第4話 想いは次代へ
優の意識が夢と現実を行き来する。五感も遠くなりまともに機能しない。その反面、身体は軽く、まるで浮いているようだ。
このままでは眠ってしまう。しかし、眠るわけにはいかない。闇猫を倒さなければならない。
優の強い使命感と意地が眠気とぶつかり合った時、ふと、優は奇妙な光景を目にする。暗闇の中にぽつんと立つ、白い半透明の人影だ。
(誰だ……?)
優が首をかしげると、その人影も同じように首をかしげる。その光景に優が反対方向に首をかしげると、優と同期するように半透明のシルエットも首を反対に傾けた。
(……もしかして)
優が自分の手元にサバイバルナイフを創ってみると、優の視線の先に居た人影の手の中にも、半透明のサバイバルナイフが出現する。いつものように姿勢を低く構えてみると、やはり、シルエットもサバイバルナイフを構えた。
(つまり、アレは俺、なのか……?)
言われてみれば、パッとしない自分の姿に見えなくもない。己を俯瞰的に見下ろしているような。ゲームで自分のアバターを動かしているような、そんな奇妙な感覚だった。
ただ、自分だと決定づけるにはなぜか強烈な違和感がある。カメラで自撮りをした時にも似た、しかし、それをはるかに凌駕する気持ちの悪さだ。
何がおかしいのか。どこが変なのか。しばらく考えてみた優は、
(――そうか! 俺の武器が見えているのか!)
無色透明なはずの自信のマナが見えていることに気付く。すると今度は、自分がシルエットに見えたり、自身の武器が見えたりするこの感覚に強烈な既視感を覚えた。
優は知っているはずなのだ。色などを見ることはできなくとも物の形だけがよく分かるこの感覚はまるで――。
(〈感知〉……!)
ここ1か月。四六時中付き合ってきた感覚であることに気付く。優の気づきが遅れたのは、これが俯瞰的な見方だからだ。普段の〈感知〉は自分自身を中心として、自分以外に意識を向けている。ゲームや小説で言うところの一人称始点というわけだ。
しかし今回は、自分すらもマナの感覚で捉える三人称の視点だった。その見え方の違いから、優は気付くのが遅れてしまったのだった。
(つまり俺は今、変な言い方になるが俯瞰的に〈感知〉を使ってるわけか)
自分を客観視していることもあって、自分でも驚くほど冷静に優は状況を把握していた。
と、優が見つめる自分自身のシルエットに、半透明の何かが飛んできた。大きさは30㎝角。恐らく木の板か何かだろう。
このままでは当たってしまうと優が身をひねろうとすると、シルエットも優の想像通りに動いてくれる。結果、木の板はシルエットを素通りしていき、事なきを得た。
さらに数枚、大小さまざまな障害物が飛んでくるが、優はこれまで培ってきたゲームの感覚でシルエットを“操作する”。俯瞰していれば、避けるだけでなく木の板を斬って迎撃することもできるほど余裕がある。
しかも、おそらくこれは夢でもゲームでもない。現実のことだ。
つまりあのシルエットこそが優の本体で、肉体。今こうして俯瞰的に考えているのは優の意識でしかないということになる。
強烈な眠気によって五感が失われ、それでも意識を手放すまいとする優の意地がぶつかった時、唯一優に残っていた第六感――マナの感覚だけが優に残った。そうして“視る”世界に、明るさなど関係ない。
暗闇の中、見るべきものだけをマナが照らし出すその光景はまさに――
「――〈月光〉」
驚くほどしっくりとくる魔法名を、優は静かに口にする。
魔力切れを恐れずに自己研鑽を重ね、日々の修行で己の限界を高めた。最終試練で気力も体力も振り絞り、限界を知ってなお「自分であるために」とそう叫んで突き進んだ無茶のその先で、ようやく優は普通の〈感知〉とは一線を画する感覚を手にする。
姉弟子の言っていたことはこう言うことか、間違っていなかったのだと1人で久遠を持ち上げる優。もちろん実際は、久遠が優に最終試練を乗り越えるためのエールを送っただけだ。しかし、その勘違いがあったからこそ優は橋の前で立ち止まり、闇猫を追って、こうして限界を超えた先で〈月光〉の感覚を知ることができた。
(――あとは、闇猫を殺すだけだ)
優はもう既に限界を超えている。いまも優の意識は夢と現実を行き来しており、感覚は曖昧だ。本当はこの光景も、感覚も、ただの夢なのかもしれない。
少なくともこの〈月光〉は、眠りに落ちるまでの10秒と少しのわずかな時間が生み出した、偶然の産物なのだと優は思っている。
同じ事――五感を完全に捨て去り、マナの感覚だけに集中すること――を意識的にできるかと問われれば、優は首を縦に振る自信は無い。そもそも人生でここまで自身を追い込んだことが無い優だ。ひょっとするともう二度と、〈月光〉の感覚を手にする機会は無いかもしれない。
それでも、この一瞬。日本最強の魔獣を倒すこの時にだけでも、月の型の極致に至ることができた。優としては、今はそれで十分だった。
たった数秒が、数分にも、数十分にも感じられる、集中状態特有の感覚の中。
「…………。……………………。…………………………」
マナで視る世界に全神経を集中させながら、待って、待って、待って。ただひたすらに待ち続けた、その先に。
(――来た)
自身が蹴飛ばした瓦礫の下に隠れながら優に詰め寄る闇猫を、優は13m先に見つける。恐らく優が瓦礫に意識を割いた瞬間に巨大化し、捕食するつもりなのだろう。だとするとナイフでは致命傷足りえない。〈創造〉する武器は、刀だ。
ふと優の脳裏をよぎるのは、初任務で戦った女の魔人――片桐紗枝の姿だ。彼女の人生は闇猫によって変容し、魔人となってしまった。
また、片桐だけではない。特派員だけでも数百。民間人を含めると、数千、数万にも上る命と無念が、闇猫によって奪われ、その体内にマナとして囚われている。そして、その家族や恋人など。闇猫の存在がもたらす呪縛は、きっとこの世界を生きる人々全員を縛り付けている。
その呪縛に囚われているのは、優も同じだ。
(春野……)
文化祭。ベレー帽姿でこちらを振り返って春野が笑う。クリスマス。リアル脱出ゲームでは腰を抜かし、恥ずかしがっていた。そして、闇猫に襲われた死の間際、『わたしも』と言って微笑みかけてくれた。
――もう二度と、奪わせない。
――もう誰も、傷つけさせない。
――もう誰も、悲しませない。
失った命を前に、たとえその誓いが遅きに失するものだったとしても。特派員である優はその全てを前に進むための糧にしなければならない。己の力に変えなければならない。
春野を始めとした多くの人々が紡いでくれた“今”を、強く生きるために。
『――ャ!』
「――っ!」
優の直前で巨大化した闇猫の爪と、優の透明な刀が交錯する。微かに甲高い音がしたものの、勝負は一瞬で決した。
優が、その場に倒れ伏す。睡眠不足はもちろんのこと、魔力切れだ。もう指一本動かせない。
しかし、息はある。
対する闇猫は巨大化した姿のまま、優の方を振り返る。が、その最中に右前足が身体から切り離され、バランスを失って転倒した。
が、こちらもまだ、息があった。
『……ャ……ャ……』
荒く息を吐きながら、切断された自身の右前足を見る闇猫。
多少は優の抵抗はあると思っていたが、まさか巨大化した自身の前足を両断されるとは思っていなかった闇猫。その結果の裏には、優が第三校で闇猫を斬りつけていたことがある。闇猫の中で優は“自分を傷つけられる存在”であり、闇猫の強固な守りを生み出していた何物にも傷つけられまいという“自信”が揺らいでいたからだった。
ただ、闇猫にはまだ息がある。生きている。もう身体の修復もできず、動くことすらできない闇猫。それでも優を捕食すれば、きっと――。
『大丈夫だよ、お母さん。……もう、大丈夫だから』
そういって闇猫の腹を撫でたのは、娘に当たる存在――魔人ハルノだった。もう勝負は決まった、だからもう頑張らなくて良いのだ、と、母を説得する。その闇猫も娘の指摘を受けて、自身がもう指一本動かせない状態であることを悟った。
『お母さんが生きてきた13年ちょっと……。ううん。もっと言えば、野良猫だった頃の3年間も合わせて16年の記憶。わたし……ハルノの中にも、ちゃんとあるから』
『ナァオ……?』
優しい声で語りかける娘の言葉に、小さく呟きを返した闇猫。本当に分かっているのか。そう問いたげな母の声に、
『会いたかったんだよね、ずっと。野良だったお母さんに餌をくれた、あの人たちに。ありがとう、って言えたら良かったのにね』
ハルノは苦笑しながら答えを返す。
闇猫は魔獣でありながら一切狂わず、猫としての自我を保って生きてきた。魔獣化すれば徐々に薄くなってしまうと言われる記憶も自我も失わず、ただただ“普通”に生きてきただけなのだ。そして、闇猫が自我を失わなかったのは、毎日のように餌をくれた老夫婦への感謝があったからだった。
彼らに会いたい。その一心で、闇猫は闇猫として、13年間を生きてきた。生物の本能として餌――人間や魔獣たち――を食べて、ただ必死に生きてきただけだ。
『でも、もうお終い。それに猫のお母さんはお礼、言えないから。だから、もしハルノが会えたら、今度こそわたしがお礼を言っておきます』
『……ニャ』
艶やかな黒い毛並みを撫でながら、親子だからこその会話を交わす。
『ナォ……』
『あはは……。それはごめんなさい。お母さん、ちょっと人殺し過ぎ。残念ながらハルノは悪いお母さんを許しません。たとえここであの人間さんを食べて生き延びていたとしても、ハルノが殺してました』
闇猫から生まれたからこそ、ハルノは知っている。この母には、悪意と呼ばれるものが無い。どこまでも純粋で、本能に真っ直ぐな、本当にただの猫なのだ。だから魔法も使えないし、その代わりに他者の存在に飲まれることも無かった。
(だからハルノが生まれちゃったことで、焦った。自己同一性が揺らいで、弱くなっちゃったのかもだけど)
その辺りは少しだけ、申し訳ないと思わなくもないハルノ。もちろん、容赦はしないが。
『……ナァ?』
『話し方ですか? まぁ少しだけ、“あの人”の影響が出てきてるのかもしれませんね。人間さんのおかげで少しだけ、自分のことを思い出せましたから』
横たわる闇猫のお腹に背中を預けるハルノが空を見上げる。
月を隠していた雲が晴れ広場を再び月明かりが照らし出す。それと同時に風が吹き抜け、どこからともなく飛んできた桜の花びらが闇猫とハルノを優しくなでた。
『春ですね……。ハルノの名前と同じです』
『ナォ』
『うん! 良い名前、ですよね。お母さんはクロとかマリアンヌとか、色んな名前があるんでしたっけ?』
『ナーウ』
『カナメ、ですか? あー……金色の目でカナメ、なんですね。あのおじいちゃんたちがくれたんですか』
少し迷ったハルノは、「よしっ」と小さく呟くと腰を上げ、自身を見上げる闇猫に胸を張る。
『決めました。ハルノは今日からハルノ・カナメにします。名前がカナメ、ですね!』
『ォ?』
『良いんです。どっちも大切なお母さんの名前ですから!』
そう言って笑うハルノ、改めカナメに、闇猫は呆れたような目を向けてくる。
『ナ、ォ……』
『そうですか。もう……。でも、安心してくださいね。お母さんの身体、可能な限り美味しく頂きます』
『……ナ』
『それなら良かったです。カナメもお母さんとの追いかけっこ、ちょっぴり楽しかったですよ? おかげで人間さんとも会えましたから』
『ナゴォ♪』
『そ、それは余計なお世話です! もう1人のお母さんも、誰に何を伝えたかったのかも、ちゃんと自分で思い出しますから!』
カナメの言葉にもう闇猫が反応を返すことは無い。安らかな顔で月明かりに照らされているだけだ。見れば爪の先から少しずつ、黒い砂になり始めている。
『お母さんの想いも、身体も、名前も。ちゃんとカナメが受け継ぎます。だからどうか、安らかに』
静かに手を合わせたカナメは手元に包丁を創り出し、愛する母へと突き立てる。母が消えてしまう前に1gでも多く、その想いを受け取るために――。




