ひととりゅう。
人間を殺していたのは最初の百年目までだった。
襲いかかってくる人間には事欠かなかった。どうやら私は、人間にとってかなり恐ろしい見た目らしい。
人間の身長ほどもある爪。一本一本がそれと変わらない牙。人間の武器では傷ついたこともない皮膚に、私の目と同じく真っ赤な鱗。体長は私が住んでいる山の頂きより少し小さく、背丈は山の半分くらい。翼は広げるとかなり大きそうだが、最後に広げたのはいつだったか――もう昔過ぎて覚えていない。
人間は、弱かった。見た目には色んな人間がいたけれど、私にはその違いがよくわからなかった。私が触れようとすると潰れてしまうことだけは確かだった。
最初のうちはただ何となく殺していた。剣で突かれたり、火で焼かれたりして、邪魔だったから。焼いた死体がとんでもない悪臭を発するのには辟易した――そう、私は火を吐くことができた。
もっとも、それもやっぱり昔のことだ。
もう、何十回目の百年目になるだろうか。
最初のころは、私に襲いかかってくる人間がたくさんいた。そしていつしかいなくなった。無駄だと分かったのかもしれない。
結果、私は暇になった。相手をしてくれる人間がいなくなってしまったから。
その時、私は初めて気づいた。
私にはやるべきことがなにも無かったのだ。
他の生き物を観察したかぎり、彼らの生活は単純だ。食べて、繁殖して、死ぬ。
私にはそのいずれも無い。
そのことに気づいて以来、私は人間を待ち遠しく思うようになった。人間はこの世界で唯一、私に会いに来てくれる隣人のようなものだったのだ。
だが全ては遅かった。私は何よりも愛すべき人間を、あまりにたくさん殺してしまっていた。
私に会いに来てくれる人間はいなくなった。その代わりか、稀にいくらかのお供え物が捧げられるようになった。誰かが置いているはずだと思うのだが、私はそれに気づけたことがない。どうやら私はかなり鈍いらしい。
もっとも、私の元を訪れる人間がいなくなったわけではない。問題は彼らの大半が頭の変な人間ということだ。無謀にも襲いかかっては勝手に逃げ出したり、世界を滅ぼしたまえだのと身勝手な要求をしたり。これなら来ないほうがよっぽどマシだ。
だから――まともな人間が私の元を訪れたのは、本当に久し振りのことだった。
「――始祖竜よ、我が名はエーリアス・ルスト。どうか我が呼び掛けに応え――」
『誰だ?』
「……あぁ、そうか、古代語ですか。それもそうだ」
彼は、私のすぐ目の前にいた。
人間の男性。背は高いが線は細い。白に近い銀髪、理知の色を感じさせる碧眼。片眼鏡をかけ、赤茶けたローブの上から黒い肩掛けを羽織る。そして背中には大量の荷物を背負っていた。
学者肌、という奴だろう。私はあまり見たことがないタイプの人間だ。
「すいません、もう一度。――始祖竜よ、我が名は、」
『普通に話せぬのか』
私が言うと、彼の肩掛けがずるりと滑った。
しばらくむっつりと考えこんだあと、彼は私をじっと見上げて言う。
「……ええと、それでは、普通に。初めまして、始祖竜よ。私はエーリアス・ルスト。最寄りの村に住むしがない魔術師です。…今日は、私が個人的にうかがいたいことがあり、あなたの元にやってきたのです。……本当にこの調子で良いのですか?」
『うん』
私はゆっくりと首を振りながら、ひそかに感動を覚えていた――ちゃんと会話が成立するなんて! こんなことになるのは今日が初めてだった。
『始祖竜、とはなんだ?』
「あなたの呼び名です。私ども人間は古代、あなたをそう名付けました。より相応しい名前があると仰せられるのでしたら、私はそのようにお呼びしますが」
男――エーリアスも少し興奮気味にそう話す。顔が上気しているようにも見える。
彼の言葉に、私は正直なところ、困った。私の名前など考えたことがない。なにせ名前を呼ぶ人が誰もいないからだ。
『否、良い』
すぐに思いつくわけもなく、私は首を振った。そんなことよりも私は彼と話がしたかった。
『エーリアス。そなたの問いとは?』
「……あなたはなにものなのか、竜とはいったい何なのか。私はその研究を師から引き継いで続けてきました。ドラゴン教団が崇める竜とはいったいどのようなものなのか、数々の資料を当たり、史跡を探り、その手がかりを求めてきました。……ですが、そのいずれも核心を突くには及びませんでした」
然るに、とエーリアスは静かに……しかし熱っぽい口調で言葉を続ける。
「かくなる上は、いかなる禁忌に触れてでもあなたに謁見したい――その一心で、私はこの山々に臨みました。……傲慢な人間の考えることだと、笑わば笑っていただきたい。それでもどうか願わくば、私は答えを求めたい。あなたは一体なにものなのか……そして、いかなる理由でこの世界に君臨し続けているのか?」
エーリアスは顔を紅く染め、声を上擦らせながらまくし立てる。
その熱気に圧倒され、私はいよいよ困り果てた。
私がなにものなのか。私はどうしてここにいるのか。どうしてこの世界に生き続けているのか。
どれも私が知る由もない。知っているわけもない。そんなこと私が聞きたい、と言いたいくらいだった。
だが、もしそんなことを言ったら彼はどう思うか。
きっと死ぬほどがっかりするだろう。人間の短い生を賭けた一世一代の問い。それを無碍にしたとなれば、本当にショック死してしまうかもしれない。
するとどうなるか。私はまた一人ぼっちに逆戻りだ。どれだけ続くかも分からない時間の流れに身を投げることになる。
だが、いい加減なことを言うわけにもいかない。私はいよいよ考えあぐね、今ひねり出せる中で最上の答えを絞り出した。
『私は、私だ』
「……な……?」
『私はこの姿でこの世に産み落とされた。かつても、今も、そして未来も。私はただ私のままであり続けるだろう。世界ある限り、私もまたこの世界にある』
自分でも苦しい答えだった。
ありのままを答えたといえば聞こえはいいが、もっともらしい言葉で煙に巻いているだけとも言える。
エーリアスはその場で黙りこくり、口元に手を当てながらじっと考えこんでいる。
いつもは無為に過ぎていく時間。それがこんなにも待ち遠しく思えることは今までに一度もなかった。
「それは……つまり、あなたは、永劫不変のものであると」
『そうだ。おそらくは』
「この世界の一部。いわば自然のようなもの……」
エーリアスはうつむいたままぶつぶつとつぶやき、そして不意に顔を上げる。
「私たち人間は、あなたの望みに従って供物を捧げているのだと考えていた。……ですが、あなたが何かを望んでいるわけではない、ということなのでしょうか」
『……望み』
少なくともあのお供え物はいらない。私には飲食物も、家畜も、金銀財宝も、全て無用の長物でしかない。
でも、望むことはあった。
『人間』
「それは……生きた供物を、と?」
『否』
一瞬エーリアスの表情がひきつる。その顔に、どうしてか私は少なからず傷ついた。
私に人間を貪り食うような趣味はない。実際、人間を食べたことなんて一度もない。
『人間としての一生を生きることだ』
おそらく、それが。それこそが、私の一番の望みだ。
細々とした望みは結局のところ、その一点に集約される。
エーリアスは驚愕に目を見開く。膝から崩折れるように跪き、声もなく頭を垂れた。
「……感謝いたします、始祖竜よ。蒙を啓かれた心地です。私の追い求めてきたものなど瑣末なもの。私は私のあるがままに、なすべき役目を全うすることに邁進する所存です」
な、なにか知らないけれど感謝されている。
私の困惑をよそにエーリアスは何度も頭を下げ、慇懃なほど丁寧に礼を述べ、そして踵を返そうとする。答えは得たというように。
――――待って、と思った。
これでは結局のところ同じじゃないか。
彼をがっかりさせずに済んだのは良いが、私がひとりぼっちになるのには変わりがない。
私は彼を引き止める声をかけようとして――そして、気づいた。
火に焼かれたように真っ赤なエーリアスの顔。滝のような汗で肌は濡れ、足元からはもうもうと黒い煙が上がっている。
私は気づかなかった。今の今まで気づけなかった。
この場所は、この山は――人間の身では、留まるだけでも過酷な土地だったのだ。
「……さらばです。始祖竜よ」
エーリアスは別れの言葉を残して山を降りていく。
エーリアス・ルスト。彼の名は私の記憶に深く刻みこまれた。
私に一時の慰みを与えてくれた人間。
そして、より深い絶望を齎した人間。
◆
時が瞬く間に過ぎていく。
まるで微睡むような感覚。どれだけの時間が経ったかも分からない。
山頂から飛び立つことも一度は考えたが、やめた。私の羽ばたきはそれだけで大変な災害を引き起こし、周囲を巻き添えにしてしまう。
私が着陸できる土地だってどこにもない。
エーリアス・ルスト。彼は最寄りの村に住んでいると言っていた。彼のことを思うなら、なおさらここを動くわけにはいかなかった。
苦しむほどのことではない。全てが元通りになっただけ。
そう考えられればどれだけ楽だったろう。私にはできなかった。だから私は考えることを止めた。目をつむり、意識を閉ざし、世界との繋がりを絶った。
――――そのはずだったのに。
「ちょいと、邪魔をするよ。始祖竜さま」
人間の女性の声が聞こえた。
敬意など欠片ほども感じない軽薄な声。
私をここから解放できる人間なんていやしない。
そう思いながらも、私は一時の慰みのために瞼を上げる。
それは人間になぞらえるなら、砂漠のど真ん中で一滴の水を求めるにも似ていた。
どうせ無駄なのにと知りながら、それでも求めずにはいられない。
「なんだ、気乗りしない顔だね。せっかくいい報せを持ってきてあげたっていうのに」
私の目の前に立つ若い女性。あえて一言で表現するならば、彼女は、魔女だった。
黒い三角帽子に黒いローブ。長すぎる黒髪は目元までも覆い、その表情はほぼうかがえない。口元だけが笑みを浮かべるように三日月の形を描いている。
『そなたは、何者だ』
「何者? ――そうだね、"魔女"とでも呼んでおくんな」
彼女の名乗りは奇しくも私の印象と同じ。
黒き魔女は灼熱の渦中にありながら汗の一雫も垂らさない。
『ならば、魔女よ。そなたは何用でここまでやってきた?』
「言ったろう、始祖竜さま。私はいい報せを持ってきたのさ」
魔女は不敵に笑って帽子の丸鍔をかたむける。
狂人のたぐいかとも思うが、そのわりに口調などは明瞭だ。
私が疑問の声を上げるまでもなく、魔女は口元をにやりと歪めて言った。
「あなたの願いを、叶えてあげる」
『……嘘』
「ふふ、地が出たね?」
私は思わず低いうめき声を漏らす。
私の願い。その存在を果たしてどれだけの人間が知っているのか。そもそも彼女は、私の願いが何かを知っているというのか。
「嘘だと思うなら、ずばり当ててあげよう。あなたの願いは人間になること。人間として生きること。……違うかい?」
続いた言葉に、私はぐうの音も出なかった。
それを知っているのはあの人間――エーリアス・ルストだけのはず。となると、彼が広めたのだろうか。
「おっと、誤解しないでおくれ。彼はあなたの秘密を言いふらすような人間じゃない。私はあなたの願いを読み取っただけさ」
『なれば、そなたはなぜここに?』
私の頭の中を読んでいるのか。自ら魔女を名乗るだけのことはある。
しかし、わざわざこの場所を訪れたのにはまた別の理由があるはずだ。
「細かいことを気にするね。……そうだね、強いて言うなら、彼があなたの願いを知ったからさ。それが引き金になった。彼自身が言いふらしたわけではないが、彼がそれを知ることによって、私もあなたの願いを知ることができた。わかるかい?」
『……全く』
「正直でいい。けど、魔法というのはそういうものなんだ」
『そういう、ものか』
不条理で謎めいたもの。決して理解が届かないもの。――――魔法。
それを操るというのなら、やはり、彼女は正しく魔女なのだろう。
「……おっと、そんなことはどうだっていいんだ。話は単純だよ。私が何者かはわかったろう?」
『うん』
「ならばもう一度、私は問おう。あなたの願いを、叶えたくはないか?」
――――人間になりたくはないか?
『うん』
まさに核心を突く問いに、私は是非もなく頷いていた。
◆
「願いを叶えるにはね。誓約を守らないといけないんだ」
『誓約?』
「そう。願いを叶える代償のようなもの。守るべき秘密。決して触れられてはならない禁忌」
魔女は黒檀の杖を空高くかかげ、底冷えのする声で告げる。
それは私の巨躯をもってしても心胆を寒からしめるような声。
「誓約が破られた時、あなたにかけられた魔法は解ける。そして、二度とあなたの願いが叶うことはない」
『かけなおすことも、できない?』
「そう。あなたの願いを叶えるためには、それだけ重大な誓約が必要。それほどにあなたは圧倒的な存在なのだから」
なら、どうして私の願いなんか叶えてくれるのだろう。彼女には何の見返りもないだろうに。
『そなたは、何を求める?』
「笑顔」
『……なに?』
「誰かの幸せな笑顔だよ。私はとびっきりの幸せな結末が見たいのさ。だから私はいかにも不幸そうな顔をしたあなたの元にやってきた。わかるかい?」
『解せない』
「正直でいいね」
魔女はくつくつと喉を鳴らして笑い、「ただの趣味さ」と端的に言った。
とても胡散臭い。
まるで煙に巻かれたような気分だった。
『否、良い。それで誓約とは?』
「そうだ。その説明が要るね」
魔女はこほんと咳払い。髪の下から覗く黒い瞳が、私を真っ向から見つめる。
「私の魔法でも、あなたを完璧な人間にすることはできない。人間になるのは見た目だけだ。ほとんどの力は今のまま、死ぬことは決して無いし、いつでも今の姿に戻ることができる」
『かりそめの、人間の姿』
「そう。そして、次が重要なところだ。絶対にこの誓約を破っちゃいけない――『あなたが人間でいようとする限り、決して竜の姿を見られてはならない』」
魔女は重々しい声色で告げる。
――正直、私はその誓約に拍子抜けした。竜の姿になんて頼まれても戻らないだろう。人間の姿のまま力を使えるならなおさらだ。わざわざ戻ろうとする理由が全くない。
『それだけか』
「そう。それ以外なら……たとえば、あなたが始祖竜だってことを明かしてもいい。でも、絶対に姿を見られてはいけない。誰にもだよ」
『今までに私の姿を見たものは?』
「それは例外。人間の姿を手に入れてからのことさ。……良いね。絶対に破るんじゃあないよ?」
魔女の念押しに私はゆっくりと首を振る。
『ここに誓う。私が人間でいようとする限り、決して真の姿を見せはするまい』
「……よし。なら、話は決まりだ」
魔女は静かに頷き、かかげた杖先を私に突きつける。
黒檀の杖はまるで太陽のような光を発し、私の眼前をまばゆく照らしだした。
「始祖竜よ! 男の子か女の子、なるならどっちがいい!?」
『えっ』
そんな大事なことは先に聞いておいてほしい!
私はオスなのか、メスなのか。判断材料は何ひとつ存在しなかった――私はどちらとも扱われたことがないのだから。
『――わからない!』
「じゃあ女の子だね! 女の子にするよ! いいんだね!?」
『とにかく人間ならそれで良い!!』
魔女の剣幕に圧倒され、私は勢いのままに咆哮した。
光が視界を真っ白に染め上げる。ふわふわと優しくて柔らかな何かが私の皮膚を包みこむ。
一瞬、全てが無感覚になったあと、私は前のめりに倒れていた。
岩の裂け目から吹き上がる蒸気が皮膚に触れ、私は思わず飛び起きる。
「なっ……あ、わ……!?」
「よしよし。成功したようだね」
私は慣れない感覚に困惑する――こんなにも身体が軽いなんて!
自分の身体のような気がしない。けれど、これこそ今の私の身体なのだ。
私は二本足で立ち、足元を確かめるようにぐるぐると歩き回る。一歩の幅がとても狭い。伸ばした腕もすぐ近くにしか届かない。代わりに、近くの岩場を崩してしまうようなこともない。
「……これが、人間の体……?」
「そう。ついでに現在の言語も擦り込んでおいたよ――中々かわいくなったじゃないか。せっかくだから見ておきな」
言語。そうか。確かに私の言葉は彼のものとは違っていた覚えがある。
魔女は低く喉を鳴らして笑い、黒檀の杖をひゅんと一振りした。
私の目の前に光を反射する力場が浮かび上がる。私はそこに映りこんだ自分の姿をじっと見た。
背丈は魔女より少し低い。肉体年齢が低いのだろう。顔付きも少し子どもっぽいように思える。
髪色は透き通るような白金色。瞳は燃え上がる炎のような緋色で、鱗の色を反映したのかもしれない。髪は頬から肩を滑り、腰の上に届くまで伸びていた。
そして何より慣れないのは、いつの間にか着させられていた服だった。魔女が着けているのと同じような黒ローブ。白くてやわな肌に触れる布の感触がわずらわしい。人間は気にならないのだろうか。
足にも同じく、魔女が履いているのと似たような皮靴を履かされていた。
「これは……?」
「事のついでというやつだよ。人里っていうのは何かと入用だからね。私の餞別だと思っておきな」
「……歩きづらい」
「慣れさ、慣れ。きちんと地で脚を踏む感覚も悪くないだろう?」
魔女の口元が鮮やかな三日月形の弧を描く。
私はしばらく体の感覚を慣らすために動き回り、
「……うん」
と、大いに納得した。
今すぐにでも山を降りたい気持ちになる。そして人間になるきっかけをくれた彼に会いに行くのだ。
いや、竜がいきなり人間になって現れたら迷惑がるだろうか。いずれにせよ会ってお礼を言いたい。それくらいならきっと許してくれるだろう。
「……今すぐ出発したいって顔をしてるね」
「ダメ?」
「ダメじゃないさ。でも、ひとつ大切なものを忘れてるよ」
大切なもの。
……というと、なんだろう。
取りあえず着るものはある。力が健在なら飲食物はいらないだろう。道は分からないが、空を飛んで上から見ればきっと分かるはず。
少なくとも彼の名前は知っているのだ。エーリアス・ルスト。この名を手がかりに旅をするのも悪くないように思う。
「名前だよ、名前。まさか人間になってまで『始祖竜』なんて呼ばれるつもりじゃないだろう?」
「……あ」
そうだ。すっかり忘れていた。
そもそも、『名前は大切なもの』という意識が完全に抜け落ちていた。誰かに呼びかけることも、呼びかけられることも無かったのだから。
「私としても、始祖竜さま、なんて呼ぶのはそろそろ御免だね。なにか案は無いのかい?」
「……そう言われても……」
突然のことばかりで困り果てる。名付けの経験なんて今までに一度もない。
旅の道すがら考えようかと思ったが、なぜか思いつかない気がしてならなかった。
「魔女。あなたの名前は?」
「そこ、こだわるね。さっきも言ったろう? 私は"魔女"さ。幸せな笑顔と幸せな結末を糧にする、そう、強いて言うならば――"物語の魔女"ってところかい」
魔女はくつくつと喉を鳴らして笑う。煙に巻かれてしまうような感じ。
思えば、彼女が私を人間の姿にしてくれたのだ。それなら、彼女が私の産みの親といって差し支えない気もする。
「なら、魔女。あなたが私に名前をつけて」
「……そう来たかい。いや、来るかと思ったけどね」
魔女は困ったような素振りをしながら愉しげに口端を吊り上げる。
彼女はふんふんと鼻を鳴らし、懐から取り出した紙にペンを走らせ――そして、私に羊皮紙を突きつけた。
「アーシェ。今この時からあなたは始祖竜じゃない、人間のアーシェだ。これからはそう名乗ると良い」
「……アーシェ」
人間の女性らしい名前かはわからない。しかし違和感のようなものはなかった――むしろしっくり来るようにすら思えた。
「……なにか、名前に意味は、あるの?」
「『灰』さ。破壊と再生、永劫に続く始祖竜という存在の象徴。あなたが竜であることを止めて人間になるには、一度あなた自身が灰となるしかない。……そんなところかな」
物凄くもっともらしく語る魔女。
微妙に不吉だと思ったが、それはそれで私らしいかもしれない。人間の姿をしていようと、完璧な人間にはなれないのだから。
「……うん、ありがたく頂戴する。……アーシェ。私は、アーシェだ」
私は自ら確かめるように呟く。
うんうん、と魔女は満足気に頷いた。
「それでいい。それじゃ、私はここまでだ。私は、あなたの願いを叶えに来たんだからね」
役目を果たした後はただ去るのみ。
そう言わんばかりに魔女の影が少しずつ薄れていく。まるで風の中に掻き消える砂塵のように。全てが夢まぼろしであったかのように。
「もう、行くの?」
――どこへかは分からないけれど。
私は魔女に手を伸ばす。
まるでかすみにでも触れたような感触。
それでも魔女は私の手をそっと握り返した。信じられないくらい冷たい感触。しかし確かな存在感が伝わってくる。
――――触れるもの全てを壊した私の手。そうならなかったのは、これが初めてのこと。
もう、そんな心配をする必要は無くなったのだ。
「あぁ。――最後にもう一度言っておくけど、竜の姿を見せたら二度と人間には戻れないよ。肝に銘じておくんだね」
「わかってる。私の『誓約』。絶対に忘れない」
「…………それでいい」
魔女はふっと口元を歪めて微笑み、そして消えた。
◆
もう、この地に留まる理由はない。
私は心の中で魔女に礼を言い、まずは山を降りることにした。
山の地形は薄ぼんやりと覚えていた。随分前、気晴らしに山の周りをぐるぐる飛び回ったことがあったのだ。
私が飛び回るだけで大変な騒ぎになる、というのもその時に得た教訓だ。私みたいなデカブツが飛んだら目立ってしょうがないので、それ以来飛ぶことはなかったように思う。
――――今なら別にいいかな……?
でも、よく考えたら今の私は人間だ。とてもちいさい。空高くを飛んでたって鳥と見分けはつかないだろう。ならば構うことはない。
私は空を飛ぶことを意識する。翼があった時と同じように。
すると私の身体は天蓋の高みまで浮かび上がり、空を滑るように飛び始めた。
すぃー、と空を飛びながら目を凝らし、地上を見下ろす。
その時、私は初めて気づいた。
私の住処だった山の周りには、同じような標高の峰がいくつも連なっていた。
峻険な山岳と深い谷底、あちこちで無秩序に生い茂る森林――その他、明らかに人間の手が及んでいない未踏破地域。私の住処は、秘境の最奥とでも言うべき場所に存在していたのだ。
最寄りの村、なんて簡単に言える範囲内には、人里は見当たりそうにない。
――――彼はどうやってこんなところまで来たのだろう?
まさか私のように飛んできたわけでもないだろう。でなければあんなにたくさんの荷物は必要ない。普通に考えたら、何十日とかけて険しい道のりを進んできたことになる。
――――帰り道で倒れてたりしないかな。
少し不安。魔女の語ったことを振り返るに、おそらくその心配は無いだろうけど。
頬に触れる風、空気の冷たさ、太陽の暖かさ。全ての感覚を新鮮に思いながら、私は何日か飛び続ける。疲れたらどこかで降りるつもりだったが、肝心の疲れはどこかに行ってしまった。
道中、飛んでいる方向から真っ黒な分厚い雲が押し寄せてくる。
私はそれをいぶかしく思った――風に流されてきたという感じではない。まるで爆心地から同心円上に広がってきたような感じ。
私が雲の群れを払うように手を振ると、そいつらは初めから無かったように消え去った。
ますます奇妙な感じだった。雲を触ったら濡れるはずなのにそれも無い。
ひょっとしたらこれも魔法の産物なのかもしれない――魔女が私を人間にしたり、私が空を飛んだりするのと同じような力。
ますます分厚くなる雲を払いのけながらどんどん前に進む。
土砂降りの雨の中を突っ切り、吹きすさぶ強風を振り切り、ただ前へ。
これが人間の手によるものなら不可解の一言。だが、それはこの方向に人間がいるという目印にもなるはずだった。
◆
果たして、私の予想は的中していた。
細く入り組んだ山道から続いているのは人間たちの集落と思しきもの。広大な田園風景に山型の屋根がいくつも軒を連ね、曇り空が村全体に影を落としている。
私は濡れた髪を掻き上げながら地上を見下ろし、思わずぽつりとつぶやく。
「……これはひどい」
川や水路は大雨で氾濫し、強風で倒壊している建物もいくつかある。
どうして私が来た時に限ってこんなことになっているのか――来たのはこれが初めてだけれど。
――私はその場ですうっと息を吸い、咆吼の風圧を周囲に有りったけぶちまけた。
人間の可聴域を超えた音の波が過ぎたあと、先ほどまであった暗雲はすでに無い。
かすかな白い雲の切れ間から陽が覗き、地上を照らし始める。
「……ぐしょ濡れだ」
服を乾かしたい、と切に思いながら地上に降りる。力の使い過ぎで少し疲れたような気もする。
村のすぐ近くを流れる川は今も溢れていたが、たぶん何日かすれば元通りになるだろう。
私は気の赴くままにふらふらと村中を見て回る。村人たちは屋内に避難しているのか、人影は全くと言っていいほど見当たらなかった。
私が気がかりなのは田畑だった。ぐるっと見て回れば案の定、農作物と土が水害でほとんど死にかけてしまっている。
――――うまく行くかな。
どうせだめで元々だ。私は瀕死の田畑に手をかざし、自身の生命力を供与するよう意識する。
瞬間、麦穂の萎びた茎がにわかにピンと伸びる。まるで時間が巻き戻るよう。その光景が全ての田園で繰り広げられる。
どうせ使い切れもしない生命力。昔に何百人もの人間を殺したんだから、今度は助けるために使ったって良いはずだ。私の勝手な言い草だけれどバランスは取れている。
――その時、私はふと視線を感じた。
振り返ると、そこには村の中でも一、二を争うほど大きい建物があった。そこの窓から、何人かの村人たちが私を覗き見て叫ぶ。
「おい、あんた、こんな嵐の中で何やってんだ!」
声は少しくぐもっていたが、多分そう言ったのだと思う。
「雨なら、止みましたよ」
生命力を分け与える作業は終わったのでそう言うと、彼らは呆気に取られたように口をぽかんと開けた。
次の瞬間、屋内からどたばたと騒がしい音が聞こえる――叫び声にも似た歓声が響きわたる――村人たちが入り口から溢れ出るように殺到する。
「おおおぉぉ……!!」
「は、晴れだ! 陽が出てるぞっ!!」
「皆出てこい、もう大丈夫だ! 俺たち助かったんだ!!」
「皆にも伝えてこなきゃ……!」
老若男女の別なく歓喜を謳う村人たち。あるものは天を仰ぎ、あるものは遥か北方に向け、あるものは瞑目して祈るように唱える――――「始祖竜の御慈悲に感謝を」と。
私は一瞬ドキリとする――まさかばれたの? もう?
そう思ったが、違った。彼らの中で私を見ているものは一人もいなかった。彼らは私そのものではなく、想像上の始祖竜に祈りを捧げていた。
私はほっと一息つく。ばれても誓約を破ることにはならないが、せっかく人間になったのに人間として扱ってもらえないのは癪だから。
「……どうしてかしら。作物が傷んでない……?」
「本当だな、他の畑はどうだ?」
「こっちもだ、何ともないぞ!」
「これも始祖竜様のお恵みかしらね……」
知らないよ。私は一向に知らないよ。
私はそっぽを向き、さっきまで村人が立てこもっていた建物を観察する。
白い石壁を基調とした立派な建物。山型の屋根は血のように赤く、正面入口には赤い竜を象った紋章が刻まれている。
これは私なのだろうか。少し不思議な気持ちになる。
そういえば、彼が〈ドラゴン教団〉とか言ってたような気もする。つまりこれは私を崇める教会なのか。……そう思うとますます変な感じだった。
「なあ、そこのあんた」
――その時だった。
私の後ろから声がして、振り返る。
そこにいたのは村人の一人。多分三十代くらいの男性だ。
「私?」
「ああそうだ。ありがとうな、あのまま晴れたのにも気づかないところだったよ」
「……もう、何日降り続いてたの?」
「十日ほど前からだな。始祖竜様の姿が見えなくなってから……しかも、ずっとあんな雨脚でな」
私が、いなくなってから?
……そうか。私があの山を離れれば、いつもあそこにいた始祖竜は影も形もなくなる。当たり前の話なのだが、私はそのことに気が回っていなかった。
そして、もしかすればだが――さっきの嵐は、私が山から離れたせいで起こったのだろうか。
「それは、わ……始祖竜様がいなくなって、すぐ?」
「いや、いなくなったと司教様がお教えくださったのが一ヶ月ほど前のことだ。その少し後ってところか……」
そんなに日が経っていたのかと思う。私の時間感覚は相変わらずどうにも鈍いらしい。
すぐではない、となると、断定はできないだろう。私が離れたせいかもしれないし、特に関係はないかもしれない。少なくとも、今は何事も起こってはいない。
「それより、あんたもびしょ濡れじゃないか。良かったら中で火に当たっていくといい――」
と、村人さんが言いかけたその時。
バタン、と教会の扉が勢い良く開かれる。白いローブを身にまとう三人の男たちが中から現れ、迷いのない足取りでこちらに歩いてくる。
彼らの肩には教会の入口に刻まれたものと同じ、竜の紋章があしらわれていた。
「アルゴ。そちらの方は何者ですかな?」
「し、司教様。それは、今うかがおうとしたところで……」
三人のうち、真っ先に声を発したのは先頭を行く老年の男性。綺麗に剃り上げられた頭は聖職者の証だろう。
司教と呼ばれた彼は厳しい表情をして、にわかにすぅっと目を細める。
「左様で。では、あなたは?」
「……私は、アーシェです。旅の魔術師をしてます」
なんと言ったものか。私は一瞬考えあぐね、苦しまぎれにそう答える。
魔法っぽい力は使えるから嘘じゃない。決して嘘は言ってない。
「その若さで……魔術師、ですか。はて、どちらからいらっしゃられたので?」
「……山のほうから」
他に答えようもないので北のほうを指差しながら即答する。
私はいたって真剣だ。が、司教さんはそう思ってくれなかったようだ。
板挟みになった村人さんは目に見えてあたふたし始める。非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「……実に怪しげですね、ヨハネ司教。これは次なる異変の兆しでは?」
「嵐が止んだとはいえ、始祖竜様の怒りが収まったとも限りません。ここは万全を期すべきかと……」
両隣にいる白ローブの男たちが司教さんに進言する。
怒ってないよ、ぜんぜん怒ってないよ。
……などと言っても聞く耳を持ってはくれないだろう。私は始祖竜にはちっとも見えない。見えても困る。
司教さんはこほんと咳払いし、私をじっと見下ろして言った。
「アーシェ殿よ。あなたがいずこから参られたかは存じませんがな、我々の世界は今や存亡の危機に瀕しているのです。始祖竜様の御姿が最果ての山脈にお見えになられず、挙句の果てには先の災厄です。このような状況下であなたのように怪しげなものが、この聖地を訪れようとは……更なる始祖竜様の怒りを買わぬとも知れません。お分かりですかな?」
始祖竜は私だから違います。
――と言いたいところだが、絶対に信じてもらえないだろう。状況が悪化するのは目に見えている。かといって姿を見せるわけにはいかない。私には守るべき『誓約』があるのだから。
「……つまり、私はどうすればいいんです?」
「あなたの潔白が明らかになるまで拘束させていただきましょう。かの山から来たなどという明らかな虚言、それだけでも罪に値しますが……他にどのような罪を犯しているとも知れませんからな」
「私は、嘘なんかついてないです」
「黙れ、司教様に向かって不敬だぞ! かの山に出入りするものは教団によって厳重に管理されているのだ! アーシェなどという名のものを通した記録は残されていない!!」
司教の隣にいる男は唾を飛ばして断言する。
――そりゃあ確かに記録は無いだろうけど。山を出たのもこれが初めてだし。
「手を後ろに回しなさい」
そんなことを考えているうちに司教さんの命令が飛ぶ。
本当にどうしたものか。無理やり逃げちゃおうか。それだけなら人間の姿のままでも全く問題無いだろうし――――
「お待ちください、ヨハネ司教」
その時、私の後ろから若い男性の声がした。彼は「この場は私が預かりましょう」と声をかけ、堂々と私の前に立つ。黒いローブに覆われた背中がとても大きく見えた。
村人さんは彼に礼を言ってその場から立ち去る――彼は年齢の割に信頼されているらしい。
「……なにかね、魔術師殿。貴殿に我々の邪魔をする権限は無いはずだが?」
「その通りです。が、彼女はこの村に立ち寄ったというだけの旅の者でしょう。それだけで身柄を拘束するというのはいかにも根拠が薄弱ではありませんか?」
司教さんはいぶかしむように眉根を寄せる。魔術師殿、と呼ばれた若い男性はあくまでも落ち着いた抑揚で話す。
「我々のやり方に文句をつけるのか! 貴殿こそ、いかなる根拠があって司教様に楯突くか? 不敬であろう!!」
「今は少しでも人手が必要な時でしょう。お言葉ですが、拘束だの監視だのして何になるのです。奇跡的に作物への被害は軽微だったようですが、修理しなければならない建物はいくつもあるのです。あるかも分からない神の怒りを過剰に恐れていては、村人たちが脅えるばかりです。私達としてはむしろ、彼らに安心してもらうための言葉をかけるべきでは?」
隣の聖職者さんたちが食って掛かるも、彼はむしろ落ち着きを深めるように淡々と言葉を続ける。
「あ、あるかもわからない、だと!? よ、よもや始祖竜様を疑って――――」
「そんなわけが無いでしょう。私はあの山に登ったんですから」
彼は淡々と言って、そして私は気づいた。
もしかしてこの人は。いや、この人こそ――――
「落ち着きなさい、ニコラス」
「で、ですが……」
「良いのです。……では、魔術師殿。代わって彼女を見張って下さるというのですかな。いささか不審な点があるというのは否めないのでは?」
司教さんがそう言うのに、彼は頷いて私のほうを振り返る。ちょっと膝をかがめて、私と目線の高さを合わせる。
忘れもしない碧色の双眸。
「あなたは……ええと、申し訳ありません。名前はなんと?」
「……アーシェ、です。しがない、旅の魔術師、です」
彼の顔をじっと見ながらつっかえつっかえに言う。
やっぱり間違いなかった。彼は、彼こそは――
「アーシェさん、ですね。私はエーリアス・ルスト。この村で医者の真似事をやっている魔術師です。よろしければですが、しばらくの間、私と一緒にいて頂けませんか。警戒を解くのにも少し時間が必要なようですから」
エーリアス・ルスト。私の元を訪れて、初めて話しかけてくれた人間。
私がここにいる切っ掛けを与えてくれた人間。
「……うん。なんでしたら、皆さまのお手伝いでもしましょうか」
「旅の方を働かせるというのもいかがなものですが……いや、そうして下さるというのならばありがたい。私からもよろしくお願いいたします、アーシェさん」
エーリアスはそういって掌を差し出す。
私のそれよりもずっと大きな掌。私がその手を握り返せば、見た目よりずっと力強くごつごつとした感触が掌に伝わった。
「――というわけで、彼女は私の観察下に入るということで問題はありませんか、ヨハネ司教」
「……結構です。ですが、もし事が起きたときには貴殿が責任を問われること、重々ご承知おきなされ。後から知らぬ存ぜぬ、では通りませんからな」
「もちろん。心得ております」
眼鏡を指先でくいっと持ち上げて頷くエーリアス。
司教さんは深いため息をつき、「参りましょう」と聖職者たちを連れ立って教会の中へ戻る。
ニコラスと呼ばれた男性は忌々しげにエーリアスを一瞥し、一拍遅れて司教さんの後に付いて行った。
◆
その後、私はエーリアスの家に招かれた。ぐしょ濡れになったローブの代わりを渡すためという。
本当にありがたい限り。ただでさえ慣れない服なのに、濡れてへばり付いているせいで余計に気持ちが悪かったのだ。
彼の家は村の外れにあった。少しこじんまりとした丸太小屋。嵐による被害はほとんど見当たらない。
「……妙に離れてるんですね」
「ええ。村では少々変わり者で通っていまして……まぁ、魔術師相応といったところです」
エーリアスは曖昧な笑みを浮かべる。あんまり笑うことに慣れていないような、不器用な表情。
濡れ鼠の私が玄関口で待つ間、彼はおもむろに居間の衣装箪笥を漁り始める。
「……へえ……」
一方、私は興味のおもむくまま家中に視線を向ける。
魔術師という名乗りから来る印象とは裏腹、家の中は意外に整然としていた。奥には閉じたままの扉が見える。あの向こうがひょっとしたら腐海と化しているのかもしれない。
次にエーリアスに視線が行く。
彼になら、私の正体――始祖竜であることを話しても良いだろうか。
でも、それを知ったら今のように気軽には接してもらえないかもしれない。そう考えると正直に告白するのも悩ましいところだった。
「どうぞ、これを使って下さい。アーシェさんには少し大きいかも知れませんが……」
私がうんうん唸っていたところ、エーリアスは私にぽんと服を渡す。肌着と、腰でくくる紐と、今私が着ているのと同じような黒いローブ。
「……ううん。ありがとう」
私はそっと頭を下げ、濡れたローブをさっそく脱ぎ始める。一刻も早く脱ぎたいくらいの気持ち悪さだったのだ。腕の中で脱いだローブを四つに折りたたみ、ついで肌着も脱ぎ出す。
「今着ているものは洗濯しておきますので、着替えは浴室の方に――――って」
エーリアスはそう言いながら私を見て、ぎょっと目を丸くした。
なんだろう。もしかして鱗でも見えたのか。私は思わず自分の肌に目を落とす――うん。大丈夫。ちゃんと彼と同じような白い肌だ。問題はない。
「何をなさってるんです!?」
「え、き、着替えを」
「向こう! 浴室がありますので!!」
私はエーリアスに手を引かれ、垂れ幕の裏に隠れていた部屋まで連れられていく。石張りの、少し熱と湿り気がこもった部屋。
「……着替えついでに、そこの溜水も温まってますので、身体を流しておくと良いでしょう。良いですか、ちゃんと服を着て出てくるんですよ」
「は、はい」
エーリアスに切々と言い聞かされ、私は是非もなく頷くほかなかった。
彼はやり辛そうに目を背け、「ゆっくりなさって下さい」と言い添えてから戸を閉めた。
――そこまで動揺する理由があったろうか。先ほどまでの様子とは打って変わったような強引さだった。私は服も靴も全て脱ぎ落としながら考える。
服を脱いだから? そんな馬鹿な。だって、私はあの時も服なんか着ていなかったじゃないか。
……いや、あの時とは姿が違う。人間は服を着ているのが当たり前なのだった。
では、人間が服を脱ぐのはいつか。生まれてきたとき、身体を洗うとき、そして、
「……交尾?」
うん。多分間違いない。
なるほど、驚くわけだ。出会ったばかりの雌と繁殖したがる雄など野生にもそうはいないだろう。
それに、彼の年頃は三十になるかならないか、といったところ。すでに番いがいても全くおかしくはなかった。
私は大いに納得し、温かいお湯を頭からかぶって身を清める。濡れて冷えこんだ身体には実に良い具合――これも初めての経験だった。
◆
エーリアスが先に言っていた通り、渡された服は少しだけ大きかった。
余った袖をまくり上げ、裾は引きずらないようにたくし上げる。
大きい、といってもエーリアスの服よりはずいぶん小さいように思える。ならこれは誰のものだろう。彼が今より小さかったころか、あるいは単なる来客用の備品に過ぎないのか。
「時に、アーシェさん」
「……は、はい。なにですか」
居間で濡れた髪を拭いていたその時、彼は出し抜けに言った。
なんだろう。改めてどこから来たか尋ねられると、正直に答えるしか無くなるのだけれど――
「得意なことはありますか」
「得意なこと……」
あまり派手なことをして目立ちたくはない。人間として生きることを止めたくはない。
でも、せっかく彼の世話になったんだから役に立ちたいのも事実。と、なると――
「力仕事なら、なんでも得意」
「……本当ですか?」
「高所での作業も」
「…………本当に言っているのですね?」
そんなに信用ならないだろうか。……今の身体の小ささでは無理もないか。
私は自信いっぱいにふんすと頷いてみせる。力仕事はもちろんのこと、高所作業ならお任せあれだ――なにせ飛べるのだから。
「……わかりました。では、ちょっとついて来てくれますか」
「うん」
意気揚々と彼の後について歩み出す。外はまだ夕暮れ前だった。
◆
やってきたのは山の入口と反対側の細い道。
エーリアスが言うには「他の土地とも繋がる唯一の要衝なんですが……」とのことだが――
「……塞がってますね」
「はい。ご覧の通り」
その道は、横倒しの巨木で見事なまでに塞がれていた。道に面する森が強風に晒されたためだろう。
「おぉ、医者先生!」
「来てくれたのか」
「このザマだよ、先生。魔術でなんとかならねえのか?」
巨木の前には村人の男性らが十数人とたむろしている。樹の幹には何本もの縄がかかっており、巨木をなんとか退かそうとした努力の痕跡がうかがえる。
しかし十数人がかりでも巨木は動かなかったらしく、男たちはいよいよ立ち往生していた。
彼らはこぞってエーリアスに「先生」と呼びかける――若さのわりにかなり慕われているらしい。
「魔術でなんでもできるわけではありませんよ。私は治療や補助が専門ですし……」
エーリアスはちょっと苦笑し、ちらっと私のほうに目配せする。
「ですが、助けにはなるかも知れません。……アーシェさん、本当に良いんですね?」
「もちろん」
まだ不安そうな彼を安心させるようにこっくりと頷く。
あんまり安心したようには見えない。ちゃんと実演しておいたほうが良かったろうか。
「……先生、こちらの娘さんは?」
「先生の妹さん……じゃ、ねえわな」
「旅人のアーシェさんです。寄りかかった縁ということで、力仕事には自信があると仰られまして」
と、エーリアスは私を紹介する。
ところが、男たちが私を見る目はエーリアス以上に不安げだった。正気の沙汰ではない、と言わんばかり。
「……言葉より実際に見てもらったほうが早いかと」
そうまで不審がるなら見せてやろうじゃないか。我ながら大人げないにも程があるが、これは気持ちの問題だ。
私は巨木に歩み寄り、半ば辺りのロープを掴む。他の男達も半信半疑ながら、しぶしぶ別のロープに手をかけ始める。
そして、私は両手に全力をこめ、思いっ切りロープを引っ張った。
「――――ふんッッ!!!!」
ずるるるるッ!
大木が勢い良く地すべりし、地中に食いこみながらもおよそ数歩分の移動に成功する。
「せッ!!」
ぐっ、とロープを引き上げれば埋まりかけた樹皮が顔を出す。
これでずれるほどに埋まっていくことは無いだろう。
「……おおッ!?」
「お……」
「おおおおおッ!?」
上がる声は、賞賛――というより愕然としているようだった。
ロープを掴んでいた村人さんが何人かすっ転んでしまっている。いけない。このまま動かしたら轢き潰してしまうところだった。
「真っすぐ引いてくから。離れてて」
「お、おう……」
「ま、待てよ。あんた一人じゃ……」
「だいじょうぶ」
実際に試したところ、大木は私だけでも十分動かせるくらいの重さだった。
村人たちが木から離れたのを確認し、私は縄を背負うように引きずっていく。
――――ずる、ずる、ずる、ずる。
さっきよりも少し陽が傾いたころ。私は無事に倒木を広い場所へ引き入れることに成功した。
疲労感はさほどでもない。私は額に少し浮いた汗を拭い、一息つく。さすがに竜の時ほどの力はないが、人間よりは遥かに大きな力があるようだ。
「こ、これ、現実かよ」
「……すごいな」
では、周囲の反応はというと――褒められているというか、脅えられているというか。思ったよりやり過ぎたのかもしれない。
私はエーリアスをちらっと見る。彼はちょっと呆然としていたが、私と目が合うとすぐ我に返った。
「……これは、本当に、凄いですね。よくぞやって下さいました、アーシェさん。おかげで道が空きましたから、また駅馬車も来るようになるでしょう。これを木材に加工すれば復興も進みます」
エーリアスは周りの人よりずっと冷静だった。彼がそう言ったのを皮切りに、村人たちも諸手を上げて歓声を上げ始める。
「って、のんびりしてる場合じゃねえ、駅舎まで連絡に行くぞ!」
「俺も行こう。途中の道がどうなってるかもわからん」
「……加工すると言ってもな、こいつはちょっとした一苦労だぞ」
「やるな、嬢ちゃん! まだ子どもだってのに」
各々の村人たちが見せる反応は人それぞれ。「子どもじゃないよ」と私は笑ってあいまいに誤魔化す――褒められるほどにズルをしているような気がしてならなかった。私の力であることに違いはないのだが。
私が所在無げにしていると、エーリアスが私のすぐ横から声をかける。
「正直、ここまでのものとは思ってもみませんでした。申し訳ありません」
「……どうして謝るの?」
「半信半疑だったものですから。魔術――なのですよね?」
「似たようなもの、だと思う」
正確に言えば違うような気はする。この力は生まれつき持っていたものに過ぎない――私が努力して手に入れたものではない。
エーリアスは瞑目して頷き、私に言う。
「アーシェさん、聞いての通り、これで他所との道は繋がりました。もしお望みでしたら今すぐ村を出られます。……ですが、私としてはきちんとお出迎えしたいな、と思います。わざわざ働いてまで下さったんですから」
「あなたには私を監督する責任がある」
と、私は昼のやり取りを引き合いに出す――エーリアスはにわかにきょとんとした顔をする。
「旅を急ぐ用もない。ご相伴と宿にでも与れたら嬉しいな」
「……恩人にそれしきの用意も出来ないとあっては、聖地の名折れですね」
彼は再び真面目な表情を浮かべたかと思うと笑って言う。
……聖地?
「聖地」
「ええ。……今となっては、始祖竜様の怒りを被った土地、だそうですが」
そういうエーリアスの声は信じてもいなさそう。
彼は北方に向き直り、遠い目をする。遥か山脈の彼方を見るかのようだった。
◆
それからの数日は瞬く間に過ぎた。
その間、私はエーリアスと一緒に行動しながら働いた。嵐で倒壊した家の素組みをしたり、水路の崩壊部を埋め立てたり、強風で吹き飛んでしまった屋根を張り直したり。
作業は危険なものも多く、怪我人が出るたびにエーリアスは村中を駆けずり回った。彼の魔術の腕は確からしく、折れた骨も数日ほどで完治に導いてしまうほどだった。
一方、彼がこの村の指導者というわけではなく、村長さんが他にいるようだ。すでに六十歳近いであろうお爺さん。年齢に見合わずかくしゃくとしていて、意思決定に問題はなさそう。
エーリアスはいわばその相談役。お医者さんでもあり、知識人でもある、という微妙な立ち位置らしい。
そこで気になったのが司教と呼ばれていた男たちのこと。この村で数日を過ごしても、彼らの立ち位置だけは今ひとつわからなかったのだ。
たまに作業場に姿を表し、私を監視するように見ている場は散見された。特に口を挟まれることは無かったけれど、それはそれで気味が悪かった。
――村全体の集会所。嵐で家を失った村人たちのために開放された大きな木造建築物。
夕暮れ時、カウンターとホールとで分けられた大広間に、私とエーリアスは揃って脚を踏み入れた。
「今日も一日お疲れさま――っと、先生じゃないかい」
「アーシェちゃんもお疲れ様。いつも働き者だねぇ」
いえ、と私は声をかけてくれたカウンターの中年夫婦に会釈する。
カウンター内には他にも十人近い人たちが行き来している。今はこの集会所に多くの村人たちが寝泊まりしていて、彼らの食事を用意することも必要だからだ。食材なんかは村の蓄えを総動員し、日ごとに分量を管理しながら調理しているようだった。
「アーシェちゃんはいつまでこの村にいる気なんだい?」
「……あまり考えてなかったです。急ぐ旅でもないので」
おばさんの問いかけ。
今までにも何度か同じことを聞かれたが、私はいつもそう答えていた。
「良いのかい、こんな何にもないところで。しかもこんな大変な時にねぇ」
「良いところです。仕事も、食べるものも、寝るところもあるから」
「アーシェちゃんは身も蓋もないねえ、若いってのに――はいよ、持ってきな!」
と、厨房の奥から持ってこられるのは木のお皿いっぱいに盛られたシチューと手にちょうど収まるくらいのパン。シチューの中にはぶつ切りにされた野菜類がごろごろと入っている。
エーリアスが手渡してくれるのを受け取ってくれると、ふいに片割れのおじさんが言う。
「せっかく馴染んできたところだもんなあ。先生もずいぶん助けられたろう」
「そうですね。アーシェさんのおかげで予定よりだいぶ早く作業が進んでますから……この分でしたら収穫の頃には村も元通りでしょう」
エーリアスも自分の分の皿を受け取りながら言う。――私の目の前で言われるとやけに面映ゆい。
「このままアーシェちゃんがいてくれたら助かるのになあ。もし何かがあっても安心じゃないか」
「確かに、その通りですね――ですが、まさか無理強いするわけにもいきませんから」
おじさんが言うのに、彼はあくまで冷静に答える。
私は正直言って驚いていた。村の人がこうもあっけなく身内として見てくれるとは思いもしなかったから。便利に使われているだけという感じはあるが。
「今のところ、行くあては特にないけど……」
エーリアスは私をちらっと一瞥する。「ううん」と私は思わず唸る。ここに居着く理由も、離れる理由も特には無い。
しいて言えば、エーリアスに以前のお礼を言うことか。――毎日の忙しさにかまけて告白の機会を逸しているわけだけれど。
「そうだ。二人が結婚したら良いんじゃないかい?」
「ぶッ!?」
突然のおばさんの一言にエーリアスが吹いた。
今までに一度も見たことがないような醜態だった。
「結婚」
「そう。先生も元は旅の人だったんだよ。最果ての山脈に出掛けて、戻ってきて……それで、ここに留まるって言ってくれたのさ。もう三年も前のことかねえ……」
「三年」
――三年。
告げられた年月に思わずぽかんと口が開く。エーリアスが私に会いに来てからそんなにも時間が経っていたのか。
私は呆気に取られたような思いだった。
「……冗談はやめてください。私とではおそらく年の差があり過ぎるでしょう。後に残して逝くのが分かりきっているではないですか」
「先生、そんなこといって本当に独身でいるつもり? もう若くないんだから、今のうちにこそ身を固めたっていいんじゃない? アーシェちゃんはどう?」
「えっ?」
「えっじゃなくて。アーシェちゃんから見て先生はどう?」
どうと言われても。私は思わずまじまじとエーリアスを見る。
あの山で会った時と比べたらどうだろう。私にはあまり違いが分からないけれど、表情は以前よりずっと落ち着いているようにも見える。年齢なりの落ち着き、とでも言うべきか。
「えー……うん……?」
「……アーシェさんを巻き込まないでください、困っておられるでしょう」
「ふふ、ごめんなさいね、老い先短いと言い方を選んでる余裕が無いったら」
「それだけ元気で何を仰ってるんです」
エーリアスは呆れたように肩をすくめて集会所を見渡す。めぼしい席はあらかた埋まっていた。
仕方ないので広間の隅っこ、要するには地べたに腰を下ろして食事をする。あまり行儀が良いものじゃないらしいけど、それだけ人が集まっているんだから仕方がない。
彼は神妙そうな顔で口に含んだシチューを飲み込んだあと、不意に言った。
「申し訳ないですね。ずいぶん巻き込んでしまって。……それだけあなたにお世話になったし、感謝もしてるということでもあるんですが、どうにも」
もう少し感謝の仕方があるだろうに、などとぶつくさ言うエーリアス。
「エーリアス、いなかったんだ」
「……何がです」
「つがい」
彼は口に含みかけていたシチューを咄嗟のところで止めた。
危ないところだった。もう少しで木のお椀がひっくり返るところだった。
「……いませんよ。いたら付きっきりでの監視なんかやれません」
それもそうか。私は納得しながらシチューを塗りつけたパンを咀嚼する。
それにしても、と思う。人間の食事とはかくも美味いものか!
竜の図体と鈍い感覚では決して味わえなかったろう。私がやたらに食べてしまうせいか、日に日に皿の盛りも増えるようだった。正直、我ながら少し恥ずかしい。
にしても、結婚は厳しいだろうなと思う。
魔女が言うところによれば、私は死なない。死なない人間なんて明らかに不自然だ。私が同じ場所に留まれば、その不自然さは否応なく明らかになる。隠し通すことはできない。
「子どもをつくるのなら、いいかな」
「……ッッ!」
エーリアスは愕然とするより早く周囲の反応をうかがう。そうか、彼の世間体というものがあった。
幸い、私の声は周りに聞こえていなかったようだ。
そもそもできるのかな、などと私は考える。きちんと人間の生殖能力はあるのだろうか。それなら、別れる前に彼との子どもをつくっても良いように思う。
「本気で何を考えているんですか、あなたは。……得体が知れなさ過ぎる」
「怪しいって、思う?」
司教さんたちみたいに、と。
私が言うと、エーリアスは声をちいさく潜めて言った。
「……始祖竜様のお怒り、という奴ですね。私はそもそもあれを信じていません。だから、あなたが関係しているはずもない。……このことは内密にお願いします」
ちいさな声で、きっぱりと。
私は大いに頷く。なぜなら、ここにいる私が怒っていないのだから当然だ。
私が山を離れたから、という可能性もまず無いだろう。
数日間、私がこの村に滞在している間、異変と呼べる出来事は何も起こらなかった。つまり、あの嵐は私と関係ないと考えるほうが自然だ。
「なんでそう思ったの?」
「理由は二つ。……ひとつ目は、あの嵐には人為的な作為が感じられたからです」
エーリアスは細かい説明は抜きに端的に言う。だが、私はそれだけで察しがついた。
あの日、私が真っ黒な雲に触れたときの違和感。私はあれが何らかの魔法の力、その産物だと直感した。
エーリアスが言いたいのは、つまるところ、あの嵐が誰かの手によって引き起こされたということだろう。
「……もうひとつは?」
「もう一つは……ええと、これは理屈ではないので、笑わないでいただけるとありがたいのですが」
「うん」
彼らしからぬ言葉。そのくせ表情はいつも以上に真剣そうだった。
「私は、始祖竜と実際に顔を合わせ、言葉を交わしたことがあるのです。……これも内密にお願いしますよ。もしバレたら私は教団から追われる身ですから」
「……そうなんだ」
「あまり驚かれないんですね」
「うん」
エーリアスは思わずというように苦笑する。
だって知ってたんだからしょうがない。教団とやらが私と会うことを禁じているのは初耳だったけれど。
「……私が彼、あるいは彼女と話したうえで感じたことですが――私には、あの御方がわけもなくあのような災害を引き起こすとは思えない。偉大なる始祖竜の内心を忖度するというのは、いささか不敬でしょうが……実際、私にはそう感じられた」
彼はひそめた声でとつとつと語る。
その時、私は思わず目をむいた――やけに面映ゆい気持ちがこみ上げてくる。
そんな風に思ってくれるなんて。ほんの少しの間のこと、それも彼にしたら何年も前のことなのに、始祖竜のことを信じてくれようとは。
彼は一口、ゆっくりと匙を口元に運びながら言葉を続ける。
「だから、なおさら私には教団のことを信じがたい。……とはいえ、実際に始祖竜様の姿がお隠れになったのは確かですから。何か、私には及びもつかないことが起きたのかもしれませんが」
「ううん」
瞬間、私は思わず――彼の懸念を払拭してあげたいがために、ほとんど反射的に口走っていた。
彼だけに聞こえるよう、ちいさな声で。
「それはない。――――私が始祖竜だから」
「…………え?」
ころん、と。
彼の取り落とした木の匙が虚しく床を転がった。
◆
あのあと。
私とエーリアスはなんとか無事に食事を終え、積もる話があるということで彼の家に行くことになった。私たちを送り出す中高年の村人たちの見守るような視線がやけに印象的だった。
「し、始祖竜よ! 我々は、いえ私は、よりにもよってあなたに働かせるというような無礼を!?」
「お、落ち着いて」
家に入るなり、彼は人前で抑えつけていた気持ちを吐き出すように叫ぶ。
気持ちは分からないでもないけれどなんとも言えなかった。なぜなら私は別に構わないから。
「これが落ち着いていられますか!?」
「落ち着いて」
「……は、はい」
私の前だからか、彼は深呼吸したあと神妙に咳払いした。
「……申し訳ありません、お恥ずかしいところを。それで、先の話は……」
「本当。証拠は見せられないけど」
「……ですが、なぜ人間の姿に?」
「それが私の望みだったから。……あなたにもそう言ったはず」
でしょう? というとエーリアスは静かに頷く。
あの日、交わした言葉を知っているものは他にいない。それが彼にとっては何よりもの証拠なのかも知れなかった。
「今、あなたは人のお姿でここにいる。だから、もう最果ての山にはいない。……煎じ詰めればそれだけのことだった、というわけですか」
「うん。もう私はあそこに戻るつもりはない。あの姿に戻るつもりも、無い」
「……そう、ですか。あなたの姿は、存在するだけでも皆に平穏をもたらすものだったのですが」
「……そうなの?」
「月や太陽のようなものですよ。ただ在ることが当然だった、ということです」
なるほど、と頷く。私にとっては堪ったものじゃないけれど、私が存在していることに少なくとも意味はあったわけだ。
……でも。私は首を横に振る。
「私はかつての姿にはならない。そうなったら、もう二度と、今の姿にはなれなくなるから」
「……なぜです?」
「そういう『誓約』だから」
エーリアスはにわかに息を呑み、そしてゆっくりと頷く。
全く異質なものに触れたというような表情。
「……わかりました。つきましては、始祖竜よ」
「アーシェでいいよ」
私がそう言ったときの彼の煩悶の表情ったら無かった。
教団とやらを疑っていても信仰心は人一倍以上らしい。変な人間。私は思わず笑ってしまった。
「あ、アーシェ、さん」
「うん」
「あなたが原因でないということは、やはり偶然か、人為的なものか……」
悩ましげにするエーリアスに、私は自分の目で確かめたことを伝える。
あの嵐は人為的なもの――おそらくは魔法の力の産物であったこと。
するとエーリアスは思いつめたような表情をして、不意に私に向き直った。
「……この辺りで、私以外に魔術の心得がある人物など、彼らしか考えられない。これ以上、神の怒りを騙らせるのは明らかに間違っている。なんとか、彼らの注意を引ければ調査のしようもあるんですが」
「それなら、いい方法があるよ」
私はその場で思いついたことを口にする。
「これ以上あなたを煩わせるのは……」とエーリアスはしぶったが、「私はただのアーシェだから」、というと最終的には言いくるめられてくれた。
今までやったことは無いけれど、いかにもそれっぽく見えるもの。私が姿を表さずとも皆を安心させられる方法。
――――つまるところ、お触れを出せば良いのだ。私直々に。
◆
やり方はとても簡単だ。
今の私が言っても信じてくれる人はそう多くないだろう。だからあくまで文章としてお触れを出すことにした。
幸い、村の中には邪魔な大岩やら巨木やらがある。ある程度の文字を刻むには申し分ない代物だ。
何に書きつけるかと考え、私は最終的に大岩を選んだ。それが一番長く残り、人目に付きやすいという気がしたからだ。
大岩の表面にお触れを直接刻みこみ、村の中でも一番目立つ――それでいて邪魔にならない――広場にどかんと置いておく。
以上の作業を夜のうちに済ませ、そして朝。
私が少し遅れて様子を見に行くと、大岩の前にはすでにちょっとした人だかりができていた。
「……すごい」
集会所で見る人数よりもさらに多いような気がする。百人はざっと超えていそうな感じ。
私はひっそり物陰にひそみ、村人たちの反応をうかがってみる。
「いつの間にこんなのができたんだ?」
「私は知らないねえ……」
「昨日までは無かったはずだけど」
「誰か読めないのか?」
「いや、さっぱりだ」
…………しまった。
始祖竜としてなら古代語だろう、という意識が先行して、誰も読めないなんて考えもしなかった。
「読めそうな人は……先生くらいか?」
「司教様も読めそうだが」
「こいつはきっと始祖竜様のお告げだぞ。今すぐ伝えに行かないと――」
と、村人の一人が振り返ったその時。
ヨハネ司教とそのお供二人が颯爽と大岩を目指すように歩いてくる。
「おおっ、司教様」
「司教様、どうかこちらへ」
「これは始祖竜様のお告げなのではございませんか?」
村人たちがこぞって尋ねると、ヨハネ司教は曖昧に頷き「確かめてみましょう」と厳かに言う。
その一言で村人たちの人波がふたつに割れる。ヨハネ司教は大岩の目の前まで歩み寄り、表面にそっと指を伝わせた。
良かった、と安心する。これで無事に村人たちにも伝わるだろう。
ヨハネ司教はゆっくりと岩肌に指先を滑らし、目線を動かし――そして、不意に指先をプルプルと震わせた。
彼はすぅっと深く息を吸い、叫ぶ。
「こんなものが始祖竜様のお告げであるものかッ!!」
それは、激昂と呼ぶに相応しい。
彼は烈火のごとく怒りだし、大岩にふっと背を向ける。
「し、司教様?」
「一体何が書いてあるんです!?」
「――これに興味を持つことはならん! すぐにも打ち壊してしまえ! 始祖竜様を騙る何物かの仕業に他ならぬ!!」
――どうして。
そう考えるよりも早く、私は物陰から飛び出していた。
私は早足でお触れの岩に近づいていく。
「あ、アーシェちゃん?」
「どうしたんだい?」
「ちょっと、通して。私は読めるから」
私がそう言うと村人たちが道を開けてくれる。
一方で司教さんは慌てたように私のほうに振り返る。
「ま、待て、貴様ッ!! どういうつもりだッ!?」
どういうつもりもへったくれもない――そっちがそのつもりなら私もやってやる。
自分で書いた文章を読めないわけもない。私は岩肌を彫り刻むように書いた文面を一瞥し、ゆっくりと読み上げる。
岩の前から引き剥がそうとしてくる白ローブの男を片手で投げ飛ばすように払い除けた。
「『人の子よ
先の厄災は我が怒りにあらず
我はこの世に未だ在り
汝らもまたこの世に在れ
いかな厄災とて
汝らを挫くには叶うまい』」
――初めは名前でも刻もうかと思ったけど、やめた。少しばかり俗っぽすぎるように思ったから。
「……い、今の、本当か?」
「まさか」
「でも、意外と被害は少なかったからな」
「始祖竜様が守ってくれたってことか……?」
ちいさく囁き合う声も、何十人分となればどよめきに変わる。
「で、デタラメだ!」
「現実に始祖竜様の姿はお隠れになったではないか!」
「偉大なる始祖竜様を失って何事もないなど、あり得るはずがない!!」
教団の男たちは狂乱したように叫ぶが、多勢に無勢。
彼らなりの考えがあったとしても、隠蔽しようとしたことが覆るわけではない。
「なぜ隠そうとしたのですか」
私が言うと、ヨハネ司教の隣の男――ニコラスと呼ばれていた男は言葉を詰まらせる。
代わって応じたのはヨハネ司教だった。
「言うまでもない。これが始祖竜様を騙ったものであることが明らかだからだ。人々を安心させるためだけに始祖竜様の権威を利用するなど言語道断。あなたもそれに加担した時点で同罪と言わざるを得ませんな」
「誰が、そんなことを?」
「……少なくとも、古代語を操れる以上、誰かは限られるでしょう。この村にそういったものは多くはない。私か、あなたか、そう――――エーリアス殿くらいになりましょうか?」
かっと頭に血が上るような感覚。
彼も同意してくれたけど、これは私がやったことだ。騙りなどではなく、正真正銘の始祖竜自身がやったことだ。
いっそこの場で張っ倒してしまおうか。それで事態は解決する気もする。他のところから派遣されてきたとは聞いたけれど、だからどうしたというのか――
その時だった。
「――何やら騒がしいですね。私がどうかなさいましたか、ヨハネ司教」
「……ッ……エーリアス殿」
いつの間に来ていたのか。彼は私とヨハネ司教の間に割って入り、彼我の間合いを遠ざける。
落ち着いて、と目配せするエーリアス。私はこくりと頷くのみに留める。
「……このような偽りのお告げをこしらえたのは貴殿ではありますまいか。そう申し上げていたところですよ。なにせ古代語を使えるものはこの村にそう多くありませんのでな」
「その点で言えば、私とあなたについては似たような怪しさですが。そうでしょう?」
「貴様、またそのように不敬な――」
と。隣の男が声を上げるのをエーリアスは睨めつけるように一瞥する。
その視線の鋭さは以前の比ではない。彼、ニコラスはそれだけで竦み上がるように声をすぼませた。
エーリアスはローブの懐からおもむろに羊皮紙の巻物を取り出す――ヨハネ司教はそれを見た途端に目を見開く。なぜそれを、とでも言うような。村人たちは彼らのやり取りをあくまで遠目に見守る。
エーリアスは静かに声をひそめて言った。
「……始祖竜様を騙ったというのなら、あなたにも身に覚えがあるでしょう。違いますか」
「き……貴殿が、なぜそれをッ」
ヨハネ司教の眼はエーリアスが持っている巻物に向いている。彼に覚えがあるものなのか。
エーリアスは淡々と言葉を続ける。
「……村を騒がせることは望みません。アーシェさんを解放してください。でなければ、これの内容を皆に公表します。……あなた方"教団"もそれは望ましくないでしょう?」
「ぐ……」
ヨハネ司教は苦々しげに表情を歪める。もはや言葉もないように。
「司教様、あれは証拠というには……」側近たちがたしなめるように言うが、ヨハネ司教は首をふる。「疑惑を生じさせることがすでに問題なのだ」と。
彼はエーリアスに向き直って応じる。
「……やむを得ませんな。この場は、あなた方に従うといたしましょう、エーリアス殿」
「結構」
エーリアスは巻物を懐に仕舞いこむ。それと入れ替わりのように教団の男たちはすごすごと退散した。
「……結局、何の話だったんだ?」
「いや、よく……」
ヨハネ司教らの背が遠ざかったあと、村人たちはにわかにざわめきだす。
エーリアスは私にちらりと目配せする。……収拾をつけるのは私の役、ということか。
私は改めてお告げの岩の前に出て、宣言する。
「――――このお告げは真実、始祖竜様のものということ。司教さまも認めてくれたんだよ」
その時、一瞬の空白が大気に満ちる。
そして次の瞬間、弾けるように村人たちから歓声が上がった。
「つまり、始祖竜様が俺たちを認めて下さったってことか……!」
「もうあの時みたいな嵐は来ないってことなんだな!」
拡散する安堵と穏やかな笑み。
エーリアスは薄く微笑み、満足気に彼らを見守っている。
私も実に満ち足りていた。ずいぶんな騒ぎにしてしまったけれど、こうやって少しでも平穏が戻ってくるのなら。
ただひとつ、気がかりなのは――結局あの巻物はなんなのか、ということだった。
◆
その日の夜。
私と彼の他には誰もいない家の中、机の上で、エーリアスは神妙に巻物を広げた。
「知らないほうがいいと思うんですが……」
「私に手伝わせておいて」
「それを始祖竜様……いえ、アーシェさんに言われたら痛いところですね」
エーリアスは苦笑しつつ言う。わざわざ言い直してくれたのが少し面映ゆい。神がかりなものとして崇められているだけではない、とわかるから。
彼はしばし言葉を選んだあと、やや遠慮がちに言った。
「……結論から言えば、これは計画指令書です。教会の地下にあったものを私が盗み出しました」
「計画」
私のお触れで騒がせている間に忍びこんだことはわかる。でも、何の計画書なのか。
エーリアスの言葉はあくまで端的だった。
「要するには、"この村で災厄を引き起こせ"という教団本部からの命令書ですね。おそらく、そのための触媒なんかも送られていたのでしょう」
「……な、なんで?」
嵐は魔法の力の産物だった。そこまでは分かる。
じゃあ、なんで、始祖竜を崇める教団の人たちがそんなことをする必要がある?
「……この村からはあなたの姿を観測することができた。その偉大なる始祖竜様の姿が、突如見えなくなった。当然、ドラゴン教団の方々は大変慌てふためいたでしょう。これは大変なことになるぞ、と」
「わかる」
「……ここからは想像になりますが――――おそらく彼らは困り果てたのでしょう。……『もう始祖竜様がいなくなって何日も経つのに、別に何も起こらないぞ』、と」
「わからない……」
何も起こらないならそれで良いじゃないか。
そんな私の内心の声が聞こえたみたいにエーリアスは笑みを零す。
「こう考えるものもいる、ということですよ。『偉大なる始祖竜様がいなくなられたというのに、何も起こらないなどということがあってはならない』、と」
「ええ……」
「……人間、わからないものですよ。私も決して例外じゃない」
エーリアスは皮肉っぽく呟く。
……確かに、私に話しかけようなんて、普通は考えないか。実際、彼以外に話しかけてきたのは頭のおかしい人ばっかりだったのが実情だ。
「始祖竜がいなくても世の中は回る。変わりなく回ってしまう。それが耐えられなかったか――まぁ、単に影響力を失うことを恐れたのかもしれません」
「……それで、何も起こらないなら自分で起こしてやれ、ってこと?」
「そんなところでしょう。というより、それ以外は及びもつかないというのが正直なところですが」
私はこくりと頷く。少なくとも理解はできそうな話。
「……そんなことまでしたのに、放っておいて良いの?」
「あまり良くはありませんが……取捨選択ですよ。教団という組織は強大ですから。下手に恨みを買ってもあまり良いことはない。だから、ここが手の打ちどころでしょう」
エーリアスはあくまで冷静に述べる。正直、納得はできなかった。あんな災害を引き起こして、大変な被害を出しておいて、それでお咎め無しなんて。思わず渋い顔にもなる。
「そう怒らないでください。教団からの命令でしょうからね、その責任を彼らだけに負わせるのもあんまりです」
「……エーリアスは、頭がいいんだね」
「そう悪いことばかりでも無いでしょう。始祖竜の存在を後世に語り継ぐのもまた彼らでしょうから」
私の言葉も皮肉っぽく聞こえてしまったろうか。彼はあくまでも真面目だった。
「……エーリアス」
「なんです?」
彼は広げていた羊皮紙を巻き直しながら向き直る。
「ありがとう」
「……藪から棒にどうかしましたか。アーシェさん」
「私に、会いに来てくれたこと」
二年前のこと――私からしたら、まだほんの少し前にも感じられること。
あの時、彼が訪れてくれたから、私は今ここにいる。
人間として生きるのはとても厄介で、面倒事も多いけれど――あの山の、死んでしまいたくなるような退屈だけは無かった。
「……それは……むしろ私がお礼を言うことですよ、アーシェさん。私は、あなたのおかげで、折り合いをつけて生きる決心がついたんですから」
「折り合い」
記憶によれば、彼は二年前――つまり私に会ったあと、この村で暮らし始めたと聞いた覚えがある。
そういえば、私は彼のことを全然知らなかった。冷静沈着で、弁舌が立ち、行動力があり、公正無私な人間。にも関わらず、あんな辺鄙なところまで私に会いに来た奇特な人間。
「……よければ、私のことでもお話しましょうか。大して面白くもないでしょうが――」
「話して。ぜひ」
私が即座に食いつくと、彼は思わずというように明るい笑みを漏らした。
その日、私は枕元でエーリアスのことを知った。
彼には魔術の師匠がいたこと。その師匠が私に執着していて、私に出会うことが悲願であったこと。そして、ついぞ私に相まみえること無く逝ったこと。それ以降、エーリアスは師匠の遺志を継ぎ、私の居所へと至る道――最果ての山脈に挑んだこと。
私が着ているローブはその師匠さんのものということ。……いいのだろうか。それは。
「どんな人だったの?」
「一言で、そう、言葉を選ばずに言えば……クソババアでしたね……」
あまりにもあまりな言い草だった――けど、そんなことを言えるくらいには気易くもあったのだろう。なぜだか少し羨望を感じる。
でも実際のところ、エーリアスは思ったよりずっと私に楽に接してくれていた。
無理に村を離れることもないかもしれない、なんて考えるくらいには。
だから――今は、こんな日がずっと続けばいいと思った。
◆
その日は、朝から村中がどこか慌ただしい感じだった。
嵐が去って道も開けたという報せが行き渡り、各地から支援物資が届いたりしたという。最果ての山脈に通じる村という立地上、ちいさな村でも政略的な優先順位は低くないという。
――そんな忙しない雰囲気も落ち着いた昼頃。建て替えの作業を一旦引き上げて集会所へ戻ろうとしたその時、彼らは突然にやってきた。
「貴殿がエーリアス・ルストに間違いはないか?」
「すまないが、ご同行願えようか」
今まで見たこともない白ローブ姿の集団。身体の至る所に部分鎧を付けており、頭には兜をかぶっているため顔の見分けは付かない。彼らは周りの村人らには一瞥もくれず、エーリアスを一瞥する。
「何用でしょう。あなた方は?」
エーリアスはそう言ってから私を手で制する。「離れていてください」と小声で言い添えて。
村人たちも何事かとざわめく。「大丈夫です、先に戻っていてくださって結構ですので」とは言うが、実際に先に戻ろうとする人は一人もいなかった。
「我々はドラゴン騎士修道会のもの」
「司教殿のお呼び立てにて聖都より参上仕った」
「聞き取り調査の結果、エーリアス殿、貴殿には偉大なる始祖竜に対する背信の疑いが見られた。平らにご同行を願いたい」
「……教団本部のものですか」
エーリアスは額に汗を浮かべて応じる。さほど驚いてはいないが、その表情からして事の深刻さは疑いようがない。
教団。すなわち彼らは、エーリアスが強大と評した組織の兵士。
「それは、どれくらいの罪なの」
「背信――特に始祖竜の名を騙る様なことがあれば、これは即座に死罪に値し得よう。重々罪を知らしめ、続く者の無いように思い知らせねばならぬ」
兜の男は無機質に応じる。男の口から語られる内容は無慈悲極まりない。
別に裁きが下されると決まったわけではないだろう。だが、にしてはエーリアスの表情はただ事ではない。
――――これは、ひょっとしたら。
全部、何から何まで仕組まれているとしたら。
「大人しく従ったほうが身のためですな、エーリアス殿。なんとなれば、罪に値するものが貴殿のみとは限りますまい?」
まるで私の懸念を裏付けるように、騎士修道会の後方から声がした。
ヨハネ司教とその一派。
思えば、教団本部と連絡を取れるのは彼らだけ。となれば、騎士修道会が彼らの心情に寄っていることは疑いようがない。
「脅すつもりですか。弱みがあるのはあなたも同じでしょう」
「あまり滅多なことを言わぬほうが宜しいかと。貴殿には背信者の疑いがありますゆえ、誰も信じはしますまい。それに、それこそ――貴殿の公平な裁きに差し障りがあるかも知れませんからな」
ヨハネ司教は老いた表情を歪めて言う。その目には嗜虐の色がある。以前、エーリアスに丸め込まれた時の雪辱を果たしたかのような。
そもそも、例の指令書を出したのがどこか。それを考えれば、真相に至ったエーリアスを握り潰そうとしているのは明白だ。
こんな要求に従う意味なんて何もない――そのはずなのに。
「わかりました。うかがいましょう」
「……な、」
なんで、と。喉が詰まって言葉が出ない。
「実に結構。賢明な選択をなさいましたな」
ヨハネ司教が笑う。村人たちがざわめく。「先生がなんか悪いことしたってのか?」
「まさか、そんなわけねえ」「何かの間違いに決まってんべ」「すぐにわかってくれるよ……」それはきっと正しいだろう。理屈の通じる相手であるかぎりは。
そして、目の前の彼らはもう、理屈なんかでは動いていない。
「エーリアス……ッ!」
歩み出す彼に呼びかける。
このまま行かせたら、彼はきっと死んでしまう。
エーリアスは背を振り返り、緩慢に首を横に振る。
「……いささか、深みまで踏み入り過ぎたようですね。理の通じる相手、と考えたのが間違いだったのでしょう」
「でも」
私が前に出ようとしたのを、エーリアスはまた掌を突き出して制する。「あなたはすぐに村を出たほうが良い」と小声で言って。
なぜ。私を気にかける必要など無いのに。私は死なないんだから。
なんなれば、今ここで彼ら全員を蹴散らすこともできる。そうしようと思えば、私は強引にでも彼を助けられる。
「静粛にせよ、小娘。なんなれば、貴様も連座に致そうか」
兜の男は重い声で言い放つが、そんなものは脅しにもならない。私はそれを睨めつけてエーリアスに視線を戻す。
「――――『私はそなたを助けられる』」
古代語を使うのは、ずいぶん久し振りの気がする。
ヨハネ司教は、文字を読めはしても聞き取るには至らないようだった。
「『私があなたを不当に縛るのは忍びない』」
エーリアスの返答は端的だった。
……確かに、ここで私が大暴れしたら大事になるだろう。教団とやらからすれば、ここにいるはずの騎士修道会がみんな消息を絶つことになる。その後どうなるか、私にはもう想像もつかなかった。
でも、彼の命に比べればそんなこと。そう思うのは、私が人間というものに疎いからなのか。
「『私の生は短く、そしてあなたの生はあまりに永い。あなたは、あなたが願った通りに生きるべきだ、アーシェ』」
「『私は、そなたが死ぬのを見過ごすような人間になりたかったわけではない』」
「『あなたを追われる身の上にはしたくない』」
一言。ただ一言でも、助けて、って言ってくれたら、私はそうするのに。
どうして、この期に及んでまで――自分のことじゃなくて、私のことばかり。
「貴様等、何を話している! 口を噤め!!」
その時、兜の男がエーリアスの背を押す。別の男が頭を思いきり叩く。エーリアスの痩せた身体が傾ぎ、かけていた眼鏡が地面を転がる。
「……ぐッ……!」
エーリアスは低い呻き声を漏らす。男たちに両脇を引きずりあげられ、無理矢理に立たされる。
「――お願い、だから、エーリアス」
私はすがるように言う。どうなっても、これを見過ごすくらいなら。ただ一言でも、助けを求めてくれたなら。
私の中で、誰かの声が囁く。
いいじゃないか。彼が良いというんだから放っておけば。もしかしたら許しが出るかもしれないし。どうせ彼はあなたより遥かに早く死んでしまう人間なんだ。無理に助けたりすることはない。
だいたい、あなたは今までに何百人もの人間を殺してきたじゃないか。今さら一人を見殺したくらいで何を悲しむ? 面倒事を背負い込むことなく世界を回れるんだから結構な話だろう?
――――だから、もう、いいんじゃないか?
瞬間。
エーリアスはおぼつかない足取りで歩みだし、ふと後ろを振り返る。そしてゆっくりと首を横に振り、微笑んだ――自分のことは良い、とばかりに。
ついぞ口を開くことなく、兵士たちに強引に連行されながら。
――――クソったれ。
あなたがそのつもりなら、私は私の好きにしてやる。
断じてあなたの意に反さないように。
「やめて。今すぐに」
私は前に出て男たちに命ずる。「お、おい、アーシェちゃん」「そいつらに逆らったら、どうなるか……!」私を案ずるように囁く村人たちの声。でも私はもう、そんなものでは止まれない。
「……アーシェ殿、と言いましたかな? 聞いておりませんでしたか。エーリアス殿が大人しく従ったからこそ、あなたに罪はないと判断されたわけですが……」
ヨハネ司教は言外に言う――「あなたもこの男と同じ目に遭いたいのかね?」と言わんばかり。
私は構わずに前に歩み出る。行く手に兵士の男が二人、立ち塞がる。
「止まれ。止まらぬのならばこれ以上容赦は――」
「やめろと言った。始祖竜の命ぞ」
私は彼らを見上げ、睨めつける。
――それだけで、エーリアスは私が何をしようとしているか察したのかもしれない。
「ッ……ま、待てッ! アーシェさん、それだけは――」
「口を噤めと言ったろう!」
エーリアスの身体を支えていた兵士が、彼の頭を殴りつける。沸騰するみたいに頭がかっと熱くなる。
「始祖竜? 何を馬鹿な。それは……先日の騙りを認めたということでよろしいかね?」
「騙り? ――――私が始祖竜だよ、ヨハネ司教」
断じる。瞬間、ヨハネ司教は呆気にとられたように目を丸くする。
それは、村人らさえ大した違いでは無かったかもしれない。
「貴様が? ……貴様のような小娘が、かの始祖竜様であらせられると?」
「そう」
私は静かに頷き、――――ヨハネ司教は失笑するように腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしい」
「く、くく、はははッ!! これが笑わずにいられるかね? 皆の衆よ、聞こえましたかな? 今の言葉こそ、この娘の気が触れている何よりもの証拠ではありますまいか。どこの馬の骨とも知れぬ気狂いの娘を庇うなど、エーリアス殿もまた馬鹿なことをしたものですな!」
ヨハネ司教の笑い声が伝播する。教団の兵士たちは嘲笑うようなくぐもった声を漏らし、私に視線を注ぐ。
「……アーシェ、さん。それだけは、なりません。……『誓約』を破れば、あなたは……」
エーリアスのかすれきった声。
あなたが悪いんだよ。あなたがあまりに、優しすぎたから。それは、私の正体を知っているからかもしれないけれど。
「ふふふ、はは、これはもう背信の罪と見なすに差し支えはないでしょう! その娘も合わせて捕縛を――」
と、ヨハネ司教が言いかけた瞬間。
私は、殻を破った。
元の姿を取り戻した。
空に光が満ち、地上に巨大な影を落とす。
そして私は――守るべき『誓約』をかなぐり捨てた。
◆
ぶわ、と。
私の巨躯が空に浮かぶやいなや、猛烈な強風が地上に巻き起こった。
巨大な影を地上に落とし、私は人間たちを見下ろす。
「……な、な、な……ッ!」
ヨハネ司教が慄然として震え上がる。
兵士たちがその場で硬直する。
私はただ一言、空の高みから命じた。
「その男を離すが良い」
人間の時とは変わり果てた、重く、鈍い声。
それがわけもなく悲しかった。
「な……馬鹿な、なぜ、始祖竜様が、おられなくなったはずなのに――」
「あなたたちにはほとほと呆れ果てた」
いまだエーリアスを解放しようとしない様子を見て、私は掌を地面に叩きつけた。誰も潰してはいない。「ひっ、ひぃぃぃぃっ!」ただ叩きつけただけで地響きが起こり、兵士たちは我先にと逃げ去っていく。
「私の名を騙り災厄を引き起こすには飽きたらず、私の恩人をも害しようというのならば――――私は今すぐあなたを八つ裂きにしてやる」
こうすれば。始祖竜自身がそう言えば、エーリアスは以前通りに生きていける。生涯追われる身の上にはならないで済む。
私がヨハネ司教を睨めつければ、彼とその一派は震えながらその場で額を地面に擦り付け始めた。
「お……お、お待ちくださいッ! あれは、あれはただ命じられてやったことでッ! 決して私どもとしても本意では無かったのです!! あ、貴方様が、人の姿でおられたなどとは思いも寄らず――」
「ならば、なぜ隠した? なぜ、始祖竜の怒りであるなどと吹聴した? ――――なぜ、私をそっとしておかなかった?」
問いただすように威圧のことばを吐く。暴力的な衝動がふつふつと湧き上がる。あの邪魔くさい教会に灼熱をぶちまけてやればどれだけ気分が良いだろう。
でも、私はそうはしなかった。彼がそんなことを望むとは思えなかったから。
「ほ……本物だ」「本物の始祖竜様だ……」「まさかこんな近うで見られるなんて……」
村人たちが跪く。知られてしまった、見られてしまった。その後悔が今さらのように湧いてくる。魔女の警告が思い出される――『もう二度と、あなたの願いが叶うことはない』。
「どうか、どうかお赦しを……矮小な我が身に御慈悲を……」
もはや震えて許しを請うばかりとなったヨハネ司教らに言葉を続ける。
「私はあなたたちを見ている。もし同じことを繰り返してみよ。私はあまねく祭司を八つ裂きにし、あまねく教会を焼き払い、教団のことごとくを殲滅しよう。――――二度と、繰り返すな」
こんな言葉にどれほどの意味があるだろう。
私自身にはわからない。
けれど、もしまたこんなことがあったら――私は実際にそうするだろう。
先ほどまでは高慢に振舞っていた男たちがしきりに頭を下げ、地面に額を擦り付ける有り様。それを見てもあまり気分は晴れなかった。いっそ全部ぶち壊してしまえば良かったんだろうか。
「……アーシェ、さん」
エーリアスは緩慢な動きで立ち上がり、そして改めて地面に膝を着く。
まだ、そう呼んでくれることが嬉しかった。今の私は人間の姿とあまりにかけ離れているというのに。
「私はあるべき場所に戻ろう。私があの場所を離れるには……おそらく、まだ、早すぎたんだ」
結局、元はといえば、それがいけなかったのだろう。
私があの山を離れなければ何も起こらなかった。ドラゴン教団が馬鹿なことを考えたりもしなかった。誰も彼も、何かも、普段通りに回っていたはずだ。私があの場所に留まってさえいれば。
それは私の望むところでは無いけれど、でも、仕方がない。
今の私にはもはやそうするほかはない。だって、『もう二度と、願いが叶うことはない』のだから――――
私は地上のエーリアスを一瞥し、空に向かって咆哮する。あの日交わしたのと同じ言葉で。
『さよなら』
風圧が大気を揺るがす。地上の村人たちはこぞって手を振る。エーリアスが私に何かを叫んでいる。でも、風の残響でもうなにも聞こえない。
時間をかけてようやく慣れてきた人体の感覚はもはや無い。なのに、この馬鹿みたいな巨躯の感覚はあっという間に取り戻してしまった。
羽ばたき、風を切り、空を駆りながら――そのことが泣きたくなるほどに悲しかった。
◆
全ては、元通りになった。
結局、私はあの山――最果ての山脈の最奥に出戻った。他に今の私を受け容れられる場所があるとは思えなかったから。
日が昇っては沈み、夜の空には星と月。私は周りの全てに無感覚に生き続ける。
強いて収穫があったとすれば、人里に被害を出さないような飛び方を覚えたということか。もしものことがないように、私はしばしば村の様子を見に行った。行くたびに大変な騒ぎになるのであまり気は進まないけど、少なくとも彼は無事だった。
これが脅しになるならそれで良い。私の望みとは程遠いけれど、最悪よりはまだしも良い。
彼一人くらい見捨てれば良かったのに。あるいは無理にでも助け出せば良かったのに。
そう思うこともある。
けれど、エーリアスが以前のように過ごすためにはこうするしかなかった。なら、それで良いと思った。私の自己満足に過ぎないとしても。
全てが元通り、といっても本当に全てと言うには語弊がある。
特に私はそう。以前通りの孤独とは全く行かなかった。人間としての感覚がまだ少し残っているようで、山頂にて孤独でいることがやけに身にしみた。
どうせ何年も過ぎれば元に戻る。何百、何千年とこの姿でいるのに比べれば、人間の姿でいた期間などほんの一月にも満たないのだから。
また彼が来てくれるかもしれない。そんな淡い期待が無いではなかったけれど、それも一時の慰みにしかならない。
人の身でこの山に留まるのは極めて困難だ。そのことはすでに実証されていた。
周囲の変化に鈍感になり、そしていつか時間の流れも曖昧になる。
私は一人、山頂で巨躯を丸めて眠る。
――――もう二度と、私の願いが叶うことはない。
そんなある日のことだった。
一体、あれからどれだけ時間が過ぎただろう。
まどろむような私の意識を叩き起こしたのは、遠く風を切る音だった。
私が空を見上げれば、そこにはどこか懐かしい感じの姿があった。
竜だ。
黒い鱗と強靭な肌に覆われた、一頭の竜。
それを眼にした瞬間、私は少なからず驚いた。まさかこの世に私以外の竜が残っていたなんて。
大昔には私以外の竜がいた。彼らは私に襲いかかってきて払い除けられるか、あるいは私に近づかないようにするかのどちらかだった。私は彼らの同族と見做されなかったのだろう。
黒い竜は碧色の目を見開き、私の姿を一瞥する。
見た限り、肉体は私よりは小さい。けれど目には理知の色が見える。いきなり襲ってくる獣のような類でないと分かる。
私はしばらく彼を見つめ、スンとちいさく鼻を鳴らした。
そして、気づく。
――――どこか、懐かしい匂い。
「……?」
私は無駄に重い首を傾げる。
黒い竜は空中で翼を羽ばたかせ、そして、私にごく近い山の峰にゆっくりと降り立った。
碧色の目。そびえる白角を這うように伸びた銀色のたてがみ。
それを目にした私の心中に、既視感――懐かしさとでも言うべき感情が湧き起こる。ある一人の名前が浮かび上がる。
まさか、と思う。
そんなはずがない、と思う。
けれど、もしかしたら。
そんな私の思いもよそに、黒い竜は大顎を開けて言い放った。
「お久しぶりです、アーシェさん」
「……ん、な……?」
その名で私を呼ぶものは。その話し方は、抑揚は。
彼を置いては他にない。
「すいません、後進への引き継ぎにかなり手間取ってしまって。来るのがずいぶん遅くなってしまいました」
「……あ、あ……?」
「……もしかして、遅すぎて忘れられてしまいましたか」
黒い竜は心配そうに言う。いかめしい面差しとは全く裏腹な優しい声音。
ありえないはずの状況。でも、間違いないと思った。
「……エーリアス……?」
「良かった。覚えていてもらえて」
忘れるわけもない。私がここを離れた理由で、ここに戻ってきた理由でもあるのに。
「……どうして、ここに、いや、なんで、そんな姿?」
「そんな姿、は無いでしょう。アーシェさんに合わせたんですから」
「それはわかるけど!」
とぼけたように言うのは冗談なのか真剣なのか。
「……どうやって、ってこと」
「細かいことは抜きにして一言で言えば……願いを叶えてもらった、ってところですよ」
あなたと同じように、と。
その一言で、私は全てを察してしまった。
「全くの偶然みたいなもんですけどね。……アーシェさんの願いが叶わないとすれば、私の願いを叶えてもらえれば良い。そうでしょう?」
「た、確かにそうだけど!」
ありか。そんなのありなのか。
何が幸せな結末だ、と悪態を吐きたくなることもあったけれど――まさか、そんな手で来るなんて。
「あなたに誓約を破らせてしまったのは私だ。ですから、末永くあなたに付き添うのが筋というものでしょう」
「ば、馬鹿だ。すごい馬鹿だ」
「馬鹿とはなんです」
「ご、ごめんなさい」
もう二度と、私の願いは叶わない。
でも、彼の願いはこうして叶えられた。
いつまで続くかも分からない永い時間も――あるいは彼と一緒ならば。
「迷惑だったらどこか反対側にでも飛んでいきますが」
「ううん。一緒に、いて。エーリアス」
「……良かった。いや正直、断られたらどうしたものかなと」
「やっぱり、馬鹿だ……」
断るはずなんて無いのに。
だって、私はもう人間にはなれないんだから。
大地の果て、世界の一番高いところで。
私はゆっくりと首を伸ばし、口先をこつりとエーリアスの眼と眼の間に触れ合わせる。
「……ずっと、一緒にいて、エーリアス。いつか、私が滅ぶまで」
「この身が健在である限りは。……アーシェ、あなたと共にありましょう」
私がゆっくりと口を離すと、エーリアスは私にも同じようにする。
お互い馬鹿に大きなくせに、あまりにも淡い触れ合いだった。
私は孤独が寂しくて、孤独ではない人間になりたかった。
そして、結局、人間にはなれなかった。
けれど、私は孤独ではなくなった。
ならばこれは、きっと、彼女が言うところの"幸せな結末"なのだろう。
どこかで魔女が、静かにほくそ笑んでいるような気がした。
◆
黒いローブ、黒い丸唾帽子を目深に被った女の影。
彼女は二頭の竜を山頂に続く道から覗き見、そして背を向ける。
「難儀なお姫様に……、いやはや、世話を焼かせてくれる弟子だったねえ」
願いを叶えることなく逝き、願いを叶えるものと化した魔女。
彼女はくつくつと喉を鳴らして笑い、そして、一陣の風とともに掻き消えた。