奪いましょう
風が、通った。
上から下への、鋭い風。何かが落ちる鈍い音が遅れて耳に届く。
つと、首への圧力が弱まった。それに比例していきなり喉に空気が入ってくる。急な酸素に身体がついて行かず、カルロッタは思わず咽返った。呼吸を整えようと、身体が勝手に反応する。
涙と充血により曇っていた視界が、徐々に正常さを取り戻してくる。
クリアになった視界に最初に入ってきたのは、銀色の細長いモノだった。
何故いきなりこんなものが、こんなところに生えているのだろうか。
まだはっきりしない頭でそんなことを思いながら、その銀色のモノを胡乱な眼で辿った。
その銀色の何かは、大きな塊に突き刺さっている。
「・・・?」
大きな塊。
涙で真っ赤になった目が、それを映す。
刹那の時間それを見つめ、そして酸素が十分いきわたった頭が、それが何なのか理解する。
「ジュリオ・・・?」
何故ジュリオから銀色のモノが生えているのだろうか。
既に思考ははっきりとしてきているのに、それがどういうことなのか脳が認識しない。したくない。
だけどもジュリオから生えるその銀色の『何か』が鈍く光り、非情なまでに現実をカルロッタに見せつける。
ジュリオの身体に突き刺さるもの。
それは銀色の刃。
カルロッタの目に、徐々に全体像が映り込む。
「あ、ぅ・・・ぁ・・・」
ジュリオは目を見開いて口から血を流しており、その腹部に銀色の刃が刺さっていた。
その腹部からはいまだ血が流れているというのに、その血の持ち主であるジュリオは微動だにしていない。
見開いた眼球、瞼すら動くことはなかった。
カルロッタは唇を戦慄かせた。
ジュリオの明らかな絶命。
それをやっと脳内が認識した。
「あ、ああぁ、嗚呼ぁあぅぁあアアああ嗚呼嗚呼ああ!!!!!」
カルロッタは震える体を叱咤しながら四つん這いではいずり、ジュリオに多い被さった。
身体は未だ温もりあるというのに、その胸は鼓動をしておらず、呼吸さえしていない。
「ジュリオ、ジュリオ!ジュリオォぉおオオぉ!!いやぁあ嗚呼ァア!!!」
嘘だ嘘だ嘘だ嗚呼嘘だ嘘だ嘘だ!!!
「一緒にって言ったじゃない!どうして、どうしてぇ!!??」
堪え切れずにジュリオの身体を揺さぶるがしかし、やはりジュリオは無反応で。
ジュリオの死という現実が、徐々にカルロッタに侵食してくる。
「嫌、嫌、ヤダよぉ!ジュリオぉお!!」
急速に感じる喪失感が、更なる現実をカルロッタに味あわせた。
「『それ』から離れろ、カルロッタ」
────── 静かな。
本当に静かな声が、頭上から落ちてきた。
この場に不似合いなほど冷静なその声には聞き覚えがある。
カルロッタは涙で濡れた目をゆっくりと上げ、息を呑んだ。
「っ、アガレス、あにうえ、様・・・?」
呟きと共に、腕の中にいるジュリオの体を抱きしめる力を強めた。次いで、皇帝第一子である彼が何故ここに、とぼんやりと思った。
門番はどうしたのだろう。どうして何の連絡も無く彼が此処にいるのだろう。
幾多の衝撃のため、突然の情報を脳が処理しきれない。
どうしたらいいんだろう。そう思った時、激情がカルロッタを襲った。
瞬間、カルロッタの目は意思を取り戻し、懇願するように涙を流した。
「兄上様、お願いです。ジュ、ジュリオをお助け下さい!」
兄が二人いるため、カルロッタは普段皇妃の子である第一皇子のアガレスのことを敬意を込めて兄上様、第二皇子を兄様と呼んでいた。
縋るように叫ぶカルロッタに、アガレスはジュリオにゆっくりと視線を落とす。
「兄上様お願い、お願いぃ!」
涙も鼻水もみっともないほど流れ落ち、視界がかすむ。カルロッタの霞がかる視界のなか、アガレスの唇がいびつに歪んだ。
その酷薄な笑みに、カルロッタのは叫ぶのも忘れ、思わず息を呑む。
「その願いは聞けぬなぁ」
低く言い、アガレスは銀色の刃の柄を掴んだ。
まるでカルロッタに見せつけるかのようにゆっくりとした動作でジュリオを突き刺す剣を引きぬき、血を払って自らの腰の鞘へと収めた。
「・・・え・・・?」
どうして。
何故アガレスがジュリオを突き刺した剣を手にし、あまつさえ帯剣したのだろうか。
「なんで・・・。え・・・?」
きゃぁあああ!!
「っ!?」
後方から聞こえる悲鳴に、カルロッタは身を震わせ振り返った。
がたっと家具を倒す音や何かが割れる音に紛れて聞こえるのは、男女さまざまな悲鳴で。
何が起きているのだろうか。
未だ動作の遅い脳が、反応してくれない。
突如、視界に誰かの姿が入って来た。
あれはエレナだ。侍女頭であるエレナはカルロッタによく仕え、時には彼女を諌め、よき相談相手ともなるとても有能な老女。その彼女が今、必死の形相で何かから逃げている。
「な、に?」
こちらに走り寄るエレナは救いを求める様に手を伸ばす。カルロッタも反射的に手を伸ばした。
だが、それはカルロッタに届くことなかった。カルロッタの目の前でエレナの表情は絶望に変わり、彼女の身体は崩れ落ちたのだった。
「エレ、ナ・・・?」
カルロッタは目の前の現状が理解できず、びくびくと痙攣するエレナに、ただ目を向けていた。側に行きたいと頭の片隅で思うのに、足も手も満足に動かすことができず、呼吸すらうまく機能しない。
崩れ落ちたエレナの背後に、人の足が見えた。
誰、とのろのろと視線を上げた瞬間、その人物はエレナの背に剣を突き刺した。エレナは一際激しく痙攣し、それを最後に動かなくなる。
エレナを刺した男に、カルロッタは見覚えがあった。
年若く見え、カルロッタと同じ赤髪と精悍な体躯持ち、切れ長の涼やかな目元を持つのは。
「・・・ベリ、ト・・・?」
ベリトのことは幼少の頃より知っている。
彼は幼少の頃よりアガレス自身に選出され、今はアガレスの為の近衛騎士団の副隊長を務めている。常にアガレスの側にいたのだ。言葉も交わし、談笑したことすらある。
・・・その彼が何故、エレナに剣を突き刺したのか。
カルロッタの混乱を余所に、ベリトは涼やかな笑みを浮かべた。
「お久しぶりです」
「な、なんで・・・」
「ん?ああ、これですか?いやぁ、殲滅命令出てるもんで、仕方がないんですよ」
いっそ清々しい笑みを浮かべ、和やかな会話を紡ぐように言うベリト。
そして倒れ伏し絶命している侍女頭のエレナ。
何処かから聞こえる悲鳴。
「せんめつ・・・?」
殲滅命令とは何なのだと思うが、酸欠よろしく口をパクパクさせ、まともに言葉を紡げない。そんなカルロッタに、ベリトはまたにっこりと笑いかけると、剣についた血を振り払う。
カルロッタは今更ながら恐慌状態に陥り、身体を震わせた。
「副長すんませーん。一人そっち行きましたー!」
姿を現さず、何処からか大声を張り上げる男の声にすら、みっともなく身体をビクつかせた。
それと同時に、老成した男が飛び出してくる。カルロッタは反射的にその男の名を叫んだ。
「バレイル!」
怪我をしているのか、頬に血を張り付けて、よたつきながらも逃げようと必死なバレイルは、腕に命じられた布を抱えている。こんな状況でも主の為に布を手放さなかったのか、それとも無意識か。
バレイルはカルロッタの顔を見て一瞬目を見開き、そして剣を携えた男達を見て顔を蒼白にさせ、たたらを踏んだ。
思わずエレナの時と同様にバレイルに手を伸ばす。しかしカルロッタの視線を遮るように、ベリトがバレイルの前に立ちはだかった。ベリトは彼に笑みをおくる。
刹那、ベリトは重力を感じさせぬ程軽やかに素早くバレイルの懐に入ったと同時に、その腹を薙いだ。大量の血と共にバレイルは倒れ伏す。
バレイルは悲鳴すら上げることはなかった。エレナの時とは違い、バレイルはピクリともしない。一瞬で絶命したのだろう。
「あ、あ・・・ぁあ・・・」
何が。
何が起こっているのだ。
目の前に繰り広げられるこの悪夢は、何。
床に広がる赤い色は、カルロッタの精神さえ蝕んでいく。
カルロッタは徐々に冷たくなっていくジュリオに救いを求めるかのように縋りついた。
怖い。
心底から、怖い。
この状況に身を置くのも、この状況を作り出した彼らも、怖い。
カルロッタはまるでカラクリ人形のようにぎこちなく首を動かし、ベリト、ジュリオ、そしてアガレスを順に見た。ひくひくと痙攣する喉から、呼吸とも声ともつかないものが出る。
カルロッタとアガレスの視線が交差した瞬間、彼はカルロッタに向かって笑んだ。
目を細め唇を持ち上げ、それはとても艶やかな笑みで。
カルロッタは目を見開いた。
「イヤぁぁあァあああ嗚呼嗚呼アアァァアああああぁぁぁあ嗚呼あああ!!!!!!!」
その絶叫を最後にカルロッタの精神は限界を迎え、意識を手放した。
「ありゃ、姫さん気絶した?」
「まぁ、持ったほうだろう」
「陛下が運ぶかい?」
「当然だ。お前は他を殲滅しろ」
「はいなー」
「しくるなよ」
「うっす」