第5話 試練の結果は――
仲睦まじげにさえずる鳥の声。遠く聞こえるのは、鍛錬に励む門下生たちだろうか。まぶたを焼く日の光にゆっくりと目を開いた優が見たのは、見慣れた蛍光灯だ。どうやらそこは、常坂家の宿舎のようだった。
しかし、優の記憶が正しければ、先ほどまで自分は闇猫と戦っていたはずなのだ。それも、夜に。
「……ぁ?」
色々と状況が飲み込めない優は困惑の声を漏らしながらも、起き上がろうとする。が、身体が馬鹿みたいに重い。まるで数十キロの重りを胸の上にのせられているようだ。などと優が思っていれば、
(常坂さん!?)
優の胸の上には、すやすやと気持ち良さそうに眠る常坂久遠の姿がある。ただ、今日の彼女は白装束ではなく、ダボっとしたパーカーとスウェット姿。まさに家着という、ラフな格好をしていた。
数日ぶりに見る姉弟子の姿。何よりも魔人カナメが彼女を殺した可能性を捨てきれなかった優としては、気持ち良さそうに眠っている久遠の姿にはホッとせざるを得ない。困惑よりも先に安堵した優は、再び敷布団へと身を横たえる。
久遠も自分同様に山中で5日間を過ごしたはずだ。恐らく疲労困憊と思われる。このまま寝かせておこうかと考えてしまうのは、優が16年間“兄”をしており、目の前の1つ年上の女性が自分を“お兄さん”と呼ぶからかもしれなかった。
そうして気がかりが1つ消えたことで、優の思考はようやく現状に向けられるのだが――。
(まさか夢だった、なんてことは無いよな……?)
直近5日間とは余りにもかけ離れた、平和な日常だ。昨日の闇猫との戦いも、春野とよく似たあの魔人も、いや、最終試練そのものが夢だった。そう言われても納得できてしまう。それほどまでに、長いようで短い5日間だった。
また、最終試練の間、優は基本的には寝不足でコンディションも最悪だった。どこか地に足のつかない感覚で過ごしていたのも事実で、文字通り夢のような日々だった。
――夢だったのではないか。
刻一刻と優の中で嫌な予感が広がっていく。
もしこれがいわゆる“夢オチ”というやつで、これから最終試練に向かえと言われれば、優は布団から起き上がれない自信がある。いや、結局は最終試練を受ける。だが、闇猫に単身で挑むなどという暴挙、冷静になった今の優は、到底できるようには思えない。
そういう意味でもやはり、最終試練は夢のような日々だった。それでも、優の中には確かな手応えとして残っているものがある。
「――〈月光〉」
呟きと同時にマナを周囲に置く。さらに目を閉じて五感に集中する――のではなく、あえて五感を鈍感にする。そうすれば、なるほど。目を閉じていても6帖ほどの宿舎の部屋と、そこに眠る自身の姿を客観視することができた。
(だが、さすがにあの時……闇猫と戦った時ほど、全能感みたいなものは無いか……)
自分を客観視してアバターを操作する。あの感覚には程遠い。
ふとした瞬間、それこそ自身の胸の上で「ん……っ」と、久遠が身じろぎするなどして集中力が途切れれば、一瞬にしてただの〈感知〉へと成り下がってしまう。〈月光〉を使いこなすには、瞑想を始めとする修行がまだまだ必要なのだと苦笑する優だった。
「あ、れ……。お兄さん?」
目をこすりながら、久遠が優の上から身を離す。寝ぼけまなこの姉弟子は、どうやらまだ夢と現実を行き来しているらしい。
「おはようございます、常坂さん」
「え? あ、はい。お、おはようございます……?」
まだ覚醒し切らない頭で、とりあえず優に挨拶を返した久遠。正座のまま、何度か目を瞬かせたのち、ゆっくりと自分が同級生男子の前で熟睡していたことを理解した。
徐々に顔を赤らめながら自分の腰や顔の側面を撫でる。が、そこに精神的支柱となっていたお面が無いことを思い出し、優の視線から逃げるように目をつぶる。そして、恥ずかしさと微妙な空気から逃げるために、
「あ、う、えぇっと……。お、お兄さんは昨日、猿広場で倒れていまして……」
と、優がここに居る経緯を話すことにした。
昨晩、道場で目を覚ました久遠は、自身が敗北したことを知った。ただ、同時に不思議にも思った。多量のマナをぶつけて三半規管を揺さぶり、久遠を気絶させたあの魔人。彼女はなぜ、自分を捕食しなかったのだろうか、と。
側で看病をしてくれていた母の話では、自分は道場の門の前で倒れていたという。つまりはあの魔人が、わざわざ久遠を道場まで運んだということだ。恐らく、あの場に久遠を放置すれば、魔獣や魔人に襲われる可能性があることを危惧して。
倒した人間を捕食しない。そんな謎の魔人の考えを推し量っていた久遠だが、
「それとね、久遠。まだ神代くんが帰って来ていないの」
そんな母の言葉で一気に体中の熱が引いた。
優の付近には、闇猫と謎の魔人が居た。もし鉢合わせるようなことがあれば、間違いなく死んでしまう。そのため久遠は着の身着のまま道場を飛び出した。もし彼を死なせるようなことがあれば、天に、シアに、顔向けすることができない。
魔人という悪に敗北し、常坂家の剣士として失格になってしまった今、もし親友の仲間を死なせてしまったと鳴れば、人としても失格になってしまう。
お面を着けることも忘れて、優を探すこと2時間。かつては猿が見られることで有名だった空き地に、彼は居た。それも、例の魔人に膝枕をされた状態で。
手遅れを覚悟した久遠。しかし、気を失っている様子の優を眺める魔人の目や、彼の頭を撫でる姿には一切の敵意が無い。むしろ優を愛おしむような、そんな感情さえ見え隠れしている。それでいて、少なくとも久遠の目には、魔人には一切の油断も隙も無いように見えた。
お面が無い自分では敵わないと剣士の直感で悟った久遠は〈閃〉で奇襲するでもなく、
『あ、の……』
そう声をかける。そんな久遠の声を受けて、ゆっくりと立ち上がった魔人。
『お母さん……闇猫と戦って、疲れちゃったみたいです。なので、あとはよろしくお願いします』
微笑みながらそう言って、夜闇に姿を隠してしまった。久遠の宝物である、狐のお面を装着して。
『え? あっ、待っ……くっ』
さすがに魔人を追うことよりも優の回収の方が優先だ。広場に倒れていた優の無事を確認。道場に帰還し、夜通し看病して今に至るというわけだった。
「ご迷惑をおかけして、すみません」
布団の上。深々と頭を下げた優に、久遠は身振り手振りで問題ないことを伝える。
「お、お兄さんがご無事で、何よりです。それで、その……闇猫は……?」
「倒しました」
ただ淡々と、事実だけを口にする優。人類史に残る偉業を達成したというのに興奮すらもしていない。そんな優の物言いのせいで、久遠もすぐには優の言葉の意味を理解できなかった。だが、優が興奮していない理由については、彼自身の口から明かされた。
「……いや。倒させてもらった、というのが正確な表現ですね」
窓の外を見る優の横顔には、苦虫を噛み潰したような表情が浮かんでいる。
「も、もしかして。女の魔人さんに、ですか?」
久遠からの問いかけに、優は静かに頷く。
確かに優は、闇猫をその手で葬った。しかし、その成果のほとんどは、あのお面の魔人ハルノにある。最後におこぼれを貰ったというのが、優の認識だ。だから優は人類史に残る闇猫の討伐を“自分が”したとは思っていないし、それを喧伝するつもりもなかった。
「あの魔人さん。何者なんでしょうか。闇猫さんのことをお母さんって呼んでました。それに……」
「人に敵意が無い、ですか?」
久遠の無事を確認したからこそ言える、優の言葉。魔人ハルノが言った「人を食べない」という言葉は嘘ではなかったのだ。
「は、はい。どうして私を食べなかったんでしょうか……?」
口元に手をやって理解できないと考え込む姉弟子。そんな姉弟子に優は、
「常坂さん。実は……」
魔人ハルノの正体を明かす。
『私は、たとえ相手がどんな魔人さんでも、き、斬ります。その人が、罪を犯す前に……。人としての尊厳を持っているうちに、殺します』
それは試練の前、久遠が言っていた言葉だ。そして優はようやく、その言葉の意味を理解した。
確かに魔人ハルノは春野とよく似た高潔な思想を持ち、圧倒的な力を持つ。何度も何度も想い人の陰がよぎるくらいには、色濃く春野の想いを引き継いだ魔人だった。
だからこそ優は彼女が闇に落ちる姿を見たくない。飢餓感にさいなまれる中で理性を失い、人を殺し、絶望する。春野によく似ているからこそ、優は魔人ハルノが罪を犯す前に討伐しなければならない。たとえそれが、再び想い人を殺すという行為であったとしても、だ。
だが、優が天才だと認めるあの天が意識せざるを得ない存在だった春野だ。彼女の意思を継ぐ魔人を討伐する難しさは、考えるまでもない。実際、闇猫をいともたやすく追い込んでしまう実力の持ち主なのだ。
そんな魔人ハルノを討伐するには、必ず、人間の極致に居るような存在――常坂久遠の力が必要になる。だから優は、彼女に魔人ハルノについて明かす。杞憂であると分かっていても、彼女がきちんとあの魔人を殺すことができるように。
そうして魔人のもとになっている人物である春野楓についても明かした優に、久遠は一言。
「――分かりました」
とだけ答えてくれる。笑うでも、茶化すでもなく。普段の頼りない姿を見せるでもなく。ただ真剣に、優の想いを受け止める。そのうえで、
「必ず、あの魔人を倒しましょう」
そう言って、藍色の瞳を優に向けてくれる。ここで久遠が「わたしが倒します」と言わなかったのは、優が闇猫を殺したという実績を手にしたからに他ならない。闇猫と刃を交わしたからこそ、久遠には分かる。たとえ誰かの助力があったとしても、闇猫に一太刀浴びせるだけでも至難の業だ。
事実、久遠は闇猫に攻撃を当てることさえできなかったのだから。
その闇猫を、優は倒したのだ。それは久遠にとって、神代優という人物を信頼するに十分すぎる実績だった。
そして、信頼というものにひどく敏感な優は、姉弟子の言葉に含まれている感情をきちんと読み取る。試練の前のように、私に任せろと言われない。共に戦おうと言ってくれる久遠の言葉に胸を震わせた優の返事は、
「はい!」
実年齢よりも少し幼い、夢見る少年の声そのものだった。
「ところで、常坂さん。今っていつですか?」
「え、えっと、3月の30日。時刻は……10時20分過ぎ、ですね」
腕時計を確認し、優の質問に答えてくれる。おかげで、優はようやく、最終試練が夢ではなかったことをようやく確認する。加えて、
「30日……。そうですか。それでは退舎の準備をしないとですね」
自身も布団から起き上がりつつ、優は手慣れた動作で布団を畳む。続いて、部屋に散らばっている私物を手際よく片付け始めた。
3月30日。それは修行の成果に関わらず、優が常坂家を出る予定の日だ。この日までに優に“自信”を獲得させるため、久遠も沢渡も苦心してきたといっても良い。期限を定めないと、優も久遠自身も、ズルズルと修業期間を引き伸ばしてしまう可能性があったからだ。つまり、緊張感がなくなってしまう。
そうして優と久遠が決めた修行の期限が、今日だった。
「あと、めちゃくちゃ聞きづらいんですが、俺の試練の結果って……」
片付けの手を止めた優が、恐る恐る久遠を振り返る。それに対して久遠は答えを返さなかったが、代わりに眉をハの字にして笑っている。
「ですよね……。はぁ……」
試練で成長できたかどうかという話以前の問題だ。指定された時間に、帰って来ることができなかった。遅刻してしまった。さらに言えば、姉弟子に背負われて帰宅したのだ。通常の試験で言うと、名前を書き忘れたレベルの失態と言える。
((これは、さすがに……))
優も久遠も、総師範である常坂平蔵の答えなど分かり切っていた。
それでも優としては〈月光〉の感覚を掴むことができたのだ。個人的な目標自体は、達成できた。その点において、自己評価として及第点は得たと確信する。
他方、久遠の目から見ても、優には試練の間に何かしらの変化があり、“自信”を身につけることができたように思う。本当は闇猫を倒したその実績が最高の自信になるはずなのだが、なぜかそれ自体はそうでもない様子。なぜ、優は闇猫の討伐を誉れとしないのか。久遠としては少し気がかりだが、それでも。
((強くなる(なってもらう)ことは、できた……はず!))
奇しくも二度、心の声をハモらせながら、目標自体は達成できたと安堵する優と久遠だった。




