墓荒らしのエレン 2019.10
湿った土の匂いと小刻みに続く音。
草木の寝静まる深夜の墓地に似使わない匂いと音が、降り積もる沈黙を割く。しかし、それに気づく者はいない。
雲の合間からのぞく月が、その正体を照らし出す。
墓を掘り返すのは、泥と汗にまみれた痩せた少年。ただひとり。
彼は教会から雇われた墓堀りの人間でもなければ、棺桶に入っている遺品目当ての泥棒でもない。
彼はただ探していた。――少年をこの世に生みながら捨てた女。
顔も名前も知らない母親を。
◇
「こんにちは、エレン」
木陰で浅い眠りに落ちていたときだ。頭上から降ってきたのは、太陽の光よりも厄介な存在だった。
エレンと呼ばれた少年は、いつもと同じように聞こえていないフリを決め込んだ。だが、鼻をくすぐるパンの匂いに腹が鳴る。すると、鈴を転がしたような笑い声が降ってきた。
「ママの目を盗んで、パンを少しだけ持ってきたの」
うっすらと目を開ければ、少年よりも幼い少女が、腕にぶら下げたバスケットの中をのぞき込み何かを探していた。次の瞬間、「ほら!」と耳を刺すような明るい声があがる。
少女は、まだ横になったままの少年の横にパンを置くと「また来るね!」と言って走り去っていった。
完全に気配がなくなった途端、エレンと呼ばれた少年は勢いよく起きあがった。パンを狙っていたカラスが悔しそうに鳴いている。少年は、飲み込むようにパンを頬張り、食べ終わると再び横になった。
木の葉がさざめきあい、木漏れ日が降り注ぐ。
少年の名は、エレンではない。少女が勝手にそう呼んでいるだけだ。少年もまた、少女の名前を知らない。もちろん、言葉を交わしたことも視線を合わせたこともない。
木陰で寝ているとやって来る、やかましくも食べ物をくれる少女。
もしかしたら、少女から見たら犬や猫と同じように見えるのかもしれない。墓場に住み着く野生動物と。
少年がこの街にやってきたのは、半月前。墓を掘り起こし始めたのも、この街に到着したその日からだ。以前住んでいた街では、墓を掘り起こすなんてことはしていなかったが、天涯孤独の身である少年は、働き口もなくスリや泥棒をしてその日その日を生きてきた。彼の育ての親もまた、身よりもなく家もない者で、赤子なんか拾ってしまったのが運の尽きだったのだろう。自分を生かすので精一杯な世界で他人の世話を焼き続けた結果、栄養失調で死んだ。胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが、今も残っている。
少年は文字の読み書きができない。しかし、聞くことはできる。だから、路地裏でうたた寝をしていたときに聞こえた会話。その真相を確かめにここまで来た。
――子は親に似る。
酔っぱらいの戯れ言など、いつもなら無視する。だが、その言葉は何日経っても少年の耳に残り続けた。
一度だけ、育ての親が言っていた。
「お前を拾ったのは雨の日。食べられる物がないか探しに来たとき、ちょうどお前の母親らしき女が、傘も差さずにゴミ捨て場の方をじっと見つめていた。一目で隣町の人間だってわかったよ。首にロザリオをかけていたからね。隣町の人間は、この街を蔑んでいて滅多にこない。だから、こんなゴミ捨て場に何のようがあるのか不思議に思ったね。そっと近づき、耳を立てれば、ゴミに向かって何度も何度も謝っているときだ。同時に激しくせき込んでいた。――あれはもう長くなかったな」
その話を聞いたとき、「それで食べ物はどこにあるんだ?」と少年は首を傾げた。その話は生きるのに必要なものなのかと。
だが、無駄ではなかった。
独りになって数年が経った今、初めて生きること以外に興味を持った。
子は親に似る。――――本当だろうか。
わかったところで腹の足しにもならないことくらいは承知している。
しかし、一度沸いた願望はなかなか収まるものでもない。
そうして少年は、隣町の墓所で一人墓を掘り始めた。手は豆だらけでスコップを持ち上げるだけでも痛みが走り、太股はぱんぱんに膨れた。体中が痛い。それでも少年は毎晩土を掘り返す。
空が青い――。
木の根本から見上げる空は、木陰に隠れてよく見えない。それでも少年には眩しかった。日中は暑いため夜に行動し、文字は読めないが、新しい墓石くらいはわかるのでそれを避けて掘り返す。
おそらく母親と呼べる女は、ずいぶん前に死んでいる。捨てられたからといって、憎んでいるわけでもない。母親の顔を見て、自分と似ているかどうか――それさえ確かめられればいい。
少年は肺が空っぽになるくらい、深く息を吐いた。そうして、体中に付いた土と砂の匂いの空気を吸い込む。
少年が掘り起こした墓は、そのままの状態になっていた。
◇
少年は、自分が生きるのに必要なこと以外はほとんど知らない。だから、墓所もゴミ捨て場と同じだと思っていた。だが、それは間違いだと知ったのは、見たことのない服を着た男が、胸元の十字架を握りしめ嘆いているのを見たときだ。
「一体、誰がこんなひどいことを……」
暑そうな格好の変な奴が来たと少年は思った。いつものように木陰で休みを取っていれば、土を踏む音が聞こえる。それは、次第に大きくなってすぐそばで止まった。
「君、ここで何をしているんだい?」
ゆっくり瞼を開ければ、先ほど見かけた男が目の前に立っている。眼鏡越しにのぞく両目に、不信の念が宿っているのを少年は見逃さなかった。
男の視線が少年から地面に刺さっているスコップに目がいく。途端、男の放つ雰囲気が変わった。不信が確信に変わる。少年は、飛び起きるとスコップを持ち、猫のような早さでその場から逃げた。追いかけてくる気配もあったが、すぐにやめたようだ。
この手の気配に敏感でなければ、生き残れない。
捕まれば終わりだ。
生きることで必死な者たちにとって、この世界は弱肉強食。まさに、弱い奴は死ぬしかない。
森に逃げ込んだ少年は、スコップを置くと木の上に登った。木の上に、体を安定させる場所などない。寝ることもできないまま、気配を殺し、周囲へ気を張り続けた。
太陽が西に傾き、森が赤く染まった頃。少年はようやく木から降りた。日が暮れる前に森を出なければ、明かりを持たない少年は夜行性の動物の餌食になってしまう。
できるだけ音を出さないよう気をつけながら、木を降りた少年は、足が地面に着いた途端、大きくよろめいた。とっさにスコップの柄を掴んだおかげで、何とか転ばずにすんだ。
ふっと少年は息を吐く。毎晩土を掘り起こしているのだ。体力の限界は近い。それでも、少年はスコップを片手に今晩も墓地を掘り返す。
一晩で掘り返せるのは、だいたい三つ。しかし、最近は一つがやっとだ。花の群生地のように一面に広がる墓石の数。少年が掘り返した数など、微々たるものでしかない。
掘り返しても明かりを持たない少年は、朝を待ってから顔を確認する。
しかし、今まで掘り返した棺桶に眠るのは、すべて驚くほど白い枝のようなものばかり。顔はもちろん、目や髪もないものだった。中には、形すら確認できないものもあった。
子は親に似る――少年は首を傾げつつも墓を掘り続けた。自身の顔を知っている少年は、その言葉が本当ならば、一目で母親の顔だとわかると確信があった。
ただ、人間も食料と同じで腐ることを少年は知らなかった。前いた街では、路上で暮らす人間が死ぬと、変な格好をした大人がめんどくさそうにどこかへ連れて行ってしまった。
途方もない墓石を前に、少年はスコップを止めようと考えたことは、一度もなかった。
毎晩、掘り起こされる棺桶。墓地に近づく人間は少ないが、掘り返されたままの墓地は、次第に目立つようになった。
噂は火のようにあっという間に駆けめぐる。神父だけでなく、町の人間も現れるようになり、少年は墓地にある木陰で休むこともできなくなった。
墓地の中央に生える一本の大木。この街に来て、唯一の憩い場に今では近づくこともできない。
少年は小さく溜め息を吐くと森へと姿を隠す。ただでさえ少なかった睡眠時間がさらに減り、少年の目の周りには濃い隈が出るようになった。
「絶対に許せない!」
怒り狂った声が耳に届く。少年は知らないが、この街の住人は神への信仰心が強い。日中は血眼で墓荒らしの犯人を探しているものの、夜になれば少年以外の人間が現れることはなかった。
夜は、生者が眠り死者が起きる時間。それを生者が邪魔することは、許されないからだ。
◇
「あ!」
できる限り身を縮め、草むらの中で目を閉じていたときだ。
聞き覚えのある声が耳を突く。
「やっと見つけた!」
少女はそう言うなり、いつものようにバスケットの中を探し始める。
「今ね、墓地に怖い人? が出るんだって。だからエレンも気をつけるんだよ」
そう言いながら、今日はパンだけでなくチーズも一緒に置く。
少女ははにかみながら、
「ママが『外に出るな』ってうるさいの。もし教会じゃなくて墓地に行っているって知ったら、ものすごく怒ると思う。だから、あまり来れなくなっちゃうけど――ごめんね」
「……どうして謝るんだ」
「え?」
かすれた声。少年は自分でも驚いた。
まだ声が出た、と。
「――起きてたの?」
少女は、一歩、二歩と下がる。その顔は、大きく見開かれた目には、鳥の巣のように無造作な髪と日に焼けた黒い肌――少年の知らない少年が映っている。
一歩近づけば、三歩下がる少女を前に、少年はもう一度問う。
「どうして食べ物をくれるんだ? オレに何をしろっていうんだ?」
少年はずっと不思議だった。普通、金を払わなければ何も得ることはできない。金の代わりに働いたり、同等の物を渡したりすることで得られることもあるだろうが、少年は少女に対してそうした「何か」をした覚えがまったくなかった。
だから、不思議で仕方がなかった。
見返りを求めず、ただひたすらに与え続ける少女の行動が。
しかし、言葉を失った少女は口をわなわな震わせたまま、少年の問いかけに答えることもなく、一目散に走り去ってしまった。少年は、小さく肩を落とすと、倒れ込むように体を近くの幹に預けた。
少女が与えたパンとチーズをむさぼるように食べる。少女は、数日分のつもりで置いていったのかもしれないが、少年には関係ない。
少年にとって、今がすべてであった。
◇
それから、数日が経った。
少年は今日もスコップを片手に墓地をさまよう。しかし、墓を荒らす少年を街の人間が放っておくはずはなかった。
神父らが、街の外から狩人を雇ったのだ。街の人間が仕事の片手間に、交代制で墓守をしていたのとは全然違う。五人ほどいる狩人は、墓地を村人に任せ、森に足を踏み入れる。
目的は一つ。
墓を荒らす少年の捕縛だ。
普段、野生の動物を相手にしている彼らにとって、森に関する知識は少年より圧倒的に多い。闇雲に逃げ回っても適う相手ではない。
それでも逃げ回り続けた少年は、誰もいなくなった夜に墓地の中央で短い仮眠をとるようになった。
街の人間の信仰心がここまで強くなければ、すぐに捕まっていただろう。少年と同じく余所者であるはずの狩人の姿を夜見かけることはなかった。
痛む体に喝を入れ、少年はスコップの柄を掴む。
少年の胸の奥に焦燥が募る。このままでは、先に少年の方が身が持たなくなる。捕まれば最後、どんな理由があれ墓地を荒らした以上、無事でいられるはずがない。
あれから少女は姿を見せなくなった。
しばらく来れないと言っていたが、おそらく二度と会うことはないと少年は思う。
少女は眠っている少年に話しかけていたのだ。
決して目を開け、かすれた声でしゃべる人間には声をかけていない。
ふと少年は、少女の瞳に映っていた人間を思い出す。
あれは、少年自身だった。しかし、少年の知る姿ではない。
一体、どういうことなのか。
掘り出す棺桶から出てくるのは、形のない物やとても人とは思えないものばかりだ。少年は、胸をかきむしりたくなる衝動に襲われた。
今までずっと記憶にある自分の姿を頼りに、墓を掘り続けていた。だが、もし姿が変わっていたら――自分の母親を見つける自信はない。
少年は疑わなかった。棺桶に入った遺体は死んだ当初のまま変わらないと。
少年は走った。
スコップを地面に突き刺し、水のある場所を求めて走った。顔などそう簡単に変わるはずがない。パンのようにちぎれるわけでも、泥のように崩れるわけでもないのだ。しかし、「絶対」とは言い切れない。
土で汚れた手足を動かし、足を踏み出すたびに大きくよろめく体を支えながら、水面を求める。墓地を抜け、教会の前を走り、息を上げながら家が並ぶ方へと走る。
夜は、恐ろしいほど静かだった。
ぜえぜえと荒い呼吸が遠くまで響いているような気がしてならない。今、街の人間に見つかれば簡単に捕まってしまうだろう。いくら信仰心が強くても夜の墓地に近づかないだけで、家の外には出てくるのだから。
くらむ目をこすりながら、水のはった瓷を見つけたとき空は黒から紺色に変わり始めていた。のどは張り付いたように乾き、口の中は血の味が広がる。立っているのでさえやっとの少年は、倒れ込むように瓷の前で座り込むと、ふたを開け、その中に顔を突っ込んだ。
細いのどが、大きく上下に動く。乾いた少年の体は少年が思っていた以上に水分を欲していた。
だから、声が聞こえたとき、少年は尻尾を踏まれた猫のように驚いた。
「……エレン?」
ぼさぼさの髪を揺らし眠そうな目をこすりながらこちらを見ていたのは、あの少女だった。手に水差しを持っている。
「夢?」
東の空は、暗い空を吹き飛ばすようなまばゆい光に染められつつある。立ち上がったエレンは、ふと瓷の中へ視線を落とした。その瞬間、少年は目を見開いた。
「どうしたの?」
異変を察したのか、少女はまだ寝ぼけ眼でこちらを見つめながら声をかける。しかし、少年にその声は聞こえなかった。叫びたい衝動をどうにか飲み込み、少年は逃げるように走った。
その背中に少女が言葉をかけるが、少年が振り返ることはなかった。
狩人はその日も少年を探しに来た。
「あいつは子供の皮を被った悪魔です。死者の眠る聖域をこのように荒らすなど、悪魔以外に考えられない!」
神父の声が、身を潜める少年の耳にまで届いた。対する狩人たちは、この街の人間ではないからだろう。神父の熱い思いは理解できないようだ。しかし、仕事である以上、彼らが少年を捜すことをやめることはない。
いつもなら、逃げ回る少年だがこの日に限って少年は身を隠したまま動こうとしなかった。
もうどうでもいいと少年は思ってしまった。
体力の限界が来たわけでも、真相に興味を失ったわけでもない。
わからなくなったのだ。
会ったこともない母親の顔を見ればわかると考え、ここまでやってきた少年だが、それは裏を返せば、「子は親に似る」ということが前提になければ証明しようがない。
真実かどうかを確かめに来たはずなのに、最初から事実だと仮定して動いていた。
だが、少年の心に顔を開けたのはそのことに気が付いたからではない。
今朝、少年は自分の姿を見た。久々に見た自分の姿。――それは、少年の知らない人間だった。
――誰なんだ、お前は!
少年は、街の中で叫ばなかった自分を、ほめてやりたいと心の底から思った。知らない人間が目の前にいたときの驚きは、きっと普通に暮らしている人間にはわからないだろう。
自分だと思っていた人間は、どこに行ったのか。寝ている間に誰かに変えられたのか、動物に食われたのか。少年はありとあらゆる可能性を考えた。しかし、そのどれもが根本的な解決にはならなかった。
種を撒けば目が出て茎が生え、花を付け最後は実になることは知っていた。しかし、同じことが人間にもいえるとは知らなかった。
自分の姿を頼りに墓を掘り続けた少年には、もう頼れるものなど何もなかった。
もうどうにでもなれ――少年は木の根を枕に横になった。しばらくすると、人のものではない荒い呼吸が耳に届いた。少年が起きあがろうとした瞬間、少年を見据えた犬が激しく鳴き喚いた。
場所を知らせているのだと少年は察した。無意識に早く逃げようと思った少年は、自身に染み着いた生き残る術に思わず鼻で笑ってしまった。
もう、これで終わりにしよう。
そう決めた。しかし、狩人の放った矢が肩に刺さった瞬間、その考えは翻った。
少年は走った。がむしゃらに、ただ前だけを見据えて。犬が追いかけてくるのがわかる。ここに来る前、野良犬に混じって生活をしていたこともあり、犬に追いかけられるのは慣れていた。そして、その迎撃方法も。
変だと少年は思う。
どうして折れるんじゃないかと思うほど激痛の走る足を動かしているのか、どうしてまだ、生にしがみつくのか。
わけがわからなかった。
胸はぽっかり穴が空いたようなのに、体はひどく重かった。
狩人から逃げ切れたのは、奇跡に近かった。日が暮れ、月が空を照らしても少年は墓地に向かおうとはしなかった。ずっと持ち歩いていたスコップはもうない。
もう、少しも体は動かなかった。すべての力を使い尽くしてしまったようだ。このまま森の獣に食われるのを待つだけかと思ったとき、少年の口から声が漏れた。
言葉というにはあまりに雄々しく、咆哮というには胸を押しつぶされそうな哀愁に満ちていた。
掠れた声はどこか泣いているようにも聞こえる。
森を裂く声は、遠くまで響いた。
もしかしたら、いずれあのような姿になるのだろうか。
少年の脳裏に浮かぶのは、棺桶に入っていた白骨化した死体。息を吸っても吸い足りない。ぽっかりと空いた穴は、目では捉えることもできない。どんなに叫んでも、息を吸っても満たされない。
ふいに少年の声が止んだ。
その瞳は、ただただ暗闇を見つめている。鏃は刺さったまま。血はそんなに多くないが、燃えるような熱さと痛みが走る。
少年にとって死は終わりを意味していた。だから生に食らいついた。まだ、終わらせたくないと思っていたからだ。
しかし、それもここまでだ。
何かが近づいてきている音がする。狼か、熊か。
生きるために命を食う。少年も今までそうやって生きてきた。だから、これは自然なことなのだと自分に言い聞かせた。そうしないと、生にしがみたい気持ちが首をもたげる。
だが、現れたのは狼でも熊でもなかった。
「エレン!」
まばゆい光。ランプを持ちこちらに近づいてきたのは、少年が脅かし追い払ったはずの少女だった。
なぜ、どうしてここに?
疑問がわき上がるが、それを尋ねる体力はもう残っていない。少女は、少年の元に駆け寄ると、肩の傷を見た。そうして、何を思ったのか少女は小さな体を使って少年を運ぼうとし始めた。
少女は言う。
「秘密の場所に連れて行ってあげる」
少年はもう立ち上がることさえままならない。そんな少年を少女は引きずるように運ぶ。
リンリンと夜の森に不釣り合いな鈴の音が響く。しばらくすると、少女の体は汗で塗れ始めた。わずかに残った力で少女を振り払おうとするものの、少女はその腕を頑なに離そうとはしない。
少女は休み休み少年を運ぶ。小さな少女にとって、しんと静まりかえった森は怖いのだろう。少女は独り言のようにしゃべり続けた。
「この先にね、私の大好きな場所があるの。墓所を通れば近道なんだけど、夜は入っちゃいけないから。それに、今日この時じゃなきゃ駄目なの」
少女は言う。
「ママが言ってたの。『いいことをたくさんすれば、神様が天国に連れて行ってくれる』って。だから、私、いいことをしようと思って、パンをあげたの。がりがりに痩せているし、いつも寝ていたから、サンタさんみたいに寝ている間なら気づかれないかなって思ってたんだけど、そうでもなかったね。
だから、エレンに何かしてほしいわけじゃないの。私は天国に行きたいの。だから、たくさんいいことをしたかったの。――自分勝手なだけ。今だって」
沈黙が重くのしかかる。たまに鼻をすする音が少年の耳に届いた。
「ついたよ!」
少女の足が止まった。少年も閉じていた瞼をかろうじて開ける。
すると、そこには一面に白く小さな花が咲いていた。月光を浴び、光り輝く星が地上に落ちてきたようだった。
少年は、生まれて初めて「美しい」という感情を知った。
「きれいでしょ?」
少女は、少年を座らせ木の幹に背中をもたせかける。
「月光花っていうんだ。一年に一回、満月の夜にだけ咲くの。朝になると枯れるお花でね。摘んでしまうと枯れちゃうから、手元に置いておくことができないんだよ。――天国に咲いている花だってママは言ってた」
少女の明るい声が、夜の森にいることを忘れさせる。
「……エレンは天国に行けるかな」
少年は何も答えず、穏やかな微笑みを浮かべたままだった。
了




