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灯を抱えて 2020.10

「おい、こら。待て(ひろし)!」

 突然駆けだした小さな背中を追う。シャツの背中部分が、汗でぐっしょり濡れ、元の若葉色が深い緑色に変色している。少し視線をあげれば目に入る、夏の緑の色だ。ギラギラとした太陽光から僕らを守ってくれる。

 だが、今はそれどころではない。

「宏!」

 たいてい、名前を呼べば足を止める聞き分けのいい弟なのだが、こんなときに限っておかまいなしに走っていく。短い足だと侮っていたのが間違いだ。歩き慣れたコンクリートではなく、石や葉が積もる道だ。思うように前へ進めず、僕はあっという間に弟の姿を見失った。

 額から流れる汗を拭う。

 蝉の大合唱が響く森の中。姿も声もなく、弟がここにいたという気配はまるっきりなくなっていた。

 まったく、もう。

 背負ったリュックサックのせいで、僕の背中は火を放ちそうなほど暑い。一度足を止めると、背中から腹へ背負い直す。天気もそうだが、坂道なのも体力を奪う原因だろう。

 どうせ一番上で待っているのだと思い、僕はゆっくりと歩き出した。

 木々に囲まれた坂道を上った先には、石階段がある。さらにそれを登った先にある寺が僕たちの目指している場所だ。

 まだ、自己管理のままならない弟のために水筒やタオル、小型の扇風機などがリュックサックには詰められている。

 途中で戻ってくるかと思ったが、そんなことはなく、気づいたら寺の門をくぐっていた。

 さすがにここで待っているだろう――そう思ったのだが、それらしき姿は見当たらない。だんだん焦る気持ちが湧いてきた。

 誘拐事件に巻き込まれた可能性が脳裏をよぎって、頭を振る。

 まだ、そうと決まったわけじゃない。

「宏!」

 僕は呼びかけた。蝉がミンミン鳴く。宏の姿はない。

「宏! いるなら出てこい!」

 返事の代わりに風が吹いた。境内にある木々が揺れ、さわさわと木の葉がささやく。地元に根付いた小さな寺なこともあり、いつも人がいるとは限らない。

 境内の中は、たった一人。

「宏! かくれんぼなんかしている場合じゃないぞ!」

 黙っていると胸が押しつぶされそうになる。わき上がってくる不安を追い払うように弟の名前を呼びながら、狭い境内を探す。

 手水舎は水が止められて長いのか、枯れ葉がたまり、絵馬殿には重なり合う木の葉のような絵馬がつるされていた。見晴らしが悪い場所ではない。だからこそ、身を隠すなら建物の影にひそめるしかないのだが――。

 僕は本堂のまわりを歩く。境内で一番大きな建物は、この本堂だ。

 さすがに中に入ることはしないだろう。そもそも鍵がかかっているはずだ。額から流れる汗をぬぐい、目を皿のようにして探したが、弟の姿はない。

 僕はリュックサックを下ろすと、本堂の階段に座り込んだ。太陽がじりじりと頭を焦がす。

 どうしよう――。

 リュックサックをたぐり寄せ、ぎゅっと抱えた。こういうときこそ大人を呼ぶべきだろう。でも夏の日差しのせいか、頭がぼうっとしてしまって、そこまで考えがおよばなかった。

 ただ、母さんとここに来たときのことがぼんやりとよみがえる。

 ――困っているとき、神様や仏様は力を貸してくれるんだよ。

 そう言ったのも、今日みたいな夏の日だった。

 僕は賽銭箱の前に立つと手を合わせた。子供だけの外出だ。お金は持っていない。

 でも、藁にもすがる思いで祈る。目を固く閉ざし、鼻の前で手を合わせる。背中の汗が流れ落ちたが気にしない。僕は必死に願う。

 ――弟と、宏と会わせてください。

 どのくらいそうしていただろう。母さんは、この後どうすればいいのかまでは言っていなかった。だから、ふいに首元を冷たい風が吹き抜けたとき、思わず飛び上がったのだ。

「ひや!」

 自分でも情けない声だと思ったものの、そんなものは一瞬でどうでもよくなった。振り返った僕は、思わず息を飲んだ。

 そこはさっきまでいた寺であって、寺じゃなかった。

 小さな山の頂上にあるため、寺からの眺めはいい。なのに、今どこを見渡しても森しか目に入らない。しかも、空は真っ黒で星も月もない。黒い絵の具でべたべた塗りつぶしてしまったようだ。空だけじゃない。遠くの木々の合間も闇で塗りつぶされている。

 どうなっているんだ?

 賽銭箱や本堂、手水舎などは変わらずにあるのに、空や周辺の様子がおかしい。何か明かりはないかと足を一歩踏み出したときだ。

 こつんと何かが胸を叩いた。

 見ると社会の教科書に出てきそうな、アンティークランプが首から下がっている。当然、僕はこんなものを下げた記憶はない。ランプには明かりが灯っていて、周囲を明るくしてくれる。普段の生活の中で炎を見る機会はあまりない。しみじみと眺めていると「おいおい、なんだこの明るさは?」という声が聞こえた。びっくりして周囲を見渡す。宏かと思ったが、宏はこんなおじさんみたいな声ではない。

 誰かいるのか?

 ランプを掲げると「やめろ、やめろ」という声が、地面から聞こえてきた。

「そいつを服の中にしまってくれ」

 僕は言われた通りランプを服の中へ入れる。周囲は薄暗くなったが、服から漏れる明かりのせいで、完全に真っ暗にすることはできない。

「おいおい、顔も知らない奴の言うことを素直に聞くなんて、とんだ命知らずだな」

 知らないおじさんの声。相変わらず姿は見えないものの、声はだんだん近くなる。

「お前さん、何でこんなところにいるんだ?」

「弟を探しているんだ」

「弟?」

 どこにいるのかわからない相手に僕はうなずき返す。

「弟は死んだのか?」

「そんなわけない!」

 親切で声をかけてもらっているのはありがたいが、それでも言っていいことと悪いことがある。宏が死んでたまるか。

「お前さん、どうやってここに来た?」

 声の主は気を害した様子もなく、僕に質問を浴びせてくれる。このまま貝のように黙り込んでしまおうかとも思ったが、ここがどこなのかわからない以上、すがれるものがあればすがりたかった。

 渋々、ここに来るまでの経緯を話すと、声の主は「なるほどな」と一人ごちる。

「弟がどこにいるかわかりますか?」

 何がなるほどなのか気にはなるが、今は宏の方が先だ。

「さあな。だが、その前にお前さんだろう」

「僕?」

 首を傾げれば「突然動くなよ」と慌てた声が届く。

「お前さん、ここがどこかわかるか?」

 わかるわけがない。声の主もそれはわかっているはずだ。わざと黙っていると「心して聞けよ」と前置きがされる。

「ここは黄泉の国。その入り口だ」

「ヨミの国?」

「その様子だと知らないようだな」

 ため息まで聞こえてきたので近くにいるはずなのだが、声の主は相変わらずどんな人なのかわからない。

「黄泉の国は死者の国。まあ、ここはその入り口付近みたいなところだから、そこまでお前さんたちの住む場所と変わりはない」

「え、ちょっと待って。死者の国? じゃあ僕死んじゃったの?!」

「あーあー、だから順を追って説明してやるから落ち着けって」

 いやいや、落ち着いていられるわけがない。

「今すぐ戻らないと!」

 宏が今頃姿の見えない僕を探して泣いているかもしれないと思ったら、いても立ってもいられなくなった。

「だーかーら、落ち着けって!」

 ひものようなもので叩かれた感覚が首に走る。

「お前さん、祈ったんだろ? で、気づいたらここにいたってことは、その弟とやらもここにいる可能性が高い」

 あの方々は、無意味なことはあまりしないからなあ――と声の主は言う。

「本来、生者がこの国に入ることは御法度。たまに迷い込む奴はいるけど、最悪出られなくなってここの住人になっちまうこともある」

 口を開く僕を「待て待て」と止める。

「言いたいことはわかるが、そうならないように俺が使わされたんだろう――たまたま通りかかっただけだけど。そういうことなんだろうな」

 ため息が耳元で聞こえるがそれどころではない。早く弟を見つけて元の場所に戻らなくては。駆け出そうとする僕の耳を「だから落ち着けって」と声の主が言う。

「話はまだ終わっていないぞ」

「まだ何があるって言うんだよ?」

 こうしている間に、宏はどんどん先に行ってしまうかもしれない。

「これが一番大事な話だ」

 声の主は言う。

「お前さんの首から下がっている灯火、これだけは絶対に消すな」

「どうして?」

 確かに明かりのない場所だ。もし、これがなかったら僕は今どんな場所にいるのかさえわからなかっただろう。

 声の主は「落ち着いて聞けよ?」と懇願する声音で言う。

「その炎はお前さんの命そのものだ」

 ぎょっと目をむく。黄色い半袖のシャツの中で光るランプを見る。

「そいつが消えると、お前さんは元の居場所に戻れない。死者の中にはその明かりを消そうとする者もいる。――よく肝に銘じておくことだ」

 僕は黙ってうなずき返した。もし、宏がここにいるのなら、宏にもこのランプがあるはずだ。そしてそれが大事なものだってことに気づいていないだろう。

「おじさんの話はわかった。早くヒロを探しに行こう」

「おいおい、ちょっと聞き捨てならないんだが――誰がおじさんだって?」

 どうやら、触れられたくない部分に触れてしまったらしい。

 謝ろうと口を開こうとしたときだ。

「俺はおじさんなんかじゃない!」

 何かが腕を伝う感覚がして、目線まであげたときだ。

「おじさんじゃないからな!」

 目が丸くなる。

 目の前にいたのは、一匹のネズミだった。



 彼はこの国の住人らしいが、たまに迷い込んでくる生者を導く役目を持っているらしい。

「何というか、あの方々も扱いが酷いというか。まあ、仕方ないか。俺はただのネズミじゃないからな」

 ネズミは僕の肩で語る。

 声はおじさんだが、姿はネズミ。そっと腕をつねってみたが、痛みだけが残った。

「君の名前は?」

「俺の名か」

 不都合なことでもあるのか、ネズミは少し渋る。

「名乗ってもいいが、おそらくお前さんの耳には届かないと思うぞ?」

「どういうこと?」

 ネズミの声は、肩に乗っているせいかよく聞こえる。

「俺たちはこの国の言葉を使う。この国は死者の国だ。――生者であるお前さんにその言葉が理解できるとは思えない」

「なるほど」

 しかし、呼び名がないといろいろと不便だ。さっきのようにおじさんと言えば怒るのだから。

「それじゃあ、ズミーって呼ぶよ」

「……それは別に構わないが、どこから来たんだ、その言葉」

 僕はわざと口を閉じた。

 ネズミのズミから命名したなんて言えば、絶対に反対される。

 ネズミ改めズミーは、僕が口を開こうとしないことを察してか「まあ、いいけどよ」と少し不服そうに言う。

 それにしても――。

「本当にこっちの方向にヒロはいるんだよな?」

「それは間違いない。お前さんとは違う炎の匂いが漂ってくるんだ。お前さんら以外に迷い込んだ者がいなければ、合っているだろうよ」

 本当に大丈夫なんだろうか。

 でも、他に頼れるものはない。まだ小さな宏のことだ。敵意ある者からランプの炎を消される可能性もあるが、自分でその炎を消してしまうことも十分あり得る。早く見つけだしたい。気持ちばかりが焦る。でも、ここは僕の知らない世界。ランプの明かりがなければ、どこにも行けないのだ。その明かりも掲げれば敵意のある者に襲われると言われれば、服の中にしまうしかない。そうすると足下が明るくなるくらいだ。

 てっきり足場の悪い山道かと思ったが、足下も黒一色で一体どこの上に立っているのか検討もつかない。

 弟の名前を呼びたいところだが、それもズミーから止められていた。

「お前さんが思っている以上にこの国は甘くないぞ」

 そうなってしまうと、僕にできることはほとんどない。賽銭箱の裏にあったリュックサックを背負い、僕は行く。その道中、人とすれ違うことがあった。その人たちは、一瞬眩しそうに目を細めるだけで、誰一人僕に視線を向けることはなかった。

 ぞっと鳥肌が立ったのは言うまでもない。

「まだ、この国の住人になったばかりの者だな。この先にある川を目指している。三途の川なんて呼ばれているな。昔は金を持ってこの国に入ることもできたが、今じゃ禁止されている。ほら、あそこに光っているのがそうだ」

 拾い上げたそれは、氷のように冷たい。昔使われていた銅貨のようだ。

「お前さんたちが元の世に戻るときでいい。俺にくれ」

「別にいいけど」

 持って帰ったところで使えないのだ。それなら、ネズミの駄賃にした方がいい。僕はズボンのポケットに銅貨を入れた。

 そのときだ。

 突然、見知らぬ少女が何かを僕に渡してきた。思わず受け取ったそれを見ると、いい匂いを放つ桃だった。ひんやりとしているそれは、ちょうど食べ頃なんだろう。皮をむいて食べたい欲求が強くなって、少しくらいかじっても大丈夫かと歯を突き立てようとしたときだ。

「はい、ここまで」

 いつの間にか桃の上に乗っていたネズミが、僕の鼻にしっぽをたたきつけた。

「言っておくけど、この国の物を食べた途端こっちの住人になるからな」

 さっと血の気が落ちたのは言うまでもない。

 桃を手渡してきた少女は、「ざんねん、ざんねん」と言いながら消えていった。ぞわと鳥肌が立つ。

「あれは、生者を惑わす者だな。しつこくはないが、悪質な奴だ」

 僕は手にある桃を捨てようと思った。けど、そうしなかった。リュックサックに入れると再び宏を探して歩く。桃もネズミのおやつにはなるだろう。


 一寸先は闇の中、ネズミの言葉だけを頼りにどのくらい歩いただろう。足下を照らす明かりは、どこか頼りなく、本当に宏がここにいるのか、不安だけが募っていった。

 何か手がかりだけでもいいから落ちていないかと思ったときだ。

「おい、どうかしたのか?」

 いきなり顔を上げたせいか、ネズミが慌てた声を出す。僕は、ネズミの問いかけに答えることなく走った。

「おいおいおいおい、一体どうしたっていうんだよ?」

 体の小さなネズミが、僕の行動を止めることはできない。

 声が聞こえた気がした。聞き間違えるはずはない。あれは、宏の声だ。

「匂いが強くなってきた――」

 耳元でネズミが言う。

 だが、言われなくてもわかる。今まで黒一色で染まっていた前方に、蛍のような光が見えるのだ。

「ヒロ!」

 思わず叫ぶ。すると、動いていた明かりがぴたっと止まった。「にいに!」と言う声を拾った気がした。

 明かりの先には、宏がいた。無邪気な笑顔でこちらに手を振る。

 すぐにでも駆け寄って、早くこの国から出たい。けれど、僕の足はぴたりと止まる。

 宏の片腕は誰かとつながれていた。

 ランプがないことから、この国の住人で間違いない。宏の首から下がる明かりでは、手をつなぐ大人らしき者の足しか照らさない。服装からして女性だ。僕は服の内側にしまい込んだランプを取り出す。

「その子は僕の弟だ。手を離せ」

 明るさに怯んでくれればいい――そう思ってランプを掲げた僕は、宏の手をつないでいる人物の顔を見て固まった。

「……母さん」

 眩しそうに顔を歪める女は、紛れもなく昨年の秋に死んだ僕らの母親だった。

 ――宏と、仲良くね。

 真っ白い病室に響く、電子音。それからまもなく、母さんは二度と目を開けなかった。僕は兄だ。まだ小さい弟を母さんの変わりに守る――そう誓った。

 でも――。

「おい、騙されるな!」

 ネズミの声が刺さる。

「お前さんは何をしにここに来た? 目的を忘れるな!」

 そうだ。僕は宏を探しに来たのだ。それに、母さんが宏を連れて行こうとするはずがない。

「ズミー、この国には姿を変える者もいるのか?」

「ここはまだ死者の国の入り口。迷い込んだ生者や境目をさまよう者を引きずり込もうとする陰湿な奴もいる。見るものが望む姿をとる者もいるだろう」

 そうと決まれば、僕のする事は一つ。

「ヒロ!」

 小さな弟は僕の方を見る。大きな黒目に僕のランプの明かりが写り込む。母さんじゃないと頭でわかっていても、気持ちは追いつかない。掲げたランプを服の中に入れ、弟へ手を伸ばす。

「一緒に帰ろう」

 だが、宏は頭を左右に振った。

「イヤだ」

 母さんそっくりの女の手をぎゅっと握る。

「ヒロ、それは母さんじゃない。いいから、早く兄ちゃんの手を取れ」

 もう一度、僕は手を伸ばした。しかし、宏はいやいやと頭を激しく振って拒否する。

 僕の中でぷちんと何かが切れた。

「いい加減にしろ!」

 怒ってもいい方向には転ばない。それはわかっている。宏はまだ小さいのだ。母さんが死んだことも理解できていないかもしれない。

 でも、僕だって――。

「ヒロのバカ野郎!」

 腹の底からありったけの力を込めて叫ぶと、だっとその場から駆け出した。

「おい、いいのか。せっかく会えたのに」

 全然よくない。そんなの、僕が一番わかっている。でも、一度感情についた火は、消そうと思ってもなかなか消えない。あとで絶対に後悔する――それがわかっているのに戻れない。

 何で僕ばっか――。

 ぐしゃぐしゃになった顔をネズミに見られる前に、僕は袖でぬぐう。

「口うるさいことは言いたくないけどよ」

 ネズミは言う。

「お前さんの弟は、お前さんがいて幸せだな」

 僕は口を閉ざしたまま、もう一度袖で目をこする。

「俺にも兄弟はいたけど、自分の身を犠牲にしてまで俺に構ってくれる奴はひとりもいなかった」

 僕だって、犠牲になるつもりはない。でも、母さんと約束したんだ。もう母さんは宏と一緒にいられないからって。

 思いっきり鼻をすすったときだ。

「にいに!」

 こちらに向かってくる明かりが見える。

「にいに!」

 泣きながらこちらに駆けてくる弟の小さな体を抱きしめる。

 僕は知っている。

 病室で母さんと約束をした日、僕のいないところで母さんは宏にも同じように約束をしていたこと。実はこっそり病室の外で聞いていたんだ。

 宏じゃ約束できない。だけど、僕は違う。僕は宏よりずっとおとなで、母さんの言っていることも理解できる。だから、僕だけは母さんとの約束を絶対に守ろう――そう思ったけど。

「にいにのばかぁあ」

 置いていったことを怒っているのか、それとも――。

「ごめん、ヒロ」

 温もりのないこの国で、宏の体温は何よりも熱く感じた。

「おい、感動の再会を果たしたところ水を差して悪いが、走れ!」

 ネズミが僕の肩の上をぐるぐる回る。

「あいつ追いかけてきた!」

 あいつというのは、さっき宏と手をつないでいた者だろうか。

「走るぞ、ヒロ」

 宏の手を握り僕は走った。本当は背負いたかったけど、背中にリュックサック、胸にランプがあっては無理だ。

「のど、からから」

 しばらく走ったとき、宏が根を上げた。リュックサックもこちらに来ていてよかった。この国の物を与えることはできないからだ。

 素早く水筒を出すと宏に渡す。早く早くと気持ちだけが焦る。

「おい、もうすぐそこにいるぞ!」

 ネズミがそう言ったときだ。僕の視界にもそれは写った。

 黒い髪が顔を隠し、地面を這いずるような姿。つい先ほど見た姿とまるっきり違う。自然と鳥肌が立つ。悲鳴を上げなかっただけ誉めてほしい。

 逃げなければ――!

 宏の腕を掴み走る。だが、それは僕の想像以上のスピードで迫ってきた。

「走れ!」

 ネズミが言う。言うのは簡単だが、思った通りに動けるはずがない。僕は宏をかばうように抱き抱える。そのときだ。

 強い風が隙間からごうっと音を鳴らすような音が耳に届く。

 いつまで経っても襲ってくる気配はない。どこかへ行ったのかと思い、顔を上げたときだ。

 うなり声をあげる奴がいた。ひっと息をのむ。歯を見せ威嚇しているのに何故が襲ってこない。

「いつまで寝転がっているんだ? 走れ走れ!」

 肩でネズミが跳ねる。

 声につられ、言われるまま僕は走った。ある程度距離が離れるとまた追ってくる。

「一体どうなっているんだ?」

 思わず口にした僕の問いかけに答えたのは、ネズミだった。

「お前さん、さっき受け取った桃を持っていただろう?」

 それがどうしたというのか。息のあがる僕からの返答をネズミは期待していなかったようで、そのまま話を進める。

「桃には、退魔の効果があるんだ」

「桃配っていた奴だって魔物みたいなものじゃないか」

 わざわざ自分の苦手な物を相手に与えている時点でおかしい。

 しかし、ネズミは言う。

「あれはお前さんの欲しがる物を見せていたに過ぎない。何になるかなんて奴自身もわかっていなかっただろうよ」

 なるほど。それなら――。

 僕はリュックサックから桃を取り出すと、迫ってくるあいつに向かって投げた。

 桃はみごとに奴の頭に当たった。全身の鳥肌が立つような奇声を上げ、どこかへ姿を消した。

「おいおい、失敗していたらどうするつもりだったんだよ」

「そのときはそのとき」

 正直、僕の体力も無限じゃない。

その後はゆっくり歩いて元の場所まで戻った。

「ズミー、本当に戻れるんだよな?」

 宏と戯れるネズミに僕は確認する。宏に捕まったネズミは、握られた状態で答えた。

「もちろん、来たときと同じようにあの方々にお願いすればいい」

 あの方々――きっと神様や仏様と呼ばれる者のことだろう。そして僕は、言われたまま賽銭箱の前で願った。元の国に戻れるように、と。

 しかし――。

「おかしいなあ?」

 先ほど渡した銅貨を手にしたネズミが首を傾げる。

「もしかして、賽銭を入れていないからじゃないか?」

 そんなことはない。こちらに来たときもお金は使っていないのだ。しかし、ネズミは首を振る。

「それはそれ、これはこれ。まあ賽銭が必要だとみた」

 そう言って、手に持っていた銅貨を僕の手のひらに乗せた。

「でも――」

 これはネズミの物だ。彼の手助けがなければ宏を見つけるどころか、帰ることもできなかっただろう。

「水臭えなあ」

 そう言って、銅貨を咥えると賽銭箱の中へ落とした。

「さ、早く帰りな。お前さんたちが帰らないと、俺も帰れねえんだ」

 宏はまだネズミと遊びたいのか、賽銭箱の上にいるネズミに手を伸ばすが届かない。

「ありがとうズミー」

 弟の分も込め僕は言う。

「また会えるといいな」

「それはうん十年後になるな。まあ気長に待っているよ。俺に会いたいからって急いで来るなよ。そのときは俺の前歯が炸裂するからな!」

「わかった」

「……元気でな」

 僕は頷く。そして、強く願った。帰りたい、ではない。まだ、弟と一緒に生きたい、と。


 チュンチュンと鳥の鳴く声に誘われ、目を開ける。

 視界に映る世界は、僕のよく知る場所だった。でも、手をつないでいたはずの宏の姿が見えない。まさか――とイヤな汗をかく。でも。

「にいに!」

 こちらに駆け寄ってくる小さな姿。宏だ。こっちだと言わんばかりに僕の手を引く。

「わかった、わかった」

 ここには母さんが眠っている。そして、そこからは海が見えるのだ。

 夏の暑さに混じり、冷たい風が首元をなでていったような気がした。



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