
裏を返せば、誰かが無断で持ち出したことも考えられる。この問題は、委員会だけにとどまらず、全校に広がった。
毎日行われている、帰り際のホームルームで担任の先生が言う。
「心当たりのある子は、放課後でもいいから先生に言ってほしい」
私はそっと彼女を見た。彼女はどうでもいいと言わんばかりの表情を浮かべると、あくびをかみ殺していた。
私は悟った。
――絶対に名乗りあげるつもりはないのだな、と。
それもそうだ。わざわざ怒られにいく馬鹿はいない。黙っていれば、今まで通りの平穏な日常が送れるのだ。
それなら私も知らなかったことにしよう。
そう決意したときだ。
「誰かの不注意で、ウサギの命がなくなったんだよ。みんなもお父さんやお母さん、お兄ちゃんやお姉ちゃん、お友だちとか大切な人の命が奪われたら悲しいでしょう? ウサギだからいいやって思う人にはなってほしくない。――先生は心からそう思う」
もちろん、このクラスのみんなと今回のことは無関係かもしれないけど、と付け加える。
その瞬間、私の胸はえぐられた。
前のウサギは私が殺したのではない。今回のウサギだってそうだ。
でも、私が声を上げていれば。
掃除のことだって先生に言えばよかっただけだし、今回も鍵締めを任せたことを言えばいい。
それだけのことなのに、体がこわばる。周囲が立ち上がったので、つられて私も立ち上がる。ホームルームが終わったのだ。そのまま、すとんと席についたときだ。
「今日は何して遊ぶ?」
他の子に向けて言った、彼女の声が耳に飛び込む。
その瞬間、何かがすっと抜け落ちたのを感じた。同時に馬鹿馬鹿しくなった。彼女があのウサギを殺したと言ってもいいのに、その意識を微塵も持ち合わせていない。
確かに、ウサギを直接殺したのは野犬かもしれない。でも、鍵を閉め忘れていなければ、今もあのウサギは生きていた。そのもっともたる原因の彼女に罪の意識がない。――自分が馬鹿みたいだと思った。
このことは、誰にも言っていない。今でも彼女のことは許せないが、同時に立ち向かう勇気など最初から持ち合わせていないのだ。自分かわいさに逃げたことが、今でもふとした瞬間に突きつけられて嫌になる。
ウサギ小屋を目にする度に、最後に見た赤い目が脳裏をよぎる。騒いでいた子たちを注意するどころか、鍵を開けっぱなしにし、ウサギを死に追いやった原因を知っていて黙り込む。
死んだウサギは、もう戻ってこない。きっと、私のことも恨めしく思っているだろう。
一時期は学校中で話題になっていたこの事件も、時の流れと共に忘れられていった。遠足に運動会、合唱コンクールとイベントが次から次へと迫る。卒業式もそんな感じでやってきては、あっという間に終わってしまった。
中学校に進学し、勉強に部活と新しい環境の中、ウサギのことは次第に忘れていった。
だが高校に進学したとき、思いがけず彼女と再会した。同じ高校だった。別に声をかけてきた訳でも、こちらから声をかけた訳でもない。入学して数日が経った頃、帰りの電車の中で見かけただけだ。
まだ真新しいはずの制服は、すでに自己流に着崩されている。そんな彼女の周りには、数人の男女が集まっていた。雑誌に載っていたデザートの話からネット動画の話など勝手に耳に入ってくる会話は、途切れる気配がない。
そんな中、一人の女子が「そう言えばさ」と声を上げる。
「このウサギの動画みて。かわいくない?」
そう言って仲間に自身の携帯画面を見せる。
「結構再生数あるね?」
「最近、ペットの動画あげてる奴多くね?」
「わかるー! とりあえずペットの写真あげとけば『いいね!』付くからじゃね?」
「まあ、変に自撮した写真とかひくもん! 『何こいつ? 自慢?』とか思うわ」
電車の出入り口にたむろしている彼らの声は、小さくなるどころかどんどん大きくなる。
明日からイヤホン持ってこよう。
正直、腹が立ってくる。うるさいのはもちろんなのだが、それに気づいていない彼らが子供過ぎる。同じ制服を着ている以上、同類だと思われたくない。
静かにしてくれないかな。
そんなことを思いつつ、わずかに視線をあげたときだ。
――彼女と目があった。
思わず視線を逸らす。
ここで下手に声をかけられたくない。だが、彼女が声をかけることはなかった。
もしかして私のこと気づいていない?
小学生のとき同じクラスだった。でも、少し話したことがあるだけで、友達ではない。中学は違ったから顔を合わせることもなかった。忘れられていても不思議はない。
まあ、それならそれでいいけど。
それから数ヶ月して学校にも馴染んできた頃。再び帰りの電車で彼女たちの集団とはち合わせた。ちょうど試験期間だったのもある。部活動がないせいか、普段顔を見ない人間が結構いる。
いつもより人が多い電車の中で運良く座れたものの、この日に限ってイヤホンを忘れてしまった。いつもなら静かな電車が、今日は人の多さもあってか、至る所で声があがる。
その中でも一際うるさかったのが彼女のところだった。
試験勉強について話しているのならまだわかる。けれど彼女たちが大声あげて笑っている内容は、誰が誰に気があるとか、先輩がうざいとか先生がきもいとかそんなどうでもいい話だった。
邪魔になっていることにどうして気づかないのか。
開いていた参考書を閉じて鞄にしまう。どれだけ目を落としていても、耳に入る雑音のせいで気が散る。
仕方なくスマホを眺めていたときだ。
「そう言えばあたし、ウサギ飼い始めたんだよね」
はっと視線をあげる。そう言ったのは彼女だった。
写真を見せたのだろう。
「かわいい!」「まだ子ウサギじゃん」などという声が次々にあがる。
彼女がウサギを飼った?
ふいに脳裏をよぎるのは、小学生のあのときのこと。鍵を閉めると言って鍵を閉め忘れ、まだ小さかったウサギが死んだあの出来事がよみがえる。
一体、彼女は何を思ってウサギを飼い始めたのか。
まさか、写真をネットにあげるためだけに飼い始めた?
いや、さすがにそれはないだろう。――そう信じたい。
「てか、お前動物とか飼うキャラじゃないだろ?」
男子の一人が冗談混じりに言う。すると彼女は「ひどい」と笑いながら言った。
「こう見えてもあたし、動物好きなの。小学校の時とかウサギがいてめちゃかわいがっていたんだから」
「へえ、意外。飼育委員とかだったんだ?」
誰かがそう言えば「違う、違う」と彼女は言う。
いつの間にか私の耳は、彼女たちの会話に釘付けだった。
ドキッと心臓が大きく跳ねる。ずっと気にはなっていた。彼女はあの事件のことをどう思っているのだろう。固唾をのみながら、耳を立てる。
「飼育委員になりたかったけど、なったことないんだよね」
嘘だと心の中で叫んだ。
委員会を決めるとき、いつも飼育委員はあまりもの。彼女は常に人気のある放送委員だった。
「あたしはいつも飼育委員の手伝いをしていただけ」
これも嘘。手伝いなんかしたこともない。
でも、と彼女は続けて言う。
「あたしが小学校六年くらいのときかな? なんかまだ学校に来たばかりの子ウサギがいたんだけど、飼育委員が鍵閉め忘れてさ。それで野犬に食べられたらしくて。めちゃくちゃかわいそうだった。生き物の命を世話しているんだから、それなりに責任もってほしいよね」
それを聞いて、思わず背もたれに寄りかかってしまった。
何を言っているんだ? あの女は。
真相を知らない彼女の取り巻きたちは、「何それ、かわいそう」などと口々に同情と非難の声をあげる。
何も知らないくせに――。
口の中に鉄の味が広がる。どうやら唇を噛みしめていたらしい。
あのウサギを殺したのは、あの女だ。反省なんてしていないのは何となくわかっていたが、まさか罪を擦り付けてくるとは思ってもいなかった――。
私は、このとき生まれて初めて絶望した。人は簡単には変わらない。ウサギを殺しておきながら、どの口がそれを言うのか。罪悪感もなしによくウサギを飼えたものだ。
彼女のことだ。きっとすぐに世話などしなくなる。そんなことは目に見えている。
また、新しい被害者が出るのか。そう思ったとき、向かいに座る人の足の間に赤い双眸がこちらを見ていることに気づいた。
はっと見つめれば、それは消える。間違いなくウサギの目だった。
ふっと笑みをこぼす。彼女ばかりを責めるのはお門違いだとウサギの亡霊は言うのだろう。もし、あのとき。私が真実を先生に言えば。そうすれば、こんな状況は生まれなかったかもしれない。
そのあと、彼女のウサギがどうなったのかは知らない。
そして今。
あれから十年以上経ち、私は大人と呼ばれる年齢になった。
「どうなんだ、園田」
苛立った部長の声より、こちらをじっと見つめる赤い瞳が気になった。幻覚だとわかっている。ただ、今この瞬間もウサギに見られているような気がした。
目を閉じ、ふっと息を吐く。このあとどうするか。それは私にしか決められない。
目を開けた私は、鋭く息を吸って口を開いた。
了




