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復讐心とコスモス 2020.12


 息苦しさに胸が詰まる。

 しかし、そんなことを気取られないよう、心許ないランプを持ち先頭を歩く店主の朧気な姿を追う。地下へ続く階段を降りたその先に、さらに扉が待ちかまえていた。鉄格子のようなそれは、地獄へ続く門のようだ。風が入らないせいか、空気がよどみかすかな異臭をかぎとる。

「足下に気をつけてください」

 脂汗で顔を光らせた店主が、下手な愛想笑いをつけて言う。大金を落とす客を前に、喜びを隠しきれていない。こんな干からびた爺の必死なご機嫌とりなど、受ける方も苦痛だ。

 さっさと用件を済ませてしまおう。

 扉のその先へと進めば、思わず鼻を覆う。

 呼吸をするのも躊躇するほどの腐臭。そして、憎悪の視線。

「これは牛、あれは羊。こいつは猫。愛玩用として人気があります」

 店主が一つ一つ説明していく檻の中にいるのは、言葉の通りの動物ではない。ボロ切れを身にまとい、汚れた顔をしているが、人の姿をしている。老若男女問わず、だ。しかし、これらは人間ではない。

 獣人と呼ばれる人と獣両方の姿を持つ生物だ。人と戦争をした歴史もあるが、現状の通り敗者に自由の権利は与えられない。便利な奴隷だ。

「どういった用途の獣人をお望みで?」

 バカ正直に答える人間がいるだろうか。いくら便利な奴隷とはいえ、獣人は忌み嫌われた存在。公に売買することもはばかれるくらいだ。日の当たる職ならまだしも、この場で客の求めるものを聞き出すのは利口とはいえない。この店主の口が、金で開く可能性は大きい。それとも、危機感を持たない馬鹿者だと判断されたのか。

 よそう。悪い癖だ。

 品定めをしていれば、目の合うもの、怯え隅にうずくまるもの、牙をむけるもの、力なく横たわるものと多様な反応がある。総合的に見てもここは扱いが悪い。病気か体罰か、弱り果てたものもいくつかあった。高い金を払ってもすぐに死んでしまっては意味がない。別の商人を当たるかと考えたときだ。

 うなり声が耳に届く。檻の中で暴れるものも多少いる。うなり声の一つや二つ、別に珍しくはない。ただ、何かひっかかるものを感じた。見れば傷だらけの少年がこちらを見据え唸っている。ボサボサの髪は、薄暗闇の中でもわかるほど白い。

「いやはや、お目が高い!」

 店主は言う。

「これは獣の血が濃い珍しい商品でして。人の見た目は子供ですが、獣になると成獣と大差ありません。そのため、お値段も他と比べ少々張るのですが、あまり従順ではなく。何度か売られては、戻ってくるほどです。もちろんそのたびにきっちり躾ているので――」

「いくらだ」

「はい?」

「これはいくらと聞いている」

 店主は、一般的な獣人奴隷の五倍の金額を口にした。一般家庭四人家族の三年分の収入にあたる。決して安い額ではない。だが、懐から金貨の入った巾着を取り出すと、それを店主に放り投げた。

 売っても戻ってくるような商品なら、もっと値が下がっていてもおかしくない。あの禿おやじは金の亡者だ。だが、大金を払ってでも早くここから出たかった。ここにいると、嫌でもあの日のことを思い出す。

 牢から強制的に引っ張り出された少年は、歯をむき出し今にも店主の喉笛をかみ切らんと暴れる。しかし、獣人を商品として扱っている男だ。そんなへまはしない。首につないだ鎖を引っ張れば、少年は地面に転がった。薄い背中に丸太のような足を乗せると、再び首につながれた鎖を引っ張る。

「今からお前のご主人は、この方だ。二度とここには戻るなよ」

 そう言って、鎖を投げ捨てた。途端、少年は倒れ込むと激しくむせた。

 今度、返品されたらこれの命はないだろう。そんな予感がする。

 背中を向ければ、店主が慌てて寄ってきた。獣の手足首についた足枷の鎖を引っ張りながら、地上まで先頭を歩く。その間、少年は何度も足をもつれさせ、床に転がった。店主は見えてないように、どんどん先を行くものだから、骨と皮しかない少年は引きずられる。しかし、すぐに立たないと鎖が鞭のように飛んできた。

 この店主は、客の買ったものを壊すつもりか。

 そうなれば、金は返してもらう。使い物にならない商品などゴミ同然だ。ようやく地上に上がり、店の中で枷の鍵と鎖を店主から受け取る。普通、こんな危険な生物は、買ったら買ったで使用人に一任するものだが、あいにくそんなものはいない。そのせいか、店主もどことなく不安そうな顔をしていた。もちろん演技だとは見抜いている。

「お客様、そいつは人間じゃない。獣です。お客様が直に扱われるのはまだ少々危険かと」

「世話になった」

 そう言葉を残して、外に出た。店の目の前につけた馬車に乗り込む。少年は抵抗しなかった。御者に合図を出すと、馬車は動き出す。

 抵抗しても無駄だと悟ったのだろうか。しかし、目の前に座った少年の目は、絶望ではなく怒りと憎しみの炎を宿していた。

 思わず笑う。

 すると睨まれた。口輪をされているため、話すに話せない状態だ。そんな少年の拘束具を一つ一つ外していく。

「――頭悪いのか」

 最初の一言がそれだった。一見ただの少年にしか見えないが、彼は獣だ。もう一つの姿に変われば、人の喉笛を噛みちぎることなど造作もない。それがわかっていないわけではない。

「お前をただの奴隷として扱うつもりはない」

 手の枷を外すと、足の枷に手を伸ばす。そのとき馬車が激しく揺れ、頭を打った。目の前が白くなる。

「ただの奴隷じゃなきゃなんだ。愛玩用か? 性的嗜好品か? 何にせよ自由がないのは変わらない」

 その瞬間、少年は小さな両手で首を絞めてきた。

「でも、お前を殺せばオレは自由だ」

 次第に強くなるそれは、子供の力ではない。朦朧とする視界の中、言葉を紡ぐ。

「自由は、与える。ただし、契約、が終了すれば、だ」

 少年の手が放れた。むせかえりながらも席につく。この少年、どこかで教養を学んでいるのか、ただの獣ではない。

 今ここで殺せば、確かに自由を手に入れられるだろう。しかし、人を殺した獣人は問答無用で死罪になる。追っ手から追われ続けながら得る自由と、そうでない本当の意味での自由なら後者を取る。そしてこの少年はそのことをわかっている。

「契約だ」

 絞められた喉をさすりながら言う。

「これからお前は、あるときまで私の武器として牙を研ぎ続けろ。それが終われば、解放してやる」

「それはいつ?」

「――コスモスの咲く頃」

 少年は眉間にしわを寄せた。コスモスが何なのかわからないのだろう。

「何十年も先の話じゃない」

 そう言えば、少年の鋭い眼光がこちらを射抜いた。

「復讐か」

 その問いには答えなかった。ただ、少年と同じ目を、何年も前から鏡越しに見ていたからわかる。この少年も人間が憎くてたまらないのだ。

 武器になるには、そのくらいの感情がなくてはならない。躊躇なく殺せる者でなければ。

「それまでの衣食住は保証する。だが、牙を研ぐことだけは怠るな」

 揺れる馬車の中、どのくらいの時間が経っただろうか。少年は、見定めるような視線をずっと向けてきた。

 そして――。

「わかった。その契約、のってやる」

 どこか不満そうにそう言い放ったのだ。


   ◇


 馬車が到着したのは、人里から離れた山の中。そこに夏場貴族が使う別荘があった。ここに本来来るべき人間が訪れることは、二度とない。

「でかい家だな」

 嫌そうな顔をする少年に、思わず鼻で笑ってしまった。少年に睨まれたので、言葉を紡ぐ。

「我々の住処は、あっちだ」

 そう言って指させば、目を大きく見開いた。それもそうだろう。視界に入れるのもおこがましいような、素朴な山小屋が申し訳なさそうに建っている。

「我々の?」

 少年は言葉を往復した。それにうなずき返す。

「お前、何考えている」

 今にも牙を剥き出さんとする少年の反応は当然だろう。奴隷と同じ部屋で衣食住を共にするなんて話、聞いたことはない。

「お前に財産をかけた。今、私の手元には必要最低限の生活費だけしか残っていない」

「そういう問題じゃねえ」

 では何が不満なのか。考えてみたが思い当たらない。少年は言う。

「オレは人間じゃない。獣人だ」

 今更何を。そう思えば、彼は目を細めた。

「お前、女だろ?」

「それが何だ?」

 この国では、男の方が何かと都合がいい。男装だって別に珍しいことじゃない。少年は髪をかき乱した。空は厚い雲に覆われているものの、わずかな光でもその髪は、周囲に光の粉をまき散らす。

 私は少年を置いて小屋へ向かう。奴隷なら男女関係なく扱われていただろうに。今更何を気にするというのか。

 獣人とはいえ、ガキだな。

 だが、仕事さえ果たしてくれれば、あとは何だっていい。私が欲しているのは、少年自身ではなくきちんと獲物を狩ってくれる獣なのだから。

 何年も放置されていた小屋に住むには、まず掃除から始めなければならない惨状だった。しかし、命令さえ出せば少年は何でもそつなくこなした。正直、助かる。掃除や家事、料理と町娘なら身につけている器量を、私は持っていない。

「お前、今までどうやって生きてきたんだよ」

 主人に対する口の利き方ではない。普通ならお咎めなしで折檻される。だが、私はどうでもよかった。この奴隷がいなければ、さらに惨めな生活を送るはめになっていた自覚はある。それに仕事さえ従順にこなせば、文句はない。

「相変わらず、無口なご主人様だこと」

 少年は、暖炉に薪を放り込むと火をつけた。無駄口をたたくが、動きに無駄はない。少年はそのまま夕飯の支度を始めた。私が彼に命じた「牙研ぎ」も、毎朝日の出前にきちんと欠かさず行っているようだ。

 反応しないでいると少年が肩をすくめた。私は仲良しごっこを求めているわけではない。


 過ごしやすい季節はあっという間に過ぎ去り、冬がやってきた。霜や雪が世界を白に染めていく。息を吐けば白く、水は小屋の中にあっても凍った。いくら雨風がしのげる小屋の中でも、寒さだけはどうにもできない。食べ物が腐りにくいのは助かるが、一日中暖炉に薪をくべ、火を絶やさないようにしないと、こちらが命を落とす。

 しかし、それは人間の話だ。獣人の場合、種族によって異なる。そして少年は、この厳しい寒さも平気な類の獣人だった。

 日が沈んだあと外に出ることは自殺行為だが、少年には関係ない。冬の夜は、足を取られたら最期、突然吹く風に体温と居場所を奪われるのだが、少年は好んで日が沈んだあと外に出た。そしていつも戻ってくるときには、ウサギや鹿などの獲物を携えてくる。

 この時季、馬車も滅多に通ることのない場所だ。気軽に麓に降り食材を調達できなかったので助かる。一応、備蓄の調達は、寒さが厳しくなる前にしておいたのだが、なにぶん初めてのことだ。予想以上に寒さが厳しく、ろくに眠れない日も少なくない。

 問題は食料よりも薪だった。森の中にいるため、枝などで調達できるだろうと気軽に考えていたのだが、思った以上に雪が降り、拾い集めることが難しい。

 もっと薪を使いたいところではあるが、消費量から使用数を予測すると贅沢はできない。凍死を避けるためにもある程度まで耐えてきたが、そろそろ限界だった。冬の山でできることは少ない。引きこもっていたことも精神的に負担がかかったのだろう。

 いつものように暖炉に薪をくべ、隅に移動しようとする背中を呼び止めた。牙を研ぎ続けろ。そう命じたのは私だ。夜は、少年が牙を研ぐ時間。眉間に皺を寄せ、怪訝そうな視線を向けられる。

「来い」

 幾重にも重ねた毛布を持ち上げ言う。

「はあ?」

 心底嫌そうに少年は言葉を吐いた。

「あんた、自分が何言っているか自覚ある?」

 こうしている間にも布団に残ったわずかな温もりが逃げていく。

 私は何度も同じことを言いたくない。そう思いながらじっと視線を送り続けていると、観念したように少年はベッドの中に潜り込んできた。思った通り、温かい。昔飼っていた猫を思い出す。

 これなら、薪を消費せず暖をとれる。今日はよく眠れそうだ。

「……やっぱ変だな、あんた」

 背中を向けているので少年の顔はわからない。ただ、暖炉でか細く燃える炎よりも真っ赤になった片耳だけが目の前にあった。


   ◇


 私は、上流階級に属する貴族の令嬢だった。

 父は王のそばで政治に関わる仕事をし、母はそんな父を影から支えた。五つ離れた兄は、私と違い成績優秀、乗馬や剣術にも優れおまけに容姿端麗。社交界でも注目の的だった。何でもこなす兄と出来損ないの妹。でも、兄はこんな私を疎むことなく、心から愛してくれた。私もそんな兄が大好きだった。

 家を継ぐ優秀な兄の存在もあって、周囲からは一族の安寧をうらやましがられた。

 でも、それも今代限りだ。その幕引きを私がする。

 あれは突然のことだった。深夜、ガラスが砕ける大きな音で目を覚ますと、しばらくして顔面蒼白の兄が部屋に入り込んできた。その白い寝間着には、赤いバラのように大きな血痕がついていた。

 鉄臭さが鼻をかすめる。

 兄はその服を脱ぐと私にかぶせた。そして震える手で私を抱き上げると、クローゼットに押し込めた。何かよくないことが起きている。聞きたいことがあるのに、うまく言葉が出てこない。そんな私に向かって兄はぎこちなく笑った。

 大丈夫だから、ここでおとなしくしていろと言って頭をなでるとクローゼットの扉を閉めた。そのとき、クローゼットの隅に金貨の入った袋を置いたことに私は気づかなかった。

 一体何が起きたというのか。両手で口をふさぎ、一人部屋に残った兄を隙間からじっと見る。声を出してはいけない――そういう雰囲気だった。まだ真新しい血痕は、思っていた以上に染み着いているらしく、正直具合が悪くなりそうだ。

 しかし、それ以上に悪夢を見ているような緊張感で吐きそうだった。

 父と母は一体どうしたのだろう。これだけ騒がしければ、使用人だって異変に気づくはずだ。しかし、助けが来る気配はない。どうなっているの――体を震わせたときだ。

 ドンッと大きな音を立て、部屋の扉が開いた。びくりと体が飛び跳ねる。現れたのは、こんなところにいるはずのない生き物――狼だった。それも三匹。

 兄は椅子を投げつけ、毛布で視界を奪い、前に父が護身用にと与えてくれた剣で立ち向かったが、抵抗のかい虚しく、背後から襲いかかってきた狼に首を噛まれ死んだ。

 兄の断末魔を今でも夢で聞く。クローゼットの中で耳をふさぎ、叫ぶのを必死に堪えたあのときのことを、忘れることなどできない。

 嗚咽をこぼさないよう、自分の腕を強く噛み、兄の最期を見届けた私は、三匹の狼が人間に変わる瞬間を見た。それが初めて獣人をみた瞬間だった。

 それから、一家虐殺の事件は世間を騒がせたが、時間と共に風化していった。

 世間では、私は死んだものとなっている。

 それでいい。私の心はあのとき死んだのだ。父や母、兄を殺した犯人を探すため、名を捨て、身分も捨て男のフリをして生きることなど造作もない。

 復讐のためだけに生きてきた私は、ついに仇の名を知る。それは、存在すら知らなかった、父の弟。つまり、私の叔父だった。

 先代である祖父が、町娘に生ませた子。祖母も父もその存在を知らない。しかし、叔父は知っていた。自分は貴族の子だと言われ育った奴は、これは自分のものだと、父から奪った貴族の座に当然のような顔でついている。

 兄が生かした私の命は、この男に復讐するために使う。殺さなければ、私の気が済まないのだ。


   ◇


 それから月日が流れ、いくぶんか寒さも和らぎ始めた頃。馬車が数台やってきた。

 奴だ。

 名についた権力だけを振りかざし、働きもせず、酒や女を好きなだけ楽しむ奴のせいで、父が守ってきた家の名は地に落ちた。

 毎年この時期、少人数を連れ山奥にあるこの別荘に来る。このままでは金がなくなることに気づいた奴が、町でさらった子供を売りさばくため、人気のないこの時期にやってくるのだ。

 屋敷の前に止まった馬車から、奴が出てくるのを確認すると少年へ視線を送る。

「今日が実行の日だ。お前の研いだ牙を見せてこい」

 少年はうなずくこともなく、唐突に走り出す。彼の役目は足止めだ。奴の心臓に刺す牙は、私自身でなければならない。

 陽動がきき、屋敷の中へは問題なく入れた。知った間取りだ。どこに何があるのかわからないわけがない。まっすぐとした足取りで、私は父が使用していた書斎に向かった。音を立てずに扉を開けると、そっと中へ入り込む。暖炉の前にあるソファーに座り、煙草を吹かす奴の後ろ姿を確認する。手に持ったナイフに力が入る。あの首筋を掻き切ってやる。――殺された兄と同じように。

 目を開き、ナイフを振りかざしたときだ。振り向いた奴と目があった。その瞬間、腕を取られる。

「くそ。こんなところにまで汚ねえネズミが潜り込んできやがった」

 そう言って、腹を思いっきり蹴飛ばされた。ベッドの脇まで吹っ飛び、腹を抱え吐く。痛みよりも悔しさが体のうちを駆けめぐる。

 奴は、私のことを覚えていない。もう、どうでもいい過去なのだと突きつけられた気がした。

「誰の命令か知らねえが、俺の命狙ったんだ。死ぬ覚悟はできているよな?」

 何とか起きあがろうと、身をよじりながら聞こえた金属音。視線をあげると、銃口がまっすぐこちらを向いていた。

 きゅっと唇を噛む。泣いて喚いて命乞いをするつもりはまったくない。ただ、雇われた暗殺者だと勘違いされていることが無性に腹立たしく、同時に仇をとれない悔しさで涙が出そうだった。

 途端、はっと嘲笑う男の声が響く。

「生意気な女ってのは、泣かせてみたくなるんだよなあ」

 反吐が出そうな気色悪い笑みを浮かべ、一歩一歩距離を縮めてくる。

 絶対に奴を喜ばせてやるものか。ナイフは部屋の隅にあり、今手元に武器になるものはない。それでも、この爪や歯でも奴の眼球をえぐり、怪我を追わせるくらいのことはできる。

 相打ち覚悟でここにいる。この男だけは、死んでも殺してやる。

 そう思ったときだ。窓ガラスが割れる音が響きわたった。はっと視線を向けると、冷たい空気と共に一匹の白い狼が唸りをあげ、男に襲いかかる。

 気が動転した男は、手元の拳銃を向け、弾を使い切るまで撃った。しかし、狼をしとめる前に狼の牙が奴の首に食い込んだ。あのときの光景が脳裏をよぎる。しかし、悲しみは微塵もなかった。

 私が少年を選んだ理由。それは、特殊な獣人だからではない。彼が狼の獣人だからだ。あの日のことは、今も私の記憶から色あせることはない。同時に、私が彼に心を寄せることは、万が一にもあり得ない。もちろん、優しさや同情など道具にかける感情を向けた覚えもない。

 それなのに、だ。

「お前、どうして言いつけ通りにしなかった!」

 奴を殺すのは私。しかし、蓋を開ければ奴にとどめを刺した牙は、彼だった。彼と交わした契約では、この部屋に人を寄せ付けないようにしたあとは好きにしろという、獣人奴隷なら喉から手が出るほど魅力的な条件だったはずだ。

 それなのに、戻ってきた。

「あんただって、嘘ついたじゃねえか」

 白い狼から少年の姿に戻る。そのとき、彼の腹部に赤い模様が浮かんでいるのが見えた。再び兄の姿が脳裏をよぎる。

「コスモスが咲く頃って言っていたのに。まだ、先のことだと思っていたのに」

 私は一つだけ少年に嘘をついた。実はコスモスがいつ咲くのか知らないのだ。子供の頃、兄とよく見ていた花図鑑の中で一番好きな花がコスモスだった。だが、復讐に生きていた私と違い、いろんな場所を転々としていたのであろう少年は、本物のコスモスを見たことがあるのかもしれない。

「バカな子」

 本心からの言葉がこぼれる。

「私なんか放って置いて、さっさと自由を手にすればよかったのに」

 立つ力もなくなった少年は、倒れたソファーに背を預け、頭を左右に振った。

「無理だな。狼は群を大事にする生き物だから」

 それは、私を群の一員に数えていたということか。敵ではなく家族。その瞬間、鋭い痛みが胸に広がった。どうして――そう口にする前に少年は言う。

「もっと南の方に行けばコスモスを見られる。あんたはコスモスを見るべきだ」

 そして短く息を吸ったあと、「もっと一緒に――」と虫の羽音のような声で囁くと、少年は動かなくなった。

 大した怪我もしていないのに、胸の奥がえぐられた気分だった。




 それから生きる気力を失った私は、少年の言葉に導かれるように南の地へ向かった。

 現地の人間曰く、コスモスは「秩序・調和」を意味する言葉から来ているという。そこから「平和」という花言葉がコスモスにはつけられた。

 平和、か。

 そのときは実感がわかなかったが、夕日に照らされた一面のコスモスをみた瞬間、はっと息を飲んだ。

 風が吹くたび、手を振るように揺れるピンクの花。その中心で、少年の姿を見た気がした。

 自然と頬には滴が流れていた。







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