表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

02.婚約破棄(2/2)

千代チヨは、染みだらけの鏡台を小巾で拭き取る。

立待月は“花街での生業の日”と暦に書いてあるのだから、もはや、赴かぬという選択肢はない。


千代チヨはすり鉢を手にすると、例の薬師華欄カランに付随していたオシロイバナを擂り潰していく。


花街では仮粧をしなければならない、という厳格なしきたりがあるからだ。

この定例に反するものは、おおば《ソボ》からこっぴどく一喝され、俄かに人望をなくしてしまう。


白粉を肌に塗布すると、値が張った口紅を手に取り脣にほんのりと差した。

身にまとっていた湯文字ユモジを脱ぎ捨て、質素な部屋に不釣り合いなほど鮮やかな振袖に腕を通す。


(あ……、あと絡まれないように……。)

千代チヨスズと脂を練り合わせたものを用意すると、あえて鼻筋にかけて塗り付けた。

フレックル《そばかす》と呼ばれるもので、色情狂な客をもてなす時にとても有効的だ。


「清和《四月》には、ここも転居するから……。“御坂町”ともお別れだね」


千代チヨは誰にともなく呟くと、春の水をたたえた水田に囲まれた路地を、一歩ずつ踏みしめるように進んでいった。







「婚約は、今この場で破棄する」

その言葉が響き渡った瞬間、会場を支配していた静寂が酷い歓喜の声へと一変した。

リヴァース“様”を崇拝していた令嬢たちだ。


「 あんな卑しい身なりでよくもまあ、今まで淑女の振りをしていられたこと!」

「今まで散々『完璧な令嬢』のフリをして、私たちの鼻を明かしてくれたお返しね」


令嬢たちは勝ち誇ったように、扇を鳴らして嗤った。

なかでもフローネは、床に伏したままの私の髪をわざとらしく踏みつけた。



「リヴァース様にまで見放されるなんて。ねえ、本当はどこの馬の骨なの?」

「王都の生まれすらない『千代』だなんて、名前からして卑しくて吐き気がするわ」



彼女は、オエッと喉を抑えると『吐く』フリをした。

そして、誰かがわざとらしく飲み物をこぼし、ドレスを汚していく。


かつて「お友達」と呼んでくれた令嬢たちも、今はただ、泥を這う虫《私》を眺めている。


「リヴァース様……お願い、です。私は……ただ……」


震える手で懇願する私に、リヴァースは冷徹な眼差しを向けた。

彼は私の“絶望”を、まるで“観劇”を楽しむかのような無機質で見つめる。


「……汚らわしい。その手で私に触れるな『詐欺師』」


彼は――『詐欺師』という部分を強調して言った。


そして、その一言が虐めを「正義」へと変えてしまう。

その言葉を合図に、取り巻きたちの嘲笑はさらに激しく増す。


「リヴァース様のおっしゃる通りですわ!早くこの場からつまみ出して!」

「王都の面汚しめ!花街へ、あなたの相応しい泥沼へ帰るがいいわ!」


投げつけられる蔑みの言葉。突き飛ばされる肩。

ワイングラスが砕け散る衝撃と共に、周囲の令嬢たちの嘲笑が止まる。



散った破片が、私の手の甲を鋭く切り裂いた。 ぶちまけられたワインと、じわりと滲む真紅の血。


二つの赤が混じり合い、音もなく絨毯の模様を塗りつぶしていく。


「あら、ごめんなさい。あまりに滑稽な話だったものですから、つい手が滑ってしまいましたわ」




わざとらしく口元を覆う令嬢の瞳には、謝罪の色など微塵もない。

傷口から走る鋭い熱痛を、私はただ、他人事のように見つめていた。


身に纏っていた「リリア」という仮面は、今、彼らの悪意によって完膚なまでに砕け散った。


涙が煤と混じり、顔を穢していく。煤と脂で描いた、あの偽りの「そばかす(フレックル)」。

客を遠ざけるための防衛策だったはずが、今や私の「卑しい姿」を象徴するものへと変わっていた。



(……ああ、やっぱり。私に、居場所なんてなかったんだ。)



遠く、清和の風に乗って聞こえた気がした。脳裏に焼き付くフィルム。

御坂町の水田のせせらぎ、そして華欄が刺に添えてくれた、あのオシロイバナの儚い香り。



リヴァースの背中が遠ざかっていく。


私は衛兵に腕をつかまれ、引きずられるようにして出口へと運ばれていく。



剥がれ落ちることのない貌かおという仮面。

令嬢たちはそれ《仮面》を剥ぐことなく高らかに天へ掲げている。


「待って。――やはり、待ってちょうだい」


惨めな姿で引きずられていく私を呼び止めたのは、勝ち誇った笑みを浮かべるフローネだった。

彼女は扇子を閉じると、優雅な足取りでリヴァースの傍らへと歩み寄る。



「この歴史的瞬間……偽り者が消え、真実の愛が芽吹く奇跡を、貴方にも特等席で見せてあげたいの」



彼女の眼は、獲物を仕留めた悦びにギラついている。



「リヴァース様、もうお判りでしょう?こんな掃き溜めの女ではなく、貴方に相応しいのは誰なのか。……ええ、私。私こそが貴方の横に立つべき存在。今ここで宣言しましょう。」


『私と貴方《リヴァース様》は、結婚するのよ!』


(………………は?)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ