第7話 そこにある物語を
音を立てて割れたガラス。
途端、閉じ込められていた中の空気が外へと流れだす。
激しく揺らめくカーテン。
「大丈夫で――うっ」
たなびく裾は、3人が今生で嗅いだことのない、強烈な悪臭を連れて来た。
思わず言葉を途切れさせた優。
「ぅぅ……」
「おぇ」
シアと西方も予期せぬ激臭に顔をしかめる。
それでも優は手も足も止めず、肘で鼻を覆いながら、
「大丈夫ですか……?」
カーテンを開く。
やはり寝室のようで、最初に見えたのは大きなベッド。
その白いシーツには真っ黒いシミがあった。
壁や床にも飛び散るそれは、
――血だ。
少し盛り上がっているブランケット。
破れたようになっているその隙間からは、
(骨、か……?)
血が付いたまま放置された骨のようなものが見えた。
人が死んでいる。
優もある程度、予想と覚悟はできていた。
外地演習でも、彼は旧友たちの死体を目撃している。
それでも、
(やっぱり、慣れないな……)
現実逃避しようとする脳を無理やりつなぎ留め、状況から何が起きたのかを推測していく。
魔獣がいる可能性もある。思考停止は、死につながるのだ。
誰もが出来て、自分にもできること――考えることを止めない優。
「どう、神代君?」
「多分、死体だ。心して見てくれ」
隣に並んだ西方も室内の惨状を目にする。
「ひどいね……。寝ているところを襲われた、と見るべき?」
「ああ。……西方、落ち着いてるな」
「まあ、特派員になったからにはね」
自分と違ってかなり落ち着いて見える西方に、優は覚悟の違いを実感する。
が、卑屈に傾きそうになる心を、頭をふって切り捨てる。
立ち止まってはいられない。
「西方、この部屋だけでもいいから〈探査〉を頼んでいいか? 特にベッドの下だ」
「了解。マナを絞って……〈探査〉」
西方が放ったミントグリーンのマナが波紋のように部屋を駆け抜けていく。
その間に、優は振り返った先にいる、少し顔色を悪くしたシアに声をかける。
「死体があります。……多分、人の」
「……わかりました」
優の確認に頷くその目には、憂慮はあっても怯えは無い。
シアもきちんとそのあたりの覚悟はしていた様子。
「余計なお世話、でしたね」
「そんなっ! 心配して頂いて、ありがとうございます」
どこか翳りのようなものを優の顔に見て取ったシア。
思い出されるのは、先の天とのやり取り。
察するに、何か悩んでいるらしい。
シアにとって優は自分に“生きること”を教えてくれた恩人で、2度も命を救ってくれた存在でもある。
そんな彼の力になりたい。頼って欲しい、相談して欲しい。
(私、ワガママになってる……)
そのことは自覚しつつも、
「優さん」
「はい?」
胸元で小さく拳を握って、いざ悩みを聞こう。
「――やっぱり、何でもないです」
と思うが、今は探索中。危険な外地のど真ん中。
時と場所は弁えるべきだった。
それでも昼食の時にでも聞こうと決意する、そんなシアに、
「……? 何か困ったことや悩み事があれば、ちゃんと言ってくださいね」
「なっ?!」
当の本人がそんなことを言うものだから、シアとしてはどこまでも、やりきれない。
「優さんは、本当に、もう……っ!」
行き場のない感情を、小さく愚痴をこぼすことで発散するシアだった。
「この部屋に魔獣はいないみたい。生き物も小さい虫ぐらい」
「了解だ、西方。ありがとう」
物陰からの奇襲の可能性を排除して、まずは寝室を調べていく。
優はまず、ベッドに寝ている人物の最期を推測することにした。
とは言っても、少し前までただの中学生だった優に医学の知識など無いに等しい。
あるとすれば――
「西方って、医学系の本も記憶していたりしないか?」
「少しなら」
「さすがだな……」
頼りになる友人の知識を借りながら見えてきた、この人物の今際の際。
飛び散った血液から見て、病気などでは無いだろう。死因は当人以外にある。
家の周囲の状況から見て、死んでからあまり時間は経っていないとみるべき。
一週間ぐらいだろうか。
季節柄、腐敗は進みやすい。
しかし、その過程で出るはずの溶け出した肉の跡がないこと、うじ虫も、そのさなぎもほとんど見当たらないことから、
「腐る肉が無かった。つまり、魔獣に身体を食べられたんじゃないかな」
「なるほどな……」
「この臭いは死体というより、血が腐ったものなのかも」
男子2人死因を明らかにする一方。
シアも、自分にできることが無いかと室内を慎重に検めていく。
コルクボードには、ここにも夫婦の写真が貼られている。
このご時世だ。一番親しい間柄である家族を大切にする心理は、亡き両親がいるシアにはよく理解できた。
となると、遺体は夫婦どちらかと考えるのが妥当。
彼、あるいは彼女がここに残った理由を考える。
そこにどんな人生があったのか、物語があったのか。
天人として、思いを馳せるシア。
と、仕事机だろうか。その上に置かれた手帳が目に入る。
悪いとは思いつつも手に取り、使命感と敬意を忘れずに開く。
それは日記だった。
字はお世辞にもきれいとは言えず、妻が先立ってから書かれたその内容も決して多くない。
それでも、そこにあっただろう生活と想いがシアの瞼の裏にありありと浮かんだ。
(愛する奥さんと暮らした、大切な思い出の詰まったこの家を離れたくなかったんですね)
きっと、それが、彼がこの地にとどまった理由だろう。
シアは日記と写真1枚1枚を丁寧にボードからはがしていく。
そして、机に大切に保管されていた奥さんの形見である金属プレートを持って、優たちの所へ向かった。
「優さん、これ、この方の遺品です。きっと、一番大切な」
「これは……、日記と特派員免許ですか?」
「はい。どうやら奥さんは特派員だったみたいで……。旦那さんがここに残った理由も、わかった気がします」
「それは良かったです。けど……」
優は先ほどから何かを見落としているような気がしていた。
「それじゃあ私はひとまず、この家全体に〈探査〉してみますね」
そう言って立ち上がったシアが、寝室の出入り口へと歩いていく。
その足元には赤黒い、小さな点が続いている。
「……あれ? ドア、開いてます」
ノブを手に、シアが不思議そうにしていて――。
瞬間、優の脳裏にある懸念がよぎる。
「っ?! シアさん、ドアから離れろ!」
「――ぇ?」
咄嗟のことに口調を乱暴にしつつ、彼は叫んだ。