第14話 夜に決めたこと
その夜、 家の中はいつもより静かだった。
鍋の中で、スープが小さく音を立てている。
窓の外では、風が木々を鳴らしていた。
私は、布団の端に座っていた。
開けた封書は、隣に置いたままにしている。
「……眠れない?」
母の声がする。
「……うん」
母は、何も言わずに隣に座った。
それだけで、胸の奥が少し緩む。
「ねえ、トラ」
母は、静かに言った。
「今日はね、いろいろあったと思う」
「でもね、無理して何かを決めなくてもいいのよ」
私は、少し驚いて母を見る。
「怖いままでいい」
「迷ったままでいい」
「それでも、心がどこを向いているかだけは、嘘をつかなくていい」
私は、膝の上で手を握りしめた。
王都。
高等技術院。
知らない場所。
知らない人たち。
――お母さんと、離れる場所。
「……私」
声が、少し震えた。
「行ったら、もう前みたいには戻れない気がする」
母は、うなずいた。
「そうね」
否定しなかった。
「でもね」
母は、私の手にそっと触れる。
「戻れないってことは、進んだってことよ」
胸の奥が、じん、と鳴る。
「あなたは、世界を転がす力を持ってる」
「それを、小さく使うか、遠くまで転がすか」
母は、まっすぐ私を見る。
「決めるのは、あなたなの」
少し間を置いて、続けた。
「不安も、恐れも、持ったままでいい」
「それごと連れて行けばいいのよ」
私は、しばらく黙ったまま、封書を見つめた。
怖い。
でも――
思い出す。
止まった車輪。
守られた命。
動いた世界。
(私……)
(あれを、偶然にしたくない)
「……行く」
声は、小さかった。
でも、揺れていなかった。
「私、行く」
母は、何も言わずに、
私を抱きしめた。
強くもなく、
引き留めるわけでもなく。
ただ、
“ここに帰ってこられる”優しい抱きしめ方。
「ええ」
耳元で、母が言う。
「あなたは、ちゃんと“行ける子”よ」
その夜。
私は、布団の中で目を閉じた。
怖さは、まだそこにある。
でも――
もう、
心は戻る方向には、転がっていなかった。




