なあ、神様 2020.6
「なあ、神様、神様」
声のする方へ目を向けると、一匹の子ぎつねがいた。
皆から「神様」と呼ばれ畏敬の眼差しで見られるが、そんなに大した者ではない。しかし、そう思ってはくれないようだ。
親狐とはぐれてしまったのだろうか――そんなことを思ったときだ。
「どうやったらニンゲンと仲良くなれる?」
驚いたのは言うまでもない。
「君の言うニンゲンとは、この姿の者かい?」
腰掛けていた鳥居から降り、地面に着く前にすっと姿を変える。それを見た子ぎつねは、そうだと言わんばかりに尻尾を振った。落ち葉が音を立て舞い上がる。
何か企んでいるのではないか――そう思って瞳をのぞき見る。しかし、私の考えとは裏腹に心打たれるほど美しい瞳だった。
本当に人と仲良くなりたいようだ。
変わった子ぎつねだなと思いながらも答える。
「相手が喜ぶことをすればいいだろう」
そう言えば、子ぎつねは「なるほど!」と目を輝かせながら草むらの中へ姿を消した。
おもしろい子だなと、子ぎつねの消えた方を見る。
他の生き物に興味を持つことは特別珍しいことではない。特に人間は、他の動物とはどこか違う生き物だ。興味を持つ者は多い。しかし、近づきすぎれば殺される。それが人間だ。食うためでも毛皮を利用するためでもなく、ただ殺す。そういう残虐な面もある。
それに、だ。
この周辺で人間がいる場所は、山の麓にある集落しかないのだが、昔から続く言い伝えのせいで、集落の人間は狐をあまりよく思っていない。あの子ぎつねもさすがに気付いているはずだ。
……いや、どうだろう。もしかしたら気付いてないかもしれない。
空を見上げれば、紅葉のように赤く染まっていた。
もし、知らなくてもいずれ気付くだろう。そう思って、鳥の姿を真似ると飛び立った。
翌日、再び鳥居の前に子ぎつねが姿を見せた。
「なあ、神様、神様」
心なしか昨日より声音が暗い。
「何だね?」
人の姿で現れれば、子ぎつねは口元から何かを離した。ネズミの死体だ。
「ニンゲンはネズミが嫌いなのか?」
うーんと唸りながら考える。好きか嫌いかで言えば、嫌いだろう。そう伝えれば、子ぎつねはしゅんとうなだれた。
「じゃあ、ニンゲンは何が好きなんだ?」
これまた難しい質問だ。再び唸りながら、顎をさする。この神社にいた神主の癖だが、姿を真似ているうちに移ったらしい。もう、百年近く前の者なので、知る者はいない。
「生きている長さによって変わるからな。それに男か女かでも違う」
人の観察もしてきたとはいえ、詳しいわけではない。
しかし、どんな人間も一つだけ好むものがある。金だ。
子ぎつねにそう教えれば、首を傾げられた。
「そんなもん、食えないじゃないか」
その通りだと深く頷く。
「それとも何だ? ニンゲンは食うのか?」
「いやいや、そういうわけじゃない」
人間社会の仕組みを教えても理解できないだろう。とりあえず、人間にとって万能の石なのだと言えば、子ぎつねは納得した。
前々から思っていたが、この狐、あまり賢くはなさそうだ。
「ありがと、神様」
そう言って子ぎつねはくわえて来たネズミの死体をそのままに、森へと姿を消した。
「これは、お礼の品ということでいいのかな?」
放っておかれたネズミの死体へ目を向ける。狐はネズミを食う。子ぎつねは私の言ったとおり「相手が喜ぶこと」をしようと思い、狩ったネズミを渡そうとしたのだろう。
経緯はどうあれ、このままではネズミも浮かばれない。
私は食事などしないので、近くを通りかかった蛇に与えてやった。蛇は驚いた素振りをしたものの、丸飲みして姿を消す。
そこでふと気付く。
私は子ぎつねに金ではなく、人間も食う生き物を教えてやるべきだったのではないか、と。
「浅はかだった」
もし、本当に神という存在がいるのなら、こんな間違いを犯すことはないだろう。もっとすべてが円滑に進むよう、手を加えるはずだ。
すまんな、子ぎつね。
心の中で子ぎつねの無事を願った。
「なあ、神様、神様」
久々に聞いた声。慌てて姿を見せれば、ずいぶん弱りきった子ぎつねが鳥居の前で横になっていた。
よく見ると、片方の耳の先が欠けている。死闘の末のような有様に思わず手を伸ばす。
「一体どうした? こんなに傷をつくって――」
子ぎつねは、ひゅーひゅーと息を鳴らしながら答える。
――ニンゲンにやられた、と。
その瞬間、体の内側でカッと何かが熱く燃え上がった。気付いたときには、私は麓の集落まで下りていて、誰がこんな非道な真似をしたのか探しだそうとしていた。
ここは、戦に破れ、命からがら逃げ落ちた一族の末裔が住んでできた集落である。辺鄙な場所にあり、外部の人間が訪れることは滅多にない。細々と生きる人間たちの最後の安住の地だ。
最盛期には、百人近くいた村人も今では二十人ほどに減った。山の中腹あたりにある神社は、彼らが建てたものだ。今では時の流れに任せ朽ちていくのを待つだけである。
そんな彼らが今でも憎んでいるものが狐だ。
詳しい事情は知らない。彼らを破滅に追い込んだ一族が、狐と縁があったのかもしれない。
だが、それが無垢な子ぎつねを傷つけていい理由には決してならない。
ハヤブサの姿から狼に変え、村を襲ってやろうとしたときだ。
集落の真ん中がやけに騒がしい。
予定を変更し、猫の姿に変わると騒ぎの中心へ向かった。私の記憶よりもずいぶんみすぼらしくなった村の様子に自然と歩みも遅くなる。村人の着ているものも継ぎ接ぎだらけで汚い。
すんっと鼻をひくつかせると、目を細めた。
死の匂いが強い。放っておいても、近いうちにこの集落は滅びるだろう。
粗末な家が並ぶ中、中央に開けた場所がある。そこで数人の男が、一人の少年に暴力を振るっていた。
「お前なんで逃がした!」
「狐を逃がした罪は重いからな!」
罵詈罵倒と共に細い腕ではあるが力一杯殴られ、少年は地面に突っ伏す。舞い上がった砂埃を吸い込んだのか、激しく咳こみ始めた。丸まった背中に容赦なく足が降りかかる。
外道共め――。
猫の目ということもあってか、瞳が針のように細くなる。
これだから、人間は嫌なのだ。同族であっても簡単に命を奪おうとする。子ぎつねにされた暴力には、まだ怒りも収まらないが、死にかけの村だ。手を下すまでもない。
きびすを返し、再び鳥に姿を変え飛び立とうとしたときだ。
「あの、狐。僕のために、来た、から」
思わず振り向く。朽ちかけた社が、か細く助けを求めるように軋む音とどこか似ていた。
「またお前の戯れ言か」
「動物の声が聞こえる、だっけ? 気を引きたいならもっとまともな嘘を吐け」
そう言って、男たちはまた暴力を振るい始める。男たちもそうだが、少年はさらに痩せこけていた。このままでは、本当に死んでしまうだろう。
仕方がない。
さわさわっと木の葉が囁く。その囁きに紛れるように姿を変えると飛び出した。
唸り声を上げ、じりじり近づけば気付いた男どもが飛び上がる。
「野犬か?」「いや、違う。狼だ!」「逃げろ!」
口々にそう言うと、少年を置いて一目散に逃げた。まだ怒りを覚えていた私は、男共を睨みつけ、極み付けに遠吠えをしてやった。逃げながら悲鳴をあげる様は実に愉快だ。
ふんっと鼻息で嘲ると、地面に横たわったままの少年と目があった。
その瞬間、察した。男共の言っていたことは、嘘ではないと。
「君、本当に、おおかみ?」
上体を起こすのがやっとの様子で少年が言う。
「変、だな。普段なら、声が、聞こえるのに」
当然だろうと心の中でつぶやく。
人の中には稀に、失ったはずの生物としての力を備え生まれてくる者がいる。この少年はどうやらその類のようだ。常人には理解できない力を持った者は、昔から敬われるか卑下されるかにわかれる。そして、大多数が後者だ。
そして私は、生物ではない。彼らと言葉を交わす術は持っていても、私から歩み寄らねば、言葉を交わすことは不可能だ。
「変なの」
起きあがることを放棄した少年は、潔く大の字に横たわった。血の匂いが鼻をかすめる。
「ここで死んでも後悔はないのに」
どうせ、生きていてもいいことなんて――そう小さく呟かれたのをこの両耳は逃さなかった。
こやつ、私が食らうと思っているのか。
――馬鹿馬鹿しい。
さっさと山へ帰ろう。
背を向け、数歩歩いたところで立ち止まる。振り返れば、少年は相変わらず大の字になっていた。
「馬鹿馬鹿しい」
今度は言葉にする。ただし、少年にはわからないだろう。木の葉が風もないのに囁く。
「生きようとしない者など助ける価値もない」
◇
「なあ、神様、神様」
大木の枝で一眠りしていたときだ。久々に聞くその声に、一瞬まだ夢を見ているのだと思った。だが、何度も何度も呼ばれるうちに現実だと知る。
「もう怪我はいいのかい?」
人ではなく狐の姿で現れれば、子ぎつねは不満そうに欠けた耳を動かした。
仕方がないな。
人間は子ぎつねよりずっと大きい。自分より巨大なものに恐怖を抱かないのだろうか。そんなことを思いながら、人の姿をとる。子ぎつねは、目を輝かせながら見上げてきた。
深手は負ったものの、命に別状はなかったようだ。しかし、欠けた耳の先はもう二度と元に戻らない。
私が皆の言う神なら、こんな傷、すぐに癒してやれたのだろう。だが、私にそんな力はない。
「もう平気だよ」
欠けた耳に手を伸ばせば、子ぎつねはくすぐったそうに身をよじる。
「なあ、神様、神様」
子ぎつねは言う。
「ニンゲンの使う言葉を教えて」
「どうして?」
思わずそう言ってしまった。興味を持ったこと、やってみたいと挑戦することに私はただ力添えをすればいい。そこに口を挟むつもりはない。
だが、このときばかりはつい口を出してしまった。
子ぎつねは尻尾を大きく左右に振る。落ち葉が、右へ左へと小さな山を作って動く。
「仲良くなりたいニンゲンのこと、もっと知りたい」
「殺されかけたのにか?」
途端、子ぎつねの尻尾が止まった。しまったと思ったときには、もう遅い。私が踏み込んでいい領域はとっくに越えている。子ぎつねの好きなようにさせるべきなのだが、どうしても口を出してしまう。
謝ろうとしたときだった。
「すべてのニンゲンと仲良くなろうとは思っていないよ」
子ぎつねは言う。
「でも、優しいニンゲンもいる。話、聞いてくれる」
ふと脳裏をかすめたのは、男たちに暴力を振るわれていた少年の姿だった。
「――わかった」
そう言えば子ぎつねは、目を輝かせた。私の足下を何周か駆けめぐるとぴょんと跳ねた。反射的にその体を抱き抱える。
「ありがとう、ありがとう」
全身で喜びを表す子ぎつねに、どことなく気乗りしなかった気持ちが吹き飛ぶのを感じた。手を離せば、子ぎつねは地面に飛び降りる。
咳払いをしたのち、私は口を開いた。
「君が妖狐ならまだしも、ただの狐である以上、話すことはできない。しかし、人間の意思疎通は音以外にもある」
適当に木の枝を拾うと地面に文字を書く。それを見た子ぎつねは、首を傾げた。
「これは文字という。例えばこの木を指す言葉は、このように書く」
地面に「木」と書く。子ぎつねはそれをじっと見つめた。
「言葉の羅列だけでも相手に伝えることは可能だが、人間はしゃべり言葉と同じように書き言葉を使う」
今度は「私はとても楽しいです」と書いた。
「物を指す言葉だけでなく、感情にも言葉がある。だから、自分の気持ちを相手に伝えることができる。文をしたため、遠方にいる人間へ気持ちを伝えあうことも可能だ」
子ぎつねの前足をとる。
「君はこの爪がある。社の板を使い、言葉を削ればいい」
「なあ、神様、神様」
子ぎつねは言う。
「ふみって何だ?」
その瞬間、ああそうかと思い直す。同時に感じるのだ。種族間の違いは、思っている以上に大きいのだと。
それから子ぎつねはことあるごとに文字の教えを請いにやってきた。私の知らないところで文字を書く練習をしているらしい。
子ぎつねに文字を教える日々が始まり、季節は冬、春へと変わる。子ぎつねはいつの間にか、立派な狐へと成長していた。
そして、相変わらず人間に強い興味を持ち、文字を尋ねに私の元へやってきた。
春という季節は、どこか気持ち的に舞い上がるものがある。命が芽吹き、目に映るものすべてに色が入る季節だからか。
春告げ鳥が山の中でも鳴き始めた。
私も少し舞い上がっていたのだろう。毎年過ごし知っているはずの山なのに、今年はどこか華やいでいる気がしたのだ。木々に咲く花に見とれ、山の活気ばかりに気を取られていたせいで、気付くのが少し遅くなった。
麓の集落の不穏な空気に。
◇
「なあ、神様、神様」
片耳の先が欠けている狐が、鳥居の前で行儀よく座る。私が姿を現すのを待っていた。
「今日は何だい?」
もはや日課となった言葉教えだ。狐もずいぶん言葉を覚えたことだろう。しかし、狐は一度も書いた文字を見せてくれない。
「村で人間たちがギシキとか言っていた。ギシキって何だ?」
何となく嫌な気配を感じ、眉をしかめる。
麓に住む一族が命からがら落ち延びることができたのは、一匹の蛇の助けがあったからだという。人の想像力故のことか、はたまた本当のことかは知らない。伝承とはそういうものだ。
村では数年に一度、救ってくれた蛇への感謝を込め小さな祭りを開いていたのだが――。
「いつの頃からか、村に災いが起きるとその蛇が怒っていると言われるようになってな」
祭りから儀式に変わった。おそらく、昨今の貧困を蛇の祟りとして、人柱を立てようとしているのだろう。昔から変わらない。
「まあ、祈りだな」
当たり障りのない答えを告げる。狐がどうこうできることではない。
「そうか」
狐はそう言ったあと「じゃあさ」と言葉を続ける。
「『ずっと一緒にいたい』ってどう書くんだ?」
てっきり儀式の言葉について知りたいと思ったのだが。
ふむ。これはこれで難問である。
顎をさすり、この社に多くの人が訪れていた過去へ思いを馳せる。ここには、多くの人間が祈りを捧げに訪れた。他人を思いやる者もいれば、私欲深い者もいた。
「――『愛しい』かな」
狐の言葉をそのまま文字にすれば「離れ難い」なのかもしれない。けれど、狐の言う「ずっと一緒にいたい」はきっと「愛しい」に近いだろう。
私はその文字を狐に教えた。
狐は「ありがとう」と子きつねのときと変わらない瞳でそう言うと、森の中へ姿を消した。
それが、私が片耳の欠けた狐に教えた、最後の言葉となった。
数日後、草木も眠る時間帯に胸騒ぎを感じ、目を覚ました。
一見、森はいつもと変わらないように見える。しかし、何かがおかしい。耳を澄ませば、遠くから悲鳴と戸惑いの声が聞こえる。――木々や小動物の声だ。
私はすぐさま異変を感じた場所まで向かうと、逃げ惑う野鼠に問う。すると鼠は「ニンゲンじゃなかった。ヌシ様おこった」と言って、姿を消してしまった。
人間? ヌシ?
ハヤブサに姿を変えると、集落まで下りた。その途中、白衣をまとった少年の姿を見かけ、下るのをやめる。案の定というべきか、神への生贄に選ばれたのは、いつか見たあの少年だった。フクロウに姿を変え、耳を傾ける。村からは経のような声が聞こえてきた。
これには覚えがあった。儀式の際に読み上げる祝詞だ。
少年はまっすぐ伝承に出てくる石祠へ向かっている。騒ぎはその周辺からだった。
先ほどの野鼠の言葉はよみがえる。
なんということだ!
狼へと姿を変え、森を駆け抜けた。
私の知らないところで、妖の類が人間をいいように使っていたのだろう。だが、それに気付いた者が生贄より先に襲いかかったらしい。
野生で生きる動物は、人に近づこうとしない。わざわざ自らの命を危険にさらしてまで、人間を助けようとする者など――私はひとりしか心当たりがない。
狼の荒い息が暗い森に染み込む。鼻を鳴らせば、もう近いことがわかった。同時に嗅ぎ取る、血の匂い。
鋭い牙がのぞく口から舌をのぞかせ、四肢をめいっぱい使う。枯れ葉を舞い散らせながら、一陣の風より早く駆け抜けた。
だが、到着したときにはもう全てが終わっていた。
地面はえぐれ、祠は壊れ、周辺には濃い血の匂いが漂う。そんな中、息も絶え絶えの狐は、足を折りそうになりながらもかろうじて立っていた。
「……狐」
人の姿を取れば、私だとわかったのだろう。糸が切れたように地面へ崩れ落ちた。
「かみ、さま。か、みさ、ま」
息も絶え絶えの狐は言う。
「あいつ、は? あの、へ、びは」
「もういないよ」
噛み砕かれた蛇の死体を横目に、私は真実を伝える。
そして目を伏せた。
妖でも何でもない。前にネズミを与えた蛇だった。ヌシと呼ばれている者に、私が贈り物をすればどうなるのか――。考えればわかることだ。
私はまた失態をした。そして、今度はそのせいで命が一つ消えかかっている。
「――すまない」
そう言えば、狐は不思議そうな瞳を私に向ける。その目は「どうして謝るの?」と語りかけているようだった。
正直、まだ生きているのが不思議なくらいだ。欠けていた耳は、完全になくなり、毛が血で濡れるくらい深手を負い、腹は肉が剥きだし、後ろ足の一本は、途中でなくなっている。
ぐっと両手を握りしめたときだ。
「やしろ、の中、見て」
そう言って狐は一度深く呼吸した。そして――。
「ありが、と」
その言葉を最後に、狐は動かなくなった。
◇
村から出る方法ばかり探していた。
生まれたときから、人間以外の動物の声が聞こえたせいで、僕は厄介者だった。
親は流行病で死んだ。育て親は、隣の家に住む老婆。まさか、こんな厄介ごとを押しつけられるとは思わなかった――それが晩年の口癖だった。
同じ人間なのに、ここが唯一の居場所のはずなのに、それがひどく息苦しかった。
だからよく森の中へ足を踏み込んだ。森は、僕も小さな存在にすぎないことを教えてくれる。そして何より、他の動物の言葉を聞くのがおもしろかった。
そんなとき、腹を空かせた一匹の子ぎつねに出会った。僕が与えられる物は何もなかったが、声を聞くかぎりあまりにも不憫に思えて、気付けば僕は川で魚を釣っていた。このあたりは流れが速く、魚を捕るのは難しいのだが、僕は穴場を知っている。即席で作った釣り竿を使い、何匹か釣り上げると、すべて子ぎつねにやった。
嬉しそうな声をあげると、子ぎつねは森へと姿を消した。厳しい自然の中、子供が大人に成長する確率は低い。きっと僕が人間じゃなかったら、今頃死体となって他の動物の腹を満たしていたことだろう。
どうして僕には動物の声が聞こえるんだろう。
どうして僕は人間に生まれてしまったのだろう。
この場所から逃げられるのなら、何だってしてやる。
汚れた獣と村では蔑まれている狐を助けたときから、こうなることは何となくわかっていた。
今、村は存続の危機に立たされている。
子の数が減り、田畑を耕かす力が衰える一方、面倒をみなければならない大人の数が増えていく。明らかに農作物の量と人の数が合わなくなっていた。
村では昔から蛇神様を奉っている。村に災いが起きるとき、蛇神様の怒りをかっている。それを沈めるため生贄を差し出す風習があった。
僕は生贄に選ばれた。厄介払いなのはわかっている。でも、僕に拒否権はなく、承諾するしかなかった。
正直、そこまで嫌だとは思っていない。
ようやく、村から出られる――そんな思いの方が強かった。
だが。
「何だ、これ」
蛇神様を奉っている祠は、何者かが激しい争いを繰り返したあとのようにひどい有様だった。膝から崩れ落ちる。
本当に神様なんてものがいるとは思っていない。この生贄の儀式も、口減らしの口実にすぎないのだろう。
でも、これは――。
僕は両手で顔を覆った。
「……僕のせいだって、言われるな」
どうして祠が壊されているのか、ここだけ嵐のあとのような激しさを残しているのか、わからないことだらけだが、一つだけわかることがある。
僕が死んでも、村人たちは「蛇神様の怒りを買った」と僕を憎むということだ。
もうどうにでもなってしまえ。
僕は膝を抱えた。帰ることは許されない。かといって、旅の出る勇気もなければ、方法も知識もない。このまま、死んでしまいたい。顔を両腕に埋めたときだ。
「おい」
近くに動物でもいるのか。もしかしたら、それは狼かもしれない。
恐る恐る顔を上げると、人の足が見えた。「え?」と思わず声が出る。
こんなところに人がいるはずない。まだ、儀式の最中で村では祈祷が行われているはずだ。
「これは君あてだ」
そう言って、見知らぬ男が手渡して来た朽ちかけた木板を戸惑いながらも受け取る。松明の明かりを寄せると何か書かれていることに気がついた。
「忘れるな。君の命はある者の命と引き替えに長らえた。――簡単に手放そうなどと思うなよ」
そう言うなり、突然突風が吹き抜けた。顔を覆った僕が次に目をあけたとき、その人はもうどこにもいなかった。
松明の明かりは突風で消えてしまった。しかし、開けたこの場所では空がよく見える。星の光を頼りにもう一度木板を見た。一見、ひっかき傷にしか見えない。だが、よく目を凝らせばわかる。
一体何がこの地で起きたのか、僕が知ることはないのだろう。
でも、今こうして生きている代償として、あの人の大切な人が消えたということだけはわかる。
目の前に突然現れた、村人ではない人間。僕の心臓が強く脈打つ。
あの人は気付いていない様子だった。
――自分が泣いていることに。
これは、本当に僕あてなのだろうか。
星空に掲げ僕は思う。
そこには、歪な文字で「愛しいあなたへ」とだけ書かれていた。
了




