第4章:海に立つ都市
――旗は掲げられた。だが、その土台は波の上だった。
大西洋・仮想戦域「アトラス・フォールド」。現地時刻06:43。
視界は良好。風速7ノット、波高1.2メートル。
朝の光が、無限の水平線に金の線を引いていた。そのただなかに、巨大な影があった。
長さ420メートル、甲板幅190メートル、排水量26万トン――米海軍が「ヘラクレス級機動戦力中枢艦」と呼ぶ、空母でも揚陸艦でもない、“洋上都市”だった。
そこには滑走路があり、格納庫があり、病院、司令部、兵站倉庫、電力供給装置、ドローン母艦、AI戦術統合室があった。
都市機能すべてが、波の上に浮いていた。
その周囲を、イージス駆逐艦、VLS搭載揚陸艦、輸送艦、潜水艦が包囲する。
それらが一体となった統合艦隊群こそ、プロジェクトSEABASEの初号作戦「オペレーション・トリトン・ループ」である。
「全体構成、完璧だ。だが“何か”が抜けている」
ヘラクレスの艦橋上――統合作戦司令マット・オーレン中将は、双眼鏡越しに遠方の海面を見つめながら呟いた。
「艦はある。兵員も武器も情報網もある。なのに、まだ“不完全”だと感じるんだ。なぜだ?」
副官が答えられぬまま、戦術オペレーターから声が上がった。
「CSG-4より通信。V-22の先行展開班が到着、艦載ドローン部隊が補助展開中」
「空間支配は問題ない。だが問題は“接近”だ」
オーレンは艦内に戻り、統合作戦AI「TALOS-3」の前に立つ。ホログラムが立ち上がり、シーベース周辺域の可視化情報が描かれる。
そこには、空も海も制した“完璧な”円環のような配置が表示されていた。だが、オーレンは一つの“空白”を見逃さなかった。
「この部分――データロスがある。微細な吸収ゾーンだ」
TALOS-3は答えた。
《ゾーンΔ-14、電波吸収率6.3%、推定原因:外部介入または自然ノイズ。信号強度は正常範囲。》
だがそれは、「正常の範囲での異常」だった。
同時刻、F-35JFS戦術飛行隊「ゴースト・ファルコン」――展開空域120マイル先。
「こちらリーダー1、ステルス戦闘機が不可視帯に突入。赤外反応ゼロ、ミッション照合済。AI航法反応も正常。だが……視覚に違和感がある」
パイロットは言いよどんだ。
「光の反射が……反対方向から戻ってる? いや……これは“影のない艦”か?」
それは、視線の焦点がずれる奇妙な感覚だった。
本来そこに存在するはずの波の“反射”がない。
レーダー、赤外線、LiDARすらも反応しない微小エリア。
だが“空気”がそこを回避しているかのように見える。
「ここに……何かいる。だが、何も見えない」
彼らはそれを“シーグリム”と呼び始めた。
ヘラクレス艦上。作戦支援官ソフィア・チャンは、格納庫内の兵站ドックで新型のAI補給機器を整備していた。
「この艦は都市だ。でも、都市には“無秩序”があるべきだと思わない?」
彼女は言った。
「すべてが完璧に制御され、最適化された都市は、いつか自分の“偶然”に殺される」
その時、艦内通信が鳴った。
《補給ポッド27-Bが行方不明。発射ログあり、着艦記録なし。センサー反応ゼロ。コース記録空白。》
ソフィアの手が止まった。
「こんな“透明な盗難”がある……?」
NSA・フォートミード。ジーナ・エルズバーグのコンソールに、シーベースからのリアルタイムデータが流れ込んでいた。
その中に1つ、不自然な変化を見つけた。
「ベアリング変更ログが一斉に消えてる」
彼女はつぶやく。
「すべての護衛艦が、わずかに位置ずれしてる。ほんの0.5度。でも、それは“誰かが座標そのものを変えた”ということ」
「つまり、我々は“仮想海図”の上で踊らされている?」
「その可能性は否定できません」
その夜。ヘラクレス艦上司令部。
統合AIが突如アラートを発した。
《ドローン母艦“イオノス”より応答断絶。補給艦“ジャック・マーレイ”のAIS喪失。周囲レーダー反射異常。ゾーンG-22に不可視反応。》
オーレン中将は叫んだ。
「海は敵だ。攻撃ではない、これは“地図の塗り替え”だ」
彼の言葉の通り、“存在の不可視化”という新たな戦術が動き始めていた。
その翌朝。海面に揺れる黒いパネル片が発見された。
ステルス塗装素材。電子吸収体。表面は海水塩分でわずかに剥離していた。
「これは……我々の艦艇じゃない」
確認の結果、それは“存在しない艦の皮膚”だった。
ヘラクレス上空を、F-35が旋回する。だが、その視界には何も写っていなかった。
海に立った都市は、その足元から沈み始めていた。