僕は怪異にはなれない 2020.8
「どうして名前を教えてくれない?」
薄桃色の唇をむっととがらせ、鏡のような瞳で僕を見る。黒揚羽蝶を思わせる髪が肩から流れ落ちた。
僕は知っている。彼女はこの学園のマドンナだってこと。性別も年齢も関係なく、歩くだけで注目の的になる人間を他に何と呼べばいい?
でも、彼女にその自覚はない。
「好きに呼んでいいってこの前言っただろ」
「わからないかなあ」
眉を寄せ、不満を表す。そんな顔も絵になるのだからすごい。
「名前で呼びたいボクの気持ち、わかってよ」
残念ながら僕はエスパーじゃないし、他人の気持ちを察せられるほど優れた観察眼を持っているわけでもない。
ちなみに僕も彼女の名前は知らない。知らなくてもいいかなと思っている。
「それじゃあ、ぽん吉って呼ぶけど?」
「何で!?」
それじゃたぬきだ。一体どこから出てきたんだと言いたくなるような呼び名に、頭を抱えたくなる。
「不満なら名乗った方がいいと思うぞ。ボクは一度決めたら曲げるようなことはしない」
そう言って、どこか勝ち誇ったような顔で僕を見る。それでも僕は名乗るつもりはなかった。それが彼女は気に食わなかったようだ。明らかに不機嫌な顔をしている。
「じゃあ、これからよろしくね、ぽん吉」
そう言って、腰まである長い髪を揺らし教室から出ていった。
「ぽん吉――」
名前。それはきっと、この世の中を生きていく上では必要なものなのだろう。でも、僕には名乗れる名前がない。
誰もいない教室。夕日が射し込む中、机に彫り込まれた合い合い傘にそっと手を伸ばす。でも、それに触ることはなかった。正確には、触れられないと言った方が正しい。
「忘れ物くらい一人で取りに行けよ」
「嫌だよ。この学校古いから何か出るって聞いたことあるし」
教室の扉が開く。男女二人組が入ってきた。女学生は机からノートを探し出すと小走りに教室を出る。
「やっぱ、誰もいない教室ってちょっと不気味だよね」
そう言いながら再び閉まる扉を僕はじっと見ていた。
彼らに僕の姿は見えない。だから、名前を教える必要もない。
だって僕は、幽霊だから。
屋上はいつも横殴りの風が吹く。やれ髪が乱れただの、砂埃が目に入っただのと騒がしく退散していく生徒たちを後目に、僕は一人たたずむ。どんなに風が吹こうが砂埃が襲ってこようが、髪も乱れなければ、目に砂が入ることもない。
ふっと息を吐き、フェンスに寄りかかる。屋上から見える山は、日に日に濃くなり、春から夏へ移り変わろうとしている。草木でさえ成長する世界で、僕だけが異物のようだった。
「こんなところで何をしているんだい?」
そんな僕に声をかける人は一人しかいない。
「何でもいいだろ」
「つれないなあ、ぽん吉は」
むっと睨みつければ、「やっとこっちを見たな」と彼女は口角をあげた。風の噂で聞いただけなのだが、この風変わりなマドンナは、この町のお寺だか、神社だかの娘らしく、ちょっとした霊なら除霊できるらしい。僕が見えるのも家柄が関係しているのだろう。
僕のことも除霊するのかと思いきや、それらしき素振りはない。気になるけど、怖くて聞けない。彼女のことだ。気まぐれにすることもあるかもしれない。
「気持ちのよい風だな」
そう言う彼女は、風になびく髪に手を当て遠くへ視線を送る。きっと僕には見えないものを見ている――そんな気がした。
「最近、また一段と影が薄くなっているな」
ふいにこちらを見るものだから、僕は慌てて視線をそらす。僕は幽霊だ。影なんてものはない。彼女の言う「僕の影」とは、僕の姿のことだ。
向こう側が透けて見える僕の体。それがさらに薄くなったということは、僕が消えるのも時間の問題ということだ。
「怪異になればいいのに」
「イヤだよ、そんなの」
僕が消えないで済む唯一の方法。それが、怪異になること。怪異になれば、人々の記憶に縛り付き、僕は消えずに済む。
でも、正直、乗り気じゃない。
僕は生前の記憶がない。本来ならこの世に強い未練がない限りとどまることはないのだが、気がついたときには、まだこちらにいた。
そういう魂は、時が経てば消える。――あの世に行くこともなく。
「ボクが手伝ってやろうか?」
形のよい唇を半円に描いた彼女が言う。
「どうせなら、あの世に送ってほしいけど」
下からのぞき込むように言ってみる。笑って答えるかと思ったのに、僕の想像に反して彼女は真剣なまなざしを向けてきた。
「それは無理だ。ボクは未熟者だから、完全に滅することはできるけど、安らかに魂を送ることは出来ないんだ」
「――そっか」
心のどこかで頼みの綱にしていたそれは、泡のようにあっけなく消えてしまった。
僕は一体どんな未練があったのか。それだけでも思い出せればいいのに。
「心配することはない。怪異と言っても人に怖がられるものばかりじゃない」
「でも、僕が僕としてあるためには、それなりのものじゃないとダメなんだろう?」
彼女はくすりと笑う。何がおかしいのか僕にはさっぱりわからない。
「わかっていないな、ぽん吉は」
そう言って彼女はくるりと回った。制服のスカートが花の蕾のように膨らむ。
ぽん吉ってやっぱり間抜けな感じがするから止めてほしい。でも、彼女はやめないだろう。僕が名乗らない限り。
実のところ、僕には一つだけ覚えていることがある。それが名前なのだが、自分の名なのか誰かの名なのか確信が持てない。
「ここは学校。新たな怪異を生むには絶好のロケーションじゃないか!」
……彼女、友達いるのかな? ふとそんなことを思ってしまう。
口を開けて愉快に笑う彼女は、僕の視線に気づくと咳払いを一つして言う。
「とにかく、消えたくないんだろう? ぽん吉は」
「そうだけど――」
さすがに人様に迷惑をかけてまで存在したいとは思わない。僕の体をツバメが通り抜けた。
「でもやっぱり、僕は怪異にはなれないよ」
そう答えれば、彼女は口をとがらせる。
僕が怪異にならないということは、この世から消えることを選ぶということ。もちろん、僕だってそれは本意ではない。
チャイムの音が鳴り響く。昼休みの終了を知らせる音だ。ようやく一人になれる――そう思ったときだ。
「ぽん吉」
彼女が僕を呼ぶ。渋々視線を向ければ、歯を見せて笑う。
「また、放課後に」
そう言って彼女は屋上から出ていく。しばらく呆然としていた僕だが、気づいたように深くため息を一つこぼした。
何も僕は屋上だけに現れるわけじゃない。でも、どういうわけか彼女には居場所がわかるらしい。彼女は生きている人間だ。友人も家族もいるはずなのに、どうしてこの世から忘れられようとしている僕なんかにかまうのか。
「――放っておいてくれればいいのに」
でも、彼女はやってくる。
梅雨が過ぎ、太陽の光が鋭さを増す頃。クーラーの涼しさだけでは、青春真っ盛りな彼らの熱を削ぐことができなかったのか、どういうわけか怪談が流行始めた。
ブームは繰り返すとは聞くが、これに一役買った人物を僕は知っている。
「今日の放課後、美術室で百物語をするんだ。そこにぽん吉が何か仕掛ければ――」
「何度も言うけど、僕はやらないよ」
「どうしてだい?」
珍しく眉を下げ彼女は言う。
僕の体は、もはや風景と一体化してしまってよく目をこらさないと見えない。僕に残された時間はあとわずかだろう。
「ぽん吉は、ボクのことが嫌いなの?」
なんでそうなる――。髪をくしゃくしゃにかきあげ、この場を後にしようとしたときだ。
「消えてもいいのかい?」
そんなの、聞かなくてもわかるだろ。でも、人を驚かせたり怖がらせたりしてまで、この世に残りたい気持ちはないのだ。そう何度も彼女には説明したのだが――。
「ボクは――君が消えてしまうのがイヤだって言ったらわかってくれるかな」
聞こえないフリをして、僕は彼女の前から姿を消した。
斜陽が差し込む廊下を僕は歩く。放課後の時間だ。教室は閑散としている。そんな中、カーテンを閉め切った教室が一つ。中を覗くと、五人の女学生がスマートフォンの明かりのみで、怪談に興じていた。
「これは、近所の人から聞いた話なんだけど――」
今から五年ほど前、寺の住職の息子とその友人が深夜の学校に忍び込んだらしい。
「何でもこの学校には悪霊がいるらしいの」
それを追い払おうとしたらしいのだが、失敗に終わり友人の男子学生は意識不明の重体になったという。
「今でもその悪霊は、この学校を徘徊していて顔を会わせると魂を抜かれるんだって」
ひっ――そう小さく叫ぶ声が聞こえた。ここで僕がいることを示してしまえば、僕は怪異として足を踏み込むことになる。物音を立てず、そっとその場を後にする。
百物語なんてやらない方がいい。
すっと視線をあげれば、人ならざる者が横切った。彼女は怪異を生み出すには、学校は最高のロケーションだと言っていた。たしかにその通りだが、学校にはすでに多くの怪異が蠢いている。力の弱い者から強い者まで様々な怪異が。
そして百物語はそんな怪異たちを呼び寄せ、力を増幅させる効果を持っているようだ。
「ちょっと、さっき教室のドアが勝手に開いたんだけど!」
「へ、変なこと言わないで!」
――笑い話で収まればいい。でも、そうならなくなるのも時間の問題だ。彼女のことだから、このくらいのことはわかっていそうなのだが。
そこまでして僕を怪異にさせたいのか。
このままでは、死人が出てもおかしくない。――もう僕は彼女に会わない方がいいだろう。
日が沈んでしまえば、人の姿は一気になくなる。夜はこの世ならざる者の世界。日中とは打って変わって数を増した怪異たちを後目に僕は屋上で夜空を眺める。今日は曇り空で月は見えない。
夜は嫌いだ。両膝を抱え込むと、顔を埋める。
僕に記憶はない。でも、嫌なものは嫌なのだ。闇に溶ける自分の姿を見たくない。
消えるのなら早く消えてしまえばいい――そう思う一方で、誰か僕を照らしてくれないかと期待を抱いてしまう。矛盾した感情だと自分でも思う。でも、口にしないだけ偉いだろう。
僕を照らす存在、か。
彼女の顔が瞳の裏に浮かぶものだから、僕は必死に頭を振るはめになった。
それからすぐに百物語は教師の指導もあり、下火になった。だが、今度はコックリさんが流行りだしたものだから、手に負えない。
僕はといえば、日中は彼女から必死に身を隠していた。彼女はかくれんぼの鬼のように、僕の近くまで姿を現す。
「ぽん吉、もしかしてボクに怒っているのかい?」
一向に姿を見せない僕を不思議に思ったのだろう。宙に向かってぽつりとささやく。
そんなわけない。でも、どうせ消えるのなら彼女には知られない方がいい。その判断は間違いじゃないと思っている。でも、何故か胸の奥がちくりと痛んだ。
町に出てもいいのだが、足はどうしても学校に向かう。その日は珍しく雷雨が襲う夜だった。雨に濡れることも雷に打たれる心配もないのだが、どうも外で過ごす気分になれず、教室の窓辺で外を眺め、夜を過ごすことにした。手をかざし、空を見上げる。真っ暗な空に手は見えない。ふっと息を吐いたときだ。
キャッキャッキャッキャ――。
猿のような獣の鳴き声が耳に入る。はっと周囲を見渡せば、うじゃうじゃいるはずの怪異の姿がどこにもないことに気がついた。
再び、寒気の走る鳴き声が耳を刺す。
これは、まずい。とっさに机の下に身を隠す。この世ならざる者の中には弱者を食らう者もいる。おそらく、この鳴き声はその類の者だ。一体、何でこんな奴がいるんだ。少なくとも僕が知る限り、この学校にそんなやばい奴はいなかったはずだ。
もしかして、こっくりさんの影響か?
あれは降霊術の類だと彼女が言っていた。中途半端な儀式をしてしまった結果、返すことに失敗しさまよっているとしか考えられない。
ぞわりと全身の毛が逆立つ。消えかかっている弱小の幽霊など空気と同じなのか、僕に気づくことなくそれは教室の前の廊下をのっそり歩く。
そっとそれの姿を見た僕は、とっさに目をそらした。どんなに僕が空気だろうが、目を合わせてしまえば気づかれる。そしてそいつは、全身に目があった。なんと言えばいいのか。明らかに異形の者だ。四つ足の獣のような姿なのだが、どう見ても人間の集合体なのだ。顔は猿のようだが、目がない。深淵の底をのぞき込んでいるようなくぼみが二つある。あんな化け物、日中生徒がいるときに徘徊でもしたら、それこそ怪我人どころか死人が出る。
だが悲しいかな。ほとんどの者は、この世ならざる者の姿を見ることができない。いや、一人だけ心当たりがある。どうせなら、人の役に立って消えようか。
翌朝、さっそく僕は学校に登校してきた彼女に声をかけた。
黒髪を流し、制服のスカートから伸びる、黒いストッキングを履いた足は止まることなく下駄箱のある玄関に向かう。
わざと無視しているのかと思ったけど、違う。
見えていないのだ。僕は自分の両手へ目を落とす。でも、そこには何もない。僕でさえ自分の姿が見えないのだ。彼女が見えなくても不思議はない。
やってしまったな――。
最後の頼みの綱が切れてしまった。朝の登校時間だ。彼女の他にもたくさんの生徒が登校してくる。しかし、誰も僕に気づくことはない。
僕はふっと息を吐くと空を見上げた。透き通るくらい青い、真夏の空だった。
さて、どうしたものか。
校庭の桜の木に寄りかかりながら校舎を見つめる。案の定、あの化け物は日中でも姿を現す。とは言っても、体育館倉庫や離れのトイレなど人気のなく日中でも暗い場所に限るが。
それでも、数多くの人間がいる場所だ。足を踏み入れないとは言い切れない。
思い出しただけでも身震いする。そして案の定、事件は起きた。
放課後、生徒が階段から転げ落ちたのだ。
彼女は演劇部の生徒で、先輩から倉庫にある小道具を持ってくるよう指示されたらしい。演劇部の倉庫は体育館外にあるプレハブの二階にある。倉庫に入った女学生はその直後、悲鳴を上げ、何かから逃げるように走り階段から転がり落ちた。
尋常ではない怯え方をしていた彼女は、駆けつけた教師に「め、め」と震える声で言ったという。
逃げ切れてよかったと思う。もし、捕まっていたら――考えるだけでも恐ろしい。
どうやらこの騒ぎは、彼女の耳にも入ったらしい。珍しく険しい顔をして廊下を歩いていたものだから、きっと何か対策を練っているのだと信じたい。彼女が異変に気づいてくれたのなら、もう僕が出しゃばることはないだろう。そう思っていたのだが――。
「ぽん吉! よかった、消えてない。――心配したんだぞ!」
そう言って今にも泣き出しそうな顔で怒る彼女と会ったのは、深夜の学校だった。
時計の針は深夜の二時を指す。草木も眠る丑三つ時。なるほど。この時間はこの世ならざる者の存在が濃くなる時。消えかけた僕の姿が見えるのも納得いく。
だが、そもそも人と顔を合わせる時間ではない。驚く僕を余所に彼女は懐中電灯を片手に周囲を見渡す。何をしに来たのか、聞かなくてもわかる。
「あいつなら、四階にいる」
そう言えば、彼女は静かに目を見張った。
「――君も気づいていたか」
「なんとかなるのか?」
彼女は自嘲した笑みを浮かべた。
「さあな。ボクより兄さんの方が向いているけど、生憎もう二度とこの界隈には関わりを持たないと決めているからな」
彼女に兄がいたのかと少し驚く。彼女はパーカーのポケットから蛇のような文字が書かれた札を取り出した。
「可愛い妹がピンチとなれば、駆けつけてくれる――なんて兄でもないからな。自分で何とかしないと」
しかし、表情から自信がないことはありありと伝わってくる。彼女が言うには、兄の方は式神を使えるほどの実力者らしい。今は病院にいるという。
「ぽん吉とは、もうすぐ会えなくなるな」
階段を登る途中、彼女はそう言葉をこぼす。それに僕は何も答えられなかった。
そのときだ。地を這うような声が校舎に響きわたった。
はっと身を構える。彼女は札を手にすると、一気に階段を駆け上がった。
バカ野郎。そう叫び出しそうになるのをぐっと飲み込む。あれは、生半可な者が中途半端に関わっていい相手じゃない。死すら覚悟する相手だ。僕が怪異になれば――そう思って頭を振る。何を今更考えているのか。たしかに、怪異になればこの状況も多少は変わるだろう。あれだけ百物語が流行ったのだ。僕も怪異として力をつけることもできた。でも、僕は幽霊のまま。それを選んだのは僕自身だ。今更、後悔しても遅い。
階段で身を隠すようにして座り込む彼女の姿を見つけた。僕に気づいた彼女は、力なく笑った。
「――放課後仕掛けた罠にかかっていれば、ボクでも何とかなるかなって思ったんだけど、少し難しいようだ」
獣の鳴き声が響きわたる。彼女の表情が固まった。懐中電灯は消えている。あいつがこちらに向かってくるのが、嫌でもわかる。この時間は、この世の者には分が悪い。このままでは確実に彼女はあいつに見つかり、そして――。
「おい、ぽん吉!」
彼女の焦った声が聞こえたがどうでもいい。僕が消える前に彼女が消えるなんて考えられない。これは単に――僕のわがままだ。
階段を一気に駆け上がると、廊下へ身を乗り出した。途端、体を貫くような視線が刺さる。
奴だ。二つの深淵が僕に向けられる。
消える前に彼女の役に立つのなら、本望だ。
「ぽん吉!」
「僕は! 僕はぽん吉なんかじゃない。僕は――」
記憶の片隅にあった名を叫ぶ。どうせ最期だ。自分のものかわからない名くらい教えてもいいだろう。
あらかた狩り尽くし、小腹の空いている奴には、こんな消えかけの魂でもさぞ美味そうに見えるはずだ。それを裏付けるように、獣の鳴き声が甲高く響きわたる。窪んだ目はしっかり僕を捉えていた。ぞっと鳥肌が立つ。足に力が入らない。でも、ここからが本番だ。十分遊べるほど満足のいく鬼ごっこにはならないだろう。でも、多少の時間稼ぎくらいにはなるはずだ。
うまく逃げてくれよ――。
そんな念を彼女に送りながら、後ろへ足を引いたときだ。
「君はここにいてはいけない!」
そう言って僕の目の前に姿を現したのは、彼女だった。暗闇でもわかる艶やかな黒髪をなびかせ、僕とあいつの間に割って入る。
獲物が増えたことに対する喜びの咆哮か。両手で耳を押さえる僕に対し、彼女は怯むことなく、手に持っていた札を投げた。今度は耳をつんざくような悲鳴があがった。
「君は今すぐ向かえ」
そう言って彼女は、近くにある総合病院の名前と病室を告げた。その間も奴は、無数の目でひたりとこちらを見据えている。
「な、何言ってるんだよ!」
こんなときに彼女を置いて逃げるような真似、できるわけがない。あいつは確実に追いかけてくる。もし、捕まったら――。
彼女も僕の考えなどお見通しなのだろう。
「早く行くんだ!」
彼女は言う。
「早く行って――ボクを救ってくれ」
塗りつぶしたような暗闇の中、僕は蛍のように淡くそれでいて心を捉えて離さない光を見た気がした。
消えかけの幽霊でも役に立てるのなら――応えてやろうじゃないか。
「絶対、捕まるなよ!」
後ろ髪引かれる思いだが、彼女があそこまで言うのだ。何か秘策があるのかもしれない。
もしかして、手っ取り早く強力な怪異になる方法でもあるのだろうか。もし彼女がそれを望むのなら――まあ、仕方がない。
そんなことを考えながら、言われたとおりの場所に現れる。
この場所であっているんだよな?
病室の部屋番号を見る。名前は表示されていない。どうやら一人部屋のようだが、ただならぬ雰囲気を扉越しにでも感じる。
学校同様、病院も多くの怪異が集まる場所だ。怪異だけではない。生死が身近にあるせいか、霊魂も数多く集まる。
ここに一体何があるというのか――。
病室の中へ入ったときだ。
思わずふっと笑いがこぼれた。
なるほど。たしかにこれならば奴も倒せるかもしれない。
でも――。
「結局、僕は怪異にはなれなかったな」
◇
あれから数日後。学校でそんな大事件が起きていたとは誰も思わないまま、夏休みに入った。
あのあと、化け物は跡形もなく姿を消した。彼女が何かしたわけではない。彼女の兄が、病院から駆けつけたのだ。式を使い、倒せそうにない化け物を倒してしまった、彼女の兄。もう二度と怪異と関わらないと決めていた彼を動かした人物がいる。
「やあ、久しぶり」
聞き慣れた声が背中越しにかけられる。振り返ると、白いワンピースに身を包んだ彼女が立っていた。刺すような太陽光を跳ね返す黒髪に白いワンピースはよく似合う。
なんと答えればいいのかわからず、頬をかくと彼女はくすくすと笑う。
「ぽん吉って呼んだ方がいいかい?」
「そんなわけないだろ」
僕はわざとため息を吐く。
ずっと知りたかった自分の正体。それは、彼女の兄の友人だった。僕は、長い間昏睡状態だったのだ。――魂だけが、この世をさまよっていたせいで。
百物語で女学生が語っていた話、あれは作り話ではない。本当にあったことだったのだ。そのときのことを彼女の兄は悔い、二度とこの世ならざる者と関わらないと決めていたのだが、僕が目覚めたのなら話は別だ。
さらに僕からの頼みであれば、彼が断る理由もない。
「でもまさか、君がボクより年上だったとは思いも寄らなかったなあ」
「僕もだよ」
まさか、消えずにこうして会えるとは思ってもいなかった。
僕は透けない顔でにこりと笑みを浮かべると彼女に言った。
「結局、僕は怪異にはなれなかったね」
そう言えば、彼女は目映いほどの笑みで返した。
「それでよかったよ」
了




