7. 奇襲
その日はなんの変哲もない日だった。
ジャン兄は村の人に声をかけられてほとんど家に居なかった。その分いつもよりもリックと一緒にいて、ベラ姉と一緒に夕飯をつくった。ルーク兄はリックの姿に思うところがあったのか、珍しく一人で木剣をふるっていた。ロット姉は先生と一緒に服を作っていて。ロット姉は先生に新しい技術を教えてもらうと楽しそうにしていた。
村から帰ってきたジャン兄とロット姉たちに、ベラ姉と一緒に作った夕飯を出すと大げさなくらい皆褒めてくれた。ほとんどベラ姉がつくったけれど、今までで一番うまくいたから、私もリックもそんな皆に頬が緩んでしまう。これからもっと手伝えたら嬉しいな。
「アン、リック、もう寝てしまいなさい」
「はーい」
「でもまだねむたくないよ?」
「きっと横になって目をつむったら眠くなるわ」
そう言って先生にさあ、と背中を押される。リックは今日ジャン兄がいなかったから、まだ体を動かし足りないみたい。まだリックはジャン兄がいないところで木剣を握ることを許されていないから、ジャン兄がいないと自然と練習ができないのだ。先生に諭されても不満げなリックの手を握って、行こう、と促すとようやく寝室へと向かってくれた。
「おやすみなさい、アン、リック。
2人に精霊が微笑みますように」
そう言って先生は布団を肩までかけて、そう口にする。ベラ姉たちも布団をかけるときによくそう口にするけれど、一体どういう意味なのだろう。それに、その言葉はずっと前にも聞いたことがある気がする。
「先生、『精霊がほほえみますように』ってどういういみですか?」
いつも言っていることを急に聞いたからか、先生は一瞬きょとりとしてこちらを見る。先生の珍しい表情だ。
「そうね、主に相手の幸せを願う、という意味かしら。
私がこうして寝る前に声をかけるのは、夢の中でもあなたたちに幸せでいてもらいたいから、かしらね」
夢の中でも幸せに。たまに怖い夢を見てしまうこともあるけれど、ほとんどの日は覚えていないか、なんだか楽しい夢を見ている気がする。もしかしたらそれは先生たちのおかげなのかも。
「すごい、せいれい術みたい」
「ふふ、精霊術ね。
リックがそう考えてくれるのなら、そうなのかもしれないわね。
いい夢を見ているかしら?」
「うん!」
「わたしもです!」
元気よくそう答えた私たちに先生はまた口角を上げる。そうしてもう一度、寝る時間よ、と声をかけられてしまった。トントンと一定のリズムで叩かれてしまうともう駄目だった。私もリックもそのまま夢の世界へと入り込んでいた。
***
乱暴にゆすられて、意識が浮上していく。ゆっくりと目を開けると、先生が目の前にいた。寝坊してしまった⁉ と慌てたけれど、外はまだ暗い。こんな風に起こされたことも、こんな時間に起こされたことも初めてで、ぱちぱちと先生を見ていると、こっち、と説明もなく手を強く引かれた。
「せんせい……?」
部屋を出ると、異様な音が聞こえてきた。いつもは夜は静かなのに、怒鳴り声と剣が当たる音が響いている。先生はただ無言で私たちを先生の部屋へと連れてきた。
「アン!
リック!」
「よかった、無事だったんだね」
「ロット姉、ルーク兄……?」
先生の部屋にはすでにロット姉とルーク兄がいた。二人は私たちを見つけると、ぎゅっと力強く抱きしめてくれる。ゆらりと、寝るときも手首に巻いているリボンが揺れた。二人は居るのに、ベラ姉もジャン兄もいない。なら、先ほどの音と声は。
「ねえ、何がおきているの?」
恐る恐るそう尋ねると、二人はよくわからないけれど、と表情を暗くした。誰かが夜中にこの家を訪れたみたい、とロット姉が口にする。こんな時間に? と首をかしげると、いいお客さんではないよ、とルーク兄が言った。
「ほんとう、僕ももっとちゃんと剣をジャン兄に習っておけばよかったよ」
ルーク兄はそう言うと、悲しそうに笑った。そんなルーク兄にロット姉がうつむいた。
「アン、リック。
こちらへ。
ロットとルークが入るのは厳しいけれど、二人なら入れるはずよ」
そう言って先生が示したのは、部屋の奥にある小さな棚。確かに私たちなら入れそう。一体何が起きているのか、不安だから本当はみんなと一緒に居たかったけれど、早く! とめったにない先生の大きな声にすぐにリックと2人で棚へと向かった。
先生に持ち上げられて、中身を出された棚へと入れられる。先生は私たちの眼をじっと見つめた後、ぎゅっと強く抱きしめられた。扉に手をかけた先生は、優しくほほ笑むと口を開いた。
「強く生きるのよ、アンシェル、アベリック。
あなたたちに、妖精がほほ笑むことを心から願っているわ」
瞬間、ふわりと小さく風が私たちを取り巻いた気がした。
「せんせい?」
ぱちぱちと目を瞬かせていると、扉が閉められて暗くなる。扉の隙間からわずかに光が入ってくるだけ。先生に名前を呼ばれるとは思わなくて、先ほどの笑みが誰かと重なって、心臓がばくばくと音を立てる。最後に言った言葉もいつもとは意味が違う気がして、それもまた怖い気持ちになる。不安になって動かした手はすぐにリックの手にぶつかって、どちらともなく手をぎゅっと握った。
「ここかぁ⁉」
聞いたことのない怒鳴り声が聞こえてきたのはそのすぐ後だった。びくり、と肩が大きく揺れて、リックの手をさらに強く握りしめる。棚の扉の隙間から外の様子を覗くことはできなくても、声だけは良く聞こえた。
「こんな夜中に、失礼では?
……ベラとジャンはどうしたのですか?」
「さあなあ?
そんなことより、緑の眼のガキどもはどこだ?」
緑の眼……? この人は私たちのことを探しているのだろうか。なんで? こんなひとたち知らない。先生、と聞いたことがないほど弱い声で呼ぶロット姉とルーク兄の声が聞こえた。
怖くなってぎゅっと目を閉じる。するとふいに耳を何かに覆われて、音が遠のいた。つないだ手は離されていて、リックだ、とすぐに気がつく。その手は震えている。リックも怖いんだ。私は開いた手をリックの両耳にあてて、ひたすら耐えた。
どのくらいの時間が経っただろうか。たぶん一瞬のこと。でも、ずっと長い時間に感じた。辺りに鉄の匂いが漂いはじめて、さっと血の気が引いていく。これって。思わずリックの耳から手を離して、口元に手を持っていく。リックも限界だったのだろう。私の耳からもリックの手が離れる。
覆うものが無くなった耳から上機嫌な男のこえがする。お願いだから気がつかないで。
全部悪い夢であってほしい。起きたら、いつも通り先生もベラ姉もジャン兄も、ロット姉もルーク兄も笑っていて。いつもと変わらない一日が始まって。そんな朝が来てほしい。ぼろぼろと涙がこぼれていく。手首に巻かれたリボンをぎゅっと握る。どうして、こんなことに。
願いは叶わない。ここかなぁ、という言葉が聞こえたと思ったら、ゆっくりと棚の扉が開かれていった。