こぼれ話 甘党陛下のお返し
ホワイトデーネタです。
穏やかな三の月。
雪解けが始まったジェヴォークスでは、其処彼処に春の息吹が感じられる。
冬の終わり、春の初め。この時期は冬季と比べると打って変わって忙しくなる。
しかし今日の日のため、連日寝る間を惜しんで執務に明け暮れた甘党陛下は午前中に仕事を終わらせることが出来た。不測の事態が起こらない限り、これからの時間は自由だ。
陛下はそっと、懐に忍ばせた物を撫でる。
今日にどうにか間に合ったこれを、彼女は喜んでくれるだろうか。
これを作るために、職人たちには随分と無理を言ったように思う。
けれど、「腕が鳴りますよ」と言ってくれた。試行錯誤を繰り返して、出来上がったのは職人たちの渾身の作。
「皇妃様にはきっとご満足頂ける品に仕上がりました」そう言った職人たちの顔には疲労の色とやり切った感が滲んでいた。
かくして先ほど届けられたばかりの品を手に、陛下は灰褐色の髪を靡かせながら彼女の部屋を目指していた。
陛下の訪いを告げる侍女のすぐ後ろから、待ちきれんとばかりに部屋に入ってくる男の姿をテラスに居た酒やけ皇妃が何事かと見ていた。
「陛下。如何なさいましたの?」
椅子から立ち上がり、優雅な所作で微笑む皇妃は日頃の酒好きを微塵も感じさせないのはさすがだと陛下は思う。
けれど堅苦しい言葉遣いの皇妃に一瞬眉を寄せた陛下が、周囲に居る侍女たちを下がらせる。性急なその様子に、皇妃は目を丸くした。
二人きりとなった部屋。
テラスに出ているテーブルに陛下が席につくと、皇妃が慣れた手つきでお茶を注ぐ。
「こんな時間に、急にどうしたの?」
二人きりとなると途端に砕けた口調になる皇妃。それにやっと満足げな顔をした陛下が「砂糖も入れてくれ」と注文した。
湯気を立てる紅色に、彼の好みの味となるよう角砂糖をこれでもかと入れる。
いつも思うことだが、これでは色つきの砂糖水ではないだろうか。折角の茶葉が台無しだとため息が漏れそうになるが、それを平然と美味しそうに飲む陛下の姿に何も言えなくなってしまう。
彼が美味しいと思うなら、それで良いか。近頃ではそう思うようにしている皇妃だった。
陛下が一口飲んだのを見計らい、突然の来訪の理由を尋ねる。
常ならば、今の時間はまだ執務室に篭っているはずなのだから。
「俺が最近忙しかったのはお前も知っているだろう?」
「そうね」
陛下の言葉に皇妃が頷く。確かにここ最近の陛下は忙しかった。
夜、夫婦の寝室に陛下が戻ってくる時は日付もとうに変わった後で、皇妃が先に寝ていることが多かった。
朝も陛下が起き出す時間は早く、食事も別々。ゆっくり顔を合わせる時間も無かった程だ。
寂しさを感じないわけでは無かったけれど、それは仕方のないことだと皇妃は思っていた。
深い雪に覆われるここジェヴォークスは、冬季は何も出来なくなる。その反動で、雪解けと共に目が回る程忙しくなる、とは陛下本人から聞いた話だった。
だからこそ謎なのだ。
こんな昼日中に陛下が皇妃の部屋にやって来たのが。
「今日も忙しいんでしょう?」
「いや、今日はもう仕事は無い」
「え?」
首を傾げる皇妃に、懐に持っていた箱を取り出した。
薄青いリボンが飾られた純白の長方形の箱。それを皇妃の前へと置いた。
「これを渡しに来たんだ」
「なあに?」
「ひと月前の礼だ」
ひと月前。
あ、と声を出した皇妃に陛下が「忘れてたな」と言って苦笑した。
「え、だって、あの時はアウリスが変なこと言うから!」
甘やかしてやるだとか何とか言っていた陛下の言葉。それを意識しないようにしていたら、その内本当に忘れてしまっていた。
今日が三の月の十四日という、先月の十四日と対になる日だということをすっかり忘れていたのだ。
「まあ、そんなことだろうとは思っていたよ。俺も思いのほか忙しくてこれを用意する以外は何も考えていなかったしな」
「そんな…、用意してくれてありがとう、嬉しい。…開けても良い?」
「ああ」
上質な手触りのリボンを解いて蓋を持ち上げる。
するとそこには薄紙に包まれた何かが収まっていた。
「……なにこれ?」
「何だと思う?」
分からないから聞いたのに、質問を質問で返された。
唇を尖らせながら覆われている薄紙を開くと、白っぽい板のようなものが数枚出てきた。
やはり何か分からない。顔は手元に向けたまま視線だけ陛下に移すと、にやりと笑っているのが見えた。
今日は主にマシュマロや飴を贈る日だ。ということは、これはそのどちらかということになるのか。
箱の中から一枚取り上げると、思ったよりも軽い。
触った感じも硬質で、マシュマロのような柔らかさではないので飴なのだろうか。けれど板状の飴など見たことも聞いたことも無かった。
どちらにせよ、甘い物なのだ。皇妃が甘い物を苦手としていることは重々承知している陛下がただの甘い物を寄越すはずがない。けれど他に思い浮かぶものも無いし、全く別の物なのだろうか?
このままでは埒が明かないと、一番重要な部分だけ聞いてみた。
「これって、食べ物よね?」
「ああ」
その返答を聞いて、皇妃は躊躇なく白い板を口に運んだ。
端の方を少し噛むと、それはぱきんと音を立てた。口の中で転がしてみて、やはりこれは飴だと確信する。
と、皇妃がそんなことを思ったのはほんの数秒。弾かれたように顔を上げ、目の前に座る陛下を見つめると、陛下はしてやったりというような表情をした。
「これ…」
紛れも無いこの味。
良く味わおうとするとほろりとすぐ溶けて無くなってしまうけれど、皇妃には慣れ親しんだこれは―――。
「いつだったか言っただろう。お前のために甘くない飴を作らせると」
「それって…」
それはあの見合いの席でのことだろうかと、皇妃は思い出を引っ張り出す。
あの時強引に食べさせられたのは、紫色の濃厚な葡萄味の飴玉だった。
眉間に皺が寄るほどの甘ったるい飴を口に入れられ、盛大に顔をしかめている彼女に向けてその時に陛下が言った言葉がそれだ。
今、皇妃が持っている板状の飴は白葡萄で作られた葡萄酒の味。
舌に感じる酸味と鼻に抜ける白葡萄の風味はまさしく葡萄酒の味で、甘くないのだ。
そっと二口目を齧る。葡萄酒をそのまま固めたようだと皇妃は思った。
―――私は飴のことも今の今まですっかり忘れていたのに、貴方は覚えていたのね。
他愛もない口約束のようなもの。それを律儀に覚えていたというその優しさがじん、と胸に染み入る。思いがけず涙腺が緩んでしまいそうだった。
感慨に耽って微動だにしなくなった皇妃は、陛下から見るとただ飴を味わっているように見える。そんな彼女を前にして、陛下がそわそわと身動ぎし始めた。
何かしら、と皇妃が思っていると、どうやら感想が聞きたいようだった。
「とっても美味しいわ」
「そうか…」
本当にそう思う。こんなに美味しい飴は食べたことがない。
「アウリス、ありがとう」
そんな気持ちを込めた皇妃の言葉に、陛下も嬉しそうな顔で笑った。
「ところで、これは貴方も食べたの?」
ぺろりと一枚食べ終えた頃に皇妃が訊ねると、陛下は「いや」と首を振った。
「実は今日ぎりぎりに仕上がった品でな。完成品を目にするのは俺も今日が初めてなんだ」
「あら、それじゃあ貴方も食べてみて?」
お菓子が大好きな陛下が食べていないというのに自分だけ食べては何とも申し訳ない。
陛下の前に「どうぞ」と言って箱を差し出した。けれど陛下は首を横に振るばかりだ。
「? 遠慮しないで良いのよ。まあ、貴方の好きな甘さではないと思うけど、とっても美味しいんだから」
「良いんだ。これはお前に贈ったものだから、お前が全部食べてくれると嬉しい」
「でも、貴方に悪いわ」
「そんなことはない。これを作った職人たちもお前のためを思って作ったのだから、その気持ちも汲んでやってくれ」
そんなことを真摯な顔で言われてしまえば引っ込めるしかない。
納得がいかない様子であるが大人しく手を引いた皇妃に、陛下は心の中でそっと安堵した。
……まさか酒の成分がそのまま残ってるから食べられないなどと言えるわけがない。
格好つけたままでいたい陛下には、そこは譲れない部分だった。
そんなことを思ってる時点で格好など全然ついていないのだが、陛下がそれに気付くことは無かったという。