第10話 転がる運命
その日は、母に頼まれて街へ出ていた。
布袋の中には、干し豆と塩。
歩くたびに、かさ、と小さな音がする。
王都オルビスからは遠いこの街は、石畳もところどころ欠けている。
道の端には瓦の破片や小石が転がり、乾いた風が埃を巻き上げた。
――丸いものが多い場所。
(……丸、いっぱいあるな)
そんなことを考えていた、そのときだった。
「ヒヒーン!!」
耳を裂くような嘶き。
白い馬が、目の前を真横に駆け抜けた。
引きちぎられた手綱が、蛇みたいに宙を跳ねる。
「止まってくれ!!」
運転手の叫び声。
次の瞬間、恐怖に負けた男が馬車から飛び降りた。
がたん、と横に揺れた荷台から、果物が転げ落ちて石畳に弾ける。
馬に引かれない馬車が、ただ勢いだけで
ーー転がってくる。
「危ない!!」
人々が悲鳴を上げ、道の端へ雪崩れるように逃げた。
――逃げ遅れた子が、一人。
転んで、尻もちをついたまま。
立ち上がれない。
目の前には、迫る車輪。
「……っ!」
胸が、ぎゅっと縮んだ。
(止めなきゃ)
でも、どうやって?
体は小さい。力もない。
――そのとき、視界に入った。
車輪。
丸い。
中心がある。
等距離で巡っている。
(……ボール)
考えるより先に、足が動いていた。
子どもの前へ、石畳を蹴って走る。
息が切れる。心臓が痛い。
(中心)
(等距離)
胸の奥が、熱くなる。
(転がる……止まって)
――ぎぎっ。
車輪の回転が、ほんの一瞬だけ鈍った。
石畳に擦れる音が変わる。
「……!」
でも、止まらない。
まだ、来る。
(足りない……!)
歯を食いしばる。
(なら――)
怖かった。
でも、思い出した。
パン。
一瞬だけ、浮いた。
(……できる)
(中心)
(等距離)
(……浮いて)
次の瞬間。
車輪が、ふわりと持ち上がった。
完全じゃない。
ほんの、ほんの一瞬。
だけど――それで十分だった。
浮いた車輪は回転の芯を失い、ぐらりと傾く。
勢いの向きがずれて、横に倒れ――
――どんっ!!
石畳に叩きつけられた音が、街に響いた。
一拍の静寂。
それから、ざわっと空気が揺れた。
「止まった……?」
「今の、見たか?」
子どもはすぐに大人に抱き上げられていた。
泣きながらも、ちゃんと息をしている。
無事だ。
私はその場に立ち尽くしたまま、息を吸うのを忘れていた。
(……間に合った)
胸の奥が、まだどくどくとうるさい。
でも、そこに――小さな熱が広がっていく。
「あの子……貧困地区の……」
ひそひそ声が、耳に刺さる。
ちくり、と胸が痛んだ。
けれど。
「ありがとう……!」
震える声で誰かが言った。
次に、別の誰かが。
「助かったよ」
私は、うまく笑えなかった。
うまく返事もできなかった。
ただ、転がらなくなった車輪を見つめる。
(私……)
(このスキルで、人を助けることができたんだ)
少しだけ、嬉しさが胸に広がった。
そのときだった。
「君」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、人だかりの向こうに一人の男が立っていた。
整った外套。
鋭い目――なのに、騒ぎに飲まれていない目。
空気が、ほんの少し変わる。
――この出来事が、ただの事故で終わらないことを。
私はまだ、知らなかった。
でも、確かに。
この瞬間、運命は転がり始めていた。




