第4話 触れられない丸
次の日の朝、私はいつもより早く目が覚めた。
眠っていたはずなのに、頭の中はずっと動いていた気がする。
目を閉じるたび、昨日のことが浮かんできた。
毛糸玉は動いた。
木のコマも、少しだけ動いた。
でも――紙に描いた丸は、何も起きなかった。
(同じ丸なのに……)
布団の中で、指先を動かす。
空に、ゆっくり円を描く。
目には見えない。
でも、頭の中ではちゃんと丸になっている。
(これも……丸、だよね)
そう思うのに、なぜか胸の奥がざわざわする。
(でも……きっと、ダメ)
理由はわからない。
わからないけど、そう思ってしまう。
台所へ行くと、母がパンを焼いていた。
じゅう、という小さな音と一緒に、香ばしい匂いが広がる。
「おはよう、トラ。早いわね」
「……うん」
私はパンをかじりながら、机の上の紙を見る。
昨日、何度も円を描いた紙。
少し黒くなった線が、重なっている。
「お母さん」
「なあに?」
言おうとして、少し迷った。
うまく言えない気がしたから。
「……丸ってさ」
言葉を選びながら、続ける。
「触れないと、ダメなのかな」
母は、パンを返す手を止めた。
「どうして、そう思ったの?」
「毛糸玉も、コマも……触れるでしょ」
「でも、紙の丸は……線だけ」
私は紙を指で叩く。
とん、と小さな音がして、指先にざらっとした感触だけが残る。
丸は、そこにあるはずなのに。
でも、どこにもない。
「描いてあるだけ、だもん」
母は少し考えてから、椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、逆に聞くわね」
「え?」
「その紙の丸を、掴める?」
私は紙を見て、指を伸ばしかけて、止めた。
「……掴めない」
「持ち上げられる?」
「……無理」
「じゃあ、転がせる?」
「…………」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
できない。
どれも。
胸の奥が、じわっと痛くなる。
「でも……」
思わず声が出た。
「丸、なのに」
自分でも、子どもみたいな言い方だと思った。
でも、それしか言えなかった。
母は静かにうなずく。
「形としては、そうね。でも――」
母は紙を一枚取り、くるっと丸めた。
筒みたいな形になる。
「これは?」
「……丸い」
次に、ぎゅっと握る。
歪んで、しわだらけになる。
「じゃあ、これは?」
「……丸じゃない」
「そう。紙はね、すぐに変わるの」
その言葉が、胸に落ちる。
(変わる……)
昨日見た水桶が、頭に浮かぶ。
水は、器を変えるたびに、形も変わった。
毛糸玉は、少し歪んでいても、ずっと毛糸玉だった。
「もしかして……」
声が、小さくなる。
「“ちゃんとそこにある”って、思えないと……ダメなのかな」
自分で言いながら、よくわからなかった。
でも、言葉にしないと、胸が落ち着かなかった。
母は、少しだけ驚いた顔をしてから、やさしく笑った。
「いいところに気づいたわね」
私は、もう一度、紙の円を見る。
確かに描いてある。
でも、触れない。
持てない。
転がらない。
そこにあるのに、
そこに“ない”みたいだ。
(私のスキル……)
うまく言えない。
でも、なんとなくわかる。
これは、形だけを見てるんじゃない。
――たぶん。
私は紙から目を離して、手のひらを見る。
小さくて、まだ何もできない手。
それでも。
スキルは、簡単じゃない。
でも――
考えたら、ちょっとだけ前に進める。
そんな気がした。




