第7話 “あの日”が“今”に
世間がどうあろうと、第三校は教育機関でもある。4月7日の金曜日。始業式の翌日からはもう、通常授業が始まった。
優が座るのはクラス全体を見渡すことができる右側の列の最後方だ。三々五々、授業を受ける学生たちの後頭部を見ることができる。が、やはり去年との差はかなり感じる。
たとえば、今日は春らしい淡い色合いの服を着ているシアの後姿があったり。他にも、去年在籍していた児島クラスでは少なかった髪を染めた学生がちらほらと居たり。全体的に“あか抜けた”という表現が似合うように思う。
この場にいるほぼ全員が、何度とない死の危機を味わっている。
いつ死ぬか分からない。ならば、せめて今この時を懸命に自分らしく生きよう。そんな気概のようなものを感じる優だ。
(2年生か……。もう1年経ったと見るべきか、あと2年しかないと見るべきか……)
春の陽気に包まれて、大きなあくびをこぼす。そんな優が2年生の春を穏やかに謳歌できたのは、この日だけだった。
変化があったのは、土日を挟んで週明け。月曜日のお昼休みのことだ。今しがた終わった数学は今年から「数学Ⅱ」に進化して、さっそく優を苦しめてきた。初回の授業でこれだ。果たして自分は数学Ⅱという強敵を討伐できるのか。
現実逃避も兼ねて幼稚な考えをする優は、憎き数学Ⅱの教科書を乱雑にリュックサックにしまう。続いてタブレットで確認するのは、今年の時間割だ。
(次は……。なるほど。春樹たちとも話した自由選択科目か)
今年から顔を出す新しい時間割の文字の羅列に、優は先週末のショッピングモールでの話を思い出す。
今週のうちに自由選択科目をどれにするかを届け出て、今週は暫定的にその授業を受ける。週末に集計が行なわれ、授業の定員を超えれば抽選。そこで落選したり、授業の定員に満たなかったりした場合は別の授業を選択する。1年次には無かった可変式の時間割だった。
結局、優が選んだのは「茶道」と「日本舞踊」の2つ。なんとなく、自分がまだ極めることのできていない魔剣一刀流に通じるものがありそうだと思ったからだ。
実際、優が師匠と慕う女子学生・常坂久遠にメッセージアプリで連絡を取ってみれば、「良いと思います」と絵文字もスタンプもない淡泊な返信がきた。口下手な彼女の話を優がどうにか膨らませれば、芸術に触れることは物事を俯瞰的に見る「花の型」に通じるという話だ。
普通に暮らしていると、なかなか触れることが無い茶道と日本舞踊。ゆえに今回の自由選択科目を機に選んでみようと考えた優だった。
「両方ともE棟か……」
基本的に優たち学生が授業で使うのはA棟とC棟だ。優がクレアとやり合った第2駐車場に近いE棟は、音楽や芸術などで使われることが多い。優が今いるA棟と食堂を挟んで反対の位置にあるため、昼食からの動線はスムーズ。急ぐ必要もないと、優がゆっくり昼食に向けた準備をしていた時だ。
「優~。お客さんだ」
後方。今日は部活の先輩と昼食だと言っていた春樹が、優のすぐ後ろにある出入り口から声をかけてくる。
「俺に……?」
誰だろうか。リュックサックのチャックを閉めながら優が振り返ると、見覚えのない女子学生の姿がある。眉を寄せて疑問の顔を崩さない優とは対照的に、茶色いポニーテールを揺らす女子学生の顔が一気に華やぐ。そして、軽い足取りで教室に入って来ると、
「初めまして、神代優さん!」
座ったままリュックサックを抱いていた優の両手を取った。
優を見下ろす瞳は天より少し暗い茶色。瞳は生命力に溢れ、活発さをうかがわせる。
身長は160㎝より少し高いくらいだろうか。少し焼けた肌に、長い手足。半袖から覗く腕や、ひざ下丈のスカートから覗くふくらはぎはどちらも健康的な太さだ。日常的に身体を動かしているか、何かしらのスポーツをやっていたのだろうことが分かる。
また、優の個人的な印象だけで言えば、女子学生は大人っぽい。自分と同じか少し上の年齢である気がした。
初めましてと言ったように、女子学生が優と会うのは初めてなのだろう。だと言うのに、この距離感の近さはどういうことか。
「え、あ、えっと……?」
やはり戸惑うことしかできない優とは対照的に、手を握ったまま嬉しそうなのは女子学生だ。
「実はアタシ、1年前に神代さんに助けてもらったんです! でもあの時、お礼を言えてなかった気がして……。ここの文化祭を見て、受験して……。やっとお礼言える~っ!」
優の手を取ったまま、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねている。目端に涙すら浮かべるその姿は、彼女がどれほど優との“再会”を望んでいたのか伺えるものだった。
しかし、相変わらず優には話が見えない。女子学生は優に助けられたと言った。だが、優に彼女のような女子を助けた覚えはない。人違いではないか、というのが正直なところだ。
「すみません。どこで――」
「優さん? どうかしたんですか?」
どこで会ったのか。女子学生に尋ねようとした優の言葉を遮ったのは、シアだった。ちょっとした盛り上がりを見せていた優の様子を見に来たシア。ただ、そこで彼女が目にしたのは女子学生とぎゅっと手を握る優の姿だ。
胸をよぎった嫉妬の炎を冷静に振り払ったシアは、優の手をがっちり掴む女子学生へと目を向ける。
と、そこに居たのは見覚えのある|女子学生だ。
「あなたは、この間の……」
「え? あ~! この前アタシを助けてくれたお姉さん!」
シアの顔を見て、女子学生が再び喜びの声を漏らす。
そう。優の手を握っている女子学生は先日、優たちが活動課たちから庇った女子学生その人だったのだ。優の手を握ったままではあるものの、シアに向き直った女子学生が勢いよく頭を下げる。
「その節はありがとうございました!」
ハキハキとした話し方。折り目正しいお辞儀。気持ちのいい女子学生の感謝に、シアも思わず口元を緩めてしまう。
「いえいえ。お礼なら身体を張ってくれた、そちらの優さんと春樹さんに」
「えっ。神代センパイ達、ですか……?」
シアにそう紹介されて、おずおずと顔を上げた女子学生。優と春樹を順に見ると、ゆっくりと顔を驚愕に染めていく。
「え~!? 神代さん達がこの前アタシを助けてくれたんですか!? じゃあアタシ、また助けられちゃったってこと!?」
「ま、待ってくれシアさん。それにアンタも。ちょっと状況を整理させてくれ」
色々と情報が錯綜して混迷を極める場を整えようと、春樹がシアと女子学生に対して待ったをかける。
「えっと、まずは名前だ。オレは瀬戸春樹。で、コイツが優な、神代優。で、あのキレイな人がシアさんだ。で……?」
自分、優、シアを順番に指し示して軽く自己紹介をする春樹。続いて「あなたは?」と手で示された女子学生が、思い出したように自身の名前を口にする。
「あっ、そうでした! コホン……。あたし、白名夏鈴って言います。去年まで高校2年生してました」
「白名さんだな?」
「はい! 神代さん、瀬戸さん。先日は助けていただいて、ありがとうございました!」
出会って二度目。今度は優と春樹に向けて、ぺこりと頭を下げる白名。彼女の話から推測するに、年は優たちの1つ上。ただし、今年受験をしたと言っていたために10期生なのだろう。つまり、年上の後輩ということになる。
「なるほど。白名さん、ですね? ところでいつまで優さんと手を……?」
なるべく笑顔が引きつらないように気を付けながら言ったシアに、ようやく白名もこれまでずっと優の手を握っていたことに気付いたらしい。
「あっ、嬉しくてつい……。すみません、神代センパイ」
「あ、いえ、大丈夫です。そんなことより……」
年上の後輩女子にずっと手を握られていた恥ずかしさ鋼の意思で表情から消し、優は無理やりに話の軌道を変えることにした。
「白名さんは、俺とどこで?」
「あはは、やっぱり覚えてないですよね。……アレです。去年の夏、メトロガーデンで」
「メトロガーデン……?」
メトロガーデンというと、大阪の地下鉄京橋駅の出口に広がる、半地下の巨大な複合型施設だ。シアとコウの婚約発表会場だったハハ京橋から程近いその場所は、昨年の夏、誘拐されたシアを“保護”するために優がコウと戦った場所でもある。
そして、少し前に白名が言っていた「助けられた」という文言。それらが優の頭の中で結びついた時、ようやく。
「……もしかして、コウに攻撃されかけてた女子高生さん、ですか?」
優にようやく思い出してもらえたことがよほど嬉しかったのだろう。白名は歯を見せながら嬉しそうに「はい!」と笑う。
優が【魅了】を司る男神・コウと戦った時のことだ。コウはシアの良心を責め立てて魔法を阻害しようと、事の成り行きを見守っていた観衆を攻撃しようとしたのだ。その際、彼が攻撃しようとしたのが、当時、部活帰りだった白名だったのだという。
「ですが、神代センパイに助けてもらったんです!」
「えっ。じゃあ白名さん。わざわざあの時のお礼言うために、第三校に来たんですか……!?」
驚き混じりに言う優に、白名は苦笑しながら首を振る。
「正確には少し違います。けど、アタシが第三校に来るきっかけになったっていう部分はそうですね」
ようやく優に会えた興奮が収まってきたのだろう。年相応の落ち着きを取り戻したらしい白名が、改めて優に深々と頭を下げる。
「あの時アタシを助けてくれて。それから、アタシに夢をくれて。本当にありがとうございました」
落ち着いた声色で、自分の人生を変えてくれた人に頭を下げる白名。彼女のような後輩の存在が、優にとって嬉しくないはずが無い。
プライベートなことだろうため、何がどうなって白名が第三校に来ることになったのかは正確には聞けないし分からない。
それでも彼女は確かに、神代優という存在がきっかけでこの学校に来たと言ってくれたのだ。それはずっと優が抱いてきた『誰かに誇ってもらえるような人間になりたい』という想いの最高の形なのではないだろうか。
ヒーローは、見ている人々に勇気を与えてくれるだけではない。助けた人々に優しさを分け与え、温もりの輪を広げる姿も印象的だ。そうして優しさと温もりの輪は広がっていき、人々が恐怖や悪に立ち向かう新たな力を得る。ヒーローモノの王道展開だ。
そんな中、自分が助けた白名夏鈴という人物が、後を追って特派員を目指していると言ってくれている。
こんな自分でも誰かに勇気を与えられるのだという確かな証拠であるような気がして、優の目頭が熱を帯びる。
「良かったな、優……」
「やめろ、春樹。泣くぞ……」
優しい親友の言葉に、天を仰いで目元を隠す優。そんな彼に、
「これからよろしくお願いします、神代センパイ♪」
白名が人好きのする笑みで言うのだった。




