北條
その日。
長瀬に非通知拒否の設定をしてもらってから、『間違い電話』は一度もかかってこなかった。
そんなわけで、彼は非常に清々しい気分で一日を終え、寝床につくことが出来たのだった。
少なくとも、寝床に着いたときにはそうだった――。
しかし、なぜか――。
妙にざわめく感覚に囚われてしまい、非常に浅い眠りにしか落ち入れず。
幾度となく目を覚ますと言う状態が続いて数時間が過ぎていた。
自分は今、眠っているのか――。
それとも起きているのか?その仕切りが曖昧になる。
試しにベッドの上で寝返りを打ってみようと試みる。
全く動かせない。動ける気がしない。
目を開けてみようとする。
目の筋肉がどこにあるのかさえ確認できない。
寝ぼけているのか?
脳が起きて、身体が眠っている状態があると聞いたことがあった。
俗に言う金縛りという状態である。
金縛りは、霊とかそういったものの仕業では無くて、実はそう言った身体のメカニズムによるものだと聞いた事を思い出した。
……。
唸り声?が聞こえる。
それが自分のものなのか、ほかから聞こえて来るものなのか――。
じっと神経を集中しようと試みた。
唸り声――。
いや――、これは『声』では無い。
マナーモードになった携帯電話の、着信を知らせる振動音だった。
動けない。
カチ、コチと時を刻む時計の音がやけにハッキリ聞こえて来る――。
時は止まっていない。
自分は起きていると言う認識があるのに指一本動かせない。
金縛り?
いや、それは『脳』のメカニズム。
責める様に携帯の振動音が鳴り続ける――。
振動の音は認識している。
だが多分、それでは刺激が足りないのだ。
眠っている身体が起きるには、微弱な振動音では威力が小さいのだと北條は確信した。
(マナーモードになんかするんじゃなかった)
いつものいまいましく甲高い着信音ならば一気に目が覚めたはずだろうと、彼は思った。
(そうだ!大体、何だってマナーモードになんかなってるんだ!普段は『決して』しないのに!)
そう、決してしない。
絶対に自分はしない。
ふと、一つの疑問が過ぎった。
(誰が、マナーモードに設定したのだ?)
その時、ピタリと『唸り』が止んだ――。
「モシ――、モシ……モシ……モシ……」
低いがハッキリとした女性の声がした。
「もし……もし……もしもし……もし……もし……も……し……」
段々と、ハッキリ大きくなって行くように思われた声が――。
「も……し…も…………シ……」
擦れる様に小さくなり沈黙する。
耳を澄ます。
闇の中で感覚が研ぎ澄まされていく。
「はあぁやぁくぅでてよおぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
突如響き渡る恨めしげな女性の上声!
北條が目を見開き、一度大きな叫び声をあげる。
彼の身体は力の制御をとりもどし、ベッドの上を転がるように跳ね回り、フローリングの床へと落ちて行った。
サイドテーブルから手探りでメガネを探り当てて掛けると、辺りを見渡す。
何もいない――。
オレンジ色の常夜灯に照らし出された薄暗い空間があるだけ。
大きくひとつ息を吐く。
「なんなんだよ――」
夢だったのか?
そう思ったとたん、無性に腹が立った。
が、どうすることも出来ない。
気を取り直して息を整え、立ち上がろうとべッドの縁に手をかける。
突然、携帯電話の着信音が鳴り響き、再び小さく悲鳴を上げる。
「ば……、ばっかやろー!」
無駄だと解っていても悪態をつく。
耳障りな『電子音』が鳴る。
マナーモードの振動では無く、着信音。
やはり夢だったのか?
北條の感覚は一気に覚醒して行った。
ベッドの脇に置いてある、容赦なく鳴り響く携帯電話を探り当てる。
「誰だよ――」
着信者を確認する。
もはや非通知はあり得ない。
知ってる番号であれ、知らないものであれ、絶対にそこに表示される。
着信者の欄は。
のぞき込んだ北條は我が目を疑った。
次々に、もの凄い早さでディスプレイの上を数字が流れていく!
いや、それは只の数字ではない。数字とともに、人の名前や店の名前、ニックネームと思われるものまでが流れて行く!
「電話番号――」
北條が唖然と呟いた。
ディスプレイ上を右から左へと、見知らぬ電話のアドレスが流れて行く!
動揺と混乱。
着信音は鳴り続ける。
甲高い携帯の呼び出し音。
状況が把握できない――。
悲鳴のような呼び出し音。
あり得ないこと、の筈。
だった――。
すると、部屋のどこからともなく再び携帯の振動音が響き出した。
いや、違う。
やはり違うのだ、違っていたのだ!
今、すっかり覚醒した北條の感覚には、正しい情報が確認された。
これは、電話の『振動』では無く。
やはり人の『唸り声』だ!
もはや、一時たりともその場にとどまれるような精神状態ではなかった。
とにかく――、ここは――ヤバイ!
体中の血液が頭に登って行き、首から上の血管がまるで別の生き物のようにドクドクと脈打つのが解る。
北條はとっさに携帯電話の電源を切ろうとボタンを操作した。
操作した――。
したのに!
電源が切れない。
それでも何度か試みた。
まったく言うことを聞かない携帯電話。
なおも最悪なことに、一度操作するたびに唸り声が近づいてくる様な気がする。
いや――、間違いなく――。
近づいて来る!
相変わらず、携帯の呼び出し音は悲鳴のような電子音を響かせていた。
ついに、北條の恐怖は最高潮に達した!
大きな叫び声と共に――携帯を壁に叩き付ける!
すると、そのハズミで携帯からバッテリーが外れ、呼び出し音が消えた。
回りは急に音を無くし、乾いた時計の小さな音だけが部屋の中ではっきりと響いている。
唸り声も――、止んでいた。
北條は、しばらくの間、茫然自失の状態で動けずにいた。
時計の音のする方へ視線を移してみる。
丸い壁掛け型の時計。
時間は午前3時を少し回ったところだった。
ただ、惚けて時計を見つめる。
……。
……。
……。
時計が3時30分を指そうとしたとき、北條の頭にひとつの考えが蘇った。
『ここは――。ヤバイ!』
はじかれるように立ち上がる!
無意識に、転がっている携帯電話とバッテリーを拾い集め、上下青の縦縞パジャマの上に黒のトレーナーを羽織り、這うようにして部屋の外へ飛び出す。
寝室から廊下へ出ると、後先無しに玄関に踊り出た!
鍵を開けるのももどかしげにドアを開け、サンダルを引っかけて、マンション三階にある、自室の外に出ると、鍵も閉めずに走り出し、階段を駆け下り、外へと飛び出した。
車に乗り込もうとしたが、鍵を持っていないことに気づき愕然とする。
恐る恐る後ろを振り返る――。
そこには、たたずむ四階建ての不気味な影があった。
戻る気は無い。
いや、戻れないのだ!戻れるワケが無い。
財布も無いことに気づいた。
手の中に有るのは携帯電話とバッテリー。
勿論、使う気にはなれない。
北條は右手にバッテリー、左手に携帯を握りしめると、ゆっくりと歩き始めた。
初秋の風が木枯らしモドキに吹いていたが、今までの事で頭が一杯だったので、あまり気にならなかった。
どれくらい歩いたろうか……。北條は別のマンションの前にいた。
同僚の長瀬が住むマンション……。
とにかく今、自分の家に帰ることが出来ない以上……、今夜の寝床……。少なくても夜が明けて明るくなるまでの居場所を確保しなくては、秋風が吹き始めたこの陽気に、パジャマにトレーナーのこの格好で外にいるのは、身体に良いわけが無かった。
とは言え、全く見知らぬ他人の家に一夜の宿を求めたところで、警察のご厄介になるのがオチだという事ぐらいは、さすがに今の北條でも容易に想像が付く。
車も、携帯電話も使えないし、金もない。今の彼の行動範囲となりうる区域で、互いに顔を見知っている間柄と言えば、長瀬くらいしか思いつかなかったし、多分居なかっただろう。そんな訳での、唯一頼みの綱だった。
しかも幸いな事に長瀬は一人暮らし……。家族が居ないということは説得する手間が少ないと言うことである。と、言うより……。長瀬を説得する必要などあろうはずがないと北條は信じていた。
やはり、長瀬をおいて他にいないのだ。
ロビーの鍵がオートロックになっているため、部屋の中からロックを開けてもらわないと内には入れない。入り口のインターホンに部屋番号の502を打ち込みスイッチを押す。
返事が無い……。
構わずスイッチを押す。
1回押す、2回押す……、3回押す……、4回……、5回、6、7、8……9。
『うっせーぞ!いい加減にしろ!』
突然の怒鳴り声に驚き、北條は一時怯んだが、すぐに気を取り直し、インターホンに向かって熱願し出す。
「オレだ!北條だ!頼む!開けてくれ!」
『?』
長瀬は寝ぼけているのか状況がつかめないようで、長い沈黙が続いた……が……。
『何で北條がこんな時間にオレのうちに来るんだぁ?オマエのうちすぐ近くだろう………、さっさと帰ればいいだろぉ……』
微妙な理屈をこねて来た……。
「いいから開けろ!中に入れろ!ワケが有るんだ!しっかりと……。中で話すからロックをはずせ!」
最早、命令だった。
『勝手だなぁ……』
まだよく状況を理解していないようだったが、近所迷惑だと思ったのか長瀬がそう言うと、『カタン』とオートロックが開く音がして、すぐに『開けたぜ……』と言う声がインターホンから流れた。
数分後、北條は長瀬の部屋で今までの顛末を話し終えていた。
「で?」
パイプベッドに腰掛けたまま聞いていた長瀬が不機嫌そうに尋ねる。
「『で?』ってなんだよ、これで終わりだよ、すげーこえぇぇだろうが!」
北條は鳥肌の立った自分の腕を長瀬に見せながら答えた。
「つまり――、北條。オマエは自分の見た『怖い夢』を語るために、遠路はるばるオレの家まで『歩いて』来て、玄関で大騒ぎしてオレをたたき起こした――、と言うワケだな」
「おい」
北條が凄む。
「まさか、オレの話――、信じてないワケじゃ無いよな?」
「北條――。まさかと思うが――、何か信じてもらえると思っているのか?」
二人の間に暫くの間、重い沈黙が流れたが、それを破ったのは長瀬だった。
「取りあえずよー、寝ようぜぇ。オレ明日、早えぇんだよぉ」
そう言ってベッドに潜り込もうとする。
「おい!」
北條は座っていたフローリングの床から立ち上がり、横になろうとしている長瀬の肩を掴んで乱暴に揺すった。
「ホントにあった事なんだ!オマエは良いかも知れないがオレは夜が明けたらアノ部屋に帰らなきゃならないんだ、あまつさえ、またアノ部屋で寝なきゃならないんだ!なんか、少しは考えろ!」
肩を掴まれ激しく揺らされ続け、長瀬はこのままでは寝かしてもらえそうもないと観念したようで、再び身体を起こすと、少し考える様な身振りをする。
「あー、こうゆうのはぁ――、あれだ――。あれ――あれ?」
まだ少し寝ぼけているのか言葉が浮かんで来ない様子だが、何か考えついたようだった。
「なんて言ったけ?――。ほれ、あれ――」
はた、と長瀬の思考に探していた言葉が蘇った。
「あれだよ!あれ!――霊媒師!」




