オーギュストの過去と過ち
吸血鬼の少年がいました
少年の宝物は美しい小夜鳴鳥
小夜鳴鳥を失うことを恐れた少年は
豪華な鳥籠に小夜鳴鳥を閉じ込めて……
ーーーーーーー
ーー23年前のフランス。森の中には吸血鬼の一家が住んでいた
銀の月が冴える夜、ヴァルモン家の森はいつもより優しい光に満ちていた
木々の間をすり抜ける風さえ柔らかく、何かを祝福しているようだった
その夜、ヴィクトワールは大変上機嫌だった。頰はほんのりと赤く、瞳はキラキラしている
家の空気さえ浮き立って、暖炉の火も踊るように揺れていた
幼いオーギュストは、それが嬉しくてたまらない。そして、理由がわからず落ち着かない
「おかあさま、どうしたの?」
素直な問いに、ヴィクトワールとテオドールは顔を見合わせて笑う
2人だけが共有している秘密が、笑みの奥に潜んでいるーーそれが、子どもの目にもわかるほどだった
ヴィクトワールは、オーギュストの前に膝をつく。彼の小さな手を両手で包み、宝物を渡すみたいに言った
「オーギュスト、聞いてちょうだい。……あなたはお兄ちゃんになるのよ」
「お兄ちゃん?」
聞き返す声は、まだ“お兄ちゃん”という響きの意味をつかみきれていない。オーギュストは目をパチパチと瞬かせ、母と父の顔を交互に見た
ヴィクトワールは優しく笑い、少し芝居がかった調子で続ける
「そう、コウノトリがわたくしのお腹に赤ちゃんを運んできてくれたのよ」
オーギュストの胸の奥で、何かがパッと花開く
驚きと、誇らしさと、未知への煌めき
「妹?弟?」
「はは、まだわからないよ」
子どもらしい直球の確認に、テオドールが微笑む
オーギュストは父の言葉を聞いて笑い返した。幸せが、家族が、増える幸せ
「弟もいいけど、ぼくは妹がいいな!」
口に出した瞬間、願いは星に届く気がした
テオドールは、優しく息子の頭を撫でる
「お兄ちゃんとして、下の子を守ってあげるんだぞ」
「うん!!」
その返事は勢いよく、森に響くほどまっすぐだった
オーギュストは“守る”という言葉が好きだった。誰かを守ることを誇りだと思っていた。何よりそれが、家族の中で自分が担う役目なのだと、幼い心が感じ取っていた
それから季節が巡り、銀の月が美しい夜が何度も訪れた
ヴィクトワールのお腹は少しずつ大きくなり、その度に家の中も賑やかだった
赤ちゃんのため布、ゆりかご、窓辺に飾る小さな花
テオドールは優しい未来を語り、ヴィクトワールはそれを聞きながら微笑んだ
そして、オーギュストは夜毎に胸の中で“お兄ちゃん”という肩書きを磨いていく。まだ顔も知らぬ妹か弟の顔を想像し、守り方を夢の中で練習する
自分の背中は小さいのに、なぜだか大きくなった気がして、歩き方まで堂々としていった
やがてーー小夜鳴鳥の鳴く夜が来た
森の深い闇の奥で、鳥は歌う。まるで祝福の合図のように歌声が夜を満たす
家の中には、焦りや痛みさえ飲み込むほどの祈りに満ちていた
テオドールの声は低く落ち着いて、ヴィクトワールの手を支える
ヴィクトワールは、強く息を吐く
その夜、世界は新しい命を受け取った
産声は、夜に解けるように柔らかく響いた
テオドールが、丁寧な手つきで赤ちゃんを抱き上げる
ヴィクトワールの額には汗が滲んでいるのに、その瞳は満ち足りていた
ヴィクトワールは、部屋の外でそわそわしているオーギュストを呼んだ
「オーギュスト、妹のエレオノールよ」
「エレオノール……!」
オーギュストはゆっくりと近づき、恐る恐る小さな頰を見つめた
赤子の肌は月光のように柔らかい。目は閉じられているのに、すでに“美しい”とわかる輪郭がそこにあった
「なんと美しい……。きっと将来はヴィクトワールそっくりになるだろうね」
テオドールの言葉に、ヴィクトワールは誇らしげに頷いた
それは、とても幸せな夜だった
森は静かで、空は澄んで、銀の月は祝福を惜しまない
それからの日々は、奇跡の“続き”だった
赤ちゃんは泣く、眠る、小さな手で空をつかもうとする
その度に、家族は笑った
そして、オーギュストは毎日“お兄ちゃん”の練習をした
妹のゆりかごの横に座り、夜の歌を聴かせて、風が冷たければ毛布を直す。自分のすること全てが重要に思えて、どれも誇らしかった
ある銀の月の夜。エレオノールは少しだけ言葉を覚え始めた頃、オーギュストは妹の前にしゃがみこみ、顔を近づけた。秘密を教えるみたいに真剣な声を出す
「エレオノール、ぼくはおにいさまだよ。ほら、おにいさまって言ってみて」
エレオノールは大きな目を丸くし、小さな口を一生懸命に動かした
「に……にぃ?」
舌が追いつかず、音はふにゃりと崩れる
それでも、オーギュストの胸は幸せでいっぱいだった。自分の願いが、確かに近づいている
ヴィクトワールはそれを見ながらクスクスと笑った
「ふふ、エレオノールにはまだ難しいんじゃないかしら」
「いいの!エレオノールがはじめて話す言葉は“おにいさま”がいいの!」
オーギュストは譲らない。幼いくせに妙に頑固だ
それを見たテオドールも笑う
「やれやれ……」
その声は、幸せに満ち満ちていた
銀の月の夜は何度も巡る
小夜鳴鳥が歌い、森は静かな灯りを灯す
ヴィクトワールは子ども達を抱きしめ、テオドールはそれを見守り、オーギュストは胸を張って妹の隣に立つ
世界はまだ優しく、残酷さは遠く、未来は疑いなく明るいものとしてそこにあった
ーーーーーーー
オーギュストが9歳、エレオノールが3歳
その頃のヴァルモン家は、まだ“世界は優しい”と信じられる場所だった
エレオノールは兄が大好きで、兄の影を追うようにちょこちょこと付いて回った
森の小道でも、屋敷の廊下でも、オーギュストが振り返ればそこに小さな妹がいる。指先で裾をつまんで、笑って、「おにいさま」と呼ぶ
オーギュストもまた、妹を“守ること”を当然だと思っていた。父は静かに笑い、母はその光景を見つめていた。ーー幸せな日々は、続くはずだった
だが、赤い月が不気味に輝く夜、森の外側から異物が侵入する
松明の火が木々の間を乱暴に揺らし、獣のような目をした人間が群れで押し寄せた
銀のナイフ、鋭い杭。吸血鬼を殺すための道具を“正義”の顔で握りしめ、彼らは躊躇なく屋敷へ火を放った
炎は、家の輪郭を食い破る
木が爆ぜ、窓は割れ、煙が夜を染める
森の匂いの中に焦げた空気が混じり、エレオノールは泣きながら兄の服を掴んだ
「ヴィクトワール!人間の襲撃だ!子ども達を連れて早く逃げるんだ!」
ヴィクトワールは一瞬で状況を理解したものの、夫を見捨てることだけはできない顔になる
「あなたは!?」
「私はここで人間を食い止める!」
「いやよ!わたくしも残るわ!」
「だめだ、さあ早く!」
そして、テオドールはオーギュストに小さな鞄を押し付けた
「オーギュスト、その鞄は大切なものだ。エレオノールとその鞄を、守りなさい」
それだけ言うと、テオドールは3人を押し出し、扉の向こうへ追いやった
オーギュストは母の手に引かれながらも、振り返って父の背を見た
炎の赤と月の赤に挟まれて、父は1人、気高く立っていた
次の瞬間ーー人間達がなだれ込む
銀が光る。杭が鋭く胸を突く
心臓を貫かれたテオドールは、一言だけこぼした
「ヴィ……クト…………」
その瞬間、テオドールの身体は消滅した
ーーーーーーー
森へ逃げるしかなかった
ヴィクトワールは子ども達の手を引き、闇を裂いて走った
だが人間達は執拗に追いかける。松明が迫る。怒号が近づく。犬のように荒い呼吸が聞こえる
ヴィクトワールは、選ぶしかなかった。子ども達のとって最も残酷な選択を
彼女はオーギュストとエレオノールを勢いよく突き飛ばした
2人の小さな身体はゴム毬のように跳ね、草むらへ転がっていく
母は立ち止まった
追っ手に背を向けるのではなく、受け止めるように
そして、最後の祈りを呟いた
「どうか……2人とも生きて……………」
その直後、背後から刃が迫る
首を刎ねられる音は、夜の森に不釣り合いなほど残酷だった
ヴィクトワールの命はそこで途切れ、彼女が守ろうとした2つの命だけが、闇に取り残された
夜明けまで、オーギュストとエレオノールは逃げ続けた
とにかく逃げる。人間に捕まらないように、死なないように
そして月が沈み、空が白み始める頃、人間達は引き返していった
太陽の下では、彼らの“狩り”も終わるのだろう
森には、焦げ跡の匂いとーー小さな兄妹だけが残った
オーギュストの胸の奥から、黒い渦が立ち上がる
人間への憎悪が、言葉となって溢れた
「許さない、許さない………!」
人間を、父と母を奪った者を、笑って火を放った獣達を、この世界を!
でもーー
彼の腕の中には、小さな妹がいた
エレオノールはまだ3歳で、何が起きたのかを全て理解できていない。ただ兄の胸に頰を寄せ、震え、泣いた
その姿を見た瞬間、憎悪の渦の中心に、別の何かが現れる
「エレオノール………」
呼べば、妹がかすかに反応する。生きている。ーー唯一の、自分の家族
オーギュストは歯を食いしばった
「この子だけは……この子だけは絶対に守らなくちゃ………」
それは、9歳の男の子には重すぎる誓いだった
続きます




