悪魔崇拝の噂話
『絡新婦の理』という小説がある。
これは京極夏彦という作家の書いたいわゆる民俗学系ミステリのジャンルに分類される小説なのだけど、そのテーマとして、“母系社会と父系社会の価値観や文化の差”を扱っている。
ネタバレになってしまうので、あまり書くのは控えるけど、“同じ行為”が価値観の差によってどれだけ違った捉え方をされるものなのかがよく分かる凄い小説だ。こーいう小説がもっと広く読まれれば、世の中は良くなると思うのだけど……
そういう意味でもこれはお薦めの小説です。すっごいサイズだけど、興味を持たれた方は一度読んでみてはどうでしょう? なんて、宣伝をしてみたりして。
と、話が逸れたけど、今回の話のテーマは、まぁ、なんと言うか、この小説によく似ている。いや、ボリュームもクオリティも『絡新婦の理』の方が圧倒的に上だし内容も全然異なっているのだけど、同じ様に“母系社会と父系社会の価値観や文化の差”によって生まれた問題を扱っているのだ。
――。
僕、佐野隆は、その時非常に困っていた。それは僕が所属している大学の新聞サークルのサークル室での事で、目の前には火田修平という名の人相の悪い友人がいた。火田はいつも僕を馬鹿にするのだけど、その日は馬鹿にするだけじゃなく、「さっさと鈴谷の所へ行ってこいよ」と僕を焚きつけてもいた。
「ビビッてたって、何もならないだろうが。いつまでウダウダやっているつもりだよ。どうせお前はいつかは鈴谷の所に行くんだし」
鈴谷というのは、フルネームを鈴谷凛子といい、同じ大学の民俗文化研究会というサークルに所属している女の子で、まぁ、簡単に言ってしまえば僕は彼女に惚れてる。しかも自分でも驚くほどに。ストーカーにならないようにと精神衛生に気を付けているくらいだ。
僕はいつも民俗関係やその他で、少しでも彼女に相談しに行けそうなネタを見つけると、それを理由にしてそそくさと彼女に会いに行っているのだけど、火田はそんな僕の行動に呆れているようだから、僕を焚きつけるのはちょっと珍しい事だ。
「いや、でも、これを言いに行ったら、絶対に鈴谷さんは気を悪くするだろうし」
そう僕が言うと、目を細めて「でも、喜びそうでもあるんだろう? この手の話題は、大好きだからな、あいつ」なんて火田は返して来る。
「まぁ、そうだな。彼女、きっと喜ぶだろうと思う」
「なら、行けよ。喜ぶんなら、そんなに怒らないかもしれないだろう?」
「いや、そーいうところは彼女は確りしているから、きっと怒った上で喜ぶと思う。なぁ、火田。なんとか彼女を怒らせない方法はないだろうか?」
「知らねぇよ! なんで俺がそんな事を知っているんだよ?!」
「知ってたっていいじゃないか。お前だって彼女の知り合いなんだし」
「知ってたら知ってたで、お前、絶対に嫉妬するだろうが!」
まぁ、多分、しそうだけど。
そんなタイミングでこんな声が聞こえた。
「何をやっているのですか? お二方」
見るとそこには園田タケシ…… 通称、ソゲキという名のお調子者の後輩がいた。いつの間にか、サークル室に入って来ていたらしい。こいつも一応、新聞サークルに所属している。まったく役に立っていないけど。
「佐野がなかなか鈴谷の所へ行こうとしないから、“行けっ”って言っているところだよ」
それに火田がそう返すと、
「へぇ、珍しいですね。いつもは何も言わなくても行くのに。何か鈴谷さんに怒られるような事でもしたんですか?」
なんて返してくる。
ソゲキにすら見抜かれているというのは、なんだか少々癪な気がする。
「してないよ」
と、それでそう返すと「してるようなもんだろうが」と火田が言った。そのやり取りを受けると、ソゲキは「なんだかよく分からないです」と間抜けな顔で言った。
「それに、どうして火田さんが“鈴谷さんの所へ行け”なんて佐野さんに言っているのですか? 佐野さんの恋路を応援するなんてらしくない」
ソゲキがそう続けると、火田は「当たり前だ。誰がそんな無駄で気持ち悪い事をするか」なんて言って来た。
失礼な奴だ。
まぁ、もっとも、別に応援してもらいたくもないけど。いや、それで本当に上手くいくなら別だけど。
「俺はな、ただ単に佐野の所へ来た依頼をさっさとこなせとそう言っているだけだよ。人助けになりそうだから」
「人助け?」
「そうだよ」
その返答にソゲキは益々不思議そうな顔を見せた。
「どうして、そんな依頼がうちに……、しかもよりによって佐野さんの所へ来るんですか? 火田さんになら、少しは分からなくもないですが……」
この新聞サークルは、はっきり言ってほとんど火田一人で持っている。僕も記事を書いているけど、火田がチェックしているし、編集方針も火田が決めている。仮に会社だったら、火田が上司で僕は部下だろう。もっとも、僕はそれをまったく気にしていないのだけど。ただ……、
「自分を棚に上げてよく言いやがったな、お前……」
僕に輪をかけて何の役に立っていないソゲキにだけは言われたくないくらいの気持ちはある。その僕の言葉を無視して、火田が言った。
「その理由は単純だよ。佐野が、鈴谷の所に相談しまくっていて、しかもその内容を記事にしているからだ」
「と、言いますと?」
ソゲキは首を傾げる。
「だから、その依頼ってのが、民俗関係の相談事なんだよ。で、佐野の記事を知った人が民俗学に詳しい人間を知っているのなら紹介してくれないか? ってうちに話が来たんだ」
その火田の説明にソゲキは笑う。
「ハハハ。なるほど、そりゃ鈴谷さん怒りそうですね。本人の知らないところでいつの間にか有名人だ。で、その鈴谷さんの喜びそうな民俗学関係の相談事ってのはどんなやつなんですか?」
その質問には僕が答えた。
「悪魔崇拝だよ」
と。すると、ソゲキは大袈裟なリアクションで、
「あ、あ、悪魔ぁ?!」
と、そう声を上げる。
“あ、くまの人形”って、冗談が昔あったなと、それを聞いて僕は思った。
――。
その依頼者は「ネットで記事を知りました」とそう言ってきた。最近になって、新聞サークルのサイトを作ったものだから、それを聞いた時、僕はそのサイトを見たものだとばかり思っていたのだけどそれは違っていて、どうやら口コミに近い感じで広まったものを見たらしい。
僕らの書いた新聞を読んだ誰かが、その内容をネット上にアップしていて、それが徐々に広まっているのだとか。
いやいや、「どうせ、大学の新聞サークルの新聞なんて、ほとんど読んでいる人間もいないだろう」って思っていたのに、やっぱり、昨今のネット社会はなかなかに侮り難い。個人情報の流出とか、気を付けなくちゃいけないね。
まぁ、別に僕は鈴谷さんの個人情報を新聞記事に載せていた訳じゃないのだけど、毎度毎度“民俗学に詳しい者の協力を得た”なんて書き方をしていたから。これは考えようによっちゃ、鈴谷さんの能力を社会に向って猛烈にアピールしていたみたいなもんだ。大学名もサークル名も簡単に分かるから、アクセスも容易だし。
とにかく、そんなこんなで僕は“鈴谷さんを紹介してくれ”と依頼されたに等しい事を頼まれたりしたのだった。
ただ、もっとも、僕らは単なる大学の新聞サークルな訳で、商売をしてもいないし社会的責任を負ってもいない。だから、その依頼を断ってしまっても何の問題もないのだ。
じゃ、どうして僕が悩んでいるのかと言うと、それは顔に似合わず妙に正義感の強い一面を持つ火田に促されているからでもあるし、その内容を鈴谷さんが喜びそうだからでもあったのだけど、それ以上にもしこれを無視したりすれば鈴谷さんから軽蔑されそうでもあったからだ。
鈴谷さんは無関心そうに思えて、実は色々な問題に関心のある人で、それを解決したいとも思っているようなのだ。だから僕が困っている人達を見捨てたりしたら、きっと軽蔑するだろう。怒られるだけならまだマシだ。でも、彼女から軽蔑されるのだけは耐え切れない
ま、なら、“さっさと相談しに行け”って感じではあるのだけどさ。
「うーん」
僕は頭を抱えて悩んでいた。火田はもう何も言わない。呆れているのか、諦めているのか。
鈴谷さんの所へ行く事だけは僕は決めていたのだけど、できる限り怒られたくはないのも当然の話で、だからその為の良い言い方はないものかと必死に考えていたのだ。
もっとも、僕の頭でそんな妙案が浮かぶはずもなく、だからこうしてずっと悩んでいるって訳だ。
「お前がそうやって粘っているのは別に構わないがな、先方にも伝えなくちゃいけないんだから、タイムリミットは決めておけよ」
見かねたのか、火田がそんな事を言った。
「分かっているよ。そもそも僕だって、鈴谷さんに会いたいんだから。今日中には会って事情を話すさ」
さっきも述べたけど、僕は鈴谷さんに惚れまくっている。本当を言えば、今直ぐにだって会いに行きたいんだ。
ところが僕がそう言ったタイミングだった。
「――どういう事情を私に話したいのかしら?」
と、ドアが開く音と共にそんな声が響いて来たのだ。
僕が忘れるはずもない。それは間違いなく鈴谷さんの声だった。慌てて声の方を見ると、彼女は腕を組んでほんのわずかだけ表情を歪めてそこに立っていた。分厚い眼鏡の奥のその瞳は、怒っているようにも不安を抱えているようにも思える。
僕は「どうして……」と、そう言いかけて彼女の背後にいるソゲキを見て察した。あのバカヤローが彼女に伝えたんだ。
僕は頭を抱える。
「悪魔崇拝だよ」と僕が言ったら、大袈裟に驚いた後でソゲキは部屋の外に消えていった。何処に行ったのかと思っていたのだが、どうやら鈴谷さんの所だったらしい。
「ソゲキ君に聞いたわよ。悪魔で困っているんですってね」
鈴谷さんはそう言う。
「いや、それは……」
僕は口ごもった。そして、口ごもりつつも、この彼女の態度は、或いは僕を心配したからこそのものなのかと少しだけ嬉しくなっていた。それでもう少しくらい勘違いさせたままでも良いかもしれないと逡巡しかけたのだけど、その前にあっさりと火田が事情を説明してしまった。
「ソゲキの奴がどう言ったかは知らないが、違うぜ、鈴谷。ただ単に、悪魔に関する相談を受けただけだ。まぁ、正確に言えば、お前に相談してくれってな事を頼まれたのだけどな」
それを聞くと鈴谷さんは軽くため息をついた後で僕をちょっとだけ睨みつけた。
鈴谷さんはスレンダーな体型をしていて、まぁ、まったくがたいは良くない。なのに、どうしてこんなに迫力があるのだろう? その力の強い瞳に僕はすっかりと気圧されてしまった。
「真っ青な顔でソゲキ君がやって来るから、どうしたのかと思って来てみたのだけど、取り越し苦労だったみたいね。もっとも、ソゲキ君情報だから、こんな事じゃないかとは思っていたけれど」
それを聞くと、彼女の後ろにいたソゲキが「それはないですよ、鈴谷さーん」とそんな間抜けな声を上げた。火田が笑う。
「ハハハ。しかし、まさか、鈴谷を呼んで戻って来るとはな。ソゲキも少しは役に立つじゃないか」
ちっとも役に立っていない。
「大方、佐野君が記事にしている所為で、依頼が来るくらいに私が有名になってしまったことを私が怒るとでも思っていたのでしょう?」
呆れた顔で次に鈴谷さんはそんな事を言う。僕はそれを聞いてなんとか誤魔化そうと思ったのだけど、またその前に火田が「流石だな、鈴谷。察しが良い」なんて言ってしまった。もっとも、下手に誤魔化したりしていたら却って傷口を広げしまっていたかもしれないけど。
僕は委縮する。
それからまた鈴谷さんは軽くため息をつくとこう言った。
「まったく…… あのね、佐野君。それくらいは“あるかもしれない”って前から分かっていたわよ、私は。それに、そもそも、いっつも私は佐野君に怒っているし相談を受けるのを嫌がってもいたでしょう? 今更なんじゃない?」
「ああ、そうか。そう言われてみれば、確かにそうかもしれない! 今更だ!」
と、それを聞いて僕は喜んだ。
「それで喜んじゃうのか、お前は」とそれに火田。
「凄いと思います」とソゲキ。
そんなヤローども二人のツッコミをを無視して、鈴谷さんは続ける。
「それで、その悪魔に関する相談事っていうのはどんなものなの?」
「あっ 聞いてくれるんだ?」
「私がそういう関係の話は好きって佐野君だって分かっているでしょう? それに、その人達が何か困っているのなら助けてあげたいとも思うし……」
「流石、鈴谷さん!」
それから僕は鈴谷さんに事情を説明し始めた。
――。
シェアハウスというものが世の中にはある。これは一軒の住居を複数人で共同利用することをいい、スケールメリットを活かしやすかったり、人と人の交流が活発化するといったメリットがある。ただ、もちろん、人間関係のトラブルも付き物で、簡単に言ってしまえば今回の“悪魔崇拝”に関する依頼もそういった類のものだ。
相談をして来たのは、あるシェアハウスを管理している女性だ。彼女のシェアハウスでは最近になってヨーロッパからやって来た白人女性を受け入れたのだが、それが問題の発端となってしまった。彼女は日本文化に非常に興味を持っていて、「自分達の信念と日本文化には親和性があると考えています」とかそんな事を言ったらしい(彼女自身はそれほど日本語が達者ではないらしく、だからもっと分かり難い表現だったらしいが)。だから依頼主であるその管理人の女性も気を良くして彼女を受け入れたのだ。自分の生まれ育った国に好意を持ってくれるというのは、やっぱり嬉しいものだろう。
ただ、その信念というのが問題で、どうも彼女は自称フェミニストで“性の解放”を主張しているようなのだった。
「どうして、それが日本文化と親和性があるって言うんでしょうかね?」
なんてその依頼主の女性は電話の向こうで僕に言った。
まぁ、気を悪くするのも分かる。
ただ、火田に言わせれば、日本文化は“性に対して寛容”であるらしく、それが国際社会から批判される事も多いから、実はそれほど的外れな考えでもないのかもしれない。
もっとも、話はこれだけではなかった。その白人女性が日本文化に興味を抱いたのは“性に関して”だけではないらしいのだ。日本は宗教に対しても非常に寛容で、“どんな宗教でも可能な限り認める”という態度が珍しくない。その人が価値を認めているのなら、その信仰に対して、なんとなく敬虔な心持になってしまう。そんなおおらかな部分、“無宗教”というか“多宗教的”な日本の文化にも彼女は心惹かれたのだ。
「八百万の神様。万物に霊が宿る。素晴らしい考え方です。キリスト教のように、一つしか神を認めないなんて心が狭い」
とか、そんな事を言ったのだとか。
となれば、当然、彼女はキリスト教を信仰していない、という事になる。まぁ、こうなってくればもう分かるかもしれないが……
「ふむ。なるほど。それで、そのヨーロッパ産まれの彼女が信仰していたものこそが“悪魔”だったって言うのね?」
そう鈴谷さんが言った。
「そうらしいよ。その管理人さんが、その白人女性の部屋に飾ってある悪魔の像を見てしまったんだって。
それで“性の解放”ってのも“悪魔の儀式かなんかじゃないか?”って疑っているみたい。淫祠邪教の儀式ってとこかな?」
そう僕が言うのを聞くと、鈴谷さんは「見てしまっただけ? と言う事は、その白人女性から直接聞いた訳じゃないのね?」とそう確かめて来た。
「まぁ、そうだね。訊こうにも怖くてできないでいるらしいよ。本人の口から確かめた後で、“宗教に対して寛容だと言っても悪魔は流石に無理だ”って言ってやりたいらしいけど、相手がそれほど日本語に達者でないこともあって怖気づいているみたい」
火田がそれに続ける。
「どうにか穏便に事を収めたいらしい。それでワラにも縋る思いでここに話を持ってきたってわけだ。まぁ、そんな相談事を受けてくれる所なんてそうそうないだろうからな」
鈴谷さんは「なるほどね……」と、そう言ってから腕を組んだ。何か気になる点があるようだ。そんな彼女に向けて火田が尋ねた。
「なぁ、鈴谷よ。俺にはそもそも悪魔崇拝なんてものが実在しているとは信じられないんだが、あるものなのか?」
その火田の疑問を聞くと、鈴谷さんは難しそうな表情を浮かべた。
「あるとも言えるし、ないとも言えるわね。悪魔崇拝。いわゆるサタニズムと言われるものは、無神論で語られる場合も少なくない。これだと一般的な悪魔崇拝のイメージからはかけ離れているでしょう? もっとも、有神論である場合もあるから、ちょっとややこしいのだけど……
その管理人さんが見たっていう飾ってあった悪魔の像ってどんなものなの?」
それには僕が答える。
「ほら、山羊の頭で人間の姿をしている悪魔でよく見るやつ」
鈴谷さんはそれに何故か納得したような様子を見せる。
「なるほど。バフォメットね」
「あ、あの悪魔、バフォメットって言うんだ?」
「そうよ。でも、バフォメットだって言うのなら、今のサタニズムとはまったくの別物の可能性が大きいわね。かなり怪しい」
その言葉に火田が反応する。
「やっぱり、悪魔崇拝なんてものはないのか?」
「ないとも言い切れないけど…… 例えばキリスト教は異教の神々の多くを悪魔として扱わっているわ。ゾロアスター教のアエーシュマはアスモデウスという悪魔の原型とされるし、太陽神の一種だったアドラメレクは悪魔となってしまった。牧羊神パーンなんかもその一つで、さっきのバフォメットはパーンが悪魔として解釈されたものだとされる。因みに悪魔崇拝の集会“サバト”の本来の意味は、ユダヤ教の“安息日”よ。
これは異教の神々を悪魔とする事で排し、キリスト教の普及を促す目的があったのだと言われている…… 早い話が、異教に対するネガティブキャンペーンね。それが民間にまで浸透し独自に進化をして、学者などを通してまたキリスト教にそれが影響を与えるといった複雑な相互影響で成立をしたのが悪魔なのだと思う。もっとも、そういった異教の神々に悪魔を連想させる要素が全くないかと言うとそうでもなくて、生贄を要求するような神様、或いはキリスト教の価値観で捉えると悪魔的に思える神様もいたのだけどね」
火田は彼女の説明を聞き終えると、少し考えてからこう言った。
「要するに、そういった悪魔はキリスト教が普及の為に捏造したもんだって言いたいのか? だから、本物の悪魔信仰なんてあるはずがないと?」
その言葉に鈴谷さんは肩を竦める。
「それがそうでもないかもしれないから厄介なのよ、火田君。当初はネガティブキャンペーンの為に捏造されたものである“悪魔崇拝”が本当に誕生してしまった可能性もある。もっとも、噂の域は出ないし、単なる勘違いである可能性もあるわ。
ま、もし見つかったら確実に犯罪だから、噂の域を出ないのは当たり前って言っちゃえば当たり前ね」
火田はそれに頷いた。そして軽く笑う。
「はは。なるほど、当に“悪魔の証明”だな。ないと完全に言い切れない以上、そう表現するしかない」
因みに“悪魔の証明”とは、“ない事の証明が極めて困難”な場合をいう。別にオカルトなもんじゃなく論理学の用語だ。このジョークの意味が分かる人間はあまりいないかもしれない。
「ただ、“悪魔崇拝”が眉唾である可能性が高いのは事実なんだろう? なら、今回の依頼はそう答えてお終いじゃないのか?」
続けて火田がそう言うと、鈴谷さんは難しい表情を浮かべた。
「それなら良いけど、文化的な差異によって生じた問題は、そんなに簡単なもんじゃないと思うわよ、火田君」
それには僕が質問した。
「どうしてそう思うの?」
「これだけの話からだと何とも言えないけど、多分、その白人女性の方でも今の日本の文化を勘違いしていて、シェアハウスの管理人さんはそれを分かっていないからよ。
その白人女性が日本語に達者じゃないって言うのなら、話せば話すほど益々こんがらがってしまうかもしれない。客観的に文化を捉えられる第三者が、間に入ってその勘違いの差を埋めてあげる必要があると思う」
そう鈴谷さんが言い終えると、ソゲキが言った。
「それじゃ、鈴谷さんが行くしかなさそうですね。そんなのができるの、鈴谷さんくらいですよ」
あっけらかんとした口調で。
なんとなく、それで僕らはソゲキをじっと見つめた。
「なんですか? お三方?」
と、不思議そうな顔をしてソゲキ。
……確かにその通りなのだけど、ソゲキに言われるとなんか違うように思えてくるから不思議だ。
――。
シェアハウスは思ったよりも随分と大きかった。“ハウス”ってよりは“アパート”って感じだ。リビングとキッチンが共有スペースになっていて、トイレは一階と二階にそれぞれ一つずつ。部屋は完全に分かれていて、プライバシーは守れるようになっているようだ。恐らくは元からシェアハウスとして利用する為に建てられた建物なのだろう。
「どうも、わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
僕らがシェアハウスを訪ねると、管理人さんがそう言って出迎えてくれた。
その管理人さんは、肝っ玉が太そうで人情深そうな中年の女性で、ま、正直異性としての魅力を感じるタイプではないが、好印象を持ちはした。いかにも皆をまとめてくれそうな感じがする。ただ、ま、感情まかせの力技で強引に押し切りそうだから、宗教だとかその手のデリケートな話題は苦手そうだ。
僕は自分が大学の新聞サークル員である事を告げてから、「こちらが民俗学関連に詳しい人です」と言って鈴谷さんを紹介した。
鈴谷さんを見るなり、管理人さんは大袈裟な反応をする。
「あら、まあ、民俗学に詳しいって言うから、お爺ちゃんだとかを想像していたのに、可愛いお嬢さんだこと」
面と向かって直球で“可愛いお嬢さん”と言われたからだろう。ほんの少しだけ鈴谷さんの顔が赤くなった。滅多にないレアな反応を見られて、僕は心の中で“ラッキー”と呟き、気付かれないように小さくガッツポーズをした。
それから僕ら二人はリビングに通された。一応断っておくと、火田は来なかった。元々来る気はなかったのかもしれないが、僕の方から「鈴谷さんと二人きりで行かせてくれ」と頼んだから。ま、本気で来たかったのならそんな頼みなんて聞かない奴だから、少なくともそれほど来たくはなかったのだろうと思う。
何故か、僕らはリビングで管理人さんからまったく関係のない世間話を聞かされた。政治とか芸能ニュースとか、僕らが知るはずもない近所の事とか。そろそろ本題に入りたいと思っている辺りで、僕らが困っているのを察してくれたのか、シェアハウスの同居人だろう二十代後半くらいの女性が現れてそれを止めてくれた。
「かなえさん。そろそろお二人をマリアさんの部屋に案内しても良いのじゃないでしょうか?」
「あら、そーお?」
なんて管理人さんはそれに応えて、彼女と会話を始める。
管理人さんはどうやら“かなえ”という名前らしい。そして件の白人女性は“マリア”さん。管理人さんも女性で、問題となっているのも白人女性だから予想はしていたけど、このシェアハウスは女性専用のようだ。そう思うと、秘密の花園に足を踏み入れたような素敵な心持ちになって来る。管理人さんはともかくさっき現れた二十代後半くらいの女性は母性的な雰囲気があって包容力のありそうな感じが鈴谷さんとはまた違った女性的魅力を放っていてなんとも嬉しくなってしまう。
ここで彼女が暮らしているのか。
僕は静かに興奮していた。
「佐野君」
すると、鈴谷さんがそう一言。こっちを見ないで真正面に顔を向けたまま。どうして、分かったのだろう? 流石、鈴谷さん…… ハハハ
「じゃあ、まぁ、マリアさんの部屋へ向かいましょうか。もう了解は取ってあるから、気にしないでね」
不意に二十代後半の女性との会話を切り上げて、管理人さんがそう言った。
いきなりの言葉にやや戸惑いながらも「はい」と僕らがそれに応えると、管理人さんは立ち上がって二階を目指した。マリアさんという白人女性の部屋はどうやら二階にあるらしい。その時、想像していた以上におおらかな管理人さんの対応に僕はちょっとばかり不安を覚えた。それでこう尋ねる。
「あの…… もしかして、マリアさんという方は部屋にいらっしゃるのでしょうか?」
すると何でもないような口調でこう返して来た。
「え? ああ、いるわよ。休日だしね。あなた達が行く事は伝えてあるから」
「僕らの事は何と伝えたのです?」
「大学生で、民俗学に興味がある人達って言ってあるわ。それであなたの話が聞きたいって。まさか悪魔崇拝の件で相談に乗ってくれた人達とは言えませんからねぇ」
それを聞いて少しだけ安心する。
まだ悪魔崇拝だと決まった訳でもないのに、そんな事を言われたら堪らない。
会ってから間もないけど、この管理人さんの性格はなんとなく分かった気がする。これなら勘違いや早とちりの線もあり得る気がした。
それから一番奥の部屋にまでたどり着くと管理人さんはノックをした。いきなり開けるような無礼な真似は流石にしないようだ。
「マリアさん。良いですか? 伝えてあった人達が来たので開けますよ。話をしてあげてください」
「ハイ。どうぞ」
と、中から声が聞こえる。管理人さんは遠慮なしにドアを開けた。悪魔崇拝と言うから、どんな部屋なのかと思っていたけど、中は白を基調とした綺麗な部屋で清潔感があった。悪魔が連想できるような雰囲気じゃない。マリアさん本人もいたって普通の白人女性で(僕は普通の白人女性なんて知らないけれど)、怪しい感じはまったくしない。白人にしては背が低い(と思う)からか、親しみを覚えたほどだ。まぁ、そういうのは隠してあるものだろうけど。
しかし、そう思って部屋をなめるように眺めてみて僕は固まった。
管理人さんは“見つけてしまった”というような表現をしていたから、見え難い場所に飾ってあるものだとばかり思っていたのに、堂々と部屋の棚の上に悪魔の像が飾られてあったからだ。“崇めている”という感じじゃない。本当にただ単にオブジェとして飾られてあるだけのように見える。しかも、その管理人さん言うところの悪魔の像はどうにもなんか雰囲気が違っていて……
「初めまして。私は民俗文化研究会という大学のサークルに所属している鈴谷といいます」
僕が部屋を観察していると、鈴谷さんがそう挨拶したので、僕も慌てて「僕は新聞サークルに所属している佐野といいます」と挨拶をした。
マリアさんはやや不思議そうな表情を浮かべてはいたけど「ハイ。では、こちらにお座りください」とそう言って僕らにテーブルの前にある座布団を指し示した。思ったよりも日本語の発音が巧い。
僕らが座るとマリアさんは部屋の中にある冷蔵庫から緑茶を取り出して、それをコップに注いで出してくれた。雰囲気が一段落すると、鈴谷さんが口を開く。
「マリアさんは、日本について興味があるという話を聞いているのですが、もしかしたら、それは日本にかつてあった“女性優位社会の文化”ではないですか?」
それを聞くと、マリアさんは目を丸くした。
「日本には、“女性優位社会”があったのですか? 面白い話ですが、違います」
それから少し悩むような表情を浮かべると、「ただ、完全に間違ってもいません」とそう続けた。
話し方がゆっくりで、考えながら喋っている感じはあったけど、充分に日本語を喋れているし、ヒアリングもちゃんとできているようだ。聞いていたのとはちょっと違うな、と僕はそれでそう思った。
「と言うと?」と鈴谷さんが尋ねる。
「ワタシは、日本に女性の神様が多い事、特に一番偉い神様が女性であるという点にとても驚いたのです。それから日本では犯罪がとても少ない事、そして性についてもおおらかだと知って、日本についてもっと知りたいと思いました」
鈴谷さんはそれを聞いて大きく頷いた。
「なるほど。それでなんとなく分かりました。そんな風に日本の文化に対して興味を抱いてくれるのは、同じ日本人としても非常に嬉しく思います。もっとマリアさんからお話を伺いたいのですが、その前に日本にかつてあった“女性優位社会”について説明してもよろしいでしょうか? その方が、色々と話し易いと思いますので」
そう言ってから、鈴谷さんは管理人さんをチラリと見た。管理人さんは妙な表情を浮かべている。きっと、鈴谷さんの視線の意味を推し兼ねているのだろう。
「むしろ、とても聞きたいです」
と、マリアさんは応える。鈴谷さんはそれに大きく頷くと口を開いた。
「“元始、女性は太陽であった”という有名な言葉が日本にはあるのですが、この言葉通り、太古においては女性優位社会は当り前に存在していたと言われています。これは日本だけの話ではなく、世界共通の話です。
自明ではありますが、人間社会が繁栄する為に“生殖”は重要な要素です。だからこそ、生殖器を祀るという事も古代においては一般的に行われていたのですが、そう考えるのなら女性が重要視されいてたとしても何ら不思議はありません……」
まだ鈴谷さんの言葉は途中だったけど、そこで管理人さんが口を挟んだ。
「生殖器を祀るんですか? 本当に?」
鈴谷さんはあっさりと頷く。
「はい。日本の生殖器崇拝の祭が、奇祭として紹介される場合もありますが、それは飽くまで現代社会の価値観に照らしてそう感じるに過ぎません。それは古代からの信仰が残っているだけ…… 或いは、復活をしたのです。いえ、中には単に物珍しさから歓迎されいるに過ぎないケースもあるかもしれませんが」
その時、何気なく僕はマリアさんを見てみたのだけど、彼女は目を輝かせて鈴谷さんの話を聞いていた。今更だけど、やっぱり“悪魔崇拝”という感じじゃない。鈴谷さんは続けた。
「“出産”という観点に基づくのなら、男性よりも女性の方が貴重です。女性の数が多ければ多いほど、出産できる子供の数は多くなるからですね。だからこそ、女性は重要だったとも言えるのです。が、しかし、その点こそが、或いは女性が悲惨な境遇に陥ってしまった原因になってしまったのかもしれません」
僕はそれに首を傾げた。
「どうして?」
女性が重要視されていたなら、悲惨な境遇に陥るなんておかしいとそう思ったからだ。鈴谷さんはそれに直ぐに答えた。
「“女性を他の社会から奪って来て子供を産ませる”という事が起きる原因になってしまったからよ、佐野君。そうすれば自ずから、繁殖能力が上がる事になる。当然、生存競争にも有利になるわ。ただし、女性にとってみればそれは奴隷の位置づけよ。つまり、悲惨な境遇。
中国のサルの姿をした妖怪に、女性をさらって子供を産ませるという性質を持つものがいるのだけど、もしかしたら、何か関係があるのかもしれないわ」
「なるほど」と僕がそれに返すと、彼女は再びマリアさんに視線を向けてから口を開いた。
「ただし、このような行いが可能なのは、男系の社会だけです。“血”は、男から男へと引き継がれれば良く、母親がどうであろうとそれほど重視されないからですね。女系社会の場合は、母親が他民族であった場合、その子供は他民族の子供という事になってしまいます。
そして、男系社会と男性優位社会は必ずしもイコールではありませんが、非常に深く結びついていると見てまず間違いありません」
マリアさんはその鈴谷さんの説明に感心したような様子を見せた。
「あなたの話は、とても面白いです。だからこそ、世界中で男性優位社会の方が圧倒的に多くなってしまったのですね?」
「はい。これは飽くまで私の仮説ですが、私は正しいと考えています」
鈴谷さんはそう返すと、一呼吸の間の後でこう言った。
「ところが、この日本においては男性優位社会化の進みが鈍かったのです。日本は豊かな自然に恵まれているので、生存競争がそれほど激しくなかったからかもしれませんが、比較的近世の江戸時代でも地域によっては女性優位社会が残っていた可能性もあるのです。
とにかく、この日本では女性が戸主となる女系社会がしばらく残り続けていた。夫婦と書いて“めおと”と読みますが、これは元来は女男と書きました。“女”の文字の方が先にきているのですね。“夜這い”という男性が女性の寝屋に通う風習がかつて日本には残っていましたが、これは女性優位社会の残滓だと考えられています」
その説明に管理人さんが反応した。
「夜這いが? 夜這いって、なんかエッチな風習でしょう?」
鈴谷さんは首を横に振る。
「いいえ、近代に入ってからは、確かに野蛮な風習に堕してしまっていたかもしれませんが、元来は“妻問婚”と呼ばれる婚姻の一形態でした。無秩序なものでは決してなく、確りとしたルールに基づいて行われていたのです。
“妻問婚”は戸主である女性の元へ、男性が通うという形態の結婚で、時には複数の男性を相手にする場合もあったといいますが、男性優位社会の価値観では、異常な行いに見えます。それこそが、夜這い文化を卑猥な因習だと誤解する原因になってしまったのかもしれません」
それを聞くと、マリアさんは呟くように言った。
「ああ、分かります。男性優位社会では、女性がたくさんの男性とセックスするのを許さないから……」
鈴谷さんは大きく頷く。
「はい。その通りです。男系社会では、子供は男の子供でなければならない。その為には自分以外の男と妻が性交をするのは絶対に禁止しなくてはならなかった。だから男系社会では、女性に対して貞淑さを求めます。男性に対しても一応は貞淑さを求めますが、何故か許されてしまうケースが多い。
ところが、子供が女の血を引き継いでいれば良い女系社会ではこれが違ってくるのです。産まれて来る子供は絶対のその女性の子供ですからね。その為、それだけ性に対しても寛容になるのです」
そう言い終えると、鈴谷さんは管理人さんを軽く見やった。
「さて。ここで生殖器崇拝が未だに残っている事に象徴されるような日本社会の“性に対する寛容さ”を考えてみると、女性優位社会がかつてあった事との繋がりが見えてきませんかね?
どれだけ時代が流れ、男性優位社会になろうともその根底の文化には、女性優位社会としての特質が、この日本社会には残っているのかもしれません」
その鈴谷さんの説明に、管理人さんは大きく頷いた。
「なるほどねぇ。そうなのかもしれないわ」
などと言っている。
多分だけど、鈴谷さんはこの話によって、マリアさんが“性の解放”を主張している事で管理人さんとの間に起こっているカルチャーショックみたいなものを解決しようとしているのじゃないだろうか?
それから鈴谷さんは、マリアさんにこう尋ねた。
「ここで少しマリアさんに質問してもよろしいでしょうか?」
マリアさんは「ハイ」と頷く。
「マリアさんはフェミニストだと聞いています。フェミニストの中には、性を解放してコミュニケーションの手段の一つとする事で世の中を平和にしようと訴えている人達がいるそうですが、マリアさんはもしかしたらその一人なのではないですか?」
マリアさんはその質問にゆっくりと頷く。鈴谷さんがどんなつもりでそんな質問をしたのか警戒をしているのかもしれない。その時、僕は思わずこう訊いてしまった。
「性をコミュニケーションの手段にして、どうして平和になるの?」
だけど、そう質問した後でやや後悔した。以前、これとまったく同じ話を鈴谷さんから聞いていた事を思い出したからだ。ほんの少しだけ責めるような目つきで僕を見てから、鈴谷さんは口を開く。
「そういう実例があるのよ、佐野君。チンパンジーの一種であるボノボは、多夫多妻制を執っていて性をコミュニケーションの手段として用いているのだけど、非常に平和的な社会を形成している事が知られているのね。ただ、ボノボがそうだからって、人間でもそうなるとは限らないし、それに、本当に性をコミュニケーションの手段にしている事が平和に結びついているかどうかも分からないけど」
それからまたマリアさんに顔を向ける。ただし、何処となくマリアさんよりも管理人さんを彼女が気にしているように僕には思えた。
「この日本社会は性に対して寛容で、更に犯罪が極めて少ない。あなた達の主張と一致しているように思えますね。多分、だからあなたは日本社会に興味を覚えたのではありませんか?」
「イエス。その通りです」と、マリアさんはその鈴谷さんからの質問に答える。そこで僕は管理人さんを見てみた。納得したような表情を浮かべている。僕の予想通りだとするのなら、鈴谷さんの狙いは成功したのかもしれない。
マリアさんは続けた。
「ワタシは、ヨーロッパに犯罪が多いのは、男性中心的なキリスト教の所為ではないかと考えました。
だから、性に対してオープンで、平和的な日本社会が、最高神を女性にしていると知った時に感動したのです。日本には、ワタシが求める何かがあるのでは?と」
それを受けると、管理人さんが不思議そうな表情を浮かべた。
「キリスト教って女性を差別しているの?」
それには鈴谷さんが答える。
「史実を観れば、そう捉えるしかないと思います。例えば、聖書において最初の女性である“イヴ”はアダムの肋骨から創られますが、その為、女性は男性よりも劣っているといったような主張があったり、女性に魂はあるのか?と真剣に議論されていたり。他にも有名な“魔女狩り”では、数多くの罪のない女性が悪魔に使える魔女とされ、激しく拷問された上で殺されています……」
その説明に管理人さんは頷く。
「ふーん。そりゃ、酷いねぇ」
ただ僕は、それを聞いて別の事を考えていた。確かにフェミニストなら、魔女狩りそのものや、魔女狩りを生み出す背景となった社会文化に反発を覚えるのは分かる。だからそれを生み出す背景となったキリスト教の文化や思想に反発を覚えるのも分かる。だけど、それって、つまりは“反キリスト教”ってことだ。そして、反キリスト教とは悪魔のことじゃないのか? なら、それは悪魔崇拝と結びついてしまうのじゃ……
マリアさんが口を開いた。
「ワタシはキリスト教とは別の宗教を求めて日本に来ました。日本では女性が差別されているという話も聞きましたが、もし本当にそうなら、女性を最高神にしているはずがないと思って。
この鈴谷さんという方の話を聞く限りでは、それはどうやら正しかったようです。日本には女性優位社会があった……」
ところが、彼女がそう言っている途中で鈴谷さんは「いえ、すいません。それは違うかもしれないのです。少なくとも、今の日本には、あなたの期待するような文化はないと考えるべきだと思います」とそう言ってそれを止めたのだった。
僕も管理人さんもそしてマリアさんもその言葉に驚く。
「どうしてですか?」と、マリアさん。
それに軽く頷くと鈴谷さんは口を開く。
「何度か言っていますが、この日本社会でも男性優位社会化は進みました。かつてあった女性優位社会は衰退してしまったと考えるべきです。しかも、近代の工業化以降は、非常に歪んだ形で、日本社会は女性優位を封じ込めてしまった……
宗教を観るとこれはよりはっきりとするかもしれません」
そこで一度切ると、鈴谷さんはゆっくりと僕らを見渡してから語り始めた。
「日本に女性優位社会があったと言っても、全ての社会で女性が優位であった訳ではないと考えられます。日本神話においては、神の系譜に女系と男系が混在していると言われていますが、恐らくは日本社会でもそれと同様だったのではないでしょうか。
だから、全てが大陸文化の……、つまり中国の影響であるとは言い難いのですが、それでも、日本の男性優位社会化には中国が根強く関わっているとは言えるはずです。
その証拠に中国の影響は至る所に観られます。例えば日本の信仰に対して付けられた“神道”という名前は元来は中国の道教の言葉です。道教では、“鬼道・神道・真道・聖道”と宗教が発展すると考えられていたのですが、早い話が神道とは“未発達の宗教”といったような意味になるのです。つまり軽い蔑称だったのですね。
恐らく、中国から入って来た仏教の方が上だという意味をも込めて、このような名前が付けられたのではないかと考えられますが、ここからも分かる通り、神道は仏教よりも格下の扱いを受けました。ただし、全否定された訳ではありませんが。
本地垂迹説というものをご存知でしょうか? これは日本神話の神々は、実は仏が姿を変えて現れたものだとする考え方です。また、日本神話の神々を仏教を守護する存在として捉える向きもあります。これらは神仏習合を果たし、神道を生き残らせる為に考え出されたのだとも思えますが、いずれにしろ仏教の方がかつての日本では格上として扱われていた事を示すものでしょう。
そして、日本に伝わって来た仏教には女性差別的な傾向が強くありました。インドで創始された原始仏教では、比較的女性に対して寛容であったのですが、男性優位に歪められた形で入って来てしまったのです。その為、仏教の影響を受けて日本社会の男性優位化が進んでしまいました。日本において山の神は女性である場合が多いのですが、なのに何故か女人禁制…… 女性の立ち入りを禁止していたのです。これは女性優位から男性優位へと社会が移り変わった事を示しているもいるし、同時に日本においてのジェンダーの扱いが歪んでいる事を示してもいるのかもしれません」
そこまでを聞くと、マリアさんがこう言った。
「キリスト教では、キリスト教以外の宗教は否定されました。それを考えるのなら、やはり日本の方が寛容だと言えると思います」
鈴谷さんはそれに「ありがとうございます」とそう返してからこう続ける。
「ただ、褒めてもらってありがたいとは思うのですが、こういうのはメリットもあればデメリットもあるものです。日本にも反省すべき点は多々あるのですよ」
そして、「さて、」と言ってから話を続ける。
「仏教などの中国から入って来た文化の方が格上という考え方が日本にはありましたが、それでもやはりプライドもあります。ですから、本地垂迹説に対抗するように反本地垂迹説も唱えられましたし、他にもそういった日本の抵抗とも捉えられる措置も観られるのです。
例えば、四神……」
僕がそこで言った。
「四神? 四神って言うと、あの朱雀とか白虎とかの?」
「そうよ。青龍・朱雀・白虎・玄武で、それぞれ東・南・西・北の方角を司るとされた。中国では、中央に黄龍、または麒麟が入るとされているのだけど、何故か日本では中央に当たる霊獣はいないわ。
そして、中央を司る黄龍は“皇帝”を表すともされている。これを考えると、どうして日本では中央の黄龍を採用しなかったかが見えて来るとは思わない?」
「もしかして、天皇を重視したいから?」
鈴谷さんはそれに頷く。
「そうだと思う。そして、天皇はもちろん天照大神に結びついていて、その天照大神は女性……
実はね、天照大神は本来は男神ではないか?という説もあるのよ。天岩戸の“岩戸隠れ”の物語で、引き込んでしまった天照大神は、女神である天宇受賣命の魅惑的な踊りに誘われて顔を出すけど、これは少なくとも天照大神の原型の一つが、男神だった……
日本神話は日本に数多にあった各地の神話を一つにまとめたものだとされているから、完全には男神だったとも女神だったとも言えないと思うのだけど、
……からなのかもしれない。
しかし、それでも天照大神は女神だとされた。様々な説があるようだけど、少なくとも日本に母系社会が多く残っていた事と無関係だとは思えない。中国の文化に完全に染まる事に逆らった、当時の日本のプライドが感じられる気がする。もちろん、単なる“想像”に過ぎないけどね」
そこまでを言い終えると、鈴谷さんはゆっくりとマリアさんを見た。そしてまた口を開く。
「ここまでの話は、日本においてジェンダーの扱いが非常に複雑だった事を示しています。そしてこの複雑さが、女性優位社会を歪な形で封じ込める流れに繋がってしまったのではないかと私には思えるのです。
日本近代化の端緒、明治維新において、それまで武家中心だった体制から天皇中心の体制へと社会は大きく変わりました。そしてこの社会の変遷の中で、廃仏毀釈……、つまり仏教を潰してしまおうとする動きが起こったのです。
先にも述べた通り、日本では仏教の方が格上だとされました。しかし、天皇は日本神話の神の子孫です。つまり、仏教を格上と認める訳にはいかなかったのです。更に江戸時代では仏教の地位が高く、僧に驕りが見えていた為、民衆の間でも仏教は反感を抱かれていました。結果として、国と民間の両方で仏教を否定する動きが広まり、仏教関連の多くの文化財が破壊されました。日本の恥ずべき歴史の一ページです。
さて。
本来ならば、ここで女性の権利の復活が為されて当然であろうと思えます。日本神話では女神が重要視されていて、かつての日本には母系社会が多くあったのですから。
ところが、ここで日本政府は“女性の権利の復活”については黙殺してしまうのです。いいえ、それどころか女性の地位は更に貶められてしまった。
江戸時代以前は、普通に女性は外で働いていました。女性は貴重な労働力ですからね、家庭に縛り付けるような馬鹿な真似をしたりはしないのです。しかし、愚かにも、欧米から入って来た“専業主婦”という考えを日本はそれから採用してしまうのです。
もっとも、やはり女性は労働力として重要だったので、長い間、実現不可能でした。これがようやく実現するのは戦後の高度経済成長期の頃です。
今の日本では、専業主婦を日本の伝統だと思っている人が多くいますが、これは勘違いです。むしろ、日本は女性を重要な労働力として扱って来たのです。武家社会においては、もちろん女性は公権力の主役ではありませんでしたが、“専業主婦”という考え方は、武家社会のそれをそのまま受け継いだものではありません…… そして、それは女性達を辛い境遇に追い込んでしまった。
“従軍慰安婦”をご存知ですか? 戦時下において日本軍が売春婦を雇っていたという問題です。これについて日本軍に責任はないという声をよく聞きます。これはある意味では正しいでしょう。何故なら、売春が行われていたのは戦時下だけではなかったからです。普通の状態でも当たり前に行われていたのです。
そして、売春をせざるを得ない立場に多くの女性達を追い込んでいたのは、労働市場において女性達を差別し経済的弱者にしていた社会全体です。もちろんこれは日本だけの問題ではありません。ただし、日本ではこの問題は高度経済成長に成功していた時期も、その後も、今日においてすらもまだまだ続いています。女性は相変わらずに労働市場で差別をされる事が多く、その所為で生活の為に売春行為をせざるを得ないケースが数多くあるのです。しかも、結婚した女性も仕合せだとは言えません。昨今は随分とマシになってきましたが、経済的に優位に立つ男性は、結婚生活において横柄な態度を執る場合が多く、女性達は強いストレスに耐えねばならないからです。中には精神疾患を患ってしまう女性もいます。かつて、“粗大ゴミ”や“ゴキブリ亭主”といった男親を卑下する言葉が流行しましたが、こういった点を考えればその理由はよく分かるでしょう」
そこまでを聞けば、もうマリアさんには充分だったようだ。
「なるほど。分かりました。女神が重要な宗教を持っているのに、日本社会では女性の地位が高くはないのですね。それは意味を失ってしまっている」
鈴谷さんはやや悲しそうにしながら「はい」とそう応えた。
「日本人には“論理”が欠けているとよく言われますが、それはだからなのかもしれません。矛盾を気にしないでいられるのです。日本神道の特性は、自然崇拝です。ところが、その神道に参拝に行く政治家達が、自然破壊の極とも言える原子力発電所を推進していたりする。
本来ならば、これは神を侮蔑する行為ですが、その点を指摘する人は少ない…… 日本文化を知る南方熊楠や柳田邦夫などの高名な古い時代の社会科学の学者達は、日本神道の立場から自然を守ったといいますが、現代においてそういった人は非常に少ないのが実情です。これも恥ずべき点だと私は思います」
そう言い終えると、鈴谷さんはそれから視線を移した。僕もつられてその方向を見る。すると、そこには例の悪魔の像が置かれてあったのだった。それを見ながら彼女は言う。
「だから、この日本で、あそこに置かれている牧羊神パーンのような存在を期待しても無駄なのですよ、マリアさん。かつてのウィッチはこの日本にはいない」
それを聞いて、マリアさんと管理人さんは同時に驚いた表情を浮かべた。ただ、この二人が驚いた理由は別だろう。因みに僕は、実はあれは悪魔ではないのじゃないかと薄々思っていたから、それほど驚かなかった。
「牧羊神パーン? あれは、悪魔じゃないのですか?」
と、管理人さん。それに鈴谷さんは淡々と答える。
「はい。違いますね。ヨーロッパに伝わる牧羊神です。もちろん、キリスト教の神ではありませんが」
次にマリアさんが質問した。
「どうして、ワタシがウィッチを期待していると思ったのですか?」
それにも鈴谷さんは淡々と答える。
「一部のフェミニスト達が、魔女…… ウィッチ達を女性迫害の象徴としている事を知っているからです。そして、ウィッチの復活を訴えてもいるそうですね? あなたは宗教を重視しているようでしたから、似たような思想を持っているのではないかと予想したのですよ」
僕はそれを聞くと思わず漏らすように言った。
「それって、悪魔崇拝じゃ?」
即座に彼女は否定する。
「違うわよ。悪魔じゃなくて、ヨーロッパにかつてあったキリスト教以外の信仰ね。魔女なら、ディアーナ等の“月の女神”を思い浮かべるけど、彼女は“性の解放”を訴えているから、きっと牧羊神パーンを飾っているのじゃないかと思う」
それを聞くと管理人さんが質問をした。
「あの……、その牧羊神パーンというのは?」
「その名の通り、牧羊の神ですね。あの像の通りに山羊の獣人のような姿をしています。本来は偉大な神ですが、非常に好色だったので、性を禁じるキリスト教では悪魔バフォメットとされてしまったのではないかと考えられます。つまりは、性の神でもあったという事なのですが」
「そんなエッチな……」と、それに管理人さんが言うと、鈴谷さんは「日本の場合と同じですよ、管理人さん。それを卑猥と解釈するのは誤りです。現代の価値観でそれを観てはいけないのですね」とそう言った。それからこう続ける。
「その話からも分かる通り、ヨーロッパにも日本と同じ様に、性に対して寛容な文化があったと考えられます。ただし、キリスト教によってそれは否定されました。そして、マリアさんはそのキリスト教によって否定された文化を復活させたいと思っている。だからこそ、日本に興味を持った。マリアさん、そうですよね?」
それにマリアさんは大きく頷く。
「ハイ。その通りです。しかし、ワタシの考えは間違っていたのですね? 今の日本にそれは求められない……」
鈴谷さんはそれを聞くと、
「確かに、今の日本文化からでは、かつてあった性に対する寛容さを持った文化は取り戻せないかもしれません。ですが、日本に犯罪が少ないのは事実です。もしかしたら、平和な社会を実現する為に、何か学べるものがあるかもしれまんよ。まぁ、これは日本に生まれ育った者の願望のようなものかもしれませんが」
と、そう言った。マリアさんは首を横に振る。
「いいえ、その通りだと思います。ワタシの期待した通りではなくても、学べる点は多いと思います」
そして、そう答えた。
鈴谷さんはにっこりと笑うと、「ありがとうございます」とそれに返す。それから更に口を開いた。
「一応最後に補足説明させていただきます。
散々、男性優位社会が“性を禁止した”と言ってきましたが、もちろん、それだけが“性を抑圧する社会”が出来上がった原因ではありません。実際、キリスト教圏の社会でも性に寛容なケースもあります。しかも、日本の神仏習合のように、土着の民俗信仰とキリスト教が習合していた例もあるので、その中では性に対して大らかであった可能性は大きいのではないかと私は考えています。
では、どうして現在は性を抑圧するのが普通なのか? 一つには、人間社会が人口の抑制に迫られる事が多かった事が原因として挙げられるかもしれません。
“性を禁止する”事が宗教においては多いですが、これは人口コントロールの手段だったのではないか?という説もあるのですよ」
「どうして、人口コントロールをする必要があるの?」
僕がそう尋ねると、鈴谷さんは「食糧生産に限界があるからよ、佐野君」とそう答えてから、こう続けた。
「限られた食糧しか得られないのなら、人口をそれほど増やす訳にはいかない。だから、性を抑制した…… 同性愛の文化は実は世界中でかなり古くから観られるのだけど、それも人口コントロールと関係があるのかもしれないわ」
鈴谷さんは一度切ると、また直ぐに口を開く。
「そして、まだ他にも、見逃せない大きな“性の抑制”の原因があります。それは性病の感染。特に梅毒…」
そう彼女が言うと、管理人さんは納得したような顔を見せた。
「ああ、分かるわ。梅毒って昔は死んじゃう病気だったのだものね。エッチしたら死んじゃうんだったら禁止しなくちゃだわ」
鈴谷さんは大きく頷く。
「その通りだと思います。
ここ最近、日本では梅毒やエイズなどの性病の感染が広がっているそうです。“性の解放”にはメリットもあるかもしれませんが、やはりデメリットもある。それはよく認識するべきだと私は考えます」
その言葉にマリアさんは「分かっています」とそう応えた。
「ワタシは“無秩序な性”を求めてはいません」
それに鈴谷さんはにっこりと微笑みながら「はい。杞憂でした」とそう答えた。僕はそれを聞きながら、外人さんに“杞憂”の意味は分からないのじゃないかと、そんなどうでも良さそうな心配をした。
そして、それでそこでの会話は大体終わりだった。
部屋を出ると管理人さんから何度も僕らはお礼を言われた。
「お陰で、勘違いだったと分かったわ」
とか、そんな事を。
僕はほぼ何もやっていないのだけど。
「“性的”というだけで、直ぐに卑下するのは私は単なる無知なのではないかと思います。文化相対主義と言いますが、できる限り多様な価値観を受け入れられるというが、日本の社会の良いところだとも思いますし」
鈴谷さんはそんな風な事を言う。管理人さんはそれに大きく頷いていた。演技には思えなかったので、きっと心からそう感じているのだろう。
帰り道。
「しかし意外だな。ネットとかで、男のアレとかを担いでいる祭の光景を見た事があるけど、本当は真面目な古代からの信仰だったなんて…… いやぁ、僕はまったく知らなかったよ」
駅までの道を歩きながら、僕はそう鈴谷さんに言った。
ピンクのどぎつい男の生殖器の画像や、木でできた男の生殖器にまたがっている女性の画像とかをネットで見た事があったから、鈴谷さんの話で直ぐに僕は思い出していたのだ。
ああいうのは、日本人ですら物珍しさから面白がっているのじゃないだろうか? まぁ、僕もその一人だったのだけど。
僕はそう言いながら、鈴谷さんが生殖器崇拝の祭に参加しているところを思い浮かべて、正直に告白すると、……・恥ずかしながら、少しばかり興奮していた。
いや、まぁ、男なので。
「そうだ、鈴谷さん。今度、一緒に行ってみない? 意外に面白いかもしれないよ」
場所が何処かも忘れてしまっていたのに、思わず僕はそう言っていた。“民俗絡みなら、彼女も同意してくれるかも”という一縷の望みがあった事は言うまでもない。
ところが、それを聞くと鈴谷さんは顔を真っ赤にし、(多分、恥ずかしがっているのもあるのだろうけど)怒った表情で僕を睨みつけて来たのだった。
「佐野君! それ、セクハラよ!」
と、そしてそんな事を言う。
「いや、そんな…… 性的ってだけで直ぐに卑下するのは無知なのじゃなかったの?」
自分でも情けないと思う声で僕はそう返す。
「それとこれとはまた別の話なの!」
そう怒鳴る彼女の声を耳にしながら“やっぱり時と場合と相手と状況を選ばないとダメだなぁ、この手の話題は”なんて僕は少しばかり…… いや、深く反省していた。
参考文献:
『面白いほどよくわかる 神道のすべて 著者 菅田正昭 日本文芸社』
『少子化時代の「良妻賢母」 著者 S・D・ハロウェイ 高橋 登・清水民子 ・瓜生淑子 訳 新曜社』
『魔法 その歴史と正体 著者 カート・セリグマン 人文書院』
まったく関係ないですが、『魔法 その歴史と正体 著者 カート・セリグマン 人文書院』
で、「エロイムエッサイム エロイムエッサイム 我は求め訴えたり」って、悪魔くんに出て来る呪文が、本当にある召喚呪文だと知りました。
まぁ、もちろん、和訳ですが。
恐らく、水木しげるがそのまま採用したのではないか?と。
ゴールデンタイムに流れていた子供向けアニメの中の呪文が本当にある呪文って凄いですよね……