1:プロローグ(婚約破棄の過去)
「ジーナ、君との婚約を破棄する」
カールは悪夢のような言葉を事も無げに言い放った。
今日はジーナとカールの十五歳の誕生日。
幼いころから魔術師になるのが夢だったカールが大魔術師ロロバルの弟子になることが決まったお祝いも兼ねた食事会。
黒い短髪の少女ジーナは、朝から張り切って焼いてきた不格好なパイの包みを抱えたまま、言葉の意味を受け入れられずに固まっていた。
「なんで……?」
「俺は将来、王都で名をとどろかせる偉大な魔術師になるだろう。君のような体力バカの孤児なんかと結婚するわけがないよね」
孤児院で育ったジーナは、十歳の時に王都の鍵職人夫婦に里子として受け入れられた。
たまたま隣に住んでいたカール少年は同い年で誕生日も一緒だった。
二人はすぐに仲良くなった。
魔術の才能がある人間など、この王都ですらめったにいない。
カールは五歳の時から魔力を形にすることができる天才魔術少年として期待されていた。
だが、それから五年経っても彼の魔術の才能はそれ以上伸びることがなかった。
ジーナが彼と初めて出会ったとき、カールは手のひらに魔力の流れを紐状の形にして、黄金色のネコの顔を描いてみせた。
煌めく魔力の紐――ただそれだけの魔法。
十歳のカールが使えた唯一の魔法。
何の役にも立たない魔法。
周りの大人たちはそれに失望していた。
でもジーナはその魔法が大好きだった。
無口なカールの、胸の奥に秘めた情熱や優しさが、その「黄金の紐」にあらわれている――ジーナはそう思っていたから。
カールは身体の弱い子供だった。
対照的に、ジーナは頑丈で動きが早くて、よく走った。
幼い二人はいいコンビとなった。
ジーナは魔術実験に必要な触媒となる植物を丘の上まで採りに行ったり、壺いっぱいの水を汲みに行ったり、ずっとカールを支えた。
「ジーナは体力があって頼もしいな。大人になったら冒険者になるといいかもね」
「冒険者?」
「ああ。キミなら戦士や武闘家にもなれるよ。ギルドに届いた依頼を受けて困っている人を助けるんだ」
「あたしなら、そのクエスト全部受けてやるよ」
「ははは。ジーナは強い冒険者になるだろうから、できるかもね」
「……あたしが強くなったらカールのこともずっと守れるな」
「ばかいえ。魔術師になったら俺が魔法でジーナを守るんだよ」
いつも二人は、笑いあっていた。
そうして三年が経った。
ジーナの支えもあって、カールは少しずつ多彩な魔術を使えるようになり、国営魔術学園への入学も狙える程の腕前になった。
二人の誕生日の夜。
ジーナとカールは二人が初めて出会った場所――王都居住区の三叉路にある噴水の前で待ち合わせた。
「ど、どうしたんだよカール。改まってさ」
「うん。どうしてもこの場所で、キミに伝えたいことがあるんだ」
それまで少女らしい経験をほとんどしてこなかった十三歳のジーナは柄にもなく緊張していた。
「ジーナありがとう。すべて君のおかげだよ……」
カールは手を広げると、あの頃と同じ魔術を使った。
魔力を具現化した黄金の紐が、手のひらの上で踊る。
紐はカールの思い通りに微細な動きを見せて、シロツメクサの葉の形を描く。
求愛の象徴とされる、あの葉の形だ。
ジーナは顔を赤くした。
「それって……そういう、事だよな?」
「うん。そういう事だよ、ジーナ」
照れる顔を隠してくれる夜の闇がありがたかった。
こうしてジーナはカールの婚約者となった――はずだった。
……そして二年後、美しい思い出はそれをくれた本人の手で今砕かれようとしている。
「なあ教えてくれカール。あの時、そういう事だって言ったよな?」
「言ったさ。抽象的な言葉だ。解釈の仕方は人それぞれだな」
――カールはおかしくなったのか。
――それとも、元からそうだったのか。
「俺は大魔術師ロロバルの娘と結婚する。そういう事だよ、ジーナ」
ジーナは痛くなるほど両の拳を握りしめる。
殴りつけて全部の歯を吹き飛ばして、一生呪文を唱えられないようにしてやろうか。
しかしそれをやると何もなかったジーナの人生から、本当にすべてが失われてしまうような気がした。
彼女は踵を返して戸口を向いた。
王都を出よう。そしてここには二度と戻らない。
「待てよジーナ。どこへ行くんだ」
呼び止めたカールは呪文を唱えた。
高速詠唱――この1年でカールが取得した高等技術だった。
無数の魔力が「黄金の紐」を形作る。
その、ジーナが一番好きだった魔法が、彼女の腕と足に容赦なく絡みつく。
ネコやシロツメクサの形を無邪気に描いていたそれは、いまや冷酷な武器となっていた。
ジーナは完全に拘束状態となった。
「あたしを離せっ、この裏切り者っ」
「そうはいかないよ。ジーナには最後の役割が残っているんだから」
「カール!あたしはあんたを絶対に許さない。地獄の果てまで追いかけて‥‥むぐっ」
黄金の紐はジーナの口も塞ぎ、呪いの言葉を吐くことすら許さなかった。
カールはゆっくりと近づくと、さらなる悪夢のような言葉をジーナに投げかける。
「キミのその無駄に健康な身体……、魔術界の発展のため、人体実験の材料にしたいという人がいてねぇ」
悪夢は一度では終わらない。
捕らわれた者に何度でも訪れる。
その後、王都でジーナの姿を見た者はいなかった。
そして、時は流れて――
皮肉なことに、あの日、裏切り者が口にした言葉通りに。
ジーナは冒険者になっていた。