02.婚約破棄(2/2)
千代は、染みだらけの鏡台を小巾で拭き取る。
立待月は“花街での生業の日”と暦に書いてあるのだから、もはや、赴かぬという選択肢はない。
千代はすり鉢を手にすると、例の薬師華欄が刺に付随していたオシロイバナを擂り潰していく。
花街では仮粧をしなければならない、という厳格なしきたりがあるからだ。
この定例に反するものは、おおば《ソボ》からこっぴどく一喝され、俄かに人望をなくしてしまう。
白粉を肌に塗布すると、値が張った口紅を手に取り脣にほんのりと差した。
身にまとっていた湯文字を脱ぎ捨て、質素な部屋に不釣り合いなほど鮮やかな振袖に腕を通す。
(あ……、あと絡まれないように……。)
千代は煤と脂を練り合わせたものを用意すると、あえて鼻筋にかけて塗り付けた。
フレックル《そばかす》と呼ばれるもので、色情狂な客をもてなす時にとても有効的だ。
「清和《四月》には、ここも転居するから……。“御坂町”ともお別れだね」
千代は誰にともなく呟くと、春の水を湛えた水田に囲まれた路地を、一歩ずつ踏みしめるように進んでいった。
「婚約は、今この場で破棄する」
その言葉が響き渡った瞬間、会場を支配していた静寂が酷い歓喜の声へと一変した。
リヴァース“様”を崇拝していた令嬢たちだ。
「 あんな卑しい身なりでよくもまあ、今まで淑女の振りをしていられたこと!」
「今まで散々『完璧な令嬢』のフリをして、私たちの鼻を明かしてくれたお返しね」
令嬢たちは勝ち誇ったように、扇を鳴らして嗤った。
なかでもフローネは、床に伏したままの私の髪をわざとらしく踏みつけた。
「リヴァース様にまで見放されるなんて。ねえ、本当はどこの馬の骨なの?」
「王都の生まれすらない『千代』だなんて、名前からして卑しくて吐き気がするわ」
彼女は、オエッと喉を抑えると『吐く』フリをした。
そして、誰かがわざとらしく飲み物をこぼし、ドレスを汚していく。
かつて「お友達」と呼んでくれた令嬢たちも、今はただ、泥を這う虫《私》を眺めている。
「リヴァース様……お願い、です。私は……ただ……」
震える手で懇願する私に、リヴァースは冷徹な眼差しを向けた。
彼は私の“絶望”を、まるで“観劇”を楽しむかのような無機質で見つめる。
「……汚らわしい。その手で私に触れるな『詐欺師』」
彼は――『詐欺師』という部分を強調して言った。
そして、その一言が虐めを「正義」へと変えてしまう。
その言葉を合図に、取り巻きたちの嘲笑はさらに激しく増す。
「リヴァース様のおっしゃる通りですわ!早くこの場からつまみ出して!」
「王都の面汚しめ!花街へ、あなたの相応しい泥沼へ帰るがいいわ!」
投げつけられる蔑みの言葉。突き飛ばされる肩。
ワイングラスが砕け散る衝撃と共に、周囲の令嬢たちの嘲笑が止まる。
散った破片が、私の手の甲を鋭く切り裂いた。 ぶちまけられたワインと、じわりと滲む真紅の血。
二つの赤が混じり合い、音もなく絨毯の模様を塗りつぶしていく。
「あら、ごめんなさい。あまりに滑稽な話だったものですから、つい手が滑ってしまいましたわ」
わざとらしく口元を覆う令嬢の瞳には、謝罪の色など微塵もない。
傷口から走る鋭い熱痛を、私はただ、他人事のように見つめていた。
身に纏っていた「リリア」という仮面は、今、彼らの悪意によって完膚なまでに砕け散った。
涙が煤と混じり、顔を穢していく。煤と脂で描いた、あの偽りの「そばかす(フレックル)」。
客を遠ざけるための防衛策だったはずが、今や私の「卑しい姿」を象徴するものへと変わっていた。
(……ああ、やっぱり。私に、居場所なんてなかったんだ。)
遠く、清和の風に乗って聞こえた気がした。脳裏に焼き付くフィルム。
御坂町の水田のせせらぎ、そして華欄が刺に添えてくれた、あのオシロイバナの儚い香り。
リヴァースの背中が遠ざかっていく。
私は衛兵に腕をつかまれ、引きずられるようにして出口へと運ばれていく。
剥がれ落ちることのない貌かおという仮面。
令嬢たちはそれ《仮面》を剥ぐことなく高らかに天へ掲げている。
「待って。――やはり、待ってちょうだい」
惨めな姿で引きずられていく私を呼び止めたのは、勝ち誇った笑みを浮かべるフローネだった。
彼女は扇子を閉じると、優雅な足取りでリヴァースの傍らへと歩み寄る。
「この歴史的瞬間……偽り者が消え、真実の愛が芽吹く奇跡を、貴方にも特等席で見せてあげたいの」
彼女の眼は、獲物を仕留めた悦びにギラついている。
「リヴァース様、もうお判りでしょう?こんな掃き溜めの女ではなく、貴方に相応しいのは誰なのか。……ええ、私。私こそが貴方の横に立つべき存在。今ここで宣言しましょう。」
『私と貴方《リヴァース様》は、結婚するのよ!』
(………………は?)




