第6話 どこまで、転がせる?
朝の空気は、少しだけ冷たかった。
家の中は静かで、聞こえるのは、私の呼吸と床板のきしむ音だけ。
私は床に座り込み、昨日と同じ石ころを前にしていた。 見た目は、昨日とまったく同じ。
欠けも、汚れも、何も変わっていない。
――でも。
(動かせた)
その事実だけが、胸の中でじんわりと残っている。
昨日までの「何もできない私」と、
今の私は、ほんの少しだけ違う。
石ころを床に置く。
昨日より、ほんの少し離れた場所に。
(今日も……動くよね)
自分に言い聞かせるみたいに、意識を向ける。
(中心。 等距離。 ……転がる)
――ころ。
石ころが、ゆっくりと転がった。
「……」
息を止めたまま、目で追う。
昨日より、少しだけ長い。
床の節目のところで、ぴたりと止まった。
(……いけた)
胸の奥が、じわっと熱くなる。
昨日より、確かにできている。
私は場所を変え、もう一度、石ころを置いた。
さっきより、ほんの少しだけ遠く。
(今度も……)
――ころ。
今度は、短い。
さっきより、ずっと。
「……あれ?」
思わず、眉をひそめる。
同じ石ころ。
同じ床。
同じ私。
(なんで……?)
もう一度。
――ころ。
さっきよりも、さらに短い。
胸の奥が、少しだけざわついた。
(……変だ)
できなくなったわけじゃない。
でも、思った通りにもいかない。
私は石ころを拾い上げる。
手のひらに乗せると、ひんやりして、少し重たい。
(……こんなに、重かったっけ)
気のせいかもしれない。
でも、腕の奥が、じんとする。
何もしていないはずなのに、
体の中に、薄い疲れみたいなものが残っている。
「トラ」
母の声がした。
顔を上げると、母がこちらを見ていた。
心配そうでも、叱るでもない、いつもの目。
「無理、してない?」
「……してない」
本当だった。
頑張ったつもりはない。
ただ、やってみただけ。
母は近づいてきて、私の隣にしゃがむ。
「昨日、たくさん試したでしょう」
「……うん」
「今日は、もう十分よ」
私は、床の石ころを見る。
昨日は、何回も少しずつ。
今日は、少ないけど、ちょっとだけ遠く。
(どっちが、いいんだろ)
頭の中で考えようとして、
うまく言葉にならなくて、やめた。
「お母さん」
「なあに?」
「これって……使うと、なくなっちゃうのかな」
母は、すぐには答えなかった。
少しだけ考えてから、静かに言う。
「力がなくなる、っていうよりね」
「……うん」
「トラの体と心が、追いつかなくなるのかもしれないわ」
その言葉を聞いて、
なんとなく、わかった気がした。
(石ころじゃない)
石ころは、ずっと同じだ。
変わっているのは――私。
私は石ころを、そっと床に戻す。
(どこまで、転がせるか)
それは、
石ころの問題じゃない。
私の問題だ。
胸の奥に残る、かすかな重さを感じながら、
私は、ゆっくり息を吐いた。
すぐに上手くは、ならない。
それだけは、よくわかる。
でも――
昨日より、今日。
今日より、明日。
そうやって、少しずつでも、
私は前に進んでいる気がした。




