第1章:海を喪う日
――見えぬ敵は、まず“海図”を塗り替える
南シナ海は、どこまでも穏やかだった。
波高20センチ、視界良好。空は晴れ、水平線は青と白の境界でゆらいでいた。
その海に、USSブルックリン――アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦が、単艦で静かに浮かんでいた。名目は哨戒と海洋観測。だが実際には、インド太平洋軍司令部の非公開任務を帯びていた。
午前2時43分、ソーナー室。
「異音接近中。低速。深度100から120。ノイズパターン非一致。」
若い音響士官の指が、ソナー画面を滑る。「艦底側面から回り込んでる……魚雷じゃない。小さすぎる。回避もしない。」
艦長のコールマンがブリッジに呼び出されたのはその数分後だった。
「艦底をなぞるように移動しています。音響反射のデータが……まるで、我々の船体形状をスキャンしているかのように。」
画面には、UUVと思しき軌跡が、ブルックリンの艦尾から喫水線下部へ、正確な等間隔で回遊する様子が映っていた。まるで、CTスキャンだ。
「海中から、船体設計を測っている……誰が?」
その問いに誰も答えられなかった。ソナー反射は突如消失。敵性UUVは、まるで自身の任務が終わったかのように、自爆した。
そのわずか4時間後。ペルシャ湾・ホルムズ海峡の東側で、別の米艦艇が同様の遭遇を報告した。
ワシントンD.C.・NSAフォートミード、午前10時12分。
分析官ジーナ・エルズバーグは、連続する艦艇接近事件の音響波形を再生していた。
「これ、単なる接近じゃない。彼らはスキャンしている。非接触3Dプロファイル収集。」
彼女の声は、室内の空気を冷やした。
「艦の構造、ソナー位置、バラスト配置、プロペラ周波数――全部見られてる」
「それって……建築図面を盗まれてるようなもんだよな」
となりの技術官が呟いた。
ジーナはため息をつき、USB暗号キーを抜いた。
「違うわ。これは“都市”を裸にされてるのよ」
さらに翌日。コロンビア沖でアメリカ籍貨物船が「漁船群に偽装した武装艦」に囲まれた。AIS(自動船舶識別装置)は改ざんされ、視界内に実在する船影が、デジタル上では“存在しない”ことになっていた。
その通信が、リアルタイムでNSAに転送された。
「交信ログの中に……“山東−グループα”のハンドシェイク信号があった」
中国語の軍用パターンだ。つまり、彼らは“名前を隠さない”段階に入ったということだった。
ペンタゴン・国防長官執務室。
国防長官チャールズ・デヴォンは、報告書の束を机に叩きつけた。
「これは、戦争行為だ」
「宣戦布告のない“海の透明化戦争”ですね」と応じたのは、国家情報長官付きの戦略顧問だった。
デヴォンは立ち上がり、世界地図を見つめる。
「我々は、世界中に艦を持っている。だが、海そのものを“支配”しているのではない。今起きているのは、その“支配構造”の瓦解だ。港湾を封鎖せず、空母を撃沈せず、ただ“接近”だけで、海は奪える」
「つまり?」
「シーベースだ」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
同日午後、DARPA(国防高等研究計画局)本部。
秘密裏に進行していた「流動型洋上拠点」構想、通称“シーベース・プロトコル”が、正式に開発段階へと移行した。
浮体式滑走路、洋上揚陸支援、艦隊防空ドーム――技術的には部分的に可能だったが、構想全体を“戦略ドクトリン”として扱うのはこれが初めてだった。
「敵が海図を書き換えているなら、我々は“海図の外”に立たねばならない」
DARPA主任研究員はそう記した。
海軍戦略本部・深夜。
第3艦隊作戦室では、全艦艇のAIS信号が暗号化再構築された。
新たな識別コード、艦底ステルス塗装の導入、艦内対UUV音響防壁の設置――。
そして、シーベース構想の中核艦「ヘラクレス」の事前配備準備が極秘裏に開始された。
ヘラクレスは、米国初の“洋上自己完結型作戦プラットフォーム”となる予定だった。
それは空母以上の“都市”であり、港に依存せず、燃料・兵站・統合作戦能力を内包する、まさに「移動国家」であった。
数週間後。
シーベース構想は、大統領の特別国防指令によって「試験配備」へと進む。
その布石として、NSC(国家安全保障会議)にて国防長官が計画の骨子を発表する場面――それが、次章「第2章:沈黙の海図」で描かれる会議室の幕開けとなる。
その日、ジーナ・エルズバーグは最後のログをNSAから送信しながら、ふと呟いた。
「彼らは、まず“海を消した”。次に、我々を“見えなく”するつもりだ」
その言葉は、誰にも届かず、回線の中へと沈んでいった。