報せ
結婚して半年は怒涛の勢いで月日が過ぎた。
常に勉強をしていたといっても、やはり他国は他国。早々に慣れるものではなかった。
隣国と言えど、所々作法が違い、その修正をするのでも手一杯だというのに、夫となったジュリオの政務の手伝いもあり、また彼は宰相としての仕事もあるため、ジュリオの直下領地の整備もカルロッタの采配が求められた。流石に、忙しさも一入である。
けれども夫であるジュリオの忙しさも並みではなく、カルロッタが泣き言をいうわけにもいかない。
そして嫁いで一年目、やっと慣れてきたと思った矢先、その訃報は訪れた。
皇帝陛下、崩御。
カルロッタの父が亡くなったのだ。
寝耳に水の話だった。
少なくとも、カルロッタは父が患っていたという話は聞いたことがない。嫁ぐときに見た父王は、体調が悪い様に見えなかった筈だ。
何か・・・否、何があったというのか。
カルロッタは内心の動揺を隠せず、手を震わせた。
落ち着こうと深く深呼吸するがしかし、報せはそれだけではなかった。
続く文章を読んでいくと同時に、カルロッタは目を見開いた。
「どういうこと・・・?」
文面にはこうあった。
─── もうすぐだ。
「・・・何が?」
慌てて封筒を見るがしかし、そこには帝国の蝋印璽とカルロッタの名前しか書いていない。
印璽というのは、皇帝の側室を除いた皇家の嫡子、皇妃に皇帝と、全てのデザインが違う。
かく言うカルロッタも専用の印璽を持っていたが、嫁ぐ際にその印璽は皇家へ返還され、今はジュリオの家系のものを使っている。
だが、この印璽は帝国そのものの印璽だ。
普通、帝国そのものの印璽を使うときは、他国への親書に使うものだ。そして、印璽と共に自らの手で封書に名を添えるのが習わしである。
この訃報を知らせる親書には帝国の印璽のみで、名前は添えられていなかった。他国へ嫁いだとはいえ、カルロッタは元皇女。このような手紙の出し方は明らかに彼女に対する侮辱。
この手紙を誰が出したのかは解らない上、手紙に書かれた字に見覚えも無い。
訳が解らぬ故に焦燥感が募る。手紙を持つ手が震える。
「な、に・・・?」
何が。
祖国に何があったというのか。
カルロッタはいてもたってもいられず、ジュリオの元へと駆け付けようとしたが、それは老成した侍女、エレナに阻まれた。
どうやら思いの外動揺を露わにしていたようで、主の様子を心配そうに見つめていたエレナが慌てて、落ち着くようにとカルロッタを諭そうとする。
だが、そんなもの聞いている余裕は今のカルロッタには無い。
この不安が杞憂であればいい。
夫にそそっかしいと叱られるだけならば、それでいい。エレナに呆れられるだけなら、それでいい。
だけど。
だけども、この胸騒ぎは何なのか。
怖い、とカルロッタは心底から思った。
早く、早く。
早くジュリオに会わなければ。
取り付かれたかのように振り乱すカルロッタは、困惑しながらも留めようとする侍女達を押しのけて扉を開けた。
カルロッタを阻む幾多の手を振り切り、屋敷の玄関扉を勢いよく開けたその時。
そこにはカルロッタの求めていた人物が立っていた。
カルロッタは驚きに目を丸めたが、乱した息を吐き出し、自然と微笑んで見せた。ジュリオの顔を見て、幾許か安心したのだ。
「ジュリオ!」
突進せんばかりに抱きついたカルロッタに、しかし彼は微かに呻いただけで、ただ突っ立ったままだった。
こんな行動を起こした彼女に驚くでも諌めるでもなく、ジュリオはカルロッタに抱きつかれながら、ただ立っていた。
「・・・ジュリオ?」
違和感に顔を上げてみると、そこには蒼白な顔をした夫がいた。
「キャロ・・・」
掠れた声で妻の愛称を呼びながらその肩を掴むと、ジュリオは自分からカルロッタを引き離し、ただ茫然とした、呆けたような視線をカルロッタに向けた。
「ど、どうしたの?」
このように呆気にとられ、自我を失ったようなジュリオなど見たことがない。
「ジュリ・・・」
「きゃああああああぁあぁああ!!」
カルロッタの声を遮ったのは若い侍女であった。
その悲鳴を合図にしたかのように、ジュリオの身体がゆっくりと崩れ落ちる。
「・・・え?」
崩れ落ちるジュリオの体から流れる液体。
その赤い色は、紛れもなく血で。
「え?あ、ぁジ、ジュリオぉ!?」
よく見れば、カルロッタ自身もジュリオの血で汚れている。
ジュリオの身体に近寄り、その身体を慎重に起こすが、彼の息は絶え絶えで。
「お、お館様・・・!」
「だ、誰か、誰かすぐ医者を!それと布をあるだけ持ってきなさい、今すぐ!!」
悲痛に叫びながら、それでも指示を出す女主人に、数人しかいない使用人たちが皆がハッと我に返ったように動き出した。
あわただしく動く彼らを目の端に確認した後、ジュリオをの様子を泣きそうになりながら見つめた。
ベッドへ動かそうにも、この出血では少しでも動かしてはならないようにも思う。思わず周りを見回すが、使用人のあわただしく駆け回るような音しかいない。やはり皆混乱しているのだ。
どちらにしろ、カルロッタには医学の知識は無く、判断できない。こんなことなら資金をケチらず医師を屋敷に常駐させておけばよかった、と後悔が先に立つ。
かろうじて彼女に出来ることは、ジュリオの上体を少し起こして呼吸をしやすくするぐらいだ。
つと、血が流れている腹部に目を落すと、服は斜めに切り裂かれていた。
「っ!」
ジュリオは斬られたのだ。
武道ごとにはからっきしだが、一見して重症と思わせる斬り傷だと嫌でも解る。
「ジュリオっ、ジュリオぉ・・・っ!」
微かについていた頬の血をドレスで拭い、名を呼び続けることしか出来ないことに、涙があふれる。何をすればいいのか解らない自分の無知さが悔やまれる。
今この時も彼からとめどなく鮮血が流れ続けている。
せめても、とドレスの端を力いっぱい引き千切ると、その布を腹部へと被せた。
こんなもので止血出来るとは思わない。ほんの気休め程度だ。
「しっかり!しっかりしてよ、ジュリオっ」
返事をして。
お願いだから眠ってしまわないで。
「ジュリオ・・・もうすぐ、もうすぐお医者様が来るわ。しっかりして」
「キャ、ロ・・・」
「ジュリオ!」
頬を撫でる手に力がこもる。
だけども涙が邪魔をして、ジュリオの顔がよく見えない。
聞きたいことはいっぱいある。
何があったの?
どうして斬られたの。
ねぇ、ねぇ、ねぇ!
ああ、だけれど、今はそんなことはどうでもいい。
だから。
お願いだから、しっかりして。
自分もしっかりしなきゃ。
そう思うのに、出来ることは彼の側にいるだけ。
あれだけ勉強したのに、今は何の役にも立たない。瀕死のジュリオに、何もしてやれない。大切な親友であり、夫なのに。
なのに、今の彼に何も出来ることはない。
なんて力の無いことだろうか!
己の無力さに絶望する。
「私の声が聞こえる?大丈夫?もう少し、もう少しだから頑張って。もうすぐお医者様が・・・」
矢継ぎ早に言うカルロッタの手を、ジュリオがきつく握る。
応えてくれた?
そう思ってカルロッタはほっとするがしかし、ジュリオは彼女の手に爪を立て渾身の力でその手を握り返した。
「・・・っ」
痛みに眉根を寄せたカルロッタの耳に、か細い声が届く。
「何故・・・」
「ジ、ジュリオ・・・?」
「な、ぜ、城を落した・・・!」
「・・・ジュリオ?」
「父を、殺・・・し、兄を、弟を、我等が城の全てを・・・っ!何故、何故!」
目尻に涙さえ浮かべ、震える声を呪詛の様に吐き出す。
ジュリオが何を言っているのかカルロッタには詳しくは解らないが・・・今日、城で何かあったのだ。
城下町は何も異変は無かった。そう思うのは、侍女も下働きの者たちも、誰も何も変わったところがなかったのだから。何かあれば、流石にカルロッタに報告がいくだろう。それはが無かったということは、彼女のたちの普段の情報管理外の、城でのみ異変が起きたと考えるほうが自然だろう。
ジュリオが斬られ、その言葉から予測されるに、城は攻められた。しかも外部から。
カルロッタはジュリオに負けず劣らず、顔色を失くした。
「そんな・・・」
何故、とはカルロッタも聞きたい。
何があったというのだ。
何故、と呟くジュリオは、カルロッタの今の心そのままで。
ジュリオは堪え切れずその口から赤い血を吐きだした。
「ジュリオ!」
「・・・城、は落ちた・・・」
「も、もう無理に喋らないで!」
悲鳴のように制止するカルロッタに、しかしジュリオはまるで憎悪を宿したかのようにカルロッタを睨みつけた。
カルロッタの手に爪を立てたそれに、彼女の薄い皮膚から赤い血が流れる。
痛みに思わず目を細めてしまうが、それでも憎悪にも似た目から視線を外せない。
「城を・・・落としたのは・・・」
呪詛を吐き出すのは、地を這うような低い声で。
ぞくり、とした。
「お前の帝国だ、カルロッタ・・・」
────── え?
「・・・盟約は成ったはずだ・・・何故、攻められねば、ならない・・・っ!」
何を。
夫は一体何を言っているのだろうか。
ジュリオの震える手がカルロッタの首に添えられる。それは徐々に力を増し、カルロッタの首を締め付けていった。
ヒュっと息を呑むが、カルロッタはその手に抗えない。唾液すらのみこめず、それは唇の端からだらしなく流れ落ちた。
ジュリオはまたごぼりと血を吐きだすがしかし、その手の力を緩めることはなかった。
「キャロ・・・お前、を、愛しいと、思うのに・・・」
ジュリオの目から涙が零れ落ちる。
「攻めたのは、お前じゃ、ない。解っている・・・」
だが、とジュリオは続ける。
「・・・お前も、許すことなど、出来・・・ない・・・」
血を吐きながら、涙を流しながら、ジュリオはカルロッタに呪いを吐く。
重傷を負いながらも、カルロッタの首を絞める力は緩まない。
死にたくない。
そう思うのに、抵抗できない。できようはずがない。
「ジュ、リ・・・オ・・・」
「お前も、一緒に・・・」
・・・一緒に?
一緒に逝こうというのか。
カルロッタはふと身体の力を抜き、ジュリオに身を任せた。
ジュリオの言っていることが本当かどうか解らないが、こんなにも絶望と恨みに彩られた暗い感情を拒絶できない。
血液が堰き止められ、うっ血して赤くなる顔に、カルロッタは言葉の代わりにほんの少し笑みを浮かべた。
これは投げやりでもなんでもなく、それでジュリオの気が晴れるならば、それでいいと思ったから。そう思うほどに、カルロッタはジュリオに親愛の情を注いでいた。
だから、いい。
殺されてもいい。
だから、お願い。
せめてジュリオが私を殺し終わるまで、誰も来ないで。
朦朧とする頭で、カルロッタはそう思った。