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04.妖艶と葡萄酒

千代チヨは、里愛都うらういとの式台に滑り込むやいなや、裏廊下を掛けて化粧室へと飛び込んだ。待ち構えていた白粉師の琳欄リンランが、千代チヨの無惨な姿を見るなり金切り声をあげる。


「まあ、なんて姿!早くこちらへ!」

てんやわんやの騒ぎの中、千代は鏡台の前に押し込まれた。

琳欄リンランの手によって、もつれた髪に上質な櫛が入れられ、滞りなく梳き上げられていく。

饐えた匂いに汚された髪へ、芳しい髪油が手早く塗り込まれると、失われていた艶がみるみるうちに取り戻されていった。


「そういえば……私、今度王都に行くことになったの」


千代チヨが鏡越しにそう告げると、琳欄リンランの筆先がわずかに止まった。

けれど彼女はすぐに、千代が自ら施した拙い化粧をぼかす作業へと戻る。

脇目も振らず、熟練の手つきで紅を彩色し、あどけなさの残る千代チヨの脣を艶めかせた。


「その話、耳にタコができるほど聞いたわよ……。あーあ、もう!アンタが余計なこと言うから、段取り間違えてヘアメイクからしちゃったじゃない」


(琳欄ったら、うちが王都に行くのが寂しいのかな……)

琳欄リンランはひどく億劫そうに、けれど有無を言わせぬ手つきで千代チヨの背中を押した。







「早く書け、お前にもう居場所はない」


舞踏会の喧騒が鳴り響くのが聞こえる。

私は一人(もしくは二人)、冷え切った夜の庭園で石机に向かっていた。


「王都への不敬」および「身分詐欺」――。

その罪を認めるための書類を、震える手で書かされている。リヴァースが突き付けた、屈辱という名の「最後のお仕事」だ。


「違う、そこはそうじゃない!自署はここに書くんだ!」


さっきから犬のごとく吠え散らかしているのは、リヴァースの従兄弟。

私の隣で、彼は一息一息、これ見よがしに重苦しいため息を吐き出している。


「まったく、なんで俺がこんな小娘の番犬を……」


小声でこぼしたかと思えば、私からあからさまに距離を取り、

「……もうこいつ、凶獣だろ。誰か早く来てくれよ、おれが殺される前にさ」とまで毒づいている。

失礼なやつだ。それは流石の私でも、少しは傷つくんだけど。


「……ねえ。そんなに私が怖いなら、いっそ騎士団でも呼んできたら?それとも、私に喉を嚙み切られるのを待っているの?」


羽ペンを握る指先にわざと力を込め、ガリっ、と不快な音を立ててやる。

彼はヒッと短く悲鳴を上げ、情けなく肩を震わせた。


(リヴァースの従兄弟って聞いたけど、性格ぜんぜん違うな……)


目の前の書類には、私を縛り付ける呪文が並んでいる。


《本状を以て、被告:千代(自称 リリア)は、以下の大罪を認め、その身を王都の裁き(あるいはリヴァースの所有)に委ねるものとする


一.亡失せしブラウン家の名を騙り、聖域たる王宮を足蹴にした【不敬罪】

二.卑しき出自身分を隠蔽し、高貴なる血族を欺瞞した【詐称罪】


異議を唱える権利を永久に放棄し、自らの『毒』をここに封じることを誓約せよ》



(……は?リヴァースの所有断固拒否!死んでも嫌!)

ドレスは引き裂かれ、鼻筋には煤が残ったまま。

惨めな姿なはずなのに、先ほど彼らに呪いの言葉を吐き捨てたせいか、胸の奥だけは妙に熱かった。


「掃き溜めの女には、このくらいがお似合いか……。(建前)」


自嘲気味に呟いた、その時だった。


彼は、密やかな愉悦を噛みしめるように、緩やかに口角を上げた。その眼差しは優しく、けれど獲物の羽を一枚ずつ毟り取るような、残酷なまでの熱を帯びている。


「――ん。随分と、私好みの呪いを吐く()だ」

頭上から降ってきたのは、真綿で首を絞めるような甘い声。

驚いて仰ぎ見れば、月光さえ傅くほどの絶世の美貌がそこに佇んでいた。


アルベール。


王都を統括するリヴァースでさえ、彼の前では一介の役人にすぎない。王族すらその機嫌を伺うという、圧倒的な権能を宿した『生ける伝説』。彼は蝶が羽を休めるかのような所作で石机に腰を下ろした。そして、私の書きかけの書類を細い指先でひょいと摘まみ上げる。


(……あ。)

「あいつは相変わらず、無粋な真似をさせるね。こんな紙切れに、君の貴重な時間を割かせるなんて……実に、嘆かわしいことだ」


この様子によれば、あいつはリヴァースの野郎と知り合いのようだ。

随分と値の張る燕尾服《夜間の礼服》を着こなしているし、育ちの良さは疑いようがないが……。


「……アルベール様。なぜ、このような場所に……」

さっきまで、尊大な態度で書類を書く私を見ていた彼も、狼狽している。

「なぜか。決まっているだろう?」


(なんか上から目線な態度ムカつくなあ……茶番見てる感じ)


すると、アルベールは書類を無作法に放り投げた。

書類は螺旋を描き、庭のはるか遠く……物陰に隠れてしまう。


彼は手にしていた白磁のような扇で、私の顎をそっと持ち上げた。


グイッ……

至近距離で覗き込んでくるその瞳は、リヴァースの冷徹な黒とはまるで違う。

すべてを見透かし、甘美な眩暈(めまい)を誘うような、深い深い水晶の色だ……。


(あれ……今どういう状況?)


「あんな傑作な縁談、誰にも譲りたくなくってね。」

「ちょ……と、やめてください……」


それでも、彼は続ける。


「自分を侮辱した男に、ゴミ同然の女を押し付ける……。お前のその『捻くれた根性』、私は嫌いじゃないよ」


彼は、暗闇に咲く猛毒の華を慈しむような、底知れない微笑を浮かべた。

舞踏会の余韻が冷めやなぬ庭園。アルベールの纏う白檀のような香りが静かに落ちていく。


どこまでも淡く輝く星空の下。

その静寂を破ったのは、ひどく騒がしい足音と、芝生を擦る鈍い音だった。


『――きゃっ!』


(……?)

短い悲鳴と共に、投げつけられる“なにか”。

銀のトレイを掲げた侍女が、わざとらしく私の目の前で転んだ。

トレイに乗っていたのは、この厳冬の時期には手に入らないはずの、芳醇な香りを放つ“ワイン”。


「……っ」


冷たい液体が、容赦なく私に降りかかる。

ただでさえ令嬢たちに引き裂かれ、肌が露出していたドレスの胸元を、どす黒い赤がさらに汚していく。

それだけではない。ワインは私の顔にまで撥ね、煤と脂で描いた「フレックル(そばかす)」を無惨に滲ませた。


「あら……ごめんなさい!手元が狂ってしまって……」


侍女は口元を抑えて謝罪の言葉を口にする。

しかし、その瞳には明らかな嘲笑が浮かんでいた。


私はあまりの惨めさに、書類を握りしめたまま動けなかった。

赤く濡れたドレス。剥がれ落ちた化粧。惨めな姿を晒す私を、アルベールは黙って見下ろしている。


「……ふぅん」


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