悪夢の続き
夢を、見た。
兄妹全員との、和やかなお茶会の夢。
ジュリオと共に国の今後を離し、談笑する。
とても、とても夢あふれる幸せな光景。
日が照り、木々が茂り、風も優しく頬を撫でる愛しさ。
嗚呼、なんて幸せな夢なんだろうか。
* * * * *
目が覚めて初めに目にしたのは、知らない天蓋ベッドだった。此処一年見慣れたものじゃない。こんなベッドは知らない。
カルロッタはハッとして勢い良く起き上ったが、身体の節々が悲鳴を上げている。
ゆっくりと息を吐き出し、辺りを見回す。
目に着いたのはジュリオと暮らしていた時よりも豪奢な家具に広い部屋。だけども、このような豪奢な部屋には付き物のテラスが無いのは何故だろうか、とカルロッタはぼんやりと思った。
カルロッタは悲鳴を上げる体を叱咤しながら、ゆっくりとこの部屋唯一の窓辺へと歩み寄った。
そして眼下に広がるありえない景色に、カルロッタは目を丸めた。
「嘘・・・」
眼下に広がるのは祖国の風景。
帝国のシンボルカラーである青色に塗られた城下の屋根。城を囲む塀には、帝国の守護聖獣であるグマリルの彫刻が、まるで城を守るかのように・・・そして城下を見張るように見下ろしていた。
「・・・なんで・・・」
幼き頃から自室で見た光景が眼下に広がっている。
窓を開けようとしたが、この窓にはカギがなかった。
「あ、ぁ、ぁ、ぅあ」
口から出るのは渇いた声のみで。
どうして。
どうして祖国の風景が目の前に広がっているのだ。
何故一年間見続けたタイトスの風景ではないのだ。
ありえない。
理解したくない。
あの悪夢が現実だと、理解したくない。
「や、やだ、やだぁ!!嘘だぁあぁ嗚呼あ!!」
錯乱したカルロッタは窓ガラスに爪を立て引っ掻いた。何度も何度も引っ掻いた。その時窓枠に爪が引っ掛かり、整えられた爪が欠け、また剥がれて血が流れ落ちた。それでも、カルロッタの衝動は止まらない。
たまらずガラスを拳で殴るがしかし、そのガラスはびくともせず、変わったのは彼女の血で汚れたことくらいで。
それが酷く情けなかった。自分の非力さが恨めしかった。
「ジュリオ、ジュリオぉっ!!」
涙が、鼻水が、吹き出る汗も止まらない。
ジュリオだけではない。侍女頭のエレナや老家督のバレイルが死ぬ様をこの目で見た。
まるで走馬灯のように次々と蘇る記憶に、心がついて行かない。
窓辺に縋りつくカルロッタはやがて力尽きたかのようにその場に崩れ落ち、虚空を見上げて虚ろな目を晒した。何も写さない目から、とめどなく涙が流れ落ちる。
幾時そうしていただろうか。
つと瞬きをした瞬間、何も認識しなかった目に、ベッドの側にあるチェスターに乗せられた、様々な花の活けた花瓶がうつった。
それを目にし、それがなんであるか認識した途端、彼女は顔を微かに綻ばせた。
指先一つ動かすことすら億劫な身体をのろのろと動かし、這いながらチェスターに手をかけてゆっくりと、しっかりと立ち上がると、カルロッタは花瓶を手に取った。
水が入ってずっしりと重い花瓶を、大切そうに持ち上げる。一際大きいバラの花が彼女の頬を撫でた。
そしてカルロッタは手近な壁に目を向ける。
彼女は笑んだ。
そして、花瓶を力いっぱい壁に向かって投げつけた。
花瓶は派手な音を立てて割れ、破片と共に美しい切り花がそこかしこに飛び散る。
カルロッタはゆっくりと歩み、足が濡れることすら気にせず、飛び散った破片と花の中心で歩みを止めた。その様を客観的に見る者がいたなら、退廃的な美しさを感じたことだろう。
カルロッタは中心にある、一際大きな花瓶の破片を手にした。その破片を手に取るとしゃがみ込み、鼻をすすりながらそれを手首へと当てた。
呼吸が荒くなる。
今更ながら自分のやろうとしている、死への・・・否、自分を傷つけることへの恐怖を感じた。
しかしカルロッタは頭を振り、震える手を叱咤する。だけども踏ん切りがつかず、先の尖った破片は手首に小さな傷をつけるのみであった。
カルロッタは息を吐く。
こんな小さな傷でも、痛い。
痛いという感覚が、人には普通にあるのだ。
────── 嗚呼。
ジュリオはどれほど痛かったのだろうか。
エレナやバレイル、あの家にいた皆は、どれ程の苦痛を受けたのだろうか。どれほどの恐怖を与えられたのだろうか。
彼らの最後を思い出すと嗚咽が漏れ、涙が溢れる。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
何度謝っても、何度許しを請うても、もう彼等には届かない。届いたとしても、許してはくれないだろう。
それでも謝らずにいられない。その言葉しか言えることがない。
ジュリオはどんなに無念だったことだろうか。
彼は言っていた。城は落とされた、と。
カルロッタは何も知らなかったし、何にも加担していなかった。だけども、そんな言い訳が通るとは思っていない。
城を落としたのはカルロッタの祖国・・・兄、だろう。
あの悪夢は、嫌になる程現実だから。
ジュリオを突き刺した剣を腰に収め、歪な・・・けれども艶やかな笑みを零した長兄の顔を思い出し、カルロッタは唇を惹き結んだ。
アガレスに何故城を落し、ジュリオをその剣にかけたのか訊こうかという考えが一瞬思い浮かんだが、カルロッタは内心で首を振った。
何を問い質そうとも、幼い頃からずっと一緒だったジュリオはもう帰ってこない。一年間暮らしていた屋敷にも、もう誰もいないだろう。
たった一年。されども、一年だ。
一生懸命主に報うために働いてくれた人たちに情が湧くには十分で。
兄を、アガレスを憎く思うのに、カルロッタでは報復できない。その権力も無い。
できることは。
「・・・そっちで・・・もう一度、私を殺して・・・」
一緒に逝くことは叶わなかったが、追い掛けることはできる。
もし・・・もし死んだ先、向こうで会えることがあるのなら、どんな罵りでも受けよう。もう一度殺したいほどに憎まれていると言うなら、それを受け入れよう。
それしか、出来ないから。
「・・・一緒、に・・・」
カルロッタは微笑んだ。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、振り乱した赤毛が顔に張り付き悲惨な姿ながらも、その笑みはとても流麗で優しかった。
カルロッタは破片を持つ手に力を込め、それを勢いよく自分の方へと引いた。
鈍い痛みがカルロッタを襲うがしかし、彼女の表情は何処までも穏やかで。
何度も何度も手首を破片で傷つける。
赤い血が、白い肌を伝う。その血は足もと花瓶の水をも染めてゆく。
それを目で追っていると、徐々に目の前の景色が霞んでいった。
思い出すのは、死んだ彼等との幸せな日々。
忙しかった。大変だった。時にはジュリオと喧嘩もした。その時は家令のバレイルが仲裁に入り、侍女頭のエレナが二人を宥めることもあった。
そして他の侍女にも挨拶をし、労い、時に叱り、仕事に疲れている目を癒してくれる庭師の仕事に感謝する。そんな毎日。
ああ、そうだ。
初夜の時は大変だった。今思い出しても赤面ものの、でもおかしくて、いい思い出で。
知識はあったが、互いに経験がなく、戸惑ってしまったあの日。
普通は初夜の前に男が高級娼館などで経験を積んでおくものだが、ジュリオにはその暇がなく・・・否、その行為に羞恥を感じていたのだろう。だから経験がない、と彼は言ったのだ。だから実質あの初夜が二人とも初めてで。
何処から始めればいいのか解らず、緊張してぎこちなくて、何度も失敗して。
そして二人で落ち込んだ後、お互いと自分に呆れてしまった。でも次第におかしくなってきて、二人で思わず笑ってしまったら、とてもリラックスでき、ようやく明け方に結ばれた、あの日。
嗚呼、あの一年間の始まりも経過も、何もかもが愛しい。
思い出せば幸せで、忙しくても、少し可笑しくて楽しくて。
カルロッタは手首に破片を突き付けたまま、ふふ、と声に出して笑った。
────── 待ってて。すぐ行くから。
「ジュリオ・・・」
その呟きを最後に、彼女は一際深く手首に破片を喰い込ませた。
カルロッタの意識は薄れていく。
後方で誰かの悲鳴が聞こえたが、意識の朦朧とするカルロッタにはどうでもいいことだった。
よう気絶する子やなぁ・・・。っでもまた気絶するかと思われます。