第16話 言葉を、拾う時間
それから数日後。
私は、まだ薄暗い朝の家で、母と並んで身支度をしていた。
布袋の中には、着替え。
母が縫い直してくれた靴。
それから――何度も撫でた、小さな封書。
「半年、か……」
母が、ぽつりと呟く。
王都オルビス高等技術院の入学は、半年後。
けれど私は、今日、この街を出る。
――アルケインの家へ。
「入学までの間、準備が必要だそうよ」
母は、私の靴紐を結び直しながら言った。
「文字や数。それから……入学前の確認試験もあるんですって」
「……試験?」
思わず聞き返す。
「落とすためのものじゃないわ」
母は、すぐに言った。
「“学べる状態かどうか”を見るためのもの。あなたを、守るための試験よ」
胸の奥が、少しだけ落ち着いた。
戸口の前で、立ち止まる。
この家。
この匂い。
この距離。
「……お母さん」
声が、少しだけ揺れる。
母は、私を見て、微笑んだ。
「言わなくていい」
そして、そっと私を抱きしめる。
「行っておいで、トラ」
強くもなく、引き止めるでもなく。
「これからもずっとここは、あなたの戻れる場所よ。」
私は、うなずいた。
泣かなかった。
泣かないって、決めていた。
*
アルケインの屋敷は、王都の外れにあった。
大きすぎず、派手すぎず。
けれど――中に入った瞬間、空気が変わる。
棚。
机。
壁一面の、本。
文字が、そこら中にあった。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
アルケインは、私の様子を見て、すぐに察した。
「君は、文字が読めない」
責める声じゃない。確認する声。
「……はい」
「街の学校には、行っていないな」
「……はい」
「だろうね」
当然のように言う。
「だが、それは欠点じゃない。順番の問題だ」
彼は、一冊の薄い本を机に置いた。
「オルビス高等技術院は、スキル別の訓練所じゃない」
私は、顔を上げる。
「騎士、魔法使い、職人、研究者…… 表に出る名前はいろいろあるが」
「本質は一つだ」
指で、本の表紙を軽く叩く。
「世界をどう理解し、どう扱うかを学ぶ場所だ」
「力を振るう前に、考えられる者を育てる」
胸の奥が、すっとする。
「だから入学前に、確認がある」
「文字を読めるか、数を扱えるか、話を聞き、考え、言葉にできるか」
「それができない者は、力を持っていても、入れない」
私は、本を見る。
意味の分からない記号。
でも、不思議と怖くなかった。
(石ころみたい)
最初は、動かなかった。
でも、触って、考えて、少しずつ分かるようになった。
「……やります」
私が言うと、アルケインは、ほんの少しだけ目を細めた。
「半年ある」
「文字」
「数」
「世界の基本的な捉え方」
「君はもう、考えること自体はできている」
「だから――」
彼は、はっきり言った。
「言葉を、拾えばいい」
*
それからの日々は、静かで、忙しかった。
朝は、文字。
昼は、数。
夜は、復習。
自分の名前を書くのにも、時間がかかる。
セ ン ト ラ
線は震えた。
「……変」
「いい」
アルケインは、すぐ言う。
「文字は、きれいである必要はない、意味が通じれば、それでいい」
ある日、
私は初めて、短い文を読めた。
『中心とは、基点である』
意味は、全部分からない。
でも――感覚は、分かった。
(あ……これ)
(私、知ってる)
「アルケインさん」
「なんだ」
「……文字って」
少し考えてから言う。
「考えを、 転がすためのものなんですね」
一瞬。アルケインの手が止まる。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「……まったく」
「半年で足りるか、心配になってきた」
その声には、 呆れと、期待が混じっていた。
*
夜。
母からもらった布を、枕元に置く。
寂しさは、ある。
でも、怖さだけじゃない。
文字を一つ覚えるたび、世界が、少しずつ広がる。
私は、まだ学生じゃない。
でももう、ただ連れていかれる子でもない。
半年後。
この言葉たちを連れて、
私は――
オルビス高等技術院の門をくぐる。
胸の奥で、
小さく、確かに。
何かが、転がった。




