エメラルドのピアス
オーギュストとエレオノールの話です
時系列的には、紫苑と出会う少し前ですね
オーギュストとエレオノールが日本へ来たばかりの頃の話だ
ヴァルモンの兄妹にとって、それは“新しい土地”というより、“逃げ延びた先”だった
森での暮らしは終わり、父母を失い、追われ、放浪し、ようやく辿り着いた異国
街は眩しく、言葉は馴染まず、夜の匂いさえ違う。吸血鬼の身体であっても、心が疲弊しないわけがない
ましてエレオノールは、まだ幼く、繊細だった
オーギュストは気づいていた
妹が少しずつ、静かに塞ぎ込んでいることに
夜の窓辺でぼんやり外を見つめる時間が増えた
菓子作りも刺繍も、好きなはずの読書も、手が止まりがちになった
笑うことは笑う。しかし、それは“壊れないための微笑”で、心からのものではない
そして、暦の上ではーー1ヶ月後にエレオノールの誕生日が迫っていた
オーギュストは決めた
何かを贈るのではない。妹の中に残っている“光”を、もう1度呼び戻す
父母がいた頃のように、安心して笑える日を作る
それが兄としてできる、ささやかな抵抗であり、祈りだった
とはいえ、言葉で慰めるのは得意ではない
抱きしめて「大丈夫だ」と言うのも、オーギュストらしくない
だから彼は、自分の得意なやり方を選ぶーー整え、準備し、確実に形にする。
誕生日まで、まだ時間はある
オーギュストは日中の外出を避け、夕暮れに街へ出た
情報を集め、店の評判を聞き、宝飾店の場所を確認し、警戒すべき道を把握する
“プレゼントを買う”という行為にすら、彼は戦術を持ち込む。妹の安全と心を守るためなら、何だってするのだ
訪れたジュエリーショップは、硝子と光でできた小さな宮殿のようだった
静かな店内。柔らかな照明。宝石の上だけ、光が祝福みたいに落ちる
店員が話しかけてきたが、オーギュストは必要以上に会話をせず、ただ「贈り物を探している」とだけ告げる
年齢も身分も言わない。吸血鬼であることなどもちろん隠す
けれど、立ち姿と瞳の冷たさで、店員は“軽い客ではない”と悟った
ケースの中で輝く石たちを見つめながら、オーギュストは考えた
妹に似合うもの。妹が喜ぶもの
そして、妹の心を傷つけないもの
派手すぎるものは違う。父母を亡くしたばかりの妹に、豪奢さは重い
けれど、あまりに素朴すぎると、今度は“気遣い”が透けて見えてしまう
エレオノールは賢い。兄の優しさに気づいて、泣きそうな顔をする
今欲しいのは涙ではなく、ただ純粋な笑みだ
そのとき、オーギュストの視線がひとつの品で止まった
小さなエメラルドがあしらわれたピアス
深い緑が控えめに光り、金属は主張しない。華美ではないのに、品格がある
何より、その緑はーー森の記憶を連れてくる色だった
エレオノールは森が好きだった
葉擦れの音、月の光、花の香り。そして、父母がいた家のぬくもり
“思い出”は痛みでもあるが、同時に、生きるための根でもあ
今の妹には、その根を折られないように支えるものが必要だった
オーギュストは迷わなかった
「これを」
短い言葉で決め、即座に買い上げる
店員が驚くほどあっさりと支払いを済ませると、オーギュストは小さな箱を受け取り、胸の内側にしまった
まるで大切な証拠品を隠すみたいに慎重に
誕生日までの1ヶ月、オーギュストはそれを何度も確認した
箱の角が潰れていないか
石が動いていないか
渡すときの言葉は、短く、しかし冷たくならないように
妹が負担に思わないように
“祝う”という行為が、妹にとって痛みにならないように
そして誕生日の夜が来た
エレオノールはいつもより少し丁寧に髪を整えていた
本人は無意識だったかもしれないが、誕生日を迎えるという事実が、心の奥でまだ小さく息をしている証だった
オーギュストは食事の後、いつものように淡々とした顔のまま、妹を呼んだ
「エレオノール」
「はい、おにいさま」
オーギュストは小箱を差し出した
派手な演出はしない。言葉も飾らない
ただ、確実に、手渡す
「誕生日だ。受け取れ」
エレオノールは一瞬、きょとんとした
次に、恐る恐る箱を開ける
そこにあったのは、深い緑の小さな光ーーエメラルドのピアスだった
「……すてき」
吐息のような声
指先が震え、石に触れないように、けれど確かめるように見つめる
そしてエレオノールの顔が、ゆっくりと綻んだ
花が開くときは、音がしない。けれど、その瞬間を見た者は息を止める
オーギュストは、まさにそれを見た
「すてきなピアス……ありがとう!おにいさま!!」
久しぶりの、心からの笑み
“頑張って笑っている”のではなく、嬉しくて笑ってしまう、あの笑い方
オーギュストの胸の奥が、少しだけ温かくなる
表情は変えない。変えられない
けれど、目元だけがわずかに柔らかくなるのを、エレオノールは見逃さなかった
「おにいさま、わたくし……たいせつにします」
「当然だ。……よく似合う」
たったそれだけの会話なのに、部屋の空気が軽くなる
悲しみが消えたわけじゃない。父母が戻るわけでもない
それでも、暗闇の中に“緑の灯”がひとつ増えた
エレオノールはピアスを耳に当てて、鏡の前で首を傾げた
その仕草さえ、久しぶりに見る“年相応の少女”だった
オーギュストは背を向けたまま、心の中で静かに誓う
――守る
この笑みを
妹の小さな光を
異国の夜の中でも、決して消えないように
そしてエレオノールは、そのエメラルドをずっと覚えていることになる
“お兄様が初めて贈ってくれた宝石”として
後に彼女が自分でエメラルドを選び取る日が来ても、あの夜の緑だけは、胸の奥でいつまでも瑞々しく光り続けるのだった




