第3話 誇れる自分であるために
上弦の月が放つ柔らかな月明かりが照らす、猿広場。
『人間さん! お母さんがあなたを狙ってます。絶対に動かないで! ハルノが必ず、あなたを守りますから!』
夜闇に響くハルノの声。続いた静けさに響くのは、闇猫が砂を蹴る音だ。
足音を殺し。気配を殺し。どこからともなく襲い掛かって来ようとしている闇猫の気配を、優は五感を研ぎ澄ませて探る。
自分が足手まといだというのは、優も分かっている。ハルノに任せれば闇猫を倒してくれるだろうことも、痛いほどに分かっている。だからこそ優は、退くわけにはいかない。
なぜなら優は春野の墓前で闇猫を倒す、と、約束しているからだ。
その誓いを果たすために。そして、春野の死を教訓とするために、強くなろうと決めた。たとえ1人でも戦える。その力が、自信が欲しくて、優は常坂家の道場の門を叩いた。
難波・心斎橋魔獣災害の時、優は自信と春野の覚悟の違いを見せつけられた。闇猫に恐怖する優とは違い、春野は果敢に立ち向かい、市民を守るヒーローであろうとした。
そして今、目の前にその春野の残滓を持つらしき魔人が居る。この状況を、優は自分が試されているのだと感じた。もしシアの啓示が関係しているのだとすれば、彼女の加護を受ける唯一の存在――“主人公”としての資質を問われているような気がする。
そのうえで、もう1つ。死んでしまった春野に、
『神代くん。わたしとの約束通り、ヒーローになるために、ちゃんと頑張ってますか?』
と、そう問われている気がするのだ。
もしここで魔人ハルノが言うように彼女にこの場を預ける――逃げるようなことがあれば、優は2人の少女からの問いかけに首を振ってしまうような気がする。
この1か月だけではない。春野が死んでから今まで自分がしてきた迷いも、後悔も、覚悟も、努力も。その全てを自分自身で否定してしまうような気がした。
(勝てる、勝てないじゃない……。やるんだ)
瞬間、優の視界の端で、月明かりに煌めく何かが見えた。優が瞬時に身をかがめると、先ほどまで優の顔があった位置を闇猫の爪が通り過ぎていく。
そうしてしゃがんだ姿勢のまま足を溜めた優は、すぐに前方へと飛び出し、闇猫へとサバイバルナイフを振るう。
まさか闇夜という自身のフィールドで避けられるとは思っていなかった闇猫の一瞬の隙を突いた形になった優の斬撃は、
『ナッ!』
「く……っ!」
闇猫の毛を切り裂くだけにとどまる。すると再び夜闇に紛れる闇猫。金色に光る瞳以外は周囲と完全に同化し、またしても優は闇猫の姿を見失う。だが、気配はある。闇猫が優の〈感知〉をかすめるのだ。
小さく息を吐いて、再び五感を研ぎ澄ませる優。と、聞こえてきたのはハルノの声だ。
『人間さん。最後の警告です。逃げてください』
ハルノは手に持った警棒を優に向け、最後通牒を叩きつける。しかし実際は、久遠の時のように優をここで無力化するわけにはいかない。ハルノが久遠と戦った時は、闇猫が逃げを意識していた。だからこそ春野はまず久遠を無力化し、安全な場所まで身柄を移動させることができた。
しかし、いま闇猫は食べることを前提として動いている。もし優を気絶させれば、ハルノは優を守りながら戦わなければならなくなる。そうなれば最悪、ハルノ自身が食べられ、闇猫が大きく回復してしまう可能性があった。
(だからお願いです、人間さん。ここは退いて――)
「悪いな、魔人」
ハルノの願いも虚しく、優は逃走を拒否する。こうなって来るともう、ハルノとしては疑問で仕方ない。
『どうして……! 食べられちゃうんですよ? 死ぬのが怖くないんですか!?』
守るべき市民に死んで欲しくない。その一心で語気を荒らげるハルノに、優は激情を理性で押し込めて努めて冷静に返す。
「怖くないわけない……っ。俺が死んだら、ありがたいことに色んな人が悲しむからな」
『だったら、命を大切にしてください! ハルノ達と違って人間は、すぐに死ぬんです!』
「そんなこと分かってる!」
人がすぐに死ぬことなど、優は言われなくても嫌というほどに思い知っている。つい激情をあらわにしてしまった優に隙があると踏んだ闇猫が飛び込んで来るが、今度はハルノがその狂爪を警棒で弾いた。
「……人がすぐに死ぬことも、俺が死んだら悲しんでくれる人が居ることも……。俺が弱いことも、全部わかってる。だが――」
戦闘の最中にもかかわらず春野とよく似た魔人に向き直った優は、自身の想いを言葉にする。
「――俺が俺で居るために、俺は戦う」
理屈ではない。ここで逃げたとして、春樹やシア。天に顔向けできるだろうか。弱さゆえに想い人を殺してしまい、あまつさえ、想い人のマナを引き継いだ魔人に助けられた。そのうえ憎き魔獣である闇猫の討伐する機会まで奪われてしまえば、いよいよもって優は誰にも顔向けできなくなる。
他でもない優自身が、自分を誇ることができなくなってしまう。
優にとって闇猫の討伐は亡き春野への誓いであり、自分の弱さと決別するための禊でもある。
「ここで逃げるのと死ぬのは俺にとって同じなんだ。――だから、春野。見ていてくれ」
笑いかけた優のその言葉が“魔人ハルノ”に向けられたものではないことは、言うまでもないだろう。魔人の中に宿っているだろう春野の想いに、呼びかけた形だ。
そして、そんな優の声に呼応するように、ハルノの胸が高鳴る。だがそれは激しいものではなく、むしろ控えめな。微かに存在を主張する程度の、じんわりとした熱だ。
(よく分からない……。でも、あったかい……)
心地よい温もりが全身に広がっていくのを感じながら、静かに目を閉じたハルノ。次に彼女がお面の奥で黒い瞳を覗かせた時、そこにはただただ1人の人間の想いを尊重しようとする慈愛の色が滲んでいた。
『――分かりました』
優しい口調でそう言って、ハルノは優に微笑みかける。続いて、虚空を眺めたかと思うと、
『ということです、お母さん! 人間さんかお母さんが死ぬまで、ハルノは手を出しません!』
『ナァオ……!』
面白くなってきた。そう言うように笑う闇猫。現状、ハルノの存在と手傷のおかげで逃げることができなかった闇猫。だが、優を食べることさえ出来れば、ハルノを撒ける程度には回復できるだろうと言うのが闇猫の予想だった。
もとより闇猫は一度、優を捕食寸前までもっていっている。さらに夜も更け、視界はゼロ。人間の動きははるかに鈍くなる。
ただし、目の前の人間はあの日、自身にハルノという自身の分体を生ませた切り傷を負わせた人間であることも、闇猫は理解していた。つまり、油断することなく、おごることなく、いつものように楽しみながら、この人間を狩る。闇猫としてはそれだけだ。
『それでは、頑張ってお母さんを殺してくださいね、人間さん。あ、お母さんが逃げようとしたら色々面倒なので、その時はハルノが殺します。許してくださいね!』
そう言って優に背を向けて離れた場所に移動していくハルノ。ほのかな月明かりの下で揺れるボブヘアは、やはり春野をほうふつとさせるものだった。
時刻は夜。幸いにも猿広場は開けており、半月の月明かりのおかげで微かに視界は確保できている。が、たとえば先ほどまでのように雲で月が隠れるようなことがあれば、世界は闇に閉ざされる。
(そうなれば、頼りになるのは〈感知〉だけだな……)
次の瞬間には魔力切れで倒れてしまってもおかしくないほど、優のマナは減ってしまっている。暗くなったことで身体は更なる睡眠欲に見舞われ、意識も曖昧だ。戦うには、あまりにも不向きなコンディションと言える。
だが、ヒーローになるために恥も外聞もかなぐり捨てた優の中に、なおも残ったなけなし意地。それを使って、感情論だけでハルノを説得してしまった。自分で自分を誇るために。そして、優の無意識に潜んでいる、想い人の亡霊に格好をつけたいというわずかな見栄が無理やり、優に最後の力を振り絞らせていた。
ひんやりとした風が広場を駆け抜ける。
「ふぅっ!」
『ニャッ』
優と闇猫、動き出しはほぼ同時だ。互いが互いに向けて駆け出し、すり抜けざまに武器を振るう。優はサバイバルナイフ、闇猫は伸縮自在の鋭い爪だ。
ほぼ視界ゼロの闇夜。月明かりが映し出す闇猫の爪の光を頼りに、優は闇猫が振り下ろす巨大な爪を右手に持ったナイフで弾いて軌道を逸らす。さらに、密かに〈創造〉していた左手のナイフで闇猫を切り裂こうとするが、今度は闇猫が優のナイフを爪で弾いた。
すると闇猫は、人間には無い武器――牙を使って優の頭を食いちぎろうとしてきた。が、近接戦の範囲内は全て優の〈感知〉の範囲内だ。迫りくる巨大な口を屈んで避けた優はその流れで、巨大な闇猫のお腹の下へ向けて跳躍する。
そうしてがら空きになっているお腹に向けてナイフを突き刺そうとするも、
『ニャ!』
短く鳴いた闇猫は身体の大きさを小さくすることで回避。またしても巨大化して、巨大な爪で優を両断しようと前足を振るう。
金属がぶつかるような甲高い音が響き、優と闇猫の殺意が衝突するたびに闇夜に微かな光が生まれる。
少しずつ意識がもうろうとしてきている優に対して、内臓も骨もボロボロの闇猫の動きも時間とともに悪くなっていく。お互いが「いい加減、早く死ねよコイツ!」と思いながら、それでも生にしがみつく。が、やはり質量と手数で攻撃することができる闇猫の方がやや有利だ。
しかも、優にとって状況は更に悪くなっていく。
「――っ!?」
夜における唯一の光源だった月が、雲に隠れてしまったのだ。その瞬間に世界は闇に閉ざされ、完全に闇猫が支配する領域となる。
『ニャン♪』
楽しげに鳴いた闇猫が優から距離を取り、闇に潜む。これ以上戦闘を長引かせると、優を捕食しても十分に傷を治せない可能性が出てきた。そのため、可能ならば次の奇襲で優にとどめを刺したいところだった。
対する優に、焦りはない。優には〈感知〉があるからだ。しかし、
「はぁ、はぁ……」
1発でも貰えば死という攻撃を数十といなし続けた優の集中力も体力も限界だ。
優も、闇猫が限界に近付いていることは感じている。明らかに動きは鈍く、得意の身体の大きさを変化させる動きも少ない。恐らく、身体を変化させるたびに修復できていない骨や内臓が痛むのだろう。
が、恐らく闇猫が魔力切れで姿形を保てなくなるよりも先に、自分が限界を迎えるだろうことも分かっている。今や優は、立っていることを意識しなければ立っていられないような状態だ。
(次が、ラストチャンス……だな)
恐らく一撃必殺を狙ってくるだろう闇猫。〈感知〉があるため、避けることはできるだろう。だが、それでは自分が先に限界を迎えて倒れる。次のやり取りの中でどうにか攻撃を闇猫に当てなければならない。
「すぅー……、はぁー…………」
大きく深呼吸をして、目を閉じる優。どうせ暗くて見えないのであれば、目を閉じても一緒だ。であればこの時だけは、優が自身の強みだと考えている五感――特に“目”を封印して、〈感知〉に集中できるようにしよう。
そう考えてのことだったが、優は自身の眠気がとうの昔に限界を迎えていたことを忘れていた。
そのため、優が目を閉じて数秒後。感覚はあるのに、意識が落ちていくような。午後の授業でうたた寝をした時にも似た、地に足のつかない浮遊感を味わうことになる。




