海の底
大小さまざまな魚影が、食物連鎖のしがらみから解き放たれたかのように、そこここで楽しげに泳いでいる。
広く豪奢な室内である。
彼らを取り巻く水が、ふいに揺らいだ。
するりと、魚影が、物陰に身を潜める。
どこか怯えたようなそのさまに、長い黒髪もみごとな美女が隣に佇む美丈夫の腕に、そっと触れた。幾連もの細い金の腕輪が、しゃらりと音をたてる。
頭ひとつ低い女を見下ろし、男は、己の腕に乗った白く繊細な手の甲をやさしく撫でた。
「伝説どおり、目覚められた」
「深海の」
「しっ」
爪紅に彩られた女の白い指が、男の口元に触れる。
「名は、それを持つものを、招いてしまう」
「そうだった」
「あの存在を鎮めるための手段は、ただひとつ………」
苦いものがこもる声音に、男が、女の方を抱く。
「巫女殿に占を」
男がつぶやいた。
「なーにをやってんだ」
岩陰からひょいと顔をのぞかせた若者に、子供たちが、一瞬、こわばりつく。
みれば、子供たちは、砂浜の上、甲羅を地面にあがいている子ガメを、棒でつついて遊んでいたのだった。
「なんだ、きょーやじゃん」
年かさの子供が、にやりと、若者を見上げた。
遠く都から落ちてきた、都ではそれなりに身分もあったろう酔狂な若者は、歳の頃十六、七か。あきらかに歳上の自分を見下した子供たちの口調にも動じた風ではない。
「今朝の、釣果は、なしかい?」
「ほら」
魚篭を持ち上げて、京が、子供に見せる。
「まぁまぁだな」
鼻の下を指でこすりながら、評価を下す。
「ほっとけ。オレひとりなんだから、これで充分なんだよ」
砕けた口調で返す京に、
「はやく嫁さんもらいなよな」
憎まれ口をたたきながら、
「これくれたら、カメはきょーやにやるよ」
魚篭の中から一番立派な魚を引きずり出して、ガキ大将が、じゃあなと、手を振る。仲間の子供たちも、合わせて、京に手を振った。
砂を蹴立てて駆け去ってゆく子供たちをみながら、
「別に、カメなんていらないんだけどなぁ」
京は、後ろ首を掻いた。
「ま、いっか」
今日一日の食料は調達できた。明日は、また明日のことである。もしも雨だったら、粥やら茶漬けで済ませたってかまわないのだ。米はまだあるし、漬物もあれば味噌もある。魚の干物と交換した猪肉の干したのもまだあったはずだ。一人暮らしだからか、その辺、京はかなり適当だった。
しゃがみこんで、手のひらほどのカメをひっくり返してやる。
「ほら。もう童どもにつかまるんじゃないぞ」
カモメにつつかれてもやばいよなぁ。
そんなことを考えながら、京は、ぽけーっと、カメを見ていた。
カメも、首を伸ばして、京を見ている。
「おいおい。海に帰らないと大変なことになるぞ」
しかたないなぁとばかりに、京は、カメを持ち上げて、汀におろしてやった。
とたん、
「うわっ」
ぼわ~んという間の抜けた音とともに白い煙が立ちのぼり、そこには先までの亀の姿はなく、白い髭白い髪の仙人もかくあらん老人が立っていたのだった。
「そのやさしさ。あなたこそ確かに、託宣の人物」とかなんとか、老人は一気にまくし立て、早口についてゆけずにその場に固まる京をそのまま海へと、導いたのだ。
ぼんやりとしていた京を海へ引きずり込むのは、意外に簡単で、老人は、拍子抜けして、京をみやった。
託宣の巫女からその人物を、家督争いに敗れて家を追われた、陸ではそれなりの貴族の家の出だと聞かされていた翁は、顎髭をつるりと扱いた。
ーーこれでは、陸で生きてゆくのもむつかしかろうよ。それくらいなら、いっそ………幸せかもしれんて。
京が知れば目を剥くだろうことを、老人は独り語ちていた。
最初の間こそ、海の中ということで、もがいていた京だが、どうした仕組みなのか、海中で息ができていることに気づくや、おとなしく、周囲を見渡した。
揺れる海草や、珊瑚の林。そこここを鳥のように自由に泳ぐ、さまざまな形や色の魚たち。くらげや、いかたこ、かにやタツノオトシゴも見える。
きれいだなぁと、呼吸の心配がないのだと理解した京はのんきだった。
そうしてどれくらいが過ぎただろう。
「それ、あれです」
老人が手にした杖で指し示したのは、朱塗りも美しい、巨大な門とその奥に見える、壮麗な建物の影だった。
「あれは?」
「あれこそ、世に名高い、竜宮城でございますよ」
誇らしげな老人のせりふに、京は、つくづくと、それらを見やる。波に洗われて白い壁は、真珠貝の内側のような輝きを宿し、屋根を葺くのは、黄金の延べ板らしい。が、海の中のほの暗さの中、それらは、決して、華美な装飾には見えなかった。
「長老を助けてくださって、ありがとうございます。陸のお方」
通された広い室内で、京は、乙姫と対面していた。
美しい乙姫は、京に優しく笑いかけ、
「お礼といってはなんですが、しばらくの間、ここでの暮らしを楽しんでいってください」
と、手を叩いた。
それからの数日間は、京にとって、都から逃げ出してからこのかた忘れかけていた贅沢な毎日だった。
乙姫の侍女だという美少女たちの可憐な踊りや、乙姫の夫だという美丈夫の部下たちが見せる剣舞や武術のあれこれ。すばらしいご馳走の数々と、気持ちのいい寝床。なにより、朝早く起きて釣りに出かける必要がない。京はのんびりと、毎日を楽しんで過ごしていた。
そうして、三日が過ぎた。
そろそろ戻らないとな………。
京もそれくらいは考えている。
このまま怠惰な毎日になじんでしまっては、帰ってからが大変だと、しみじみ思っていた。
だから、京は乙姫に、そう言ったのだった。
その夜。
京は、竜宮城最後の晩餐を楽しんでいた。
しかしその最中、乙姫が最後に勧めた酒を口にして、そうして、京の意識は、途切れたのだった。
チリーン………
チリリーン…………
耳に届く鈴の音は、やわらかく澄んでいる。
それでも、眠りを破るのには充分で、京は、からだの向きを変えようとした。そうして、自分が、動けないことに気づいたのだ。
「えっ?」
も、
「へっ?」
も、ない。
とにかく、首から下が、動かないのだ。
何が起きているのか、開いた目の前にあるのは、青暗い、闇と、闇を照らす、ほの明るく揺れる灯りばかりである。
「どこだ、ここ」
かすれた声が、喉を痛める。
冷たい水が、全身を撫でる。
それに、ぞわりと、鳥肌が立った。
寒い。
「なんでこんなに冷たいんだ」
首から下が、どうして、麻痺したみたいに動かないのか。
まさか………。
チリーン………
チリリーン…………
鈴の音が、やけに大きく耳障りなものへと、変化する。
変化した鈴の音に、不安と恐怖ばかりが膨らんで、どうしようもなくなった。
動かない四肢。
暗い室内。
揺らぐ灯火。
冷たい水。
耳障りな鈴の音。
すべてが煽り立てるのは、不安ばかりだった。
ーーーー恐怖ばかりだった。
晩餐の最中に気分が悪くなった。そのまま意識を手放したことを思い出す。
「オレが死んだって、乙姫さまたち、勘違いしーーーとか?」
笑おうとして、声が、ぐらりと、ひずんだ。
死?
まさか、ここは、墓地?
「だれかっ」
ひっくり返って、悲鳴じみた叫びが、喉の奥から、ほとばしった。
長く尾を引き消えてゆこうとしている悲鳴が、やがて嗚咽へと変化するころ、噛み殺しそこねた笑い声がかぶさって聞こえてきた。
くつくつと声は、しだいに近づいてきた。
「なにを、泣く」
ほんのすぐそばでの男の硬い声音に、京の全身が、大きく震える。
前髪を梳くように掻き上げられて、開いた瞳の先に、京は、黒い影を見出した。
青暗い闇に浮かぶのは、ぼんやりとした輪郭だったが、それでも、顔かたちを見て取ることはできた。引き締まって厳しさが目に付く表情の中、京を凝視するのは、怖いほど黒い瞳だった。
「選ばれたことを喜べばいい」
「………な、にに」
低い声が、背中に粟を立たせてゆく。
「私への供物にーーだ」
頬を、男の手で撫でられて、全身が、こわばりつく。
心臓が、痛いくらいに悲鳴を上げていた。
男の顔が、ゆっくりと近づいてきた。
喰われるーーー
こみあげてくる涙が、目尻を滑り落ちると同時に、京は、くちびるに、男のものを感じていた。
くちづけは貪るような激しいもので、京の全身が熱を帯びてゆく。
「巫女は、私の趣味をよく知っている」
かすかに男が笑った気配があった。