第4話 それでも
結局、相原という名の男子学生とセルを組むことができず、単身、魔獣と向き合うことになった優。雨か汗か分からない水滴をジャージの袖で拭った彼は、空飛ぶ肉塊のようなハエの魔獣の動きに注視する。
今のところ、ハエの魔獣に動く気配はない。ただ、耳障りな音を立てながら浮遊している。ただそれだけというのに、優の足は震えてしまっていた。
(格好悪いな……)
魔獣という死の恐怖を前に、足が、全身が言うことを聞かない。
優が魔獣と闘うのは先週に続いて二度目だ。魔力から考えて、個体としての強さは恐らく前回シアと共に戦った2体の方がはるかに上に違いない。群れを成せばハエの魔獣も脅威になるだろうが、今は目の前の1体だけしかいない。
(だから、大丈夫。大丈夫なはずなんだ……っ)
そう、優が自分に言い聞かせてみても、震えは消えない。
優は、自分がこの手で魔獣を倒したことなどないことを、きちんと自覚してしまっていた。前回、魔獣を倒したのはシアと進藤だ。確かに自分もやれるだけやった自信は優にもある。
しかし、勇気を出してイノシシの魔獣に対して使用した〈魔弾〉は、これと言った効果を見せず、また、その後戦った犬の魔獣には全治1週間の手傷を負わされた。そのため、今の優の中にあるのは、魔獣が脅威であるというイメージだけだ。そんな魔獣たちを、魔力の低い自分が倒すイメージなど、持てるはずもなかった。
このままではいざという時に動くことが出来ない。目の前に居るのはハエのような魔獣だ。実際は、ハエを捕食した動物が変足したものだと考えられるが、いずれにしても、素早く、機敏な空中移動が可能だということは分かる。
(動け、動かせ……っ)
優が手足に命令しても、全く言うことを聞かない。そうして生まれる焦りや恐怖、不安、冷や汗が雨と混ざり、身体を冷やす。そうなると、体がさらに動かなくなっていく。その悪循環だった。
今なら、シアがイノシシの魔獣の突進を前に体を硬直させた理由がわかる気がする優。実際には、シアは自責にとらわれて動けなかったのだが、優は彼女が恐怖で動けなかったのだと今でも勘違いしたままだった。
そして先週の自分はと言えば、魔獣を前にしても立ち尽くすことなく、考え、行動できていた。
(本当に、あの時の俺はどうかしてたんだな……)
そうしている間にも、魔獣はゆっくりと優に近づいている。それでも優の体は動かない。極度の緊張状態。羽音はもはや聞こえず、優自身の心音だけが鼓膜を叩く。
視界も恐ろしいほど鮮明で、羽ばたき含め魔獣の動きが全て見えている。全身のしわが伸び、小さかった口が人の頭を飲み込めるほど大きく広がっていく。そんな捕食の過程も、優の視界はきちんと捉えることが出来ている。
命の危機にある。
思考もまとまっていて、逃げるべきだと正しい指示を出している。けれども、優の体は動かない。
開いた魔獣の口が、もうすぐ優の視界を覆いつくす、直前のことだった。
優の体の中を、マナの波が通り過ぎていく感覚がある。〈探査〉によって生じたマナの波が優の身体を通り抜けて行ったのだ。それが、続けざまに二度。まるで責任感の強い使用者の思いを映したように、慎重に、慎重に。戦闘の邪魔にならないよう配慮されたマナの色は――透き通るような白色をしていた。
(白いマナ! シアさんか!)
マナは背後から来た。恐らく自分よりも遠く飛ばされ、外地のより深い場所にいるのだろうと、死を目前にして加速する優の脳が状況を把握していく。
(もし俺がここで食べられてしまったら)
優の脳は勝手に“その先”を考える。自分を食べた魔獣は次に、シアを、やがては天や春樹を、家族を食べるのだ。しかも彼ら彼女らを襲う時には、優という人間を食べて魔法を使えるようになっている可能性が高いだろう。
自分よりも強く、優秀な天たちであれば、魔獣をあっけなく倒してしまうかもしれない。
しかし、もしそうでなかった場合。彼らも食べられてしまう。死んでしまう。なぜなら、自分が魔獣を前に格好悪く震えて、ここで食べられてしまったからだ。
(それは、それだけは許せない)
優の指先がピクリと動く。
優は憧れている。例えば、天才で可愛い妹、天に。幼馴染でいつでも頼れる兄のような春樹に。力があるからこそ全てを自分のせいだと背負い込み、それらを解決できる力を求めて努力するシアに。
あるいは、魔獣という脅威から優と天を守り、育ててくれた両親に。今も知らないところで魔獣を倒し、人々を守っている特派員――ヒーローに。
もう子供の頃のように無邪気に、自分がヒーローのようになれると優は思っていない。さんざん笑われ、馬鹿にされ、無理だろうとも、恥ずかしくないのかとも言われた。
(でも、それでも――)
優は人々を守り、誰かに誇ってもらえるような、そんな格好良い人間になりたい。力不足を分かっていてもなお、憧れることだけは止められず、優は今、こうしてここにいる。
そんな自分が、弱さゆえに、誰かの迷惑になっていいはずがない。優にとって自分が弱いことで迷惑をかけることは、あまりにも格好悪いことのように思えた。
今、自分は魔獣を倒さなければならない。自分と、そして大切な人たちを守るために。そうして芽生えた使命感が、優の身体に火を灯す。
気づけば全身の震えは止まっており、目の前には口を広げて無防備な魔獣がいる。この魔獣は逃げ去る相原にも、シアの強力な〈探査〉にも反応しなかった。恐らく、何を感じ取っても逃げないだろうというのが、優の予想だ。
蛇の魔獣を倒した余裕だろうか。あるいは、空腹からか。どちらにしても、優にハエの魔獣が見せている隙を逃す理由はない。〈創造〉で創り出した無色透明なサバイバルナイフを静かに、無防備な姿で口を広げる魔獣へと振り上げる。
『大切な人を守るために、魔獣を殺す』
そんな強い意思を込めて。
すると、どうだろうか。
魔獣に刃が触れた瞬間わずかな抵抗があったが、それだけだ。サバイバルナイフは優のイメージ通り、いとも簡単に。ハエの魔獣を二分したのだった。
「ふぅ……、ふぅ……」
荒く息を吐く優の目の前に、ドチャドチャと音を立てて落ちる肉塊。しばらく脈打ったままだったハエの魔獣の残骸もすぐに拍動を止め、しばらくすると黒い砂になり始める。
魔獣を倒した。
その事実を噛みしめたい優だが、今ではないと気を引き締める。すぐに〈探査〉を使って、近くにいると思われるシアを探す。
優が〈探査〉できる範囲は広くない。危険だが魔獣の居所を探りつつ後方、内地から離れるように件の斜面を移動しながらシアを探すこと少し。
ようやく、大きい魔力を持った人物の反応が、優の〈探査〉に引っかかった。
状況から見て、間違いなくシアだろうと優は判断する。内地側から魔獣が来ていることもあって、幸いまだ彼女の周囲に魔獣はいない様子だ。
シアのもとに急ぎつつ、優は相原の反応が無かったことを気にかける。〈身体強化〉を使って全力で逃げたのか。それとも――。
先ほどの〈探査〉で相原が逃げた方向に、少し魔力が高くなった魔獣が数体集まっていた。
「まさか、な」
魔獣同士の共食いであることを願いながら優が走ること10秒ほど。彼の目は、木の影に隠れて周囲を警戒する容姿端麗な黒髪の天人、シアの姿を映したのだった。