05.頑固男と悪役令嬢
「……ふぅん」
彼は短く吐息を漏らすと、懷から雪のように白い、上質な絹のハンカチーフを取り出した。
そして戸惑う私を遮るように手を伸ばす。
「……アルベール様。お召し物が汚れます」
「いいよ。どうせなら、もっと面白い汚れ方すればよかったのに」
彼はハンカチを私の顔に押し付ける……かと思いきや、その寸前で動きを止めた。
(……ん?私の顔に何か付いてる?)
アルベールは、濡れた私の髪を一房だけ指先で摘まんだ。その仕草は慈しみなど微塵もなく、ただ「自分の興味を引くもの」を検分するような、不遜な冷たさがあった。
「その書類は、適当に燃やしておくといい。君の『毒』は、こんな紙切れで終わるようなものじゃないだろう?」
彼はハンカチを私の膝元へ無造作に落とすと、夜風に飲み込まれていった。
「……おやすみ、千代。」
(……リリアじゃなくて、千代……。)
残されたのは、季節外れのワインの甘ったるい香りと、王都で最も美しい男が残した、汚れたハンカチだった。
一方、リヴァース(通称:頑固男)は自室で山積みになった書類を忌々しげに睨んでいた。
上等な酒を胃に流し込もうとするが、喉が拒絶するように強く狭窄し、うまく飲み下せない。
「あんな……あんな、汚い言葉で拒絶する女が、リリアなわけないだろう!」
彼は引き出しの奥から、守り抜くように隠していた一枚の肖像画を取り出した。
そこに描かれているのは、陽だまりのような微笑みを浮かべ、柔らかな光を纏った少女。
彼が唯一、自分の弱さを曝け出すことができた、初恋の残像――リリアだ。
当時の社交界に、彗星のごとく現れた“完璧少女”リリア。
身元は不明。王都の経済を支える商業都市の生まれとも囁かれていた。
年は十七。男の庇護欲をそそるあざとい仕草や、計算し尽くされた色目。
それでいて細やかな気配りを忘れない彼女は、顔に散ったわずかな「そばかす」さえなければ、非の打ちどころのない『一流の女』だった。
「あの頃のお前は、俺が視線を向けただけで、頬を染めて俯いていたじゃないか……」
震える手でグラスを掴む。そして、残った酒を一瞬にして飲み干した。
アルコールの熱が喉を焼くが、胸の内の渇きは一向に癒えない。
それに比べて、舞踏会で見た「千代」はどうだ。
引き裂かれたドレスを恥じるところか、それを逆手に取るような不遜な態度。
リリアと同じはずの唇から溢れるのは『リヴァース』を冒涜するかのような拒絶の言葉。
そして何より、あの皮脂油の匂い。
「……認めない。あんな『毒』、俺の知っている“リリア”じゃない」
リヴァースの瞳に、暗い昏い光が宿る。もし彼女が変わってしまったのなら、力ずくで書き換えればいい。あのあざとらしく、愛らしく、自分だけを見つめていた「完璧な人形」に。
「待ってろよ、“リリア”。……その小癪な口が、二度と俺を拒めないようにしてやる」
その瞬間。
「リヴァース様……!」
フローネは、肖像画を握りしめたままのリヴァースの背中に、背後からしがみついた。豪華なドレスの絹が擦れる音と共に、彼女は震える指先で彼の逞しい胸元をなぞり、その耳元で熱っぽく囁きかける。
「その名前を呼ばないで。あんな『出来損ないの女』のことは忘れてください……。あんな、そばかすだらけの、どこにでもいるような小娘のどこが良かったのですか?」
彼女は空虚な甘ったるい声を響かせた。そして、リヴァースの手元にあった酒を奪い取る。
「見てください、リヴァース様。今、あなたの隣にいるのは私です。公爵家の令嬢であり、一点の曇りもない肌を持ち、あなただけを、あなたのすべてを狂わしいほどに愛してる…このフローネなのですわ」
フローネはリヴァースの首筋に顔を埋め、彼の体温を確かめるように強く抱きつく。
「リリアなんて、もうこの世のどこにもいない。あんな汚らわしい女に構うのはおやめになって、私を見て……。私だけを、愛して……。」
しかし、リヴァースは微動だにしない。
フローネの必死の抱擁も、香水の香りも、今の彼には届かなかった。
彼の脳裏には、先ほど見た千代の「決別」の眼差しと、肖像画の中の「従順なリリア」が混濁し、激しい火花を散らしている。
「……黙れ」
「リヴァース様……?」
「黙れと言っているんだ、フローネ!」
リヴァースは、しがみついていたフローネを、まるで鬱陶しい羽虫を払うかのように振り払った。
当然、床に崩れ落ちるフローネには目もくれない。『初めて、名前を呼んで下さったわ!(歓喜)』
彼は狂気に満ちた足取りで、自室の扉を開ける。
「リリアは死んでなどいない。俺が、この手で……作り直してやる」
そうだ、何故こんな時に隣にいるのが……悪役令嬢なんだ……。
明日は、――審問。
そこで『千代』という忌々しい過去を殺し、『リリア』に書き換えなければならない。
「千代、千代、千代千代千代…………千代……千代」
背後で、呪文のようにその名を刻んでいたのは、狂った笑みを浮かべたままのフローネだった。




