プロローグ
「善人は死ぬと天国に行き、悪人は地獄に落ちる」
「善人は死ぬと天国に行き、悪人は地獄に落ちる」
聖書にはそんな一文はどこにも載っていない。
北條隆郎は困っていた。
すべては、自分の世間知らず故の事ではあったのだろうが――。
2001年某日
個人的にはまったく興味が無かったが、便利だからとまわりに勧められ、なるほどそれなりに利用出来ることもあって、持ち歩くようになった携帯電話――。
何とはなしに、店員に勧められるままに機種を選んで、メール機能も便利だからと、言われるがままにオプションした。
そんな感じだから、メールアドレスも自分の誕生日の数字を羅列しただけだし、着信音も最初のぴーぴーとしゃくに障る電子音から変更していない。
そんないい加減な状態だと言うのに、彼の携帯は他の人達が当時躍起になって対策をしていた『ワン切り』や『迷惑メール』と言った類の被害に遭ったことが一度もなかった。
これは大変幸運な事だと、周りの知人達はみなそう言った。
その言葉の意味が、いったい如何なる事かという事すら、彼にはまったく解らないほど何事もなく曰く幸運はすぎていった。
一年が過ぎた頃、その幸運は破られた。
それはごく普通の間違い電話だった。
鋭く甲高い携帯電話の呼び出し音が鳴る。
ディスプレイに表示された相手は――『非通知』。
もとより非通知ナンバーの着信拒否などと言うことが、出来る事すら知りもしなかった彼の携帯は、どんな相手とも繋がり放題の環境だった。
「もしもし、北條です」
「あっ、すいません間違えました」
女性の声――。
たったそれだけの会話。
だが、それが始まりだった――。
それからというもの、朝と限らず、夜と限らず、『間違い電話』は続いた。
相手は男であったり、女であったり、若かったり、年を取っていたり――。
まったくの不特定多数。
電話に出た途端に切られてしまうと言うような事も、一度や二度ではなかった。
一日に間違い電話のかかってくる回数は日に日に多くなり、5回が10回になり、10回が15回となった。着信者は全て非通知――。
彼はその対策として、あろう事か携帯電話に、長い時間電源を入れないという対抗手段を執った。
北條が携帯に電源を入れない時間が増えて行く。
終いには朝起きてからと、寝る前にだけ確認の為に電源を入れるという――まるで固定電話に成り下がってしまっていた。
しかしこれでは、折角携帯している電話の意味が無いとすぐに気づく。
さすがにこれは本末転倒。
何か良い方法は無いものかと、同僚の長瀬に相談した――。
長瀬は北條と会社の同期であり、熱心に北條に携帯電話を勧めたひとりでもあった。
少しばかりおっとりした雰囲気があるが、男前の部類に入るだろう。
なかなかのお洒落で、さりげなく着こなすピンク系のカラーシャツもあか抜けている。
彼は仕事の手を休めて、北條の話を聞いていた。
「ちょっと酷いね。悪戯――かなあ。誰かに恨みを買うような身に覚えは無いの?」
からかうような口調で長瀬が訪ねる。
北條はタバコを深く一吹かしすると銀縁眼鏡の奥の目を細め、少し真面目に考えを巡らした。
が、すぐに馬鹿らしくなり「無い」と、きっぱり宣言する。
「まぁ、自分じゃ気づかないだろうけど、おまえ結構恨まれてるかもよ」
北條は『気を悪くしたぞ』と言うように長瀬を一瞥する。
「ホントの事だぜ。おまえ、評判悪いよぉ。仕事はそれなりにやるけど、約束は破るわワガママだって――」
長瀬は怯む様子も無くそう言ってニンマリとすると、間を誤魔化すようにマグカップを口に運び、コーヒーをすすった。
「長瀬――、俺はお前に俺の評判について相談しているワケじゃない。どうやら非通知電話というものは防げるらしいと言うことが解った。後はそれをどうすれば実行できるのか尋ねているんだ」
神経質そうに人差し指で頭を掻きながら北條が声を荒げると、長瀬が大きくため息をつく。
「人の忠告は聞いておくもんだと思うよぉ――」
そう言って右手を差出すと、北條から携帯電話を受け取り、何やら操作し彼に戻した。
「ハイヨ。これで非通知番号は弾かれるよ」
北條は長瀬から受け取った電話を一瞥し、胸ポケットへと滑り込ませると「じゃ、まぁそういうことで――」と言って長瀬の前から退席しようとした。
その時。
単調な携帯の呼び出し音が、北條の胸ポケットから鳴り響く。
「てめぇ、なぁがぁせぇー」
北條が長瀬に詰め寄ろうとする。
「なに言ってんの」
呆れ顔で長瀬が言った。
「そんなわけ無いでしょ。電話見てみなよ」
言われたとおり北條が胸ポケットから携帯電話を取り出してみる。
執拗に鳴っている携帯のディスプレイにはしっかりと相手の電話番号が通知されていた。
考えてみれば当たり前の事だった。
この電話にかけて来るのは間違い電話ばかりではないのだ。
このところの騒動で、これは『電話』だ言うことをすっかり忘れてしまっていた。
番号からみて携帯電話からかかってきたものでは無くて、有線電話かららしかったが通知された番号は見覚えの無い物だった。
とりあえず電話に出てみる。
「北條か?」
突然聞き覚えのある声がした。
「ひょっとして――川口か?」
「ははは、ビックリしたろー!向後のところに電話してお前に連絡が取れないって話したら、携帯の電話番号教えてくれてさー」
川口は、北條の学生来の友人で、通訳の仕事について海外に行ったハズだった。
川口は、自分が今、三年ぶりに日本に帰って来ているのだと言い、明日の夜にでも昔の仲間で集まって酒でも呑めたらと思って、あちこちに連絡しているという事だと話した。
「ああ――。いいな。是非行くよ」
普段ならあまり乗り気がしない話だったが、長い間悩まされていた厄介事が解決したこともあって、北條は誘いを受ける旨を川口に伝えた。
「じゃあ、明日の仕事が終わって、七時でどうだ?場所は――」
暫く相槌を打ちながら川口の話を聞いていた北條は、彼の話が終わると、電話口で短く挨拶を交わして携帯電話のスイッチを切った。
「よしよし――」
独りそう言って長瀬の方を振り返る。
「もうこれで悪戯電話は終わりってわけだ」
北條が言うと、長瀬は小さく頷きながら「そ、終わり」と答えた。
それと同時だった――。
事務室の机に置かれた十数台の電話器が、一斉に鳴り始める!
いや――、机の上の電話だけでは無い。
個人の所有する携帯電話!電話と名の付くモノそのすべてが狂ったように鳴り出した!
事務室の中が、単調な着信音と、様々な着信音楽の音で溢れかえった。
その現象はやがて、廊下を歩く職員の携帯に伝染し、上の階へと飛び火して、下の階へと流れていった。
二階の事務所から始まったこの非常の事態は、今や、六階建てのオフィスビル全体へと広がり、職員達は、その対応にてんてこ舞いの状態に陥っていた。
しかも、その電話のいずれもが――。
間違い電話。
社員が対応に出た電話は、ことごとく即座に切られ、受話器を置かれた電話は間髪入れずに次の呼び出し音を鳴らし出す!
限度を超えた理不尽に、両耳を押さえ、その場に泣き崩れる女性職員まで現れて、いよいよビルの中は叫喚の様相を醸し出す。
ただ一台。
北條隆郎の携帯電話を除いて――。
「じゃ、まぁ、そういうことで」
北條は右手を小さく挙げてそう言うと、勿論、自分にはまったく関係の無い事だったので事務所の外へと出て行った。




